不惑のjaponesa(ハポネサ) ~40歳、崖っぷちスペイン留学~

Chewing over TOP » 不惑のjaponesa(ハポネサ) ~40歳、崖っぷちスペイン留学~

第14回 :マドリード、映画あれこれ その3
2014年04月24日

★「不惑のjaponesa(ハポネサ)」は、

  第15回よりこちらに移転しました。


written by 浅野藤子(あさの・ふじこ)】山形県山形市出身。高校3年時にカナダへ、大学時にアメリカへ留学。帰国後は、山形国際ドキュメンタリー映画祭や東京国際映画祭で約13年にわたり事務局スタッフとして活動する。ドキュメンタリー映画や日本映画の作品選考・上映に多く携わる。大学留学時代に出会ったスペイン語を続けたいという思いとスペイン映画をより深く知りたいという思いから、2011年1月から7月までスペイン・マドリード市に滞在した。現在は、古巣である国際交流団体に所属し、被災地の子供たちや高校生・大学生の留学をサポートしている。

【最近の私】仕事の関係で月の半分は沖縄滞在。ヤマトンチュー(本土の人)とは違うウチナンチュー(沖縄の人)の文化に興味津々です。

  スペイン映画の勉強で参りました...

2012年1月に渡西して、3月に国際交流基金マドリード事務所の震災映画特集のお手伝いが終了。日常生活や大学での授業にもリズムをつかみ始め、私の生活はスペイン映画一色に転じつつあった。

そもそもスペイン映画の「研究」という名目でスペインに滞在しようと企み、40歳を過ぎて運よく実現することができた。そんな稀有な機会に恵まれたが、生かすも殺すも自分次第。監視する他者はおらず、堕落の道に転がり込もうとする自分を制止できるのは自分のみ。と、自らに言い聞かせ、こっちにおいでと手招きする雰囲気のいいレストランやバルにはフラフラと立ち寄らないように自重した。

では、その「研究」、つまり映画の探求はどこで実践したのか?

  スペイン社会はコネ社会

公的な機関に出入りするには、身分や理由も明確であることは重要だが、スペインにおいてはもっと重要なことがある。それは、「コネ」である。

キーパーソンを見極め、ボタンの押しどころを間違えない、そしてその人を何らかの形で知っていることが、道を分けるのだ。今回のスペイン滞在で研究をするにあたり、不可欠な機関があった。それは国営のフィルムセンターである「Filmoteca(フィルムモテカ)」。スペイン国内の映画を保管・保存する、言わばこれまでのスペイン映画の上映プリントや書籍の収集・修復・保管・保存を担っている国の機関だ。多くのスペイン映画研究者や映画・メディア関係者が出入りし、そこで作品を観たり、書籍を読んだりして活用している。

私の場合、観たい作品の多くは195070年代の作品であったため、町の図書館やレンタルビデオ店には鑑賞できる作品が少ない。それ故、この機関へのアクセスは今回の留学の成果を左右するものと言っても過言ではなかった。

渡西する1年前、旧知の友人たちが運営する日本映画専門サイトで「スペイン在住の日本映画研究者」をまず3名見つけた。「Filmoteca」の担当者を紹介してもらうためだ。そうして紹介してもらった担当者に向けて、弱気な私は英語で依頼分を書いてはみたものの「英語はわからないからスペイン語で書いてくれ」という回答。仕方なくつたないながらも懸命にスペイン語で紹介者名や研究の意図、内容を伝えると、今度はすんなりと引き受けてくれた。「えー、そんな簡単でいいの?」と、逆にこちらが心配になるほどシンプルに事は運んだ。人の紹介というのは大事だ。もしもホームページにあるメールアドレスから直接英語で依頼分を書いたとしても、きっと返事は来なかっただろうと思う。

■「Filmoteca」にお邪魔しマース

この連載の「第12回:マドリード、映画あれこれ その1」で紹介した国営の映画館「Cine Doré(シネ・ドレ)」から徒歩5分のところに「Filmoteca」はあった。東京・京橋にある「東京国立近代美術館 フィルムセンター」のようなガラス張りの近代的な建物をイメージしていたので、古い石造建築のシンプルな門構えにちょっと戸惑う。敷地面積は広そうだ。

1_Filmoteca 看板.jpg

Filmoteca」の表看板

 

2_Filmoteca 正面口.jpg

重厚な石造りの「Filmoteca」正面口

 

ちなみに、「東京国立近代美術館 フィルムセンター」の所蔵フィルム数は、65,517(うち日本映画57,164、外国映画8,353)本である。(2012331日時点、公式HPより)

一方「Filmoteca」は35,000(うちスペイン映画14,500、外国映画20,500)本である。

戸口を開けると、空港の保安検査所のような光景が目に入った。検査員と金属探知機、X線検査装置だ。「ほー、お国が違うと、ここまで徹底するんだ」と感心。でも、私が通った5か月間、実際にそれらを使って検査されたことが一度もなく、誰かを検査している様子も見たことはなかった。

受付のおじさんにアポがあることを伝えると、身分証明書の提示を求められる。ネームカードを渡され、3階へ行けとそっけなく伝えられた。なだらかな螺旋階段を上ると、昔のスペイン映画のポスターが壁一面に整然と貼られている。映画好きにはたまらない、至福の空間だ。担当者の部屋はその奥にあった。

Tさんというスペイン人女性が笑顔で迎えてくれた。事前に観たい映画のリストを送っていたので、彼女のデスクの上には用意周到にビデオが積まれていた。そのビデオを持って、10ほどある観賞専用のブースの1つへ案内される。電話ボックス2つ分ほどのスペース。ビデオプレイヤーとモニターが設置され、映画を集中的に観ることができる場所である。

VHS、ベータ、DVDU-matic、オンデマンドと、時代の流れを反映したすべての再生方式で鑑賞できるようになっている。公的な施設なので当たり前なのかもしれないが、1つひとつのブースにそれらを備えた充実ぶりに深く感動してしまう。

3_filmoteca ブース.jpg

じっくり作品を鑑賞できるブースが並んだフロア

 

Tさんの勤務時間が朝9時から昼2時までの5時間であるため、ブースの使用もその時間内に限られている。その後を引き継ぐ人員がいないのは、経済状況が悪いスペインらしい事情だが...。

その5時間をフルに活用するため、どんなに二日酔いがつらい日であろうが必死に通った。通い慣れると受付のおじさんやTさんとも仲良くなっていた。ハイキングにいくような気分で水やお菓子をバッグに常備するようにもなった。こう言うと驚かれるかもしれないが、「観る」という作業は結構な重労働である。健康状態や精神状態を毎日均一に保ち、水を補給し、たまに甘い物を食べて疲れた頭の緊張をほぐしつつ集中し続けることが大切だ。

大学の授業がない日や学期間の休みを利用して、2012年の3月から7月に帰国するギリギリまで「Filmoteca」に通いつめた。観た映画数は54本。スペイン滞在中に観た134本のうちの40%を占めている。

ここで観た作品の記憶が、2年後の今、私のキャリアとしてようやく活き始めたという気がしている。


第13回:マドリード、映画あれこれ その2
2014年03月20日

【written by 浅野藤子(あさの・ふじこ)】山形県山形市出身。高校3年時にカナダへ、大学時にアメリカへ留学。帰国後は、山形国際ドキュメンタリー映画祭や東京国際映画祭で約13年にわたり事務局スタッフとして活動する。ドキュメンタリー映画や日本映画の作品選考・上映に多く携わる。大学留学時代に出会ったスペイン語を続けたいという思いとスペイン映画をより深く知りたいという思いから、2011年1月から7月までスペイン・マドリード市に滞在した。現在は、古巣である国際交流団体に所属し、被災地の子供たちや高校生・大学生の留学をサポートしている。
【最近の私】ペ最近忘れ物が多い。高速バスの乗車時に預けていたスーツケースを取り忘れたり、電車の網棚にパソコンが入った手提げ袋を忘れたり。それでも私の手元に100%の姿で戻ってくるとは。あ~、日本は何て良い国なんだろう。滝川クリステルさんが明言していたことは本当だと実感。
----------------------------------------------------------------------------------------
■あれは確か・・・
高校3年生のときの話。男女共学校に進み、毎日が楽しいだろうと期待していたのだが、予想に反して勉強漬けの日々が待ち受けていた。その生活は刺激がなく、単調でつまらなかった。子どもの頃から平凡に生きることが苦手だった私は、腹痛をおこしたフリをしては学校をさぼり、映画館で古今東西の映画を観まくっていた。 そして・・・そう、あれは、確か平日の午後。地元の単館系映画館の50席ほどの劇場で、私の頭は何か新しいものに出会ったときに得られる刺激を過剰摂取したような状態になった。ペドロ・アルモドバル監督の映画『神経衰弱ぎりぎりの女たち(Mujeres al borde de un ataque de nervios)』 を観てしまったからだ。

映画は、主人公のペパが何年も付き合っていたアマンテ(愛人)から別れの言葉を突然に切り出されたシーンから始まる。妊娠の心配も重なり、ペパの苛立ちは極限まで達していた。愛人の新しい彼女、愛人の本妻、ペパの女友だちと、愛に狂った女たちをブラック・ユーモア満載で描き出した作品だ。

スクリーン全体にこれでもかと広がる主張の強い色たち。ドラッグ、セックス、ロックの快楽と退廃に満ち溢れたアルモドバル映画に私はショックを受け、そして夢中になった。それまでは、ハリウッドのクラシック映画やオードリー・ヘップバーンがお気に入りだったのだが、人間の欲望を恥じらいもなく素直に描いているアルモドバル映画にそれまで体感したことがない「カッコよさ」を感じた。あれは映画であり特別な世界、というのはわかっていたが、それでも舞台となったスペインという国に興味を持つきっかけとしては十分すぎるほどだった。

■La movida madrileña(モビーダ・マドリレーニャ)
アルモドバル監督が映画監督としてデビューしたのは、1980年代の前半だ。1975年にフランコ政権が崩壊し、転換期にあった80年代のマドリードで「La movida madrileña(モビーダ・マドリレーニャ)」という文化運動がおきる。体制時代に抑圧されていた、あらゆる表現や欲望が吹き出した社会現象であったと歴史的にも評価されている。マドリードの夜は若者たちで溢れ、革新的な活動は映画だけでなく、音楽、写真、絵画、文学の領域で盛んになった。「アンダーグラウンド」、「カウンターカルチャー」といった性格をもつこの運動は、スペイン国内に広がりをみせていった。

アルモドバル監督は、この運動のアイコンの一人とされている。デビュー作である『ペピ、ルシ、ボム、その他大勢の女の子たち』(1982)は、その流れのなかから生まれたアングラ的要素が強い映画であり、多くの若者の支持を集めた。既存の評論家たちは、当初見向きもしなかったが、次々に発表されるアルモドバル作品の人気は一層の高まりをみせ、無視することができない状態にまで発展していく。そして、あの『神経衰弱ぎりぎりの女たち』が登場する。

■ごヒイキではないが好きな映画館
映画関係者ウケが決して良いとは言えなかったアルモドバル監督のデビュー作を初めて上映したのは「Golem(ゴーレム)[当時は「Aphaville (アルファービレ)」]という映画館だった。マドリードの中心地から北西に離れたスペイン広場や大学などが隣接するエリアの近くにある単館系の劇場だ。「モビーダ・マドリレーニャ」が学生や若者を中心とした文化運動であったため、この立地には納得がいく。

周辺にはシネコン(私がスペインで映画鑑賞デビューをした映画館もその一つ。連載第10回:「アモール、アモール!」を参照)や、映画書を取り扱う専門書店「8 1/2(オーチョ・イ・メディオ)」がある。国営映画館「Cine Doré(シネ・ドレ)」(連載第12回参照)があるちょっと怪しい地区とは違い、文化の匂いがプンプンする。治安も比較的安全なところだ。「Golem(ゴーレム)」は、'ハリウッド系以外'の外国映画をスペイン語字幕で上映するため、これまたコアな映画ファンが通う映画館になっている。

1_golem.jpg
映画館「Golem(ゴーレム)


2_812libreria.jpg
映画書を取り扱う専門書店 「8 1/2(オーチョ・イ・メディオ)」

スペイン映画の研究をしていた私には、外国映画を上映するこの映画館を訪れる機会はあまりなかった。しかし、是枝裕和監督の『奇跡』を上映すると耳にしたらそうはいかない。是枝監督作品のほとんどを観ていたこともあり、ようやく「Golem(ゴーレム)」を訪れる理由が見つかったわけだ。すでに公開3週目だったこともあって、観客は10人程度だったが、このような日本映画をスペインの映画ファンに届けてくれる映画館があるのだと思うと、感慨深いものがあった。

アルモドバル監督の映画をきっかけに私がスペインを訪れたように、是枝作品にふれたことを機に、日本を訪れるスペイン人がいるかもしれないから――。

第12回:マドリード、映画あれこれ その1
2014年02月21日

【written by 浅野藤子(あさの・ふじこ)】山形県山形市出身。高校3年時にカナダへ、大学時にアメリカへ留学。帰国後は、山形国際ドキュメンタリー映画祭や東京国際映画祭で約13年にわたり事務局スタッフとして活動する。ドキュメンタリー映画や日本映画の作品選考・上映に多く携わる。大学留学時代に出会ったスペイン語を続けたいという思いとスペイン映画をより深く知りたいという思いから、2011年1月から7月までスペイン・マドリード市に滞在した。現在は、古巣である国際交流団体に所属し、被災地の子供たちや高校生・大学生の留学をサポートしている。
【最近の私】ペドロ・アルモドバル最新作「Los amantes pasajero(アイアム・ソー・エキサイテッド)」をようやく観る。彼の作品を追いかけていた私にはちょっと物足りなかったけど、それでもアルモドバルが好き!
----------------------------------------------------------------------------------------
■スペイン留学の理由を聞かれて・・・

7か月のスペイン留学中や帰国後に様々な質問を受けてきた。

多い質問の第3位は、
「スペイン人の彼氏は見つけた?」

返事は、
「えー、まぁ...」と濁す。

第2位は、
「何をしにスペインに行った(来た)の?」

ごもっともな質問である。母国以外に住むという行為には何らかの理由が必要だし、常に納得のいく答えを求められる。なので、
「スペイン映画の研究のためです」と、ほんとうの理由をハッキリ言う。

そして第1位は、
「何本の映画を観たの?」

核心を突く質問である。そう、私はスペイン映画を観るために留学したのだ。
「劇場とビデオを合わせると134本。月19本程度は観た」と答える

ただ半年間で200本は観たいと思っていた私としては、この数字は残念な数字である。映画祭スタッフ時代は、作品選考や映画祭へ出かけると1日5本の映画を観ることは日常茶飯事だったため、1日1本に満たない数字は満足のいく結果には程遠い。よって、映画関係者にこの話をする時は、「スペインは映画以外も魅力満載の国だったので」と、若干言い訳めいた言葉を付け加えねばならない。

■マドリードで映画を観るための必需品

マドリードで映画を見始めたのは、渡西して2週間目だった。40歳過ぎて空港で初めてお金を盗まれたため(連載第2回:「スペイン式 ピソ狂騒曲~その1~」参照)、手持ちが少ないハポネサ(=私)には週末の美術館や映画館巡りに回す余分なお金がなかった。(奢ってくれる紳士にも巡り会っていなかったし)

お金が振り込まれるまで、せめて情報だけは手に入れようと、マドリードの文化情報が掲載されている雑誌のなかで、何を購読するといいのかをキオスクのおじさんに聞いてみた。

「これがいいよ。土曜日に『El País(エル・パイス=スペインの最大有力紙)』に織り込まれる文化情報誌を見る人もいるけどね」

「Guía de ocio(ギア・デ・オシオ)」という、A5サイズで50~60ページ程度の週刊誌だった。1ユーロと破格の安さだ。日本でいう「週刊ぴあ」のような雑誌で、毎週金曜日に発売されている。中身は、映画・演劇・コンサート・レストラン・バルなどに関する旬な情報をカバー。間違いのない上映時間が記されており、「適当なスペイン」というイメージのあった私は、このような緻密な情報を組み立てている雑誌が存在していることにけっこう感動した。映画留学中の私には欠かせない愛読誌の一つになった。

1_guia del ocio.jpg
週刊誌「Guía de ocio(ギア・デ・オシオ)」

■ごヒイキ映画館

マドリードのガイドブックに必ず掲載されている国営の映画館「Cine Doré(シネ・ドレ)」。スペイン政府教育・文化・スポーツ省が運営する映画館だ。ここはマドリード滞在中に必ず訪れようと決めていた場所の一つだった。マドリードで映画を学んでいた友人Tちゃんが、ここの回数券を買ってはせっせと通ったと聞いていたので、上映作品群も楽しみだった。

2_cine dore.jpg
国営の映画館「Cine Doré(シネ・ドレ)」

シネ・ドレの劇場内の風景

シネ・ドレは、中心街から徒歩15分ほどのAntón Martín(アントン・マルティン)というダウン・タウンに位置している。国営映画館があるのだから、文化の匂いがする落ち着いたエリアだろうという想像は見事に裏切られる。治安が決して良いとは言えない場所だ。周辺の店の壁には落書きがあり、シネ・ドレが面する通りを2本下がると、人々の表情が暗くて険しい、ちょっと怖い雰囲気さえが漂っていた。

昼間に一人でその周辺を探検していると、「china, china(中国の姉ちゃん)」と何度か呼び止められたり、上から下までジロジロ見られたり。「夜は一人で歩けないなー」と危機感すら感じさせる。案の定、首絞め強盗(!)が横行していて、日本人観光客が被害にあったとも後から聞いた。

そんなエリアにあるシネ・ドレは、毎週月曜日が休館日で、夕方5時30分から24時まで、1日に4プログラムを上映している。上映作品は、親子で楽しめる映画からシネフィル(=映画通を意味する仏語)ウケするような映画まで、幅が広い。入場料は2.50ユーロ(約350円)で、回数券だと10回分20ユーロ(約2,800円)という破格の安さ。映画好きには、とってもありがたい場所だ。


私が暮らしていたピソからシネ・ドレまで15分で歩ける距離だったので、頻繁にお邪魔していた。仲間と映画を見終えた後、近くのガリシア料理のバルに立ち寄り、茹でダコをおつまみにビールを味わいながら映画談議に花を咲かせるのが楽しみでもあった。

■もう1つのごヒイキ映画館

スペインの初デビュー映画は、ガリシア人男性とのデートだったと以前書いたが(連載第10回:「アモール、アモール!」参照)、その劇場はシネコンだった。映画好きとしては、老舗映画館に足を運ばないことには映画の神への儀礼に欠けると思い、マドリード市中心街にあるCine ideal(シネ・イデアル)を訪ねた。その日は、米国アカデミー賞にノミネートされ前評判も高かったハリウッド映画、『アーティスト』を観る。

シネ・イデアルは、1916年に建設され、行政機関の庁舎や修道院へと機能を変容させながら、1932年にはスペインの建築士によりサルスウエラ(スペインオペラ)やミュージカルの劇場に生まれ変わる。その後、1990年にはYelmo Cines(イエルモ・シネ)という映画会社がこの建物を買収し、8つの上映会場を持つ映画館が誕生した。シネ・イデアルは、外国映画を吹き替え版ではなくオリジナル版のままで上映する専門館であり、今は3D対応へ完全に移行している映画館だ。

通常は8.50ユーロ(約1,200円)だが、「día de espectador(観客の日)」という各映画館が指定する曜日に当たれば、サービス価格の6ユーロで観られる。日本で言えば、毎週水曜日の女性1,000円デーのようなものだ。私はこの日に狙いを定めて最新のロードショー作品を堪能していた――。

4_cine ideal.JPG
老舗映画館Cine ideal(シネ・イデアル)

~「マドリード、映画あれこれ」 その2 へ続く~

第11回:スペインと日本、女性の社会進出について考えてみた
2014年01月24日

【written by 浅野藤子(あさの・ふじこ)】山形県山形市出身。高校3年時にカナダへ、大学時にアメリカへ留学。帰国後は、山形国際ドキュメンタリー映画祭や東京国際映画祭で約13年にわたり事務局スタッフとして活動する。ドキュメンタリー映画や日本映画の作品選考・上映に多く携わる。大学留学時代に出会ったスペイン語を続けたいという思いとスペイン映画をより深く知りたいという思いから、2011年1月から7月までスペイン・マドリード市に滞在した。現在は、古巣である国際交流団体に所属し、被災地の子供たちや高校生・大学生の留学をサポートしている。
【最近の私】12月27日夜に山形へ帰省。翌日は大雪で、その翌日は自動車事故で新幹線は運休。1月3日は有楽町の火事でこれまた運休騒ぎ。幸い巻き込まれることはなく、ラッキーな一年になると、勝手に思った。
----------------------------------------------------------------------------------------
■女性の管理職の進出

新聞を読んでいると、ある記事に目が留まった。

『2015年までに女性管理職を40%以上に』

スペイン国内で発行されている保守派の新聞の1ページに渡って、マドリード市の市長であるAna Botella女史の寄稿が掲載されていた。EU(欧州連合)が女性管理職の数を40%~60%にすることを2015年までには達成する目標を掲げているらしく、EUのメンバーであるスペインもそれに倣うらしい。

現状ではスペインの労働者うち45%が女性、そのうち60%が大卒者。また、女性の役員・管理職は10%にすぎない。果たして、あと数年で40%まで押し上げることはできるのだろうか、という内容だ。
もし労働者が1,000人いるとすれば、そのうち女性が450人で、大卒者が270人。もし役員・管理職が100人いるとすれば、10人。それを40人まで押し上げるということだ。
ちなみにEU内で女性管理職の割合が多い国はノルウェーで44%を占める(2010年統計)。日本がどのような状態かその時まだわからなかったが、単純に女性管理職が5人に2人の割合はすごいことだと思った。

■ちょっとスペイン史を

スペインの現代史を振り返ると、1936年、マニュエル・アサーニャ首相率いる共和国軍とフランシスコ・フランコを中心とした反乱軍の対立による内戦が勃発。反乱軍が勢力を拡大し、1939年に終結。以来、フランコが死去する1975年までの37年間、独裁的なフランコ体制が続いた。1975年にフアン・カルロス1世が即位し、ようやく民主化が推し進められるようになる。つまり、民主化以降の歴史は、2011年になってようやく独裁政権の期間と同じ37年目を迎えたのだ。

民主主義が始まると、すぐに着手されたのは新たな法の制定だった。労働法、宗教の自由、離婚、反テロリズム、中絶、16週間の出産休暇などである。反自由主義・反共産主義を唱えていた前政権下に耐えかねていた反動からか、堰を切ったように次々と民主的な法が制定・施行されていった。

男女雇用機会均等法は2007年になってようやく施行された。1982年に社会で働いていた女性はわずか30%だったが、施行後は45%に。そして現在はAna Botell女史が論じるような先進国の水準にまで登り詰めている。

■スペインと日本を比較してみよう

下の表をご覧あれ。スペイン統計局(Instituto Nacional de Estadistica)による「女性の年齢別雇用状況(2010年)」によると、25~29歳は65.2%、30~39歳は65.7%、40~49歳は63.9%とほぼ均等になっている。グラフを見ると全体の形が台形になっている。これは多くの欧米諸国で見られる形らしい。子供をもうけたとしても、働き続ける姿が浮き彫りになっている。

一方、日本は、スペインよりも労働者数に占める割合は高いものの、25~29歳の77.1%から30~34歳の67.8%と、なんと9.3%もダウンしている。そのため、グラフ全体がM字カーブを描いている。日本でもスペイン同様に1986年に男女雇用機会均等法が施行されて、女性が働きやすい環境作りを推し進めてきたはずだ。しかし、結婚や出産を機に仕事から離れる傾向がまだ強いように見受けられる。スペインと日本では「働く女性像」に違いがあるのだ。

※年齢別による雇用数の違い
年齢別による雇用数の違い.JPG
■働く時間あれこれ

スペインと日本では労働時間にも大きな違いがある。

知人のマドリード州政府公務員は、シフト制で朝9時~午後3時、午後3時~夜9時の勤務形態があると言っていた。また国家公務員はサマータイム期間中、朝8時から午後3時までの勤務で、その後は帰宅となる。ランチは帰り道や自宅でゆっくりと食べられる。

小売店の多くの営業時間は朝9時~午後2時、2時間の休みを挟んで、夕方4時から夜7時までになっている。これらの働き方を総合して見ると、太陽の日差しが一番強い時間帯(午後2~4時)を中心軸にした働き方と、それに合わせた就労時間制になっていることに気づく。

幼い子供を持つ母親は、朝出勤前に保育園に子供をあずけ、午後2時~3時に仕事を終えて子供を迎えに行き、そのまま自宅に帰ることができる。子供をもつスペイン女性の多くは、このような働き方をしており、一般的な光景だ。とはいえ、EUに加盟してからは昼休みを2時間取る企業が減ってきているため、この働き方が崩れてきているらしいが...。

■あきらめた感はある

日本では、特にフリーで働き続けることは、婚期が遅れたり、子供を持つタイミングが遅れたり、好機を逃してしまうリスクがあると思われている。私自身、結婚や出産のタイミングを一時は真剣に考え、妊婦姿で映画祭の現場を駆け回る働き方も考えた。しかし、当時の女性上司(3人の母)から強く反対され、現実にはそうならず。周辺の先輩でワークライフバランスを上手く実践できている人もいたが、不器用な私にはなかなかそうはいかなかった。

女性が日本で家族を持ちながらキャリアを積み重ねるには、女性が働きやすい環境作りを率先している企業に就職するか、一定期間は第一線から離れて、数年後に復帰するしか方法が無いように思われる。その他に方法はあるのかもしれないが、私が知らないだけか。子育てをしながら働く女性が次世代の労働力となる子供を育てているのに、冷遇されることが多いことに首をかしげてしまうこともある。

でも、来るべき高齢化社会では、30~40代の女性のパワーが必要となるのは確かだ。働く意思を持つ女性の誰もが働きやすくなる社会になることを願っている。スペイン女性の今とこれからの姿からも、何かいいヒントが見つかるかもしれない。

第10回:アモール、アモール!
2013年12月20日

【written by 浅野藤子(あさの・ふじこ)】山形県山形市出身。高校3年時にカナダへ、大学時にアメリカへ留学。帰国後は、山形国際ドキュメンタリー映画祭や東京国際映画祭で約13年にわたり事務局スタッフとして活動する。ドキュメンタリー映画や日本映画の作品選考・上映に多く携わる。大学留学時代に出会ったスペイン語を続けたいという思いとスペイン映画をより深く知りたいという思いから、2011年1月から7月までスペイン・マドリード市に滞在した。現在は、古巣である国際交流団体に所属し、被災地の子供たちや高校生・大学生の留学をサポートしている。
【最近の私】職場の同僚から勧められたファイテンのパワーテープの威力に歓喜の声をあげる。肩こりが少し楽になった!
----------------------------------------------------------------------------------------
■" ¿Cuántos años tienes? ¿Tienes novio? (あなた何歳なの?恋人いるの?)"

ある集まりで知り合ったスペイン人のパロマおばちゃんに突然切り出されてドキっとする。それもタバコの吸い過ぎでつぶれかかったようなハスキー声で。

「なにを? ストレートな質問ね」
40歳の留学生であるハポネサ(日本人女性=私)には、単刀直入すぎる質問だ。

「私たちのクラブに青年会があるんだけど、そこは独身男性が多いの。明後日、バルで飲むから、いらっしゃい。せっかくスペインにいるんだから、スペイン人の恋人を見つけなさい」

何とも包み隠さない言葉に説得され、気持ちがグラっとくる。

確かにスペインへ来て1か月が経とうとしていたが、そういえば、男性の影がちらつく気配さえなかった。パロマおばちゃんの言う「クラブ」とは、社会貢献の意識が高い会社の経営者や行政関係者が所属するボランティアクラブのような所だ。私は'お高い感じのするクラブ'と捉えていた。でも、明後日の水曜日は平日だし、宿題を早めに終わらせれば行けるかな-、と軽い気持ちで受けることにした。もちろん、新しい出会いを期待しないでもなかったのだが・・・。

■忍び足
みんなが集まるバルは、私が住むピソがあるサラマンカ地区にあった。治安が良く、レティロ公園に近いこともあり、バルが多かった。ピソの玄関を出た両隣にバル、10歩ほど歩けばバル。その奥の通りにもバルやレストランが並んでいた。目指すバルはその中の一つ。魚介類を専門に扱い、店内のガラスケースにはメルカド(市場)で仕入れたばかりの鮮魚がところ狭しと並んでいた。

おそるおそる扉を開けると、まだ夜7時なのにお客さんで一杯。立ち飲みをしている人の波を抜けて、お目当ての席にたどり着くのは結構大変である。

私を誘ってくれたパロマおばちゃんを見つけた。そこには数人のスペイン人男性も。突然現れた日本人女性に驚いていたようだった。

「これから、まだ若いのが来るから待っててね」

今いる彼らは確かに50代くらいに見える。パロマの言葉には飾り気がなかったので、実は2日前からワクワクしていた私の心に響いた。期待が膨らむ。

30分もすると、クラブの会議を終えた人たちが10人ほど現れた。これまた日本人の姿に驚いていた。

ビジネスパーソンの挨拶ように始めは名刺交換からスタート。彼らはイベリコハムを販売する会社やエネルギー会社の社長だったり、管理職だったりと、それなりの立場だった。その中に一人、スペイン北部のガリシア出身で、私より背が小さく、身体全体を使いエネルギッシュに話す、ノリの良い青年と目が合う。

年は30代。高校では英語教育を受けなかったと言い、英語は片言ではあったが、何とか会話は成立した。メルアドを聞かれて戸惑うが、彼の仲間の手前、顔に泥を塗るのも悪いな-、という日本人らしい優柔不断かつ優しい気持ちが芽生えた。全くタイプではなかったが、教えてしまった。

■仕事<アモール(恋愛)

美味しい魚介類とビールとワインで、すっかりご機嫌な私は、ピソへ帰るとメールをチェック。すると、早速その青年からのメールが。

「君と出会えてとてもラッキーな日だったと思う。会議に出るつもりは無かったのだが...」

と始まり、つい数十分前の出来事を延々と綴っている。締めくくりはこうだ。

「今度はいつ会おうか?」

ビジネスの習慣から即座に反応する癖がついている私は、「では、2日後の金曜日の夜に」とついつい返信してしまった。「じらして数日間返事をしない」など、恋の手ほどき本にあるようなマニュアルなどすっかり忘れてしまっていた。「タイプじゃないし、まっ、いっか」という、これもまた軽い気持ちだった。

それから金曜の夜までの2日間、彼とのメールのやりとりはほぼチャット状態だった。午前中は大学があったためメールを無視していたが、午後に彼のメールに返事をすると、即レスがきた。それが5~6回は続く。

「いくらなんでも、仕事中だろー。集中しろよ」と思うが、私のそんな心配をよそにメールは立て続けにやってくる。仕事よりもアモール(恋愛)か。

そして、金曜日の夜。
ヤツは約束の時間に遅れてやってきた。私は2月の寒空のなか、15分も待たされた。日本だったら即刻帰るのだが、ここはスペイン。心を広くして待つことにした。
ヤツは登場するや否や、遅れた理由を並べ立てる。日本なら「言い訳がましい」とますます嫌われるパターンだが、スペインでは理由を言わないことのほうが失礼になるらしい。

ヤツの選んだ店はガラス張りで、テーブルに置かれたキャンドルライトがロマンチックな雰囲気を演出しているレストランだった。居酒屋や赤提灯に慣れ親しんでいた私は、彼が期待していたであろうよ、「わぁー、ステキ!」というような言葉を言えなかった。ガリシア出身のヤツのことだから、きっとガリシアの家庭料理を堪能できるかもと期待していたのに、残念だなという思いのほうが強かった。

期待したガリシア料理.jpg
期待していたガリシア料理とはこんな感じ。「タコのガリシア風」。

短い留学期間にスペインのすべてを堪能したいという願望が先に立ち、男心を理解しようとしない、自分勝手なハポネサである。待たされたことでやや不機嫌だった私は、それなりの大人の会話をして、後はシンデレラであることを口実に、その日はそれで家路についた。

2回目のお誘いは映画デートであった。スペインの映画館デビューを果たせる!という軽い気持ちでこれまた受けてしまった。でも、彼の期待に応えるような態度は何一つ示さなかったためか、3回目の約束はなかった。

後日、スペイン人男性と結婚した日本人女性Yちゃんが経営する日本食バルで飲んでいると、話題はいつの間にかスペイン人をめぐる恋愛談義に。ガリシア人との出来事を話すと、Yちゃんは驚いた顔でこう言った。

「2回デートを済ませても何も無かったなんて、スペイン人の男にしては珍しいことだよ。よく引っ張れたね~」
「えっ、そうなの?!」
「日本人みたいにベッドインするのに1~2か月かけないよ。1~2回目で大抵ヤッちゃうからね」
「・・・ ・・・」

スペインはカトリックの国。保守的なイメージが強かった私には衝撃的だった。

日本食バル.jpgのサムネール画像
友だちの女子が経営する日本食バル

■熱心なのはいいけどね...

バルで女子だけで飲んでいればスペイン人の男が決まって声をかけてくると、クラスメートのアメリカ人やイギリス人、中国人の留学生みんなが声を揃えて言う。半径50cm圏内にあっという間に近づき、さり気なく触ってくる。そして、巧妙な話術で彼氏がいるか、いないかをチェックするそうだ。

う~ん、確かに。あるスペイン人男性とバルで話していた時、「気功」を習っていると言われ、興味津々だった私は10分くらい施術をしてもらった。その横で彼の友人はこんなことを言っていた。

「こいつは女性に触りたくて、習ってるんだ。いい口実だろう?」

仕事にはあまり熱が入らない男でも、いざ恋愛となるとエンジンは即全開か。そのエネルギーを経済活動に転用すれば、失業率25%(2012年)という状況を少しは改善できるかもしれないのにと思うのは私だけか。

いずれにしてもスペイン人男性と、私がよく知る日本人男性との大きな隔たりがある。ちょっとドキドキしながら、獲物を狙う狩猟民族(スペイン人)と、晴れでも雨でも天気次第と受け身の農耕民族(日本人)の差について思いを巡らせてみるのだった。



第9回:震災の真実を伝える映画をスペインで ~その3~
2013年11月22日

【written by 浅野藤子(あさの・ふじこ)】山形県山形市出身。高校3年時にカナダへ、大学時にアメリカへ留学。帰国後は、山形国際ドキュメンタリー映画祭や東京国際映画祭で約13年にわたり事務局スタッフとして活動する。ドキュメンタリー映画や日本映画の作品選考・上映に多く携わる。大学留学時代に出会ったスペイン語を続けたいという思いとスペイン映画をより深く知りたいという思いから、2011年1月から7月までスペイン・マドリード市に滞在した。現在は、古巣である国際交流団体に所属し、被災地の子供たちや高校生・大学生の留学をサポートしている。
【最近の私】代々木公園を歩くといつの間にか紅葉で溢れた景色に変ったことに気づく。今週末に開催されるフィエスタ・デ・エスパーニャが楽しみ!
----------------------------------------------------------------------------------------
開催まで1か月足らず。ビクトル・エリセ監督の招へいに関しては国際交流基金へゲタをあずけることになった。とはいえ、上映作品の作品データや素材の手配に加えもう一人のゲストである松林要樹監督の日程調整や飛行機の手配など、私の仕事はまだまだ山積みだ。

はるばる日本から来西する松林さんには、ぜひエリセ監督と対談してもらおう!なんて考えたりしていた。

■想定内ではあったが...

そんなある日、国際交流基金のSさんからこう言われた。
「エリセ監督からもらったメールの表現が "Intentaré" になったんだよねー。もしかしたら難しいのかな」

英語でいう "try to" に近い表現なのだろうか。エリセ監督の来場の可能性が低くなったというニュアンスが感じとれる。新作の撮影の真っ只中にいるエリセ監督。映画づくりというのは、一度撮影に入ると予定の順延や変更が多発する。最悪、キャンセルも想定する必要があるかもしれない。

そして上映前日、Sさんから電話が入った。
 「藤子さーん、エリセ監督、キャンセルですー」

なんと、そうきたか・・・・・・。

生ものゲストにはドタキャンはつきものだ。もちろん覚悟はしていたが、やはりショック...。U所長宛に送られてきた彼のメールに観客宛のメッセージが添えられていたのが、唯一の救いだった。こんな内容だ。

オムニバス映画、 『3.11 A Sense of Home Films』 への参加に至るまでに河瀬監督と意見を交わし合ったこと、その中の1つで彼が手掛けた『Ana, tres minutos (アナ、3分間)』を撮影するために、休暇でニューヨークにいた女優アナ・トレントをマドリードへ帰国させたこと、偶然にも広島に原爆が投下された8月6日に撮影を行ったこと、「なら国際映画祭」へ参加するために日本を20年ぶりに訪れたこと、多くの人が家や愛する人を失った震災の日から1年、困難を乗り越えて復興を遂げようとする日本の姿に感銘を受けたこと、自分は遠くにいるけれども復興を願う気持ちはみんなと同じであること・・・・・・。

そしてメールの最後にはこう記されていた。
「P.S. Un saludo afectuoso para Fujiko Asano.(追伸:浅野藤子さんによろしくお伝えください)」

これは、もう鼻血がでるくらい興奮する一句だ!
それもP.S.(追伸) だから、なんか特別扱いされているようで(監督はそんな気持ちは無かったかもしれないが)天にも舞い上がるような気持ちになった。

舞い上がったり落ち込んだりと、ここ数週間の私の気持ちの乱高下はまるでジェットコースターのようだ。

エリセ監督を招待してスペイン人を見返してやろうと考えていた私は、肩を落として"作戦失敗"を伝える。そんな私を「エリセ監督と直接メールでやりとりをしたことだけでも快挙だよ」と、彼らは慰めてくれた。やりとりをしただけでは納得のいかない頑固なハポネサ(私)だったが、彼らの言葉で励まされたのは確かだった。

■気をとりなおして...

国際交流基金マドリード事務所のU所長の計らいで、上映会のオープニングセレモニーで挨拶をすることになった。それもスペイン語で。

観客のほとんどがスペイン語使いなのだから当たり前のことなのだが、渡西して3か月目、英検で言えば2級レベルの私には、何ともチャレンジングな仕事であった。

「ス、スペイン語でですか?」
と、不安げな私。それを見てスタッフのS女史が「日本語で書いていただければ、うちのスペイン人スタッフに訳してもらいますよ」と声をかけてくれた。
あー、良かった。スペイン語での原稿作りとなるとまだ不安だけど、読むくらいは練習すれば大丈夫だろうと安堵。

スペイン語に訳された原稿が上がり、自宅で読みの練習をしてみたのだが、これが意外と難しい。特に "r" と"rr" の音をなめらかに発することができない。2日間練習してもまだ不安が残る。「上手く発音できて壇上で満足している自分の姿を想像する」というイメージトレーニング(泣)も試してみた。

2011年3月7日、当日。
どんなオープニングかと思えば、私を含めて4人の挨拶があるらしい。上映会場であるマドリード州文化局の局長、国際交流基金所長のU氏、エリセ監督のメッセージを代読する日本映画研究家/大学教授のロレンソ、そして私だ。

私がトリか-、なんか申し訳ない-、と思いつつ、練習の成果を発揮しようと気合を入れた。

私の出番がきた。
「2011年3月11日午後。私は銀座にある東京国際映画祭の事務所にいた。

大きな縦揺れを感じ、すぐに外へ逃げると、そこで目撃したのは銀座の大通りに面するデパートや映画館、レストランがマッチ箱のように左右に動き、それらの建物がそのまま道路に崩れ落ちるかのようなシーンだった。ハリウッドSF映画の1シーンのような状況を目の当たりにし、恐怖で足がすくみ、心のなかでは「もしかしたらこの世の終わりを目撃しているのかもしれない」と思っていた。

その後、地下鉄などの公共機関のほとんどが機能を果たさなくなり、私は帰宅難民となった。冷たい風が吹く中、2時間かけて自宅へ歩いて向かう道中、人々は何も話さずうつむいたまま歩いていた。なんとも怖い、シュールな光景が続いていた――。

今お話したのは私自身の震災体験。その日、東日本にいた人みんなが被災者で、それぞれの3.11を体験している。ここで紹介するのは、そうした想いを綴った映画たちである。」

1. スピーチ.JPG
オープニングセレモニーでスピーチするワタシ

結局、かみかみの連続で終えた。
観客の中には、スペイン語の先生であり、映画好きなピラールの姿が。彼女は仕事の忙しい合間をぬって写真家の旦那さんと一緒に来てくれたのだ。私のつたないスピーチに、目をつむって耳を傾けてくれた。

「あなたのスピーチは、詩のようだったわ。状況が頭の中にメロディーのように現れてきたの」

かみかみでも、発音ができてなくても伝わったのだと、安堵した。
エリセ監督が出席できなかったことは残念だったが、彼の作品を上映し、特別なメッセージをもらえたのだから、これで良しとしよう。

マドリードでの上映を3月17日に終え、その1週間後はバルセロナ、5月には2008年国際博覧会が開催されたサラゴサでも上映が行われた。スペイン国内の3箇所で上映することができたことは、私の予想を超えた広がりだった。

こうして、2011年11月から準備を進めていた震災特集の上映会を無事に終えた私は、本来の留学目的であったスペイン映画の研究に、心機一転、シフトチェンジしていく。

2. 松林監督のトーク.jpg
 トークイベントには松林要樹監督が登壇

第8回:震災の真実を伝える映画をスペインで ~その2~
2013年10月25日

【written by 浅野藤子(あさの・ふじこ)】山形県山形市出身。高校3年時にカナダへ、大学時にアメリカへ留学。帰国後は、山形国際ドキュメンタリー映画祭や東京国際映画祭で約13年にわたり事務局スタッフとして活動する。ドキュメンタリー映画や日本映画の作品選考・上映に多く携わる。大学留学時代に出会ったスペイン語を続けたいという思いとスペイン映画をより深く知りたいという思いから、2011年1月から7月までスペイン・マドリード市に滞在した。現在は、古巣である国際交流団体に所属し、被災地の子供たちや高校生・大学生の留学をサポートしている。
【最近の私】お手伝いしたラテンビート映画祭の東京上映会が終了。セバスティアン・シルバ監督というチリの異才が登場。南米映画のますますの百花繚乱な傾向が強まる気がした。これから横浜、大阪で巡回上映が始まりまーす。
----------------------------------------------------------------------------------------
ビクトル・エリセ監督の招へいを思いついた私は、それが起爆剤となり、候補作品の収集に向けてさらにエンジンがかかった。そのため、2012年1月5日の渡西出発前日、滞在していた成田空港のホテルでもこの収集活動は続いた。おかげで出発する時は、約20の候補作品を手にしていた。

マドリードの新生活を迎えながらも選考作品を観続けた。国際交流基金マドリード事務所のU所長の合意を得て、ラインアップが決まったのは2月初旬。その中にはビクトル・エリセ監督や河瀬直美監督が東日本大震災へ思いを綴った作品『3.11 A Sense of Home Films』や、松林要樹監督が福島県南相馬市の人々を描いた『相馬看花』も入っていた。そして、ゲストとしてこのお二人にお越し頂く方向で、U所長をはじめとする運営サイド内部の調整をすることになった。

上映予定の1ヶ月前、ようやく上映会場や作品交渉、ゲスト交渉が始まった。

この時期にこうした仕事が始まるというのは、準備としてはかなり出遅れている。でも、もう乗った船だからやり切るしかない。

肝心のエリセ監督の招へいについては、河瀬監督が運営に携わっている「なら国際映画祭」事務局の力をお借りした。もともと「山形国際ドキュメンタリー映画祭」の事務局員時代に繋がりはあったため、快く監督をご紹介いただいた。
さて、連絡をする糸口は得た。では、これからどのような内容で依頼文を書き上げればエリセ監督は来てくれるのだろうか?

■口説き上手の方法

マドリードへ来て以来、映画を通じてさまざまな関係者と知り合いになっていた。エリセ監督を招へいするにためには何を書けば口説けるのか、彼らに聞いてみることにした。

「エリセ監督の招待は難しいと思うよ。彼は特別だから」

本人にしたらアドバイスのつもりなのかもしれないが、人のやる気を失うことばかり口にする人たちばかりだ。彼は、マドリード州や国レベルの行事から公式に招待があっても断ることがあるらしい。

エリセ監督は『3.11 A Sense of Home Films』の上映の立ち会い、河瀬監督と親交があったため、2011年の「なら国際映画祭」へは参加していた。この話を聞いた時、体裁を整えることよりも、心と心とを繋ぐことに重きを置いて、物事を判断する人なのではないかという想像が膨らんだ。

私のなかでこの震災映画特集は、これまでたくさん経験してきた映画祭や上映イベントとは異なる特別な企画だ。その大事な部分を共有できない人々の声は無視しようと思った。エリセ監督にこのイベントの主旨が伝わることを願った。

彼を口説くには、自分の思いの丈を伝えるしか方法はない。謙虚におしつけがましくなく。

一人では自信が無かったため、交流基金スタッフと作戦会議をもって内容を練った。その詳しい内容は明かせないが、スペイン語で熱烈な手紙を書くことになった。公式な手紙でもあるので、添付する形式的な文書は交流基金の方にお任せした。

実際に招へいを訴えるメッセージは私が書くことになった。'エリセ監督招へい作戦の突破口'は私が切り開くことになったのだ。

スペイン語にはまだ自信がなかったので英語で書くことにした。これは私の思いの丈のすべてを盛り込んだラブレターなのだ! なんとか書き上がった。そして彼に送ると......

■Dios Mios! 何とまぁ!

国が違えばビジネス習慣も変わる。国に関係なく仕事に対するリズムが違う人もたくさんいる。ましてやエリセ監督であれば、返事が来るのは1週間や10日間はかかるだろうと思っていた。

そしたら何とまぁ、3日後に彼から直接メールが来たではないか!!!
それも上映会への参加を前向きに考えているという内容だった。

「撮影で今はポルトガルにいるけど、2月末には終わる予定だよ。3月上旬にはマドリードにいるようにするよ」

もうこれには大興奮。
これまで10数年、映画祭スタッフとしてゲスト交渉をしてきたけど、これほど感激したのは初めてだったと思う。
メールはスペイン語。読み違いがあってはいけない。自分の読解力が信じられない私は同居人を部屋に呼び込み、そのメールを読んでもらった。彼女は何が何だかわからない様子だったが、とりあえず読んでくれた。確かに、上映会に参加します、と書かれているよと教えてくれた。やった!

人は興奮するとその喜びを誰かとシェアをしたくなるらしい。
私の場合、国際交流基金のU氏やスタッフのSさんにすぐに電話した。でも、2人とも不在・・・
そこで今度は日本の姉に国際電話。でも日本は真夜中で、姉は就寝中。電話は通じず・・・
興奮を抑えつつ関係者に喜びのメールを送ったが、メールだけでは一向に落ち着かず・・・
喉が渇き、ビールを飲む。だが酔えず・・・
ならば別のことをと思ったが昼寝も出来ず、勉強も手に着かず・・・

何てことよ!

夕方、帰宅した同居人たちがお疲れであろうことは無視、冷めやらぬ興奮そのままに、事の顛末を語り尽くした。私の中で燃え上がった喜びの炎は、そうしてようやく沈静化したのであった。

ここで私の役目は一端終了。
あとは交流基金のスペイン語が堪能なSさんにバトンタッチ。今後の交渉も上手くいくように毎晩祈りつつ、私は再び1か月後に迫った上映会の準備に邁進した。

8-1.jpg
上映会場の正面玄関:マドリード州文化局ホール

8-2.jpg
もともとは銀行だった建物。金庫の前に国際交流基金のフラッグ

第7回:震災の真実を伝える映画をスペインで ~その1~
2013年09月20日

【written by 浅野藤子(あさの・ふじこ)】山形県山形市出身。高校3年時にカナダへ、大学時にアメリカへ留学。帰国後は、山形国際ドキュメンタリー映画祭や東京国際映画祭で約13年にわたり事務局スタッフとして活動する。ドキュメンタリー映画や日本映画の作品選考・上映に多く携わる。大学留学時代に出会ったスペイン語を続けたいという思いとスペイン映画をより深く知りたいという思いから、2011年1月から7月までスペイン・マドリード市に滞在した。現在は、古巣である国際交流団体に所属し、被災地の子供たちや高校生・大学生の留学をサポートしている。
【最近の私】2020年オリンピック招致で私の予想を裏切ってスペインが敗退してしまった! スペインではマドリード市長Ana Botella氏のIOCでのスピーチのひどさが話題になっているらしい。 スペインへ行く良い口実にしたかったのに...。残念。
----------------------------------------------------------------------------------------
■ありのままの震災を映画で伝えたい

スペインに到着して2か月後の2012年3月、私は以下のようなメールを綴って日本の友人や知人に送信した。
~・~・~・~・~~・~・~・~・~~・~・~・~・~~・~・~・~・~~・~・~・~・~
Date: 2012. 03.05
To: 知人・友人
Subject: スペイン・マドリード、浅野 藤子より
Message:
皆さま
こんにちは。すっかりご無沙汰しております。お元気でしょうか。
スペインに旅立ってから、早2か月が過ぎました。
その間、いろんな方々から励ましのお言葉を頂戴しました。心より感謝申し上げます。

おかげさまで、ようやく新生活に慣れることができました。
地下鉄に乗るにも、銀行口座を開くにも、スーパーで買い物するにも、一つ一つが新鮮で挑戦でもありましたが、スペイン語を除いて、不便さはあまり感じない生活を送ることができています。

住まいは、マドリード市民憩いの場、レティロ公園のすぐ近くで、日本人男性のオーナーとスペイン人女性の3人でピソに住んでいます。
また、プラド美術館など有名美術館へ徒歩20分の近距離!の好条件に位置し、週末のレティロ公園内はマラソンランナーで賑わい、私も来週末にデビューしようと考えています。


1_レティロ公園.jpg
ピソ近くのレティロ公園

大学生活は充実しており、毎日の宿題をこなすのに必死ではあります(この歳で...)。
また生徒よりも教授との方が歳が近いので、教授は私には教えづらいとは思います...。

そして、明後日7日から始まる国際交流基金主催の震災映画特集もお手伝いしています。

「11.3: Japón, en el camino de la superación(3月11日:日本、前進の途上にて)」というタイトルで、いくつかプログラムが分かれています。

2_震災folleto.jpg
「11.3: Japón, en el camino de la superación(3月11日:日本、前進の途上にて)パンフレット

私は 「(1) ドキュメンタリー映画上映:被災地に寄り添って」 を担当いたしました。
以下、上映作品です。

○『相馬看花 奪われた土地の記憶』 監督:松林要樹
○『3.11 A Sense of Home Films』 監督:ビクトル・エリセ、河瀬直美、ジャ・ジャンクー含め21名
○『トーキョードリフター』 監督:松江哲明
○『なみのおと』 監督:濱口竜介、酒井耕
○『雪海』 監督:大竹暁

ゲストには、あの ビクトル・エリセ監督 にもご来場いただく予定です。
「マドリードにはいるようにするよ」とメールで再確認はできたものの、最後まで気は抜けません。

そして、日本からは 『相馬看花』 の 松林要樹監督 をマドリードにお招きします。
スペイン人がどのような眼差しでこれら作品を見てくれるのかドキドキです。

このようにマドリードへ来ても、日本にいる時となんら変わりのない生活を送っています。
お時間がありましたら、みなさんの近況も是非お聞かせください。

それでは、adiós!

浅野藤子
~・~・~・~・~~・~・~・~・~~・~・~・~・~~・~・~・~・~~・~・~・~・~

渡西して新生活にようやく慣れた頃なのに、もう2日後に開催される上映会の告知をしている。映画愛もほどほどに・・・という声が聞こえてきそうだ。懐かしくもあり、恥ずかしくも感じる。でも、どこへ行っても多忙好きなハポネサ(私)なのだ。

もともとこの企画は、渡西前の2011年11月に私が国際交流基金マドリード事務所の所長U氏にメールを書いたことから始まった。それは、これまで長い間映画の上映事業に関わってきた"上映好きの虫"がマドリードでも何かしたいとウズウズしたことから始まった。

加えて、スペインへ行けば、必ず震災について聞かれると思っていた。震災について思うところや知ってほしい情報を伝えるのは口頭でもできるが、「映画の上映」という形で伝え、表現するのも一つだと思っていた。

それは、私がこの仕事(映画祭の企画・運営)に関わってきたのであれば当然の発想であり、私らしい表現方法でもある。稚拙な言葉よりも、震災の現場に足を運んで、現地の人々の話に耳を傾け、カメラにその映像を納めた映画の方が、より観客に訴える力を持ち合わせている。そうした作品に私がそれを選んだ理由を盛り込んで紹介した方が、より強く、深く、広く伝えられると確信していた。

当時は震災から1年も経過しておらず、マスコミが報道する震災のイメージ――押し流された瓦礫の山やおもちゃのように積み上げられた車、白い防護服を身につける人々・・・などが人々の記憶の大半を占めているように感じていた。「震災の現実はそれだけではない」とも伝えたかった。

私のそんな思いにU氏は同意してくださり、スペイン語字幕の費用は財団持ちで進めることになった。その頃、日本で従事していた「東京国際映画祭2011」が終わるとすぐに、上映会の候補作品を集めるつもりでいた。

■'追い求める者'は救われる

留学への準備を進めるべく、私は映画祭をひとつの区切りとし、東京から実家のある山形へと生活の場を移そうとしていた。日中は仕事の残務整理、週末に完全に撤退するための物理的な準備を進めながら、夜は夜でお世話になった人々への挨拶行脚に時間を費やした。映画祭の残務整理と挨拶行脚、引越準備、そして留学の準備・・・。映画祭を終えれば時間ができると勘違いしていたようだ。

それにスペインでの「国際交流基金主催震災映画特集」の下準備が加わる。言い出しっぺは私だ。忙しさに押しつぶされそうになった時は、提案したことを後悔し、自分の心に住む"上映好きの虫"を呪った。

作品の選定作業にはそれまで経験したことがない精神力を要した。今の民生用ビデオカメラは、誰でも気軽に取り扱えるうえに、スクリーン上映に耐えうる映像のクオリティーを持っている。そうしたカメラを携えて、被災地には国内外から震災の映像をおさめようとする人々が集まったのだ。そのため、作品の出来の善し悪しに関係なく、無数の"作品"が生まれた。その中から、一般のメディア上では見られない情景や人々の姿を映し出し、なおかつメッセージがあり、上映に耐え得る作品を探し当てるのは、物理的にも精神的にも容易なことではない。
それでも疲れた心身にムチを打ち、馬車馬のように進もうとする私がいた。それまでに知り合いになった監督やプロデューサーに声をかけ、信頼できる人のネットワークを駆使して作品を集め、選定していった。

そんな私を偶然の神は見捨てなかった。引越の荷物に詰め込もうとしていた未鑑賞作品をおさめたDVDの山、その一番上にあった1本の映画が松林要樹監督の『相馬看花 奪われた土地の記憶』だった。松林監督とは面識があった。東京国際映画祭のパーティーで出会い、挨拶代わりにもらったのはこの作品だ。私は好印象を抱き、映画人の間での作品の評価も高かった。

すぐに作品を観た。灯台下暗しとはこのことか。私がスペインでの上映会に求めていたものはこういう作品だ。この出来事がきっかけとなり、さらに数本の作品を候補に上げることができた。

山形の実家に帰り、まずは近所の温泉へ。雪がちらほら降る中で入る温泉は格別! ふーっと息をつくと、またまた頭に1つのアイデアが閃いた。

(ゲストはエリセ監督がいいんじゃない?! マドリードに住んでいるし、ちょうどいいんじゃねー!)
観客の前で挨拶をする彼の姿を勝手に想像し、湯につかりながら興奮するのであった。

スペイン出身のビクトル・エリセ監督は、『ミツバチのささやき』や『エル・スール』で知られる世界的な映画監督。1968年にデビューして以来、10年に1本のペースでしか映画を製作しない希有な存在で、その作品の全てが高い評価を得ている。日本の河瀬直美監督と親交があることを耳にしていた。河瀬監督が声をかけてエリセ監督も参加したオムニバス作品、『3.11 A Sense of Home Films』も上映しよう!

点と点が繋がって、私の願いと企画が現実のかたちになっていく瞬間だった。

第6回:「ONCE(オンセ)」
2013年08月30日

【written by 浅野藤子(あさの・ふじこ)】山形県山形市出身。高校3年時にカナダへ、大学時にアメリカへ留学。帰国後は、山形国際ドキュメンタリー映画祭や東京国際映画祭で約13年にわたり事務局スタッフとして活動する。ドキュメンタリー映画や日本映画の作品選考・上映に多く携わる。大学留学時代に出会ったスペイン語を続けたいという思いとスペイン映画をより深く知りたいという思いから、2011年1月から7月までスペイン・マドリード市に滞在した。現在は、古巣である国際交流団体に所属し、被災地の子供たちや高校生・大学生の留学をサポートしている。
【最近の私】前回登場した国際交流基金のSさんと、今は旦那様になってしまったJさんと出張先の沖縄で偶然にも再会!オリオンビールで乾杯しました。
----------------------------------------------------------------------------------------
これまでのエピソードでたびたび登場するホアン先生。
1か月の集中語学研修で出会った私の大好きなスペイン人だ。

マドリード市で生まれ育ち、同市にある国立コンプルテンセ大学を卒業、今もマドリード在住。生まれも育ちも大学も、果ては住む所も同じ地というのは、スペイン人の典型的な生き方でもある。長年、雑誌や書籍の編集に携わり、またポルトガル語の翻訳者でもある彼は、これまでに何冊かの本を出版している。スペイン語を教え始めてから出会った生徒たちとの交流を綴った「Gente con clase(クラスの人たち)」も著作の1つだ。

1_Gente con clase.jpg
「Gente con clase」の表紙

見た目は細くて小さく(160cmくらい)、髪・まゆげ・瞳が黒い。どれもスペイン男子の特徴だ。いつもちょっとシリアスな顔つきをしている。でも、そんな表面的な印象とは違い、ジョークを交えたユーモア溢れる彼の授業は、生徒には大人気。私もファンの一人で、たった1か月でさよならするのは、ちょっと物足りない気がしていた。もっとお近づきになりた~いという不純な(?)動機がなかったと言えば嘘になるだろう。2月から5月までの春学期、彼のクラス「スペイン現代社会」を受講することに決めた。

■優しいはずのホアン先生・・・全然違うじゃない

1か月の研修の時とは違い、「スペイン現代社会」の講義はカリキュラムを見る限り結構ハードな内容だ。まずは毎回テーマに沿った記事を読み、それについて簡単な質問に答える。うん、これはできる。

しかし、6ページ以上のレポートを2回提出するのは簡単ではない。課題は「スペインと自国(私の場合は日本)の社会状況を比較し、数字やインタビュー、アンケートなどを盛り込んだ内容にすること」。フォーカスするポイントは公共交通、税金、教育、労働などから自分で決める。

えー、スペイン人にインタビューするなんてまだ会話もままならないのに...。こんな課題を当然のことのように出題するなんて、あの優しいホアン(以下、親しみを込めて「先生」は略)が違う人に見え始めた。

それでも、何歳(いくつ)になったって恋のトキメキは物事を前に進める起動力になる。なんとかホアンに褒められたい。40歳過ぎたハポネサ(日本人女性=私)は、けなげにもトピックを懸命に探し始めた。

そして頭に浮かんだのが、街のあちこちで見かける背の高い茶色のボックスと、そこに掲げられた「ONCE」の文字だった。あれは何だろう?と疑問に思っていたのだ。

■ボックスの正体は? 「ONCE」って?

マドリードでまず目に付いたのは、メトロの入り口や駅の中、デパートや広場の近くにある公衆電話のような茶色のボックスだった。ひと一人がようやく入れる茶そのボックスの上部には「ONCE」と書かれた看板が設置されていて、そのすぐ下に小さな窓がある。その窓には所狭しと小さな紙がベタベタと貼られている。

ボックスの中にいる人を見ると、男女を問わず年齢層は20~60代と幅広い。大抵の人はサングラスをかけている。時にはボックスの外へ出て、何か言いながら、「カラン、カラン」と手に持った大きなベルを鳴らす。

通行人の一人が立ち寄り、小さな窓から中の人に何かを渡し、そして何かを受け取っている。(パチンコの景品所?)とも思ったが、スペインにパチンコ店は無い。

ボックスの正体は「宝くじ売り場」だった。

2_once box 1.jpg
3_Once box 2.jpg
街中で見かける宝くじ売り場

■宝くじ売り場と「ONCE」

「ONCE(オンセ)」とは、Organización Nacional de Ciegos Españoles(国立スペイン視覚障害者協会)の略称で、視覚障害者による視覚障害者のための組織だ。1938年に設立され、今年で35周年を迎える。もともと彼らは、路上で物乞いをしたり、音楽を演奏して生計を立てていたが、自立のための近代的な仕組みを確立しようという機運のもと、南部にあるアンダルシア州やバルセロナ市のあるカタルーニャ州などの支援もあって設立された。

ONCEは約7万人(2010年現在)の会員で構成され、その会員は、リハビリ、教育、雇用促進、文化、スポーツ、最新技術の利用などの社会サービスを受けることができる。組織は年々成長を遂げ、1988年にはONCE基金を、1993年にはONCE法人を設立するグループ組織に至った。グループ全体の雇用数は13万1千人、うち視覚障害者もしくは何らかの障害を抱えている者が81.5%を占め、うち女性は42.4%である。

ONCEの収益の多くは行政からの補助金、寄付、そして宝くじの販売から成り立っている。その宝くじはあのボックスで販売され、それも販売員のほとんどは視覚障害者自身だ。私が目撃した鐘を鳴らしていた人たちは、懸命に宝くじをさばいていたのだろう。そんな彼らの姿から、自分たちの暮らしを自分の手で作り上げている力強さを感じた。

予断ではあるが、『カルメン』や『フラメンコ』などで有名なカウロス・サウラ監督のデビュー作『Los golfos (ならず者)』(1960)では、路上で宝くじを売る目の不自由な老女が売上金を強奪されるシーンが描かれている。映画にも登場するくらい、スペインでは日常的に見られる光景なのだ。

初めは宝くじボックスに興味を抱いたものの、ホームページでいろいろ調べているうちに、いつの間にかONCEの存在に強く惹かれる自分がいた。しかし、この程度の情報だけでは、ホアンが求めるレポートには足りない。実際にどんな人たちがどのような思いで組織を支えているのか、その活動内容や現状についてもっと知りたくなった。

■えいっや!と門をたたく

人見知りで勇気のない私は、文明の利器である電子メールの力を借りてONCE広報部に連絡を取ってみた。私が何者であるのかや調査の理由など、長文ではあったがスペイン語で私の思いを綴ってみた。

しかし、待てど暮らせど連絡はナシ。日本での社会人経験が10年以上ある私は、連絡が来たら3日以内に返事をするのがマナーだと教わったし、そのようにしている。もう3日目だ。でも、ここはスペイン。そんな常識が通用しないのかもしれない。これ以上待っていても時間のみが過ぎていくだけでレポートの提出が遅れてしまう。ホアンにがっかりされたら悲しいなぁなどと尽きない妄想が頭のなかをグルグルと駆け巡る・・・。

本部は学校から徒歩10分程度のところにある。せめて資料用の写真を撮っておこうと思い立った。その日の授業を終え、住所をたよりにONCE本部を目指した。すると見覚えのある「ONCE」のロゴが目に止まる。ロゴ入りのパンフレットを持った人が建物を出入りしているからここに間違いない。本部のわりには門構えが地味だ。外観の写真撮影が目的だったが、とにかく中に入ってみよう――。

内部を覗いて、恐る恐る透明の自動ドアに向かう。しかしドアが開くと180度向きを変えて来た道を戻ってしまった。意気地無しの私は、無意識に家路につこうとしていた。

だがその時、もう一人の私がこう囁いた。
(これでいいの? ここまで来たのに)
「えっ、でも今日は写真撮りに来ただけだし」
(ここまで来たのだから挨拶だけでもしたら? メールを送ったハポネサです、ってね)
「そうねー。挨拶だけでもしておけば、メールの返事が早くなるかもね・・・」
もう一人の自分に説得されてしまった。覚悟を決めて、再び自動ドアへ向かう。

■アポなし突撃取材

自動ドアが開くと、受付兼ガードマンのおじさんがいた。用件を伝えると「"Un momento"(少々お待ちを)」と言われる。待つこと10分。スペインの「少々」は長いな-などと考えつつ、そもそも意思が伝わっているのか不安であったが、とにかく待つことにした。

ようやく現れたのは二人のスペイン人男性だった。黒いサングラスをかけ、黒い盲導犬をつれたスペイン人男性がホセさん、もう一人は健常者の職員だった。
「お待たせしてすいませんでした。あなたのメールを確認していました。メールを書くよりも、直接お話した方が早いと思い、会議室を用意しました。私は会議があるので、ホセがあなたの質問にお答えします」

二人は広報部門の担当者だった。私は恐縮しながらも、心の中で「ラッキー!」と叫んだ。彼ら+盲導犬に会議室へと案内される。部屋に入るとホセさんの相棒が立ち去り、私とホセさん、そして盲導犬が残った。これまで視覚障害を持つ方とじっくり接したことがなかったので、少しドキドキした。

まずはホセさんと握手。すると彼の手が私の手首から肘へ、さらにその上の方にと移動してくる。すぐに確認のためだとわかったが「このままどんどん上まできてオッパイを触られたらどうしよう~」などど、一瞬いらぬ心配をしてしまった自分が恥ずかしい。大きいテーブルの隅の方に二人で座り、私はインタビューを始めた。

ホセさんは生まれた時から目が見えず、6歳にはONCEの会員になっていた。高校まではONCEの経営する学校に通い、大学は健常者の学生も通う学校で学ぶ。宿題を助けてくれたり、教科書の内容をテープレコーダーに録音してくれたり、奨学金をもらうなど、ONCEはいつも彼を助けてくれる存在だったという。

マドリードには、横断歩道を渡る際の歩行誘導の音や点字ブロック、メトロに転落防止柵が無いことに驚いていた私はそのことについて聞いてみた。(転落防止柵は日本でもまだまだだが) 彼は一語一句ゆっくりと明確な発音で、私の質問に答えてくれた。

つい最近もメトロで転落事故があったという。対策は必要だがONCEだけの努力ではどうにもならないとも付け加えた。スペインではエリアによってメトロの構造や利用システムが違うそうだ。障害を抱える全ての人が満足するシステム作りは難しいが、大事なことは今ある環境にまず適応して、何かあれば助けを求められる環境を作ることだと丁寧に話してくれた。

ただ、最近の、特に若者は、携帯電話やメールに忙しかったりヘッドホンの音楽に夢中だったりで、なかなか気づいてもらえないのが残念だよとも。

ホセさんは、私のつたないスペイン語に耳を傾け、インタビューに1時間強も付き合ってくれた。その間、ホセさんの盲導犬は彼の横に座り大きい目で、じーと私を見上げていた。

4_ホセ.jpg
ホセさんと愛犬

ホセさんの生い立ちからONCEの現状までを十分に聞けた満足のいくインタビューだった。それをもとに、私は10日間かけて丁寧にレポートを仕上げた。ホアンに褒められたいと始めた取材活動だったが、その頃にはただONCEという組織に興味が湧き、夢中になった。

レポートの提出日は大学最終日だった。残念ながらホアンから直接評価を聞くチャンスは無かったが、後日、ホアンと仲の良い先生がこう教えてくれた。

「"Me ha dicho que te felicita por tu trabajo"(ホアンがあなたのレポートを喜んでいたわよ)」

えー、直接言ってくれないと嬉しくないー。彼とのつれなさに寂しい思いをするのだった。

第5回:「スペイン式 ピソ狂騒曲」 ~その4~
2013年07月25日

【written by 浅野藤子(あさの・ふじこ)】山形県山形市出身。高校3年時にカナダへ、大学時にアメリカへ留学。帰国後は、山形国際ドキュメンタリー映画祭や東京国際映画祭で約13年にわたり事務局スタッフとして活動する。ドキュメンタリー映画や日本映画の作品選考・上映に多く携わる。大学留学時代に出会ったスペイン語を続けたいという思いとスペイン映画をより深く知りたいという思いから、2011年1月から7月までスペイン・マドリード市に滞在した。現在は、古巣である国際交流団体に所属し、被災地の子供たちや高校生・大学生の留学をサポートしている。
【最近の私】久しぶりにペドロ・アルモドバル監督の『神経衰弱のぎりぎりの女たち』を観る。初めて観たのは高3の時。衝撃的なストーリーや色使いに、それ以来すっかりアルモドバル・ワールドにはまり続けている。スペインでは最新作『Los amantes pasajero』が好評だったそうだ。早く観たい!
----------------------------------------------------------------------------------------
「浅野さん、スペイン留学大変だったんですねー」

このコラムを読んだ人は口々にそんな労いの言葉をかけてくれる。
確かにその通りで、あの'事件'から一年近く経った今(2013年7月)でも、昔話として笑い飛ばせるほど傷が癒えたわけではない。特に寒空の中スーツケース2つを引きずる不惑のハポネサ(私)の姿を思い浮かべると、哀れな気持ちになり、切なくもなる。

同じ屋根の下で他人と暮らすのはうんざりとも思った。それなのに今、私は30代後半の女性3人とルームシェアをし、東京生活を満喫している。そう簡単には懲りないのだ。

さて前回まで不運続きだったハポネサ。彼女が長年思い描いていた夢の留学生活は打ち砕かれてしまうのか?

■やっぱり日本人!?

'事件'の翌朝、ホテルから大学へ向かった。アナというスペイン語学研修の教授と道中で一緒になる。

彼女はスペイン南部アンダルシア地方出身で、黒髪、黒目で彫りの深い顔立ちをしている。アンダルシア人特有の早口で、しかも「S(エス)」の発音をしない。外国人の私には聞き取りにくいスペイン語を話す。それもあってか、自分から話題を切り出すのは気が引けたが、事件について客観的な意見を聞いてみたくなった。そこで、とりあえず英語で昨日の出来事を話してみた。

「それは普通ではないわね。警察ごとよ。何で警察を呼ばなかったの? あなた、日本大使館へ行って事情を話して、何らかの手助けをしてもらうべきよ」

そうか-、なるほど。日本大使館とは、考えていなかった。
ちょうど在留届けを提出しようと思っていたし、行ってみるか。藁にでもすがりたい思いでいた私は、授業を終えるとすぐに大使館へ。

マドリード市の中心から少し離れた高級住宅街に日本大使館はある。
受付窓口へ行くと、「在留届けですか?」と機械的な声が聞こえてきた。久しぶりの日本語だ。簡単に用件を話すと、担当者らしき小柄な女性が現れた。年は30代後半で私と近いように見える。アポなしの来客、それも「ピソの女家主と一悶着あった件を聞いてほしい」という相談者の登場に、明らかに戸惑っている様子。それでも別室に案内してくれた。

「それはお気の毒でしたね。スペインは今経済危機の状態なので、自宅に下宿させて、その収入で生計を立てている人が少なくないんですよ。その女性は、あなたがいなくなると知って危機感を持ち、軟禁状態にまで追い込んだのでしょうね。」
その通りです。

「でもなぜ、警察を呼ばなかったのですか?」
ここでも警察か。

連絡する手段が無かったこと、連絡できたとしても私の頼りないスペイン語でどこまで意思を伝えられたのかが疑問だったからだ。それよりもっと恐れていたのは、警察を呼んで騒ぎが大きくなり、彼女から更なる不当な金銭の要求をされることだった。これ以上、あの狂女に一銭たりとも払いたくなかった。

大使館職員は親身に話を聞き、頷いてくれた。そのためか、これまでの緊張感が解き放たれ、思わず涙が出てしまった。ふだんはセンチメンタルな感情を表面に出さないように常に努めている私も、この時ばかりは違った。

職員は突然の私の涙に動揺しながらも、言葉を続けた。

「あなたの世話人が大使館職員であれば、弁護士もご存じなのではないでしょうか?その人に相談するのも一つですよ」
確かに。ただ黙って怯えるよりも、先手を打った策を練るのも一つかもいれない。

直接的な手助けは無かったけれども、この大使館訪問は心の救いになった。

■捨てる神あれば・・・

帰り道、ようやく携帯電話を購入した。たったの20ユーロで契約ができるとは。
(もっと早く購入しておけば、こんな事態にはならなかったのよ、藤子さん!)と自分を叱咤する。
それでも大使館員と話したこと、携帯電話を手に入れたことで、心は少し晴れやかになった。ホテルへ戻り、国際交流基金のSさんに昨夜の出来事をメールで報告することにした。
即返事がきた。
「浅野さーん、大丈夫でしたか??」

メールを返すと
「明日の夜、飲みに行きませんか? 本当は2人だけで飲みたいけど、私の彼も来たいっていうのでいいですか?」

Sさーん!!嬉しいよー。
思いがけない気遣いに、またジーンときてしまった。

翌日、SさんとSさんのスペイン人の彼氏Jさんの3人で、夜の8時に待ち合わせて、アンダルシア地方の料理店に出かけた。

スペインでの食事の取り方は日本とはかなり違う。朝はトーストやビスケット、チュロス(細長いドーナツのような揚げ菓子)で軽めに済ませ、午前10時頃におやつ、午後2時頃になるとようやく昼食タイムだ。夜7時頃にこれまた軽めのおやつを食べる人もいる。

写真①cholate y churros.jpg
朝食の定番、チュロスとチョコラ

そんなわけで夕食は夜9時頃にとるのが普通だ。レストランでのディナーともなれば夜10時スタートも当たり前。スペイン人は寝ている時以外は始終食べているように見える。

日本ではいつも夜8時前に食事を済ませていた私にとって、遅い夕食はただただ苦痛だった。当然のように翌日は胃もたれ。それでもいつの間にか慣れていくのだから不思議である。

お目当てのアンダルシア料理店はすでに8時だというのにまだ開店前だった。なんとオープンは9時。時間をつぶそうと3人でブラついていると、一度は訪れたいと思っていたバルに遭遇した。

店名は「El Sur(南)」。名匠ビクトル・エリセ監督作品『エル・スール』と同じ名だ。古今東西の映画を上映する国営の映画館「シネ・ドレ」の近くにあることからも、映画好きが集まる店であることがわかる。ここで一杯飲んで待つことにした。店は開店したばかりで、お客は私たち以外誰もいない。女店主は愛想良く、オリーブやトルティーヤ(スペイン風オムレツ)が美味しい。辺りを見渡すと、店の壁には『エル・スール』はもちろん、アルモドバルの『トーク・トゥー・ハー』、『フラメンコ』など、スペイン名作映画のポスターがところ狭しと貼られている。

写真②taberna-el-sur.jpg
映画好きが集まるバル『El Sur』

9時を回ったので料理店に戻った。油が多めのフライ料理に桜エビの天ぷら、揚げ茄子のような料理などを堪能。来てみたかったお店で気を許せる人たちと過ごしていると、自然に笑顔になる。

写真③fritos.jpg
アンダルシア料理の代表的なメニューの1つ、揚げもの料理

狂女に浴びせかけられた毒気が完全に抜け切れない私の心に、SさんとJさんの言葉は、スッと入り込んで癒してくれる。胃袋だけでなく、からっぽだった心が満たされていった。

つい2日前、スーツケースを引きずりながら夜の街をさまよい歩いていた私。レストランの窓越しに見えた笑顔の人々が恨めしく思えた。でも今はあの笑顔のなかに自分がいる。

不運続きで出鼻をくじかれ、帰国を考えたこともあった。それでも、思い止まることができたのは、出会った人たちの、こんなさりげない励ましがあったからだ。苦い経験をしたからこそ、得られた出会いと喜び。留学生活は始まったばかりだ。