気ままに映画評

『ブーリン家の姉妹』 by 西田洋平(2008年4月期実践コース修了生)

『ブーリン家の姉妹』に見るストイックさの魅力


"ストイックさ"。それが『ブーリン家の姉妹』最大な魅力だ。
本作はエリザベス1世の両親であるヘンリー8世とアン・ブーリンと、アンの妹メアリーを中心とした歴史絵巻。主演の姉妹役には今をときめくナタリー・ポートマンとスカーレット・ヨハンセンを迎えている。となると、人気スターをかき集めた豪華絢爛、無駄な贅肉たっぷりの"歴史大作"ではないかと思わず懐疑的になってしまう。
ところが、どうやら本作の製作陣は徹底した減量を決行したようだ。

例えば画面に出てくる場所はブーリン家周辺と王宮周辺がほとんどで、数年にわたる物語でありながら、映画の中の季節は常に秋か冬だ。
さらに主要登場人物は、ほぼ王家とブーリン家の係累のみで占められている。
この題材なら、王の離婚問題に激怒するローマ法王や、王妃の実家であるスペイン王などを絡めたエピソードを描くことによって大作感を出し、観客に「まあ損はしなかったな」とういう気にさせるのは簡単だっただろう。
だが、製作陣はそうしなかった。この映画にそういった空虚な大作感が必要かどうか、徹底的に考え抜いたのだろう。
同様のことが語り口についても指摘でき、通常だったらこれ見よがしの大仰な演出が施されがちな瞬間がストイックな表現によって描写されている。例えばヘンリー8世の落馬は、窓越しに担架に載せられて帰ってくることで示され、ある男の処刑は処刑人の仕草によって示唆されるのみだ。
このストイックさは物語が終盤に差し掛かる頃に弛緩を見せる。ある人物の裁判が始まった後、この人物に死刑を言い渡す裁判官達は、執拗なまでに緊迫感が充満する画面に収められていた。
こうしてストイックさが物語の終末への流れに圧され、ほころびを見せ始める。そして処刑シーンでは、処刑後の光景がはっきりと俯瞰で撮影された画面の中で、ストイックさは決定的に行き場を失うことになる。
ここに来てストイックさと入れ替わりに得られるものは開放感だ。
この感覚は王宮を立ち去る2人を捉えた映像が流れる中高まり続け、次代を担う人物の大写しに切り替わった瞬間に最高潮に達する。
そしてその時、映画も終わるのだ。

『ブーリン家の姉妹』 by 新津香(2008年10月期基礎コースII 火曜日クラス)

運命と歴史が交差する時間


『ブーリン家の姉妹』は、16世紀イギリスの国家を背負っていた者たちの愛と策略をめぐる作品。そうくれば、どうしても気品漂うイギリス英語を期待してしまう。
アメリカ映画であり、キャストがハリウッドスターであることを考慮すれば、言葉にもイギリスらしさを醸し出そうとする努力は充分に感じられた。しかし、なかんずく作品に品格を加えていた存在はといえば、何といってもブーリン姉妹の母を演じるイギリス人女優のクリスティン・スコット・トーマスだ。

言われるがままに、ひたすら一家の名声を上げることに腐心して行動する不甲斐ない夫。その妻として娘たちの幸せを訴える毅然とした態度にイギリス英語の高貴さが響き、映画を引き締めていた。
一方、キャサリン王妃のスペイン語訛りで語気の強い英語は、英国人ではないことと、どんな状況でも王妃としての強さを貫く姿にぴたりとはまっていた。
このような原音のニュアンスを、英語にさほど興味をもたない人にも少しでも伝えられたらという思いが、今こうして学校に通う理由に繋がるのだろうとつくづく思う。
この作品では他にも女性の秘める強さが光っていた。
一族繁栄のための"道具"として扱われながら、自らの望みとは相反する運命に激しく翻弄される女性たち。その中でそれぞれが自分の道を切り開いていく強さが描かれている。
野望をつかむ才能に長けたアンが、国王を虜にしながらも人生の天と地の間を激しく揺れ動く様は凄まじいものがある。
姉との鮮やかな対照を生きる妹のメアリーは、王が待望する男児を生むも、姉に裏切られ、歴史に名を残すことはない。しかし最後は自分が望んだ通り、田舎で平凡な家庭を持つという幸せを掴み取るのだ。
そして、他でもない姉のアンが王との間に唯一もうけた女児は、後に女王として英国に長年君臨することになるエリザベスだ。

冒頭で子供たちが戯れていたシーンが最後に繰り返される。安堵感を与えてくれると同時に、アンの気質を引き継ぐエリザベスを中心にさらなるドラマが繰り返される予感を感じさせる。正に「事実は小説より奇なり」である。
映画として、また史実としても実に興味深い作品だった。

『ブーリン家の姉妹』 by 松崎裕美子(2004年10月期実践コース修了)

時代を超える"女のしあわせ"探し


舞台は16世紀のイギリス。それは、嫁ぐことと世継ぎを生むことだけにしか"女のしあわせ"はないとされていた時代である。
男勝りに社会的成功を求めた姉アンと、平凡で温かい家庭を築くことを求めた妹メアリー。一見するとこの姉妹の生き様はひどく対照的なようだが、実はどちらも、結婚&出産を通して、ただ純粋に"しあわせ"になることを夢見ていた女であったという点は同じなのだ。
むしろ、己が信じる道をひたすらに歩み続けた2人のたくましい姿を振り返れば、さすが姉妹!とうなずかされる。
劇中のメアリーのセリフにもあるように、2人はまさに"1人の人間(女)が2つに分かれたよう"なものなのだ。
そして、時は流れて21世紀の日本。社会的成功も、あたたかな家庭もどちらも欲しい! という欲張りなわたし達は、この姉妹のどちらに対しても感情移入しないわけにはいかず、2人の姿を追いかけて物語に引き込まれてしまう。
はてさて、このラストに"女のしあわせ"をどう考える?

『ブーリン家の姉妹』 by 長谷川梓(2008年10月期基礎コースII 金曜夜クラス)

イギリス史の作者達~対照的なブーリン姉妹~


イングランドの歴史家から"歴史の作者"と呼ばれているイングランド王・ヘンリー8世の第2王妃アン・ブーリンという女性。
男児に恵まれなかった国王は彼女に魅了され、再婚する決心を固めるも、当時離婚を認めなかったカトリック教徒と断絶する事態に。この再婚は国を揺るがす大スキャンダルとなった。
一気に王妃の座に駆け上ったアンだったが、女児を出産し国王を落胆させる。そしてすでに次の女性に心変わりをしていたためか、国王は様々な罪を着せて彼女を処刑してしまうのだ。しかし皮肉にも、後のイギリスに45年間の繁栄をもたらしたのは、伝説的な人気を誇る王女・エリザベス1世。すなわちアンの1人娘だった。
36歳の短い生涯だが"イングランド国教会の樹立の原因"となり"黄金期を築いた女王を出産した実母"として、アン・ブーリンが歴史に与えた衝撃は計り知れない。

映画『ブーリン家の姉妹』は、アンとメアリーのブーリン姉妹とヘンリー8世が織り成す愛と陰謀の歴史小説が原作だ。
これまでアン・ブーリンの物語は数多くあるが、今作は歴史の表舞台に名が残っていない姉のメアリーも描かれている。華やかで意志の強いアンとは対照的に従順な田舎娘のメアリーは日陰にいる目立たない人物。陰の存在として強調するために、作中では意図的に設定を変え、メアリーを妹として描いたという。
陰謀渦巻く宮廷内で、アンとメアリーは愛憎や嫉妬など様々な生々しい感情の渦に巻き込まれる。そしてそんな中でも、時折見せる2人の強い姉妹の絆が物語を劇的に盛り上げていく。

16世紀のテューダー朝はイギリスの確立したモダンデザインが発展した時代だ。当時をしのばせる歴史的建築物の数々は一見の価値がある。
制作スタッフは、それらの建築物を現代に蘇らせるため研究に研究を重ね、近代が始まりつつあった、生き生きとした時代をスクリーンに復活させたのだ。
また、衣装を手がけたのは『恋におちたシェークスピア』などでアカデミー賞にノミネートされたサンディ・パウエル。歴史に即しながらも、創造性に富んだおしゃれな衣装をデザインし、誰もが憧れるイギリス貴族の華やかな生活を画面いっぱいに表現している。

『プラネット・テラー in グラインドハウス』by 鈴木純一(2006年4月期実践コース修了生)

炎の映画監督、ロバート・ロドリゲス


ロバート・ロドリゲスは器用な監督だ。犯罪映画がホラー的な展開を見せる「フロム・ダスク・ティル・ドーン」、そして「スパイキッズ」みたいなファミリー向け映画まで、様々なジャンルの作品を撮っている。それはロドリゲスが実にたくさんの映画を観てきて、好きな映画も多種多様な時代やジャンルに渡っていたためだろう。だから映画監督になってからも、常に異なったスタイルの作品を撮り続けているのではないかと思う。そんな彼の最新作「プラネット・テラー」は、ホラー映画への情熱のありったけを注ぎ込んだ作品である。
物語の舞台はテキサス。化学兵器で人間がゾンビに変身し、生き残った人々を襲い始める。次第に追い詰められた主人公たちが取った行動とは...。
「28日後...」「ドーン・オブ・ザ・デッド」以降、ホラー映画には動きの素早いゾンビが登場するようになった。しかし本作では、ゆっくり歩く昔ながらのゾンビが登場する。おそらくロドリゲスは、ジョージ・A・ロメロ監督作「ゾンビ」に出てくるような古典的なゾンビ映画を再現しようとしたのだろう。しかもゾンビが銃で撃たれる場面は必要以上にやたらと血しぶきの量が多い。明らかにこれは、ホラーマニアへの"大出血サービス"だ。
「プラネット・テラー」にはクェンテイン・タランティーノ演じる変態兵士や、ある"モノ"を収集する科学者など、常軌を逸した特異なキャラが登場する。しかし何と言っても極めつけは"片脚マシンガン・レディー"だろう。「死霊のはらわた2」のように、失った腕に武器を装着するキャラは過去の映画にもいたが、脚に銃を装着させたケースはほとんど前例がない。美女が脚に装着したマシンガンを撃ちまくる場面は壮快で、文句なくカッコいいのである。オープニングのノリのいい音楽から始まり、美女、ゾンビ、血しぶき、爆発、そしてマシンガン!荒唐無稽でくだらないが、ホラー映画ファンには大満足なエンターテイメントである。ロドリゲスには、これからも映画への情熱の炎を燃やし続けてほしい。こんな"マジメにふざけてる映画"を撮れるのはロドリゲスしかいないのだから。

『プラネット・テラー in グラインドハウス』by 湯原史子(2006年4月期実践コース修了生

"本気の遊び心″満載、ロドリゲスワールド!


「デス・プルーフ」に続き、「グラインドハウス」に欠くべからざるもう1本の"片割れ"映画が公開されました。その名も「プラネット・テラー」。
ロバート・ロドリゲス監督が、B級映画に対する生真面目なまでの思いを惜しみなく注ぎ込んだ作品となっています。存在しない映画の予告である「ニセ予告編 ( fake trailer)」で始まったり、映画の途中で画面が突然暗転し「この場面のフィルムを一巻分紛失」と人を食ったテロップを出したり、当時を知らない人でも70年代アメリカ映画のいかがわしい雰囲気を味わえる作品になっています。
劇場で見る予告編は本編鑑賞前の心のウォームアップに必要不可欠なものですが、ニセ予告編で70年代アメリカの安劇場的雰囲気を作り出すという粋な計らいには嬉しくなりました。ロドリゲス映画の常連ダニー・トレホを主演に据えた「マチェーテ」というアクション映画の予告編は、思わず公開日を調べてしまいそうなくらい"いかにもありそう"なリアルさで、出色の出来栄え。
主人公カップルも、"まっとうな"B級映画の香りが漂うツボを突いたキャスティングでした。先日ロドリゲス監督がヒロインを演じた女優と婚約したことを知った時も、監督がこの映画へ抱く気持ちの深さと愛情を改めて感じたものです。内容はといえば、デス・プルーフをはるかに上回る過激な映像が満載。ギターケース仕込みのマシンガンを世に出したロドリゲス監督の面目躍如とも言うべき、脚に装着されたマシンガンによる乱射シーン壮観のひと言です。予想通りのありがちな展開も、予想を超えた仰天シーンもすべて観客を楽しませようというサービス精神に溢れていて最後まで目が離せません。
「グラインドハウス」は夢の競作です。願わくは池袋の新文芸座や上野のスタームービーといったような老舗の名画座のシートに身を沈め二本立てで鑑賞できれば、タランティーノ、ロドリゲス両監督ファンにとって至福の時となるのではないでしょうか。

『プラネット・テラー in グラインドハウス』by 山田裕子(2007年4月期基礎Iコース修了)

最も過激で最もやさしい女性映画


ロバート・ロドリゲスが実は「女性にやさしい映画」を作る監督だったことに、この映画を観て初めて気がついた。血と内臓がこれでもかと画面を飛び交う中、ひとクセもふたクセもあるキャラクターが繰り広げる荒唐無稽なこのアクション劇を見て、世の映画評論家たちは、間違ってもこの映画を女性にはオススメしないだろう。しかし私はこの映画で不覚にも涙してしまった。あまりのバカバカしさにお腹がよじれるほど笑って出た"笑い涙"であると同時に、ロドリゲスに対する、女性としての"感謝の涙"でもあったのである。そういえばロドリゲス監督作品で、同じく人が死にまくるおバカアクション&スプラッター満載映画「フロム・ダスク・ティル・ドーン」でも、ジュリエット・ルイスがいい味出してたなぁ...。
「プラネット・テラー」のヒロインであるゴーゴーダンサーのチェリーは、恋人と別れたばかり。毎夜のショーで得意のダンスを披露しても、劇場の支配人にはちっとも気に入ってもらえない。ゾンビとの死闘が始まるその日まで、惨めでちっぽけな自分の存在を嘆く日々を送っていたのである。シチュエーションこそ違え、この種の焦燥感は女性なら誰もが一度は味わったことがあるのではないだろうか。やがてゾンビに片脚を食いちぎられながらも絶望することなく、義足代わりにマシンガンを装着して戦い続けるチェリー。そんなあり得ない状況の中で命をかけて奮闘するヒロインを、私たちはいつしか心の底から応援するようになる。ロドリゲスはそういう私たちの思いに、最高にハチャメチャな、そして最高に爽快なエンディングで応えてくれるのである。そんなわけで私は、恋に仕事に悩みつつ、愛されメイクと可愛い巻き髪でがんばっている女性たちにこの映画をオススメしたい(ただし、スプラッター系ホラーもケラケラ笑って見られるたくましい女性に限る!)。理想どおりにいかないことばかりの日ごろの鬱憤を、チェリーがマンガンでブッ放してくれるに違いない。

『デス・プルーフ in グラインドハウス』by 山田裕子(2007年4月期基礎Iコース修了)

刺激的な退屈を味わおう!


「グラインドハウス」とは、1960~80年代、アメリカの至るところに存在していたという場末の映画館のこと。そこではバイオレンスとお色気が売りの安っぽいB級映画が2本立てや3本立て上映されていました。当時はきっと、映画のサウンドトラックを子守唄がわりに、多くの観客が毎夜のように大イビキをかいていたのでしょう...。そんな"「グラインドハウス」ムービー"の魅力をたっぷり教えてくれるのが、クエンティン・タランティーノ監督の「デス・プルーフinグラインドハウス」。タランティーノがスクリーンの裏でニヤけているのが目に浮かぶ、痛快な"おバカ映画"です。
バーで夜遊び中の女の子たちが、「耐死仕様(デス・プルーフ)」のスポーツカーを駆る男(カート・ラッセル)に出会い、彼女らのうちの一人が男の車に乗り込んだ時、彼の恐ろしい素顔が明らかになる...。これが物語の「はじまり」ですが、コトが起きるのは開始から1時間後!それまでは、極めてどうでもいい内容のガールズトークが延々続きます。しかし、全体のうちかなりの割合を占めている、一見ムダに見えるシーンこそが、この映画の醍醐味。そこで噛み殺したアクビの数だけ、その後に続く悲惨なショック映像、CGなしの迫力のカースタント、そして空いた口の塞がらない衝撃のラストまでを、お腹いっぱい楽しめるのです。"The End"のテロップが出るその瞬間をお楽しみに!在りし日の「グラインドハウス」にいる気分で床じゅうにポップコーンを撒き散らし、前の席をドカドカ蹴って大はしゃぎしても、誰も怒らないはずですよ(保証はしませんが)。

『デス・プルーフ in グラインドハウス』by 湯原史子(2006年4月期実践コース修了)

カート・ラッセル VS スタントガール


なんとも嬉しい"「B級」温故知新映画"が公開されました。
デス・プルーフ(耐死仕様)を施した愛車で無差別殺人を繰り返す男と、その標的となってしまった女性たちの攻防が描かれた作品です。前半では主人公の1人であるスタントマン・マイクの極悪非道ぶりや、愛車のデス・プルーフたる由縁が執拗にかつ無情に描かれます。後半に入ってスタントマン・マイクは新たな標的を見つけて目的を果たそうと試みますが、今度は相手が一筋縄ではいかない女性たちだった...という展開。ストーリーも見事なまでに「B級」的な荒唐無稽さを踏襲していて、観る前からワクワクしてしまいます。
「B級」とは言っても、娯楽映画としての質は低いどころか第一級品。何といっても主演は『ポセイドン』のカート・ラッセルです。過去の栄光にすがって生きるスタントマンを、衝撃の結末にも同情の余地を残さないほど気持ち悪く演じきっています。後半の女性陣には、「キル・ビル」でユマ・サーマンのスタントを担当したゾーイ・ベル、「レント」のトレイシー・トムズが出演。アクションシーンでは惚れ惚れするようなカッコ良さを見せてくれています。最大の見所といえば、カート・ラッセルと彼女たちのカー・チェイスに尽きるのではないでしょうか。
監督カラー満載で大満足の一作となりました。ただし若干ながら残酷描写もありますのでホラー系が苦手な方には不向きかもしれません。タランティーノファンならずとも「B級」調がお好きな方ならビール片手にぜひ楽しんでもらいたい作品です。

『デス・プルーフ in グラインドハウス』by 鈴木純一(2005年4月期実践コース修了)

B級映画復活プロジェクト~リアル・アクション再び


[ B級映画復活プロジェクト「グラインドハウス」 ]
クェンティン・タランティーノが脚本を書いた「トゥルー・ロマンス」にこんな場面がある。クリスチャン・スレイターが、観客の少ない寂しい映画館で千葉真一のカンフー映画3本立てを観ているシーンだ。このような映画館はアメリカでは"グラインドハウスと"呼ばれていた。"グラインドハウス"とは1960~80年代にアメリカの場末に多く存在していた映画館で、そこではアクションやホラー、カンフー映画など、猥雑でパワフルなB級映画が2本~3本立てで上映されていた。「デス・プルーフ」「プラネット・テラー」は、グラインドハウスで上映されるような映画を再現したプロジェクトである。

[ GOGO タランティーノ! お楽しみはこれからだ ]
「デス・プルーフ」は、タランティーノ作品の特徴である本筋と関係ないおしゃべりや、監督自身が好きな映画への愛情が爆発している。まずは女の子3人組が登場し、ドライブしながら会話をする。次にバーで飲みながら、彼女たちはさらに会話を続ける。物語とは関係ない会話が延々と続くのだ。そろそろ聞き飽きたと思ったところで、カート・ラッセル扮するスタントマン・マイクが現れ、恐ろしい展開に急変する。
場面は変わり、別な女の子4人組が登場する。そこでまたガールズトークが始まるのであるのだ。「またか!」と思うが、会話の中で過去の映画についてこんなセリフがある。「今の映画だとカーチェイスはCGで撮影しているが、昔はスタントマンが体を張って危険なアクションに挑戦していた」、「『バニシングIN60』は傑作だった。アンジー(アンジェリーナ・ジョリーのこと)が出ていた、つまらないリメイク版(「60セカンズ」のこと)じゃなくてね」。最近のCGまみれのアクションに不満のある映画ファンにとって、溜飲が下がる言葉だ。
そして再びスタントマン・マイクが現れ、激しいカーチェイスが始まる。ここでのカーチェイスは、先の会話にあった"CG抜きの本物のアクション"が繰り広げられるのだ。そして物語は衝撃的な"The End"を迎える。
グラインドハウス映画はタランティーノにとって格好のジャンルだったと思う。それは今まで彼が撮った作品は常に「猥雑でパワフル」だったからだ。「デス・プルーフ」はタランティーノでなければ撮れない傑作である。タランティーノには、このまま突っ走ってほしい。予定調和で終わらない過激な映画を作り続けてほしい。タランティーノがいる限り、お楽しみは終わらない!

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