発見!今週のキラリ☆

vol.153 「故意の予感」 by 石井清猛


2月のテーマ:予感

日々の仕事の現場において、映像翻訳者が新たな映像を前にして抱く予感とはどのようなものでしょうか。
ひとまずかなり切実だと思われるのは、引き受けた新しい仕事をうまくやり遂げられるかどうか、といった自らのパフォーマンスに関するもので、出端を悪い予感で挫かれるのだけは夢の中ですらご免こうむりたいと念じてはみるものの、相手が"予感"だけにこちらの意図でコントロールをできるはずもなく、そんな時はいい予感でも嫌な予感でもとりあえず甘んじて受け入れて、まずは仕事に精を出すというのが私たちに求められる姿勢ということになります。

もちろんひと口に予感といっても単純にいい悪いで分類すれば済むわけではありません。ともすれば予知や占いさながらにより具体的な細部を伴った予感が、ほのかではあれ訪れてしまう経験は、誰もが一度や二度は覚えがあるもの。さすがに人生が予感のみによって劇的に変わったり、開けたり、終わったりするものではないとはいえ、どうやら、そういった大小遠近様々な予感がもたらす感情や理性のさざ波が私たちの仕事や生活にそこはかとなく影響を与えていることは確かなようです。

例えばある人は何かを予感して帰り道でいつもと違う角を曲がったかもしれない。誰かに言葉をかけ、または言葉をのみ込んだかもしれない。ある人は予感を詩に綴ったかもしれない。ひょっとすると誰かが受け止めた予感が音楽になり、映画になったかもしれない。

それらの予感がやがて起こるであろう現実=未来と結びついていく、もしくは切り離されていく時、私たちは大抵その様子を固唾を飲んで見守るしか手立てがないのですが、一方で私は、人が自分にしか予感できない"何か"を予感してしまう事態そのものにも、強く興味を引かれます。
実際に当たるか当たらないかは別として、私たちは時に思いがけず"現実=未来"の姿を感知してしまうことがあり、誰もが必ずそれぞれのやり方でその予感と向き合うことになるのだとすれば、そこにはその人が生きる世界の形や大きさが反映されているとも言えるのかもしれません。

さて映像翻訳者が新たな映像を前にして抱く予感には、いい原稿に仕上げられるかどうかということ以外にどんなものがあるでしょうか。

例えばこの作品は記録的なヒットを飛ばすかもしれない。後世に語り継がれる名作になるかもしれない。専門家から認められ賞を授けられるかもしれない。見た人の暮らしを少しだけ豊かにするかもしれない。誰かと誰かの人生と結びつけるかもしれない。世界を変えるかもしれない。そして何よりも自分にとって大好きな、かけがえのない作品になるかもしれない。

初めの方で「予感はコントロールできない」と言っておいてなんですが、いい予感が訪れるように少しずつ準備をしておくことくらいは、私たちに許されていてもいい気がします。
この次はきっと、premonitionと一緒にinspirationが訪れますように。

vol.152 「紐づけの方法」 by 藤田奈緒


2月のテーマ:予感

友人になかなかの強運の持ち主がいる。時々、妙にジャンケンの強い人が仲間内に1人はいたりするものだけど、彼女の場合はとにかくクジ運が強い。ビンゴで賞が当たるなんてザラ、たまたま仲が良いという理由だけで、何の関係もない私までその恩恵にあずかった経験数知れず。普段なら手が出せないような高級ホテルの宿泊券が当たり、一緒にスイートに泊まらせてもらったなんてこともあった。

クジが当たるとき、特別な"予感"があるのかと、彼女に聞いたことがある。すると、やはりそれなりに何かを感じるということだった。ほとんどの場合は「なんか当たる気がする」ぐらいの漠然とした感覚らしい。だけど一度、相当な倍率のミュージカルのチケットがその場で当たった時などは、その直前に文字通り、全身に鳥肌が立ったという。

一方の私はというと、そんな強運の友人を持ちながら"運"なんてものとはさっぱり無縁の人生である。いや、そんなことはないか。少なくとも節目節目で、ある程度の運はつかんできたはずだ。その証拠に、これまで何だかんだで楽しく毎日を過ごしてきたし、好きな仕事に就くこともできた。それほど不運とも思えない。そう考えると私の場合、運がないというよりは単に"鈍感"なだけとも言えそうだ。だって「なんかこうなりそう!」と予感が働いた記憶が、過去どれだけ遡っても見当たらないのだから。

考えてみれば、昔からルールを覚えるのが苦手だった。どちらかというと感覚的に物事をとらえるタイプだったから、「○○だから××だ」と理論的にものを考えるクセがまるでないまま、時を過ごしてきてしまった気がする。もう何年も前のことだけど、同僚が「夕食に塩気の強いスープを飲むと、夜中に喉が渇いて困るよね」と言ったのを聞いて、心底びっくりしたことがある。というのも、確かに時々どうしようもなく水ばかり飲みたくなる夜はあっても、その理由なんて考えたこともなかったからだ。でもそれを機に思い返してみれば、喉が渇く夜には、激辛料理を食べていたり、いつにも増してお酒を飲みすぎていたりと、喉が渇くだけの理由が毎回あるように感じた。

例えば悩みを抱えて誰かに相談した時、大抵その相手は自分の過去の経験を基にアドバイスをくれるだろう。つまりその人なりの人生の統計結果から、その人なりの見解を述べてくれる。それと同じように、無意識に日々積み重ねた統計が私たちに"予感"をくれるのかもしれない。

というわけで遅まきながら、2013年の私の抱負は"人生の紐づけ"にしようと思う(ちっとも理論的な話ではないけれど)。あの時の彼のあの一言があったから、私はリンゴ好きになったのかもしれないとか、あの日のあの出会いは、実は今自分が直面しているこの問題を示唆していたのではないかとか、毎日の小さな出来事を1つ1つ紐づけできるようになったら、そのうちそれが私に"予感"を与えてくれるんじゃないだろうか。だとしたら、そうなった時の目の前の同じ人生は、今よりもっと面白おかしく感じられるに違いない。試す価値はありそうだ。

vol.151 「左指のポテンシャル」 by 浅川奈美


1月のテーマ:初○○

うちにアコースティックギターが2本ある。
2本とも私のだが、コードがさっぱり思い出せない。小さいころ9年間ほど習っていたピアノはいまだに弾けるが、ギターはてんでだめだ。2013年1月。今年は何年ぶりかにこのギターケースを開けてみようかなと思っている。

アコースティックギターが弾けるのって、しかも弾き語りってかっこいいよなぁとずっと思っていた。そのうちに、クラッシックギター界でのちにカリスマとなる村治佳織が、なんだかものすごいテクニックをひっさげて出てくるようになると、さらにあこがれは強くなった。
ただ、このギターという楽器はかなりの曲者。バイオリンだとか木管楽器とか同様、「初心者には冷たいシリーズ」の一つだ。ピアノならとりあえず音は出る。熟練度やテクニックで音色の違いこそはあるものの、鍵盤を押せば、誰でも同じ音程の音がでる。でもギターはどうだ?あの弦を抑えるというそもそもの動作に、すでに高度な技術を要する。抑えがあまいと弦が、ブ、ブルルンとか震えちゃってまるで嘲笑っているかのような音を発する。
さらに。
「やっぱみんなFで挫折するよねー」となんと全国共通の挫折ポイントが明確になっている。そんな鬼門があるのか!それなら、「基礎から地道に習い、Fだってマスターしたよ」という実直コースではなく、「楽しく一曲弾いてみてさ。そして楽しかったら続けるよ」と、とりあえず雰囲気重視でやる気スイッチを入れるコースを選択。浅はかな思いだけで特訓した。曲目はGeorge Michael のFaith。ジャ、ジャ、ジャ、ジャカジャカジャカ、ジャ、ジャ、ジャ ~~♪(出だしコードはCだったよby庸司ディレクター)。リズム感には自信がある。左手が正しくコードをおさえられればあこがれの弾き語りも夢じゃない。だが、そう簡単にはいかない。指から血が出そうになった。いや、出ていた。細い弦から太い弦まで左指の腹は常に限界とチャレンジだ。これは左手界の「ツイスター」か!こんな痛い思いをしないと音が出ないのか?大正琴のような思いやりはないものか?しかもほぼ、使うたびにチューニングなるものをしないとだめで、何から何までこう、素人お断り感満載。"曲を奏でている"レベルまで、はるか長い道のりだった。が、頑張った。今でいうイモトばりに頑張った。そして、なんとかかんとか、かろうじてFaithを一曲、弾けるようになった。

それが...だ。あんなに必死になったのに...だ。それ以来、ギターをまともに触っていない。特訓の時もらった友達のお古と、誰かが引っ越しか何かの機会に「捨てるならもらうよ」みたいな理由でいつの間にかうちに転がり込んできたもう一本。もともとギター様に対する誠実さが欠けていただけに、マイブームの終焉とともに継続と向上心の火はいとも簡単に消えた。そして私のギターたちはロフトとクローゼットの中に一本ずつ、永い永い眠りについた。あこがれだけが心のどっかに残り続けた。

先日、友人に誘われ中東音楽のライブにいった。途中、だれでも自由に参加していいよタイムがあって、ダラブッカとかトンバクとかの打楽器を持った人々が勝手にステージの方に集まっていって、即興でわーーっと演奏しだした。ベリーダンサーまで加わり、それはそれはの大騒ぎで、実に楽しそうだった。
『扉をたたく人』といういアメリカ映画をご存じだろうか。2009年の難民映画祭でも上映された素晴らしい作品だ。N.Yのセントラル・パークでジャンベ(アフリカン・ドラム)をみんなで弾くシーンがある。この人が何の仕事しているのかとか、あの人はどこの国からやって来たとか関係なく人がつながっていく瞬間。音と音が織りなすコミュニケーションに心が震えた。音楽は確実に世界をつなぐな。。。そういうのを目の当たりにすると、やっぱね。楽器弾けるようになりたいな。って思ったのだ。

もう一度、ギターに「はじめまして」をしようか。そうしたら今度はちゃんと誠実な態度で接します。
えっと、左指の腹にバンドエイトとか巻いて弾いてもいいですか?

YUIの活動休止もきっかけの一つだったりもする。

vol.150 「誰もが誰かのサンタクロースに」 by 丸山雄一郎


12月のテーマ:サンタクロース

クリスマスシーズンが近づくと誰もが頭を悩ますクリスマスプレゼント。相手に喜んで欲しいからこそ、何を贈るかには迷うし、そんな時間も楽しい。でも反面、今年もお金がかかるな~と思ったり、ただでさえ忙しい時期に買い物に行く時間を作るのは面倒だと思う人もいるだろう。

先日、友人たちと食事をしたときもクリスマスプレゼントの話題になった。カミさんや夫、子ども、取引先の上司、頑張っている部下などなど、職業や立場によって贈る相手の数やプレゼントの中身が大きく違っていることも面白かったが、大なり小なりみんなの悩みの種になっていることが分かった。いっそ手数料は払うから、贈る相手のリストと予算を伝えて、一切合財を引き受けてくれるサンタクロース株式会社みたいなものがあるといいなという結論になった。
そんな話をしながら、僕自身も何をプレゼントしようか考えていると、1ヵ月ほど前に行った日本語表現の勉強会のテーマを思い出した。この期の受講生は優秀な方が多く、翻訳者として活躍している人が多いので、勉強会の課題にはあえて翻訳物を選ばず、講義のときと同じように決められたテーマの原稿を書いてくるというスタイルをとっている。このときのテーマは「自信を持って人に勧められるもの」。自分が普段から使っていて、"これは絶対にいい"というものを600W(ワード)で読み手に伝わる原稿に仕上げるというものだった。50代の女性参加者のお勧めは「耳栓」。いびきのうるさい夫を持つ女性には必需品で、その方はもちろんお友達の女性もほとんどが愛用しているそうだ。もっと高性能なものが欲しいというお友達からの要望もあるらしく、今度はプロのレーシングドライバーやレースのスタッフたちが使用しているというプロ用の製品をご自身で試してみると書いてあった。同じく50代の女性の方のお勧めは「お掃除ロボット」。自分で掃除するよりも家がキレイになるし、掃除機に声をかければ返事もするという高性能ぶりで、使えば使うほど愛着が湧き、いまではなくてはならない存在になっているとか。ますます高齢化が進む日本にはぴったりの商品だとも書いてあった。20代の女性は「袖付きのちゃんちゃんこ」。本人は雪国の出身ではないのだが、実家では昔から家族全員が愛用していて、上京して一人暮らしをしている現在も、毎日着ているそうだ。フリースのようないかにも着ているというか、"締め付けられ感"がないのがいいらしい。20代が昭和を感じさせるものを勧めていて、50代が流行の製品というのがおかしくて、勉強会自体はかなり盛り上がった。3人が勧めてくれた商品を送り物として考えてみると、年齢だけで贈り物を決めてしまうと失敗する可能性があるという証明だろう。

振り返ってみれば、子供のころはともかく、物心がついてからクリスマスプレゼントに何をもらったのかなんてあまり覚えていない。高価なものをあったし、いま欲しいものをこちらからリクエストしたこともあったが、薄情なことに中身は思い出せないのだ。でも不思議と送ってくれた人の顔だけは覚えているし、少なくともうれしかったという思い出だけはある。そう考えると、クリスマスプレゼントの中身なんて、きっと何でもいいのだろう。それより贈ってくれた人の「いつもありがとう」や「離れていても気にしているよ」や「大事に思っているからね」というメッセージが伝わることが大事なのだ。そんな気持ちだけは、薄情な僕のような人間にもずっと残るし、そんな気持ちを受け取った子どもたちは、大きくなっても、きっと自分の大事な人に同じようにしていくだろう。
総選挙が終わって、この国の未来がどうなっていくのかはまだ誰にも分からないし、誰もが不安だらけだ。でもクリスマスにプレゼントを「贈りたい」と思うような大人が多い社会なら、きっと大きく間違った方向にはいかないと僕自身は信じている。
「誰もが誰かのサンタクロース」なんてちょっと恥ずかしい言葉だけれど、ちょっと素敵だなとも思う。

Merry Christmas & Happy New Year!
みなさんにとって2013年がいい年であるようにJVTAのスタッフ、講師一同は心から願っています。また来年、みなさんと学校やこのページで会えることを楽しみにしています。
最後まで読んでいただきありがとうございました!

vol.149 「字幕と音声のプレゼント」 by 浅野一郎


12月のテーマ:サンタクロース

師走も迫り、世の中が慌しくなってきた。

今月のテーマはサンタ。もちろん、サンタクロースのことで、1年に1回、クリスマス前夜に欲しいものを持ってきてくれると言われている、とても奇特な人のことだ。皆さんは今年、サンタクロースに何をお願いしているだろう? ゲーム機かもしれないし、アクセサリーかもしれない。しかし、最低でも現時点で600万人近くの人が熱望していると思われるプレゼントがある。それは何か分かるだろうか?

唐突だが、私は今年の3月から「バリアフリー」という分野の仕事にかかわるようになった。現在は「バリアフリー」を専門で扱う事業部に籍を置いている。ご存知ない方のために、念のため「バリアフリー」の説明をしておこう。「バリアフリー」とは、視覚や聴覚にハンディキャップを持つ方たちのために、字幕や音声によるサポート情報を付与して、映像コンテンツの理解における障壁(バリア)を取り除くことだ。

その方法は大まかに分けて字幕と音声ガイドの2つ。ちなみに、字幕は主にテレビ放送用に作られるものを"クローズドキャプション=CC"、音声ガイドは"解説放送"と言われることもある。ちなみに字幕(CCも含む)は聴覚情報を補うもの(音情報を視覚化する)で、音声ガイドは視覚情報を補うためのもの(場面情報を音声で表現する)だ。

ここで、皆さんに想像してもらいたい。テレビを観ていて音が聴こえなくなる。画面では、突然、主人公が振り返る。何が原因で振り返ったのか、皆さんは疑問に思わないだろうか?または、ある映画で映像が消え、スピーカーからは延々と登場人物のセリフと効果音、もしくはBGMだけが流れてくる。どんな状況で、どんな表情で役者が演技をしているのか、皆さんは知りたいと思わないだろうか? しかし、何をどうやっても、聴こえないものが聴こえてくるはずがないし、見えないものが見えるようにはならない。これが「聴こえない」「見えない」というハンディを背負った方たちが、映像コンテンツに対して抱える現状だ。

皆さんは、言葉を使って、異文化間のコミュニケーションバリアを取り除くために、この学校で学習を続けてきたはずだ。外国語を解さない方のために、日本語字幕・吹替えを付与してコンテンツ理解を助ける、バリアフリーでやっていることと、考え方はまったく同じ。単に元の言語が日本語であるというだけで、映像翻訳とバリアフリーの違いはまったくない。バリアフリーを「日→日翻訳」とも言うのは、それが理由だ。最終的には日本語表現力で勝負が決まる、というところもまったく同じである。

私は十数年前に、"映画が好き"という理由でこの学校に入学した。その当時、私がバリアフリーのことを聞いたら、きっと、"だって日本語の番組なんでしょ"とまったく歯牙にもかけなかったに違いない。しかし、数ヵ月とはいえ、この分野に専門で関わってきた経験で、バリアフリーは映像翻訳で培ったスキルを、最大限に活かすことのできる分野だということを声を大にして言いたい。本当にチャレンジのしがいのあるものだということを分かってもらいたい。"私は英語のドラマの翻訳がしたいから"というだけで、バリアフリーをキャリアとして視野に入れないのであれば、大きな損失と言える。

この世には、映画やドラマ、音楽、スポーツ番組を楽しみたくても、それが叶わない人たちが大勢いる。"映像コンテンツの理解に困っている人たち"とは、なにも、英語作品の理解ができない人たちことだけを指すのではない。音が聴こえない(聴こえづらい)、映像が見えない(見えづらい)という視聴者のために、しっかりノウハウを体得して、映像翻訳のスキルを活かしてもらいたい。今年は何かをもらうのを期待するのではなく、字幕と音声ガイドのプレゼントができる人になってみてはどうだろう?

朝起きてテレビをつける、BluRayディスクを挿入する、すると当たり前のように字幕や音声ガイドが付いている、視聴覚に障害があるなしにかかわらず、皆が等しく映画やドラマの話題で盛り上がる。素晴らしいと思う。

vol.148 「幸福の味」 by 藤田庸司


11月のテーマ:幸福

先日、雑誌の取材を受けた。テーマは"チーム翻訳"。1年ほど前から続いている大規模なドラマ翻訳プロジェクトの話を軸に、私と翻訳者3名(プロジェクトにおけるチームリーダーの方々)との座談会形式で進められた。
メディア・トランスレーション・センターでは、長尺の映像や大量の素材を短期で納品する場合、当たり前のように取り入れているチーム翻訳だが、一般的には"翻訳作業×チーム形態"が簡単には結びつかないらしく、しばしば興味深いという声を聞く。たしかに、翻訳という作業は、書斎に籠って辞書を広げ、コツコツと英文を分析し原稿を書いていくといった、個人で行う仕事というイメージが強い。

しかし、昨今のインターネット普及に代表される通信媒体、通信網の発達、高速化、それに伴う視聴者の欲求を満たすとなると、一人でコツコツ作業する従来のスタイルでは、目まぐるしく変わる時代の流れについていけない。「現地でオンエアされた番組を早く観たい!」、クライアント、いや視聴者のローカライズスピードに対する要求は量のいかんに問わず、限りなくリアルタイム、同時通訳ならぬ同時翻訳に近づく勢いで強まってきている。チーム翻訳は、そうした視聴者のニーズに応えるべく必然的に生まれ、今後もさらに発展し、有用化される作業スタイルだと思っている。

チーム翻訳作業は1つの案件に対してリーダーを立て、翻訳者同士のチェック作業を織り交ぜながら原稿完成を目指す。特記したいのは、単に素材を数名の翻訳者でシェアし、個別に上がってきた原稿を統合するだけでは、完成原稿のクオリティは確実に下がるということだ。作業スピードを上げながらも確かなクオリティをキープするには、それなりのメソッドがあり、これまで多くの試行錯誤を繰り返してきた。特に大きなプロジェクトが始動する時には必ずと言っていいほど、素材到着の遅れ、作業スケジュールの変更、翻訳担当者の交代、書式変更など、いくつもの障害が降りかかる。時には無理強いだと感じつつも、翻訳者に頑張ってもらわないといけない場面や、個々のキャパシティを踏まえたうえで、クライアントに納期の交渉をしなければならない場面も出てくる。この方法でいいのか?悪いのか?戸惑いながらも経験から得た感覚を信じ、原稿納品を目指して進めるのだ。

取材を受けている最中、1年前、プロジェクト始動時に行ったキックオフミーティングを思い出した。「ドラマ1タイトル(3シーズン)=全48話を40日で完納します!!」。私の組んだ強行スケジュールにミーティングの場が静まり返ったのを覚えている。メンバーの顔には"無理"と書いてあったが、私にはこの方たちとなら出来るという確信があった。個々の技術と仕事に対する姿勢を把握したうえでの自信だった。結果はクライアントに満足いただけたのみならず、視聴者からも字幕の出来に対するお褒めの言葉をいただいた。3名の翻訳者さんは当時を振り返り、口々に「死にそうな思いで頑張った」とやや苦い表情で語ったが、続けて「苦しかったが、そうした経験があったからこそ今の自分がある」、「苦しい中にも、一つの作品をみんなで仕上げる団結力、結束力には心地良さを感じた」と切実に語ってくれた。そうした言葉に秘められた彼らの思いや仕事に対する姿勢こそ、私の自信の裏づけだった。インタビューの中で私はプロジェクトメンバーを戦友と呼ばせてもらった。オーバーな気もするが、共に苦境を乗り越えることで、絆というか、信頼関係は生まれるものであり、共に困難を乗り越えた者だけが同等の幸福を味わうことができる。そして、もしその幸福を私のみならず、メンバー全員が味わえなければ、チーム翻訳は成立したとは言えないだろう。

vol.147 「"Blessing(祝福)"の力」 by 吉木英里子


11月のテーマ:幸福

"幸福"...なんとも頼りない響きである。むしろどこかイラッとしてしまう。
この響きに無意識のうちにどこか漠然とした期待をもってしまうからだろう。裏切られる感じというか、失望がつきまとってしまう。思春期を迎えた頃の私は、重い病気にかかったり、事件に巻き込まれたりする人々の姿を見て、"幸福"の見出し方が分からなくなっていた。確かに、人生には理屈で理解できない不公平なできごとがつきものだ。いわゆる"悲劇"の中からどのように"幸福"を見出せばいいのだろう。。。こんな思いが悩みとなっていた時、留学先のアメリカの大学で友人から教えられたある言葉は、今でも私の道の光、歩みを照らす灯になっている。

それは、 "Blessing(祝福)"。この言葉は、人の人生を変える。Blessing(祝福)とは、神から与えられる恩恵のこと。それは包括的に色々な意味を持つが、人知を超える無条件の愛と許しを受けることでもある。幸福は地上での報いを受けることだと思うが、祝福とは、天に報いを積むことだ。たとえ誰にも知られず、理解されていなくても、神はどんな些細な事でも見ていて必ず最善をなしてくださる。欧米ではよく聞く言葉ではあるが、このような死後の世界も含めた信仰と人生観があるからこそ、この言葉の重みや真意に、人を変える力が帯びるのだろう。

今年で、当時13歳だった横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されてから35年の月日が経った。両親の滋さん(79)と早紀江さん(76)が、これまでに全国47都道府県すべてに訪問して行った後援会活動は1300回を超えているという。わが子の幸福を願う両親にとって、この"悲劇"をどうとらえているのか。期待と失望の繰り返しの年月に耐え、いかにして希望を失わずにいられるのか。。。そんな想いである講演会に行った際、早紀江さんからこんな話を聞いた。

ある日突然消息不明となった娘を想い、悲しみと絶望のどん底で来る日も来る日も泣き続けていた早紀江さんに、世間の人が訪ねてきては「それは因果応報ですよ」と言ったそうだ。深く傷つき罪悪感と怒りに潰されそうになる中、同学年の子供をもつ母親が何も語らず聖書を置いて行った。そこである一節が目に留まる。それは生まれつき目が見えない人を前に、イエスの弟子たちがその理由をイエスに尋ねた箇所だった。『先生、この人の目が不自由なのは一体誰のせいですか。本人が悪いことをしたせいですか、あるいは家族の誰かが、先祖が悪いことをしたからでしょうか』そこでイエスは答えました。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。ただ神のみわざがこの人に現れるためです。』(ヨハネ9章:2-3)」この短い一節で、大きな励ましを受け、生き方が変えられていったという。
母親として、めぐみさんの"祝福"を願うようにと変えられたのだろう。手記『めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる』(草思社)ではこう語っている。「誰でもいつかは死にます。小さな者で、一粒ですが、そこから後世の平和のために役立つ、めぐみはそのような人生であったと受け止めます。そこから平和について多くのことを考えなければならない」。苦しみと絶望の日々から這い上がり、このような力強い人生観を持つに至った早紀江さん。今年発売された著書、『めぐみと私の35年(新潮社)』の中で、「どんなに時間がかかっても、最善の時を選ばれる。それが私たちの神であり、希望なのです」と述べている。すべてを神に委ねつつも、懸命に希望をつないでいる姿には、なにか背負った者の覚悟や使命感ともいえる力を感じさせる。
"Blessing(祝福)"を信じることは、いわゆる"悲劇"の中にいる人でも、今ある幸福を見出すための希望だ。そしてはじめて、不公平ともいえる人生の試練を負う様々な立場の人が"幸福"を共有できるのではないかと私は信じている。拉致被害者ご家族の象徴的な姿は、日本に課された"平和"についての問いかけを一身に背負い、人生をかけて応えているように見えた。まずは、何十年もかけて絞り出された言葉を受け止め、この問いかけを共有すべきだろう。早紀江さんも見出した"祝福"は、また誰かの人生を変えるかもしれない。
拉致問題の早期解決を願い、被害者ご家族の方々への祝福を日々祈りたいと思う。

vol.146 「愁いホルモンのローカライズ」 by 杉田洋子


10月のテーマ:郷愁

最近、記憶力の低下も手伝ってか、
郷愁を覚える対象が近い過去になっているように感じる。
上京して間もないころは、夕暮れ時、
路地にただよう夕飯のにおいに実家を思い出し、
感傷にひたったりしたものだ。

しかし東京に来て12年が経った今、
実家に帰って感じるのは、懐かしさというよりは新鮮味である。
父が日曜大工でこしらえたものや、食器や家具の配置が変わっていたり、
古くなった家電が買い換えられていたり...。
親や兄弟との距離感も少しずつ変わってきたように思う。
家族には変わりないが、久しぶりに会うので、少し照れ臭い。
変わらないのはカメだけである。

言葉通りの郷愁は、故郷や実際に体験した過去に対して馳せる思いだろうけれど、
似た類の言葉に、哀愁とか切なさとか恋しさとかいうのがある。
それは少し物悲しくて、胸がキュウっとなるような思いだ。
そしてそんな現象は、日常においてわりと頻繁に起きている気がする。
普段、こうした精神状態を招くのは、夕日だったり、枯葉だったり、
アコーディオンやオルゴールの音色だったり...。
特に個人的に特別な思い入れはないものが多い。
それが醸し出す雰囲気が直接胸に作用しているような感じだ。
あるいは刷り込みによる私たちの思い込みかも知れない。
どこか懐かしいような気持になるが、"懐かしい"という言葉で表現するのも
語弊があるだろう。
現にそれらは、ノスタルジックな旋律とか、哀愁を帯びたメロディーなどという言葉で
形容されたりする。

でも、原因はさまざまに分類できても、
このキュウっとなるようなものに触れたとき、
実際に私たちの胸や頭の中で起きている現象は、
きっと同じなのではないだろうか。
愁いを引き起こすような、同じホルモンが分泌されている、みたいな。

それを例えば日本語では細かく分類し、さまざまな言葉を当てている。
しかし別の国の言葉では、1つの単語がすべての愁いホルモンを
内包している場合もあるだろう。
そんなときは、翻訳するにも言葉選びに一苦労だ。
どの言葉をあてるかによって、第三者の印象は変わってくる。
相手の感情やら、状況やらを推し量りながら、しっくりとくるものを探す。

...結局、最終的にこういう話に行きついてしまうのだから、
私がおばあさんになったころには、辞書やパソコンを見て、
郷愁の念を抱くのかもしれない。

郷愁とはまるで無縁のようなモノたちだけど。

vol.145 「郷愁の共有」 by 相原拓


10月のテーマ:郷愁

ここ数年、テレビでよく目にするビールのCMシリーズがある。どれも、妻役の某女優が仕事帰りの夫と二人で晩酌を楽しむワンシーン。ただ夫役はおらず、彼女が終始カメラ目線で夫(視聴者)に話しかけるという演出になっている。時には下唇を噛んで上目遣いをしてみたり、時には子供のようにはしゃいでみたり。そんな彼女の愛おしい姿を見た男性はいい気分になってこのビールが買いたくなる、というのが狙いなのだろう。だが何度見ても僕の心には全く響かず、それどころか、この世で最も苦手なCMだと言っても過言ではない。

ひとつの商品のCMがなぜここまで鼻につくのか自分でもよく分からない。商品自体はむしろ好きなほうだ。もっとも、設定からするとターゲットは30代の独身男性とは言い難い。仮にターゲットだったとしても無視すればいいだけの話である。しかし周りに聞くと同意見の人もいるので、僕だけが例外ということではないらしい。世間的にはどう受け入れられているのだろう。

作家の山下柚実氏がこのCMを解説している記事で次のようなコメントを紹介している。
「毎回、妻役の女優が夫の帰りを笑顔で待っているという内容ですが、見ていて違和感を持ちます。気楽で甘えたような妻の姿に、イラつきさえ覚えます。最近は、夫の収入だけで生計を立てている家庭は少数派だと思います」
これは実際に東京新聞(2010年1月12日付)に投稿された40代女性の声だという。

なんと痛快! 僕の中のモヤモヤはこういう感情だったのか。

これでひとまずスッキリしたが、調べていくうちに予想外の情報を見つけてしまった。この商品を製造・販売する会社の社長インタビューを含む記事によると、
「スーパーでビール類を買っていくのは主婦である。家で飲むのは男性だが、購入は女性。この真理を○○のCMは突いている。『主婦が○○を買って、家で夫の帰りを待っている』というコンセプトが明快だ」

ターゲットは女性!? まあ、そう言われてみればそうかもしれないが、ダメではないか。売り手と(想定された)買い手の意見が完全に食い違っている。

それでもヒット商品であり続ける現状について山下氏はこう続ける。
「女が外で働くことが当たり前になった今、『待ってるー』と甘えた口調で叫ぶ『昔の女』像は、男たちの郷愁を呼ぶ。一方で、今を生きる女たちの反発を生む。それは言わば、両刃の剣でもあった。○○の強烈な懐古主義に対する、ある種の反発。それはCMのインパクトがそれだけ強烈だったことを物語る。その意味では広告としては"大成功"だったわけだ」

元の対象は主婦だったが、結果的に中年男性の心を奪った。そのカギとなったのが郷愁の共有。どの時代でも同世代・同人種にしか共有できないノスタルジーというのが必ずある。共に聴いた懐メロだったり、共に経験した歴史的出来事の思い出だったり、形はともかく、そのストライクゾーンにハマればターゲットの心に響き、購買意欲をくすぐる。売り手の意図とは裏腹に一部の女性の反感を買う一方で、このCMが描くノスタルジーに誘惑された日本中の中年男たちは、大量のビールを消費しているに違いない。

結論として、既婚の中年男性でも主婦でもない僕はやはり対象外だったようだ。ただ、それを知ったところでこのCMが引き起こす拒絶反応はどうしようもない。また厄介なことに、このバーチャル妻は街の至る所にいるので、どんなに避けようとしても目に入ってしまう。流れるCMは無視できたとしても、通勤電車の中吊りポスターを未だに飾っているし、会社近辺ではコンビニの上に立ちはだかる巨大なビルボード公告までをも飾っているのだ。せめて発散できればとの思いでこの場を借りて吐いてはみたものの、もはや僕には逃げ場はないのかもしれない。トホホ...

vol.144 「食べ物の音」 by 小笠原ヒトシ


9月のテーマ:食

食べ物の様子を伝えるとき、人間の持つ五感(視覚、味覚、触覚、臭覚、聴覚)を使って表現しますよね。

食べるときには、まずどんなモノかを見てから食べますから"視覚"で表現します。真っ赤なトマトやツヤツヤ光った白いご飯は美味しそうですね。

次に食べるということは口に入れて味わうのですから、甘いおはぎ、酸っぱいリンゴ、辛いキムチなどと"味覚"で表現されることが多いのは当然です。

"触覚"は直接手で触るほかに、スプーンや箸を使った際の感覚も表現できます。もちろん口に入れた際の食感も重要です。触覚は味覚以上に美味しさを決めるポイントだと言われるくらいです。柔らかい、硬い、フワフワしている、コシがある、ザラザラしている、ツルツルしている。それだけでどんな様子かが分かるでしょう。

そして"嗅覚"も人間の記憶を呼び起こす大切な感覚です。駅前の焼き鳥屋さんから漂う甘辛いタレの焦げたニオイを嗅ぐと、美味しい生ビールの記憶も一緒に蘇り、ついつい寄り道したくなってしまいます。

そんな中、食べ物の様子を伝える際に一番使われない感覚表現が"聴覚"ではないでしょうか? 確かに「ポリッという音を立ててキュウリをかじる」と新鮮そうだったり、「ポテトチップスをパリパリと音を立てて食べる」と表現したりすれば湿気ってないのだなということは分かります。ただ、それは食べた際に発生する音を表現しただけで、食べ物自体を表現している訳ではないですよね。

そんなことを考えるきっかけになったのは、現在JVTAバリアフリー事業部で取り組んでいるクローズド・キャプション(CC)の字幕を作っている時でした。CCは翻訳字幕同様にセリフを字幕化するほか、ストーリーの進行に関する音や登場人物のアクションのきっかけになる音の情報も字幕で表現しています。

例えば、映画館でA子さんが映画を見ていると、ズーズーと飲み物をすする音がします。A子さんは眉間にしわを寄せてチラッと横を見ます。するとカメラは横でBさんがズーズーと音を立ててコーラを飲んでいる姿を写します。このシーンを音声なしで観ると、なぜA子さんの表情が険しくなったかがすぐには分かりません。そこで、ズーズーという音がしたタイミングで、(コーラをすする音)とか(飲み物をすする音)などという字幕を出すと、音が聞こえなくてもA子さんの行動の原因が分かるのです。

CC字幕の制作時には常に、「この表現でいいのかな?」、「これでちゃんと伝わるかな?」と悩みながらの作業を行っています。時折、ポリポリお菓子をつまみ、ズルズルとホットコーヒーをすすりながら。

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