第9回:震災の真実を伝える映画をスペインで ~その3~
2013年11月22日
【written by 浅野藤子(あさの・ふじこ)】山形県山形市出身。高校3年時にカナダへ、大学時にアメリカへ留学。帰国後は、山形国際ドキュメンタリー映画祭や東京国際映画祭で約13年にわたり事務局スタッフとして活動する。ドキュメンタリー映画や日本映画の作品選考・上映に多く携わる。大学留学時代に出会ったスペイン語を続けたいという思いとスペイン映画をより深く知りたいという思いから、2011年1月から7月までスペイン・マドリード市に滞在した。現在は、古巣である国際交流団体に所属し、被災地の子供たちや高校生・大学生の留学をサポートしている。【最近の私】代々木公園を歩くといつの間にか紅葉で溢れた景色に変ったことに気づく。今週末に開催されるフィエスタ・デ・エスパーニャが楽しみ!
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開催まで1か月足らず。ビクトル・エリセ監督の招へいに関しては国際交流基金へゲタをあずけることになった。とはいえ、上映作品の作品データや素材の手配に加えもう一人のゲストである松林要樹監督の日程調整や飛行機の手配など、私の仕事はまだまだ山積みだ。
はるばる日本から来西する松林さんには、ぜひエリセ監督と対談してもらおう!なんて考えたりしていた。
■想定内ではあったが...
そんなある日、国際交流基金のSさんからこう言われた。
「エリセ監督からもらったメールの表現が "Intentaré" になったんだよねー。もしかしたら難しいのかな」
英語でいう "try to" に近い表現なのだろうか。エリセ監督の来場の可能性が低くなったというニュアンスが感じとれる。新作の撮影の真っ只中にいるエリセ監督。映画づくりというのは、一度撮影に入ると予定の順延や変更が多発する。最悪、キャンセルも想定する必要があるかもしれない。
そして上映前日、Sさんから電話が入った。
「藤子さーん、エリセ監督、キャンセルですー」
なんと、そうきたか・・・・・・。
生ものゲストにはドタキャンはつきものだ。もちろん覚悟はしていたが、やはりショック...。U所長宛に送られてきた彼のメールに観客宛のメッセージが添えられていたのが、唯一の救いだった。こんな内容だ。
オムニバス映画、 『3.11 A Sense of Home Films』 への参加に至るまでに河瀬監督と意見を交わし合ったこと、その中の1つで彼が手掛けた『Ana, tres minutos (アナ、3分間)』を撮影するために、休暇でニューヨークにいた女優アナ・トレントをマドリードへ帰国させたこと、偶然にも広島に原爆が投下された8月6日に撮影を行ったこと、「なら国際映画祭」へ参加するために日本を20年ぶりに訪れたこと、多くの人が家や愛する人を失った震災の日から1年、困難を乗り越えて復興を遂げようとする日本の姿に感銘を受けたこと、自分は遠くにいるけれども復興を願う気持ちはみんなと同じであること・・・・・・。
そしてメールの最後にはこう記されていた。
「P.S. Un saludo afectuoso para Fujiko Asano.(追伸:浅野藤子さんによろしくお伝えください)」
これは、もう鼻血がでるくらい興奮する一句だ!
それもP.S.(追伸) だから、なんか特別扱いされているようで(監督はそんな気持ちは無かったかもしれないが)天にも舞い上がるような気持ちになった。
舞い上がったり落ち込んだりと、ここ数週間の私の気持ちの乱高下はまるでジェットコースターのようだ。
エリセ監督を招待してスペイン人を見返してやろうと考えていた私は、肩を落として"作戦失敗"を伝える。そんな私を「エリセ監督と直接メールでやりとりをしたことだけでも快挙だよ」と、彼らは慰めてくれた。やりとりをしただけでは納得のいかない頑固なハポネサ(私)だったが、彼らの言葉で励まされたのは確かだった。
■気をとりなおして...
国際交流基金マドリード事務所のU所長の計らいで、上映会のオープニングセレモニーで挨拶をすることになった。それもスペイン語で。
観客のほとんどがスペイン語使いなのだから当たり前のことなのだが、渡西して3か月目、英検で言えば2級レベルの私には、何ともチャレンジングな仕事であった。
「ス、スペイン語でですか?」
と、不安げな私。それを見てスタッフのS女史が「日本語で書いていただければ、うちのスペイン人スタッフに訳してもらいますよ」と声をかけてくれた。
あー、良かった。スペイン語での原稿作りとなるとまだ不安だけど、読むくらいは練習すれば大丈夫だろうと安堵。
スペイン語に訳された原稿が上がり、自宅で読みの練習をしてみたのだが、これが意外と難しい。特に "r" と"rr" の音をなめらかに発することができない。2日間練習してもまだ不安が残る。「上手く発音できて壇上で満足している自分の姿を想像する」というイメージトレーニング(泣)も試してみた。
2011年3月7日、当日。
どんなオープニングかと思えば、私を含めて4人の挨拶があるらしい。上映会場であるマドリード州文化局の局長、国際交流基金所長のU氏、エリセ監督のメッセージを代読する日本映画研究家/大学教授のロレンソ、そして私だ。
私がトリか-、なんか申し訳ない-、と思いつつ、練習の成果を発揮しようと気合を入れた。
私の出番がきた。
「2011年3月11日午後。私は銀座にある東京国際映画祭の事務所にいた。
大きな縦揺れを感じ、すぐに外へ逃げると、そこで目撃したのは銀座の大通りに面するデパートや映画館、レストランがマッチ箱のように左右に動き、それらの建物がそのまま道路に崩れ落ちるかのようなシーンだった。ハリウッドSF映画の1シーンのような状況を目の当たりにし、恐怖で足がすくみ、心のなかでは「もしかしたらこの世の終わりを目撃しているのかもしれない」と思っていた。
その後、地下鉄などの公共機関のほとんどが機能を果たさなくなり、私は帰宅難民となった。冷たい風が吹く中、2時間かけて自宅へ歩いて向かう道中、人々は何も話さずうつむいたまま歩いていた。なんとも怖い、シュールな光景が続いていた――。
今お話したのは私自身の震災体験。その日、東日本にいた人みんなが被災者で、それぞれの3.11を体験している。ここで紹介するのは、そうした想いを綴った映画たちである。」
オープニングセレモニーでスピーチするワタシ
結局、かみかみの連続で終えた。
観客の中には、スペイン語の先生であり、映画好きなピラールの姿が。彼女は仕事の忙しい合間をぬって写真家の旦那さんと一緒に来てくれたのだ。私のつたないスピーチに、目をつむって耳を傾けてくれた。
「あなたのスピーチは、詩のようだったわ。状況が頭の中にメロディーのように現れてきたの」
かみかみでも、発音ができてなくても伝わったのだと、安堵した。
エリセ監督が出席できなかったことは残念だったが、彼の作品を上映し、特別なメッセージをもらえたのだから、これで良しとしよう。
マドリードでの上映を3月17日に終え、その1週間後はバルセロナ、5月には2008年国際博覧会が開催されたサラゴサでも上映が行われた。スペイン国内の3箇所で上映することができたことは、私の予想を超えた広がりだった。
こうして、2011年11月から準備を進めていた震災特集の上映会を無事に終えた私は、本来の留学目的であったスペイン映画の研究に、心機一転、シフトチェンジしていく。
トークイベントには松林要樹監督が登壇