花と果実のある暮らし in Chiang Mai

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第9回:挨拶しないの!?
2013年12月20日

【written by 馬場容子(ばば・ようこ)】東京生まれ。米国大学でコミュニケーション学専攻。タイ、チェンマイに移住し、現在は郊外にある鉄工房でものづくりをするタイ人パートナーと犬と暮らす。日本映像翻訳アカデミー代々木八幡・渋谷校時代の修了生。
【最近の私】"グワッグワッ"と鳴くアヒルが5羽、工房にやってきた。アヒルはよく食べるので餌代がかかる。それにアップアップした近所のおばさんが手放すことに。食用に売りはらうことが決まっていたが、それを聞きつけた私のパートナーのナリンが、自分が飼う!と引き取ってきた。・・・私は大混乱!?
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私がチェンマイを約一ヶ月あまり不在にしていた頃、私のパートナーであるナリンの工房に一人のアルバイトの青年が居候していました。突然現れた彼にびっくりした私を目の前に、その青年は一言も挨拶もせず、私の存在を全く気にしていませんでした。一応初めて会うんだけどなあ・・・年上なんだけどなあ・・・。

無視された感と礼儀の欠如感を覚えながらも、その場をやり過ごしたのでした。

実は、これ以前にも"チェンマイ人の挨拶"について考えさせられたことが幾度かあります。ナリンの実家を訪ねた時も、帰り際、私一人が「サワッディー・カー(さようなら)」と口に出して挨拶をしてる感じが、なんだか私一人だけがコミュニケーションに気を遣っているようで、妙に浮いてる気分だったこと。実家に来ていたお姉さんは何も言わずにいつの間にかスーッと帰っていて、(あれ、お姉さん、もう帰ってたの?挨拶出来なくて失礼だったかな)と感じたこと。また、前の仕事場でも、スーッと職場に来てスーッと消えていく人がいたことなどなど。

もしかして嫌われてる?のかなあと思ったり、挨拶のケジメが抜け落ちてる気がしていたのでした。

Photo1.こんにちは、チェンマイ.JPG
■便利な新語、「サワッディー」

そんな矢先、タイ語の教科書の隅っこに書かれたコラムに、"タイ人はあまりあいさつをしないと"書いてあったのです!
タイの挨拶でまず習うのは、「ワイ(手を合わせて合掌のような形)」、そして女性なら「サワッディー」の語尾に「カー」をつけて「サワッディー・カー」、男性なら「クラップ」をつけて「サワッディー・クラップ」という言葉。ワイはフォーマルで日本のお辞儀にあたリ、サワッディーは「サワット=幸運、平安」「ディー=良い」というサンスクリット語を起源とする言葉で、「おはよう、こんにちは、さようなら」などの全てに使える便利な挨拶です。

しかしコラムによると、実はこれは昔からある言葉ではなく、もともとこうした挨拶にあたる言葉はなかったというからびっくり。挨拶言葉がないなんて!

さらにネットで調べると、今から約80年前にタイでラジオ放送が始まった時、ある大学教員が番組の最初と最後の挨拶として「サワッディー」を考案。そこから学生の間で広まり、1950年に正式にタイ語の挨拶として認められたとか。そのように「サワッディー」は歴史の浅い言葉だったのです。その後普及したテレビでも用いられて一般に知られるようになり、つい十数年前からようやく学校でも挨拶言葉として教えるようになったそう。

確かに、ナリンの実家に集まった親族でも、若い弟夫婦はきちんと挨拶をしている印象があるのはそのせいか。私の頭の中でくすぶっていた「挨拶問題」がようやく腑に落ちたのでした。

Photo2. 近所に咲いた花.JPG
■「サワッディー」は"常識"とは限らない

このように、サワッディーという挨拶言葉に馴染みがない世代や、そうした環境で育った人々が若者を含めてまだ現存しているわけです。かといって彼らも挨拶しないわけではなく、まずは微笑む。そして「ご飯食べたの?」とか「どこ行ってきたの?」と、具体的に話しかける。それが彼らの挨拶のようです。

サワッディーは、彼らからしてみれば、むしろよそよそしい形式的な挨拶なのかもしれないし、だからわざわざ家の中では使わないのでしょう。サワッディーを使うのは、相手を他人として見なして礼儀正しく挨拶をするケースであって、「家族や親しい間柄に無駄な挨拶は無用」というわけです。ナリンの家族に"挨拶を重視しない感"があったのは、私を家族として扱っていただけなのかも。

そうした背景を少し理解した私は、ナリンの実家にお邪魔した時、試しに何も言わずにスーッとおいとましてみました。それでもやっぱり周りの空気は、変わることなく普通に、自然に流れて行く。さよならを言わずに別れたあとも、スーッと身を引いた流れに乗った感じがあって、なのに自分から身を引いた自立感があり、一連の空気を乱さない心地よさがありました。

が、しかし・・・やっぱり挨拶の習慣が身体に染み込んでいる身としては、多少違和感が残ってしまう。その節その節でピリオドを打ちたくなる。

挨拶は、してもされても気持ちがいい。チェンマイの流れるように出会い、別れていく文化を理解しつつ、やっぱり私は「節目」として挨拶していこう・・・そう思った瞬間、思い出した。そういえば、タイ語の書き言葉は、ずらずらひたすらつなげて書く。文章の合間に句読点やピリオド、つまり「節目」というものがないことを! 深いなあ。

Photo3.無限に続くチェンマイの空.JPG