不惑のjaponesa(ハポネサ) ~40歳、崖っぷちスペイン留学~

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第8回:震災の真実を伝える映画をスペインで ~その2~
2013年10月25日

【written by 浅野藤子(あさの・ふじこ)】山形県山形市出身。高校3年時にカナダへ、大学時にアメリカへ留学。帰国後は、山形国際ドキュメンタリー映画祭や東京国際映画祭で約13年にわたり事務局スタッフとして活動する。ドキュメンタリー映画や日本映画の作品選考・上映に多く携わる。大学留学時代に出会ったスペイン語を続けたいという思いとスペイン映画をより深く知りたいという思いから、2011年1月から7月までスペイン・マドリード市に滞在した。現在は、古巣である国際交流団体に所属し、被災地の子供たちや高校生・大学生の留学をサポートしている。
【最近の私】お手伝いしたラテンビート映画祭の東京上映会が終了。セバスティアン・シルバ監督というチリの異才が登場。南米映画のますますの百花繚乱な傾向が強まる気がした。これから横浜、大阪で巡回上映が始まりまーす。
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ビクトル・エリセ監督の招へいを思いついた私は、それが起爆剤となり、候補作品の収集に向けてさらにエンジンがかかった。そのため、2012年1月5日の渡西出発前日、滞在していた成田空港のホテルでもこの収集活動は続いた。おかげで出発する時は、約20の候補作品を手にしていた。

マドリードの新生活を迎えながらも選考作品を観続けた。国際交流基金マドリード事務所のU所長の合意を得て、ラインアップが決まったのは2月初旬。その中にはビクトル・エリセ監督や河瀬直美監督が東日本大震災へ思いを綴った作品『3.11 A Sense of Home Films』や、松林要樹監督が福島県南相馬市の人々を描いた『相馬看花』も入っていた。そして、ゲストとしてこのお二人にお越し頂く方向で、U所長をはじめとする運営サイド内部の調整をすることになった。

上映予定の1ヶ月前、ようやく上映会場や作品交渉、ゲスト交渉が始まった。

この時期にこうした仕事が始まるというのは、準備としてはかなり出遅れている。でも、もう乗った船だからやり切るしかない。

肝心のエリセ監督の招へいについては、河瀬監督が運営に携わっている「なら国際映画祭」事務局の力をお借りした。もともと「山形国際ドキュメンタリー映画祭」の事務局員時代に繋がりはあったため、快く監督をご紹介いただいた。
さて、連絡をする糸口は得た。では、これからどのような内容で依頼文を書き上げればエリセ監督は来てくれるのだろうか?

■口説き上手の方法

マドリードへ来て以来、映画を通じてさまざまな関係者と知り合いになっていた。エリセ監督を招へいするにためには何を書けば口説けるのか、彼らに聞いてみることにした。

「エリセ監督の招待は難しいと思うよ。彼は特別だから」

本人にしたらアドバイスのつもりなのかもしれないが、人のやる気を失うことばかり口にする人たちばかりだ。彼は、マドリード州や国レベルの行事から公式に招待があっても断ることがあるらしい。

エリセ監督は『3.11 A Sense of Home Films』の上映の立ち会い、河瀬監督と親交があったため、2011年の「なら国際映画祭」へは参加していた。この話を聞いた時、体裁を整えることよりも、心と心とを繋ぐことに重きを置いて、物事を判断する人なのではないかという想像が膨らんだ。

私のなかでこの震災映画特集は、これまでたくさん経験してきた映画祭や上映イベントとは異なる特別な企画だ。その大事な部分を共有できない人々の声は無視しようと思った。エリセ監督にこのイベントの主旨が伝わることを願った。

彼を口説くには、自分の思いの丈を伝えるしか方法はない。謙虚におしつけがましくなく。

一人では自信が無かったため、交流基金スタッフと作戦会議をもって内容を練った。その詳しい内容は明かせないが、スペイン語で熱烈な手紙を書くことになった。公式な手紙でもあるので、添付する形式的な文書は交流基金の方にお任せした。

実際に招へいを訴えるメッセージは私が書くことになった。'エリセ監督招へい作戦の突破口'は私が切り開くことになったのだ。

スペイン語にはまだ自信がなかったので英語で書くことにした。これは私の思いの丈のすべてを盛り込んだラブレターなのだ! なんとか書き上がった。そして彼に送ると......

■Dios Mios! 何とまぁ!

国が違えばビジネス習慣も変わる。国に関係なく仕事に対するリズムが違う人もたくさんいる。ましてやエリセ監督であれば、返事が来るのは1週間や10日間はかかるだろうと思っていた。

そしたら何とまぁ、3日後に彼から直接メールが来たではないか!!!
それも上映会への参加を前向きに考えているという内容だった。

「撮影で今はポルトガルにいるけど、2月末には終わる予定だよ。3月上旬にはマドリードにいるようにするよ」

もうこれには大興奮。
これまで10数年、映画祭スタッフとしてゲスト交渉をしてきたけど、これほど感激したのは初めてだったと思う。
メールはスペイン語。読み違いがあってはいけない。自分の読解力が信じられない私は同居人を部屋に呼び込み、そのメールを読んでもらった。彼女は何が何だかわからない様子だったが、とりあえず読んでくれた。確かに、上映会に参加します、と書かれているよと教えてくれた。やった!

人は興奮するとその喜びを誰かとシェアをしたくなるらしい。
私の場合、国際交流基金のU氏やスタッフのSさんにすぐに電話した。でも、2人とも不在・・・
そこで今度は日本の姉に国際電話。でも日本は真夜中で、姉は就寝中。電話は通じず・・・
興奮を抑えつつ関係者に喜びのメールを送ったが、メールだけでは一向に落ち着かず・・・
喉が渇き、ビールを飲む。だが酔えず・・・
ならば別のことをと思ったが昼寝も出来ず、勉強も手に着かず・・・

何てことよ!

夕方、帰宅した同居人たちがお疲れであろうことは無視、冷めやらぬ興奮そのままに、事の顛末を語り尽くした。私の中で燃え上がった喜びの炎は、そうしてようやく沈静化したのであった。

ここで私の役目は一端終了。
あとは交流基金のスペイン語が堪能なSさんにバトンタッチ。今後の交渉も上手くいくように毎晩祈りつつ、私は再び1か月後に迫った上映会の準備に邁進した。

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上映会場の正面玄関:マドリード州文化局ホール

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もともとは銀行だった建物。金庫の前に国際交流基金のフラッグ