Tipping Point

「24」を24倍楽しむ法

「秋の夜長、ちょっと夜更かしてDVDをもう1本!」、という人も多いのでは。私の場合、最近は「24」の第4シーズンにハマっています。午前7時に全米を揺るがすテロ事件が勃発。翌日の同時刻までにアッと驚くような出来事やどんでん返しが津波のように押し寄せる。どこにでもいそうな市民から米国大統領までが、その場その場の主役となって、国の行方を左右する決断を迫られる...。世界中で大ヒットしているのも納得がいく娯楽作です。

とはいえ、「少し観たけどなんかペースに乗れない。まどろっこしいストーリーがダルい」という声があるのも事実。私が聞いてみた範囲では、むしろそうした人の方が多いような気さえします。作品の良し悪しではなく、肌に合わないものを無理に好きになる必要はありません。私にも薦められても観る気になれない、観たとしても個人的には心にヒットしない作品は沢山あります。

でも、これだけの話題作ですから、気になる人も多いでしょう。そこで、私の観方を紹介します。もしかしたら、「フツーに観るのはイマイチ」という人でも興味が湧く観方かもしれません。従来のファンや観ている人には新しい発見があれば幸いです。


●「24」のもう一つの観方、その1...「字幕と吹替え、両方を同時に視聴する」

私はもっぱらこの方法です。映画とはセリフ量が異なる連続ドラマ、しかもスピ-ディに展開し、なおかつ独特の固有名詞(機関の名称、コンピュータ・通信用語、戦争関連用語など)が飛び交うこうした作品では、多くの場面で字幕と吹替えの表現法が異なっています。単なる文字数制限や省略箇所の問題ではない、根本的な違いです。

例えば、銃撃戦で一斉射撃を止める時に指揮官が叫ぶセリフ。字幕では(確か)「射撃中止」ですが吹替えでは「撃ちかた止めーっ!」。この違い、どう感じますか?

字幕では、「あの」「その」など指示代名詞や省略で処理されている部分、または「彼」「彼女」などとしている部分があります。しかし吹替えでははっきりと固有名詞に。「彼が向かったわ」と「ジャックは墜落地点に向かってる」。良し悪しとは別に、何か視聴者に伝わるものが違っていると思いませんか?

そして決定的なのはキャラクター付けです。字幕では、AとBの人間関係が例えば上司と部下なら、ほぼ徹底的にBはAに対して「~です。~ます」調で語りかけます。そうしないと視聴者が混乱するからです。しかし吹替えでは、周囲の目を気にしつつ敬語を使う場合もあれば、ちょっと気を許した時には「~だ。~さ」としたり、切羽詰った状況ではさらにタメ口になったりと、自在に変化を付けています。

 字幕の制約と苦労、吹替えの自由さと言葉の選択の難しさが、この観方だとよーくわかるのです。DVDって便利ですよね。ビデオの時代には不可能だったこんな楽しみ方ができるんですから。

映像翻訳にはまったく素人の私の家族も、始めは「どっちかにしてよ!」と怒っていましたが、そのうちに「今、字幕だとコレを説明しなかったね」か、「今の字幕、上手いね」などと言って楽しむようになりました。


●「24」のもう一つの観方、その2...「アクション部分をまったく無視し、昼メロだと信じて観る」

 この作品が決定的に普通のアクションものと違うのは、国家の行方を左右するような緊急事態においても、登場人物たちが家族や恋人、仕事仲間との人間関係に振り回されていることです。

「それはよくある」と思うかもしれませんが、家族愛とか友情とか裏切りとか、「ハルマゲドン」的な、そんな格好のいいもんじゃない。この登場人物たちは「親バカ」で「恋愛下手」で「移り気」で「浮気性」で「人見知り」で「覗き見、立ち聞き好き」。あと1時間で米国市民の何百万人が死ぬかという時でさえ、CTU(主役たちが勤務する機関)のトップはフラれた恋人の目線を気にしてうじうじしたりしています。 命を賭けたテロリストですらも、一番大事な時に彼女からケータイに電話が入って「アンタ、どこで浮気してんのよ!」とまくし立てられ、しどろもどろになったりしています・泣

これはもはや「渡る世間」状態、でなければコテコテの昼メロ。もし次回シリーズに日本人が抜擢されるなら小沢真珠がお薦め。フラれて、イビられてオロオロしているCTUの連中に向かって、「こんな大事な時にトボケたこと考えてんじゃないのよっ!このブタ野郎どもめっ!!」と怒鳴りつけてほしい(ウソ)。

アクションシーンや国家の危機に関わるシーンはどんどん飛ばして、仕事はできるのに親子関係、恋愛関係はまったくダメという男女の喜劇を笑い飛ばそう!

いかがでしょうか? ファンからは反論が殺到しそうですがお手柔らかに・笑皆さんもお薦めの作品や楽しみ方があったら教えて下さい!(了)

ジャン・スティーブンソンの涙 ~スポーツを巡る選手と観客の関係~

アテネ五輪は日本人選手の大活躍の余韻を残したまま終演を迎えました。様々な話題がありましたが、今回は特に「選手と観客の関係」がよく見えた大会だった気がします。自国を応援する大歓声、その反対のブーイング、不当な判定に怒り狂う選手の家族(レスリング日本チームの、あの親子です)、路上に飛び出してマラソンランナーに抱きついてしまった人...。一つ一つの出来事に、観客の数だけの喜びと落胆、選手への尊敬や怒りが現れていました。

スポーツ・イベントを政治的な論争にすり替えてナショナリズムを煽ったり、国民性の優劣の問題に置き換えて語るのが大好きな人たちがいます。私はそんな考え方に大反対です。グラウンド、スタジアム、リング...自らの技を極限まで磨き上げ、自らの力だけを頼りに闘いの場に立つ選手たち。彼らの営みは、観る側の身勝手な解釈を超越したところで、素晴らしい輝きを放っているのだと思うのです。しかし、観る側の身勝手さは、時としてスポーツを卑しめ、選手の心に大きな傷を残すことさえあります。

米国の女子プロゴルフ・ツアーを中心に長らく活躍しているジャン・スティーブンソン(豪州)というベテラン選手がいます。数々の実績を残している大物ゴルファーです。しかし最近、米国のプロ・ツアーで台湾や韓国などアジア圏の選手が活躍している状況に対して、「アジアの選手が米国ツアーに参加するのは歓迎できない。なぜならマナーがなっていないし、ツアーに良い影響を与えていない」といった主旨の発言をして、各方面から「人種差別的だ」と弾劾されています。日本でもその発言は報道され、ネット上などでは「とんでもない発言」、「白人優位主義者だ」などとバッシングされていました。
しかし、私は彼女への批判を素直に受け入れられないのです。

その理由は、20年以上前に遡ります。1980年代前半、私は高校、大学時代を通じて、テレビでゴルフ中継を観戦するのが好きでした。他のプロスポーツに比べて、世界の一流選手が日本のツアーに参戦することが多かったからです。日本経済がバブル前夜の好景気にあり、賞金額が高騰していたことなどが理由だったようですが、それはともかく、世界トップレベルのプレーを生中継で味わえること、そしてその中に岡本綾子(現在は解説者兼プレーヤー)という日本人選手が、世界のトップと肩を並べて活躍していたことに、静かな興奮と感動を覚えていました。

1981年、私が高校3年生の春、ジャン・スティーブンソンは日本女子ツアーのあるトーナメントに参戦し、見事なプレーを披露していました。彼女は世界のトッププロらしく、冷静なプレーを続けて日本人選手に競り勝とうとしていました。しかし、最終ホールでウイニング・パットを決めた瞬間、ギャラリー(観衆)たちから、「あ~あ」という落胆の声が上がったのです。そしてまばらな拍手...。ジャンは気丈に優勝トロフィーを受け取っていましたが、テレビのインタビューでマイクを向けられた時、目頭を押さえながらこう答えました。

「私はこうして優勝したけれども、日本の皆さんに喜んでもらえなくて、悲しいです」

王者にふさわしい喜びの表情はそこにはなく、ジャンの頬をつたったのは、悲しみと失望の涙でした。ジャンの素晴らしいプレーとそれに立ち向かう日本人プレーヤーのチャレンジにただただ感動していた私の心に、その光景は小さな傷を残しました。

その3年後の1984年の秋。広島で行われたマツダクラシックは、全米女子ツアーの公式戦に指定されており、岡本綾子、再び来日したジャン・スティーブンソン、ベッツィ・キングの三つ巴の賞金女王争いに決着がつくという、世界のゴルフファンが注目する大会となりました。日本のマスコミ、いやスポーツに関心のあるすべての人が、岡本の快挙達成に大きな期待を抱いていました。会場にはギャラリーが溢れ、日本のゴルフ史上にかつてない、一種異様な雰囲気だったといいます。
最終日、勝負を分ける重要なホールのグリーン上で、ジャンがパー・パットを外しました。その時です。岡本を応援する一人のギャラリーが、ジャンに向かってこう叫びました。

「ナイスボギー!」

紳士淑女のスポーツといわれるゴルフ競技で、この一言がいかに情けなくひどいものか、そして選手の心をずたずたに引き裂く言葉であるか、想像がつくでしょうか。ジャンは怒りの表情をあらわにして、声の主の方に歩み寄りかけましたが、それより早く反応したのは岡本でした。岡本は目に涙を浮かべながらギャラリーに向かって、「何でそんなことをいうんですか!私たちは一生懸命プレーしているんです。そんなこと言われたらやってる意味がない...」と叫びました。そしてグリーン上でしゃくりあげて泣き出したのです。その時岡本は、(なんで私はこんなところでゴルフをやらなければならないのだろう)と思ったそうです。
もちろん、一番悔しかったのはジャンであったはずですが、涙と怒りでプレーを続けられないでいる岡本にそっと歩み寄って、やさしく肩に手をかけながら「時間をかけていいから、落ち着いてゆっくりやりなよ」と語りかけたそうです。岡本は、(私と同じ日本人が傷つけたオーストラリア人に、私がこうして慰められている)と感じたと後に語っています。
この出来事で、ジャンや岡本と同様に、私の心の傷も少し広がりました。

私はジャンに対する日本人の観衆の行為を「日本人はマナーがなってなくて、しょうがない...」などという、単純で薄っぺらな論旨に置き換えるつもりはありません。これは人種や国民性なんて関係ない、アスリートとそれを観る人の間だけに生じる'特別な関係'に関わる問題だと思うからです。
中国で先ごろ開催されたサッカーのアジアカップでは、地元観衆の日本チームに対するバッシングが問題になりました。確かに悲しく腹立たしい出来事です。しかし、つい20年前、ジャン・スティーブンソンに対して日本のギャラリーがとった行為と、何が違うのでしょうか。この中国での出来事に対してテレビのインタビューに、「未開の民のやることは...」などと答えた政治家がいます。こうした軽率で無知な発言こそが、スポーツの崇高な美しさと、良き観客が育つ風土を台無しにしているのだと、なぜ気がつかないのでしょうか。

自分が傷ついた瞬間にも、ライバルの日本人選手、岡本綾子にやさしく声をかけたジャン・スティーブンソン。彼女が'アジア・アレルギー'にかかっているとしたら、そうなるきっかけは何だったのか。ただひたむきに最高のプレーを披露しようと努めるアスリートたちの行為を卑しめてしまう'観客'とは何者なのか。

極論すれば、最高のアスリートの最高のパフォーマンスとは、観られることや応援されることとは無縁の世界にあるのだと、私は思います。観客には、それらのパフォーマンスから感動や喜びを与えてもらう権利はあるでしょう。しかし、それらを卑しめる権利があるとは、私にはどうしても思えないのです。

ジャンや岡本が流したような涙を、私たちは二度と見たくない。好きな選手、自国の選手を応援するのは素晴らしいことですが、対戦相手や敗者に対する尊敬も、同じくらいに大切なものではないでしょうか。
私は、たとえそれがテレビ観戦であっても、心のどこかで「観る者の責任」を意識しようと努めています。(了)

参照:毎日新聞朝刊:連載記事「ゴルフが好き」(1998年)

「ピーコのファッション・チェック」に備えてる?


――そう聞かれて「ハイ」と応えるのにはかなり勇気がいりますよね。「自意識過剰だよ」なんて言われて笑われそうで...。でも私の経験上、フリーエージェントの世界でバリバリやている人たちにこう聞くと、「ちょっと急いでるんでって言って、サックリ逃げるね」とか、「ピーコとガチンコ勝負ッ!ケチをつけられたらテレビに向かって「アンタのセンスって最低!」って怒鳴ってやる」とか、即座に愉快な答えが返ってきます。
本気で備えているわけじゃないだろうけど、私もそうなんですが、普段から「もしこんな場面に遭遇したらこうしよう」という風に空想するのが大好きなんだと思います。
もし雑誌の編集者なら「ワタシがもし自分の信念だけで雑誌を創刊するなら...」とか、映像翻訳者であれば「ハリウッドの映画界は、恋愛映画の翻訳ならワタシに全部任せればいいのに...」とか。一つ間違えたら妄想癖のある人(笑)。想像が現実的だろうとなかろうと、少なくとも私はそんな話を聞くと幸せな気分になります。

将来の仕事の可能性を話している時に、「ワタシには縁がないから」、「ワタシの力じゃまだまだ語る資格がなくて...」なんてすぐに言う人がいる。謙遜なのかもしれないけれど、ちょっとがっかりです。「そりゃアンタ、そうかもしれないけどね。自分の未来に対してそんなに無防備でいいの?もし明日にチャンスが訪れたら最善の対応ができるの?そんなことじゃ、ピーコの思うツボだよ!」。

仕事でもスポーツでも、何かの道を極めた人がテレビや雑誌のインタビューに応えて「無我夢中でやっていたら、いつの間にかここまでたどり着いただけです」とか、「私はまだまだです。師の教えに忠実に従ったら上手くいっただけです」なんて発言するのをよく目にします。でもそれ、はっきり言って本音じゃないですよ。本人にはウソをついているという自覚はないのかもしれません。でも周りの人への気遣いを優先したそんな社交辞令は、「あなたが成功したほんとうの理由を知りたいんです!参考にしたいんです!」と願う人にとって、何の役にも立たない。

2004年のアテネ・オリンピックで活躍した日本人選手たちのインタビューを聞きましたか?「絶対にメダルを取る!表彰台に上る!それだけを考えて今日まで頑張ってきた!」。堂々とそう言ってはばからないじゃないですか。自分が至るべき結果をどの選手もが明確に口にし、それをイメージすることからスタートしたと言います。
卓球ではベスト16で敗れた福原愛選手が、記者会見でこう聞かれていました。「この負けは次へのいいステップになりますね」。なんてありがちで意味のない質問...とガッカリしていたその時、あの'泣き虫愛ちゃん'が「そんなきれい事じゃありません!」と声を荒げたのです。。福原愛選手の世界ランキングは当時20位にも達していませんでした。それでも表彰台に上がるぞというイメージを明確に持って試合に臨んでいたんですね。カッコイイです。
日本人選手のメダルラッシュの秘密は、選手たちのそんな意思の力、イメージの力によるところも大きいと思いました。

NHKの番組(2004年現在)「難問解決!ご近所の底力」って知ってますか。「何でそんな番組観てるの?」なんてつっこまれそうですが(笑)。ある日の特集は、「オレオレ詐欺(振り込め詐欺)や悪徳商法に引っかからない法」でした。騙されやすい人は、「まさか自分のところに来るわけがない。来たとしてもワタシは騙されるような人間じゃない」と思い込んでいるんだそうです。今電話がかかってきたら、'受け応えをしている自分のイメージ'が頭の中にまるでないから引っかかる。推奨する対策は、「ほんとうの息子なら、生年月日を言いなさい!」、「そんな商品はいりません。帰って下さい!」など、普段から役者の稽古さながらに、声に出して練習しておくことだそうです。

映像翻訳に関わる人も同じだと思いました。メジャーな作品、憧れの素材、目標としている仕事を横目で眺めながら、「まだまだワタシには縁がないんだ」なんて思っている人がいたら、そんな思考停止そのものが望む仕事を遠ざけ、進歩の足枷になっていることに気づいてほしいのです。映画が大好きな映像翻訳者であれば、「ワタシが監督になって、潤沢な予算を与えてくれたら、こんな映画を創ってやる!」なんて普段から考え、熱く語ってくれるような人が頼もしいですね。
ハードルを高くしたところにあるイメージは、明日の仕事の備えであるとともに、向上心や知識欲を駆り立ててくれます。道を歩いている時でも、就寝前のちょっとした時間でもこなせる'仕事'の一部だと考えてみてはどうでしょうか。勉強中の人はもちろん、すでにプロとして活動している皆さんもぜひ実践して下さい。
まずはピーコへの反撃でも考えておきましょうか(笑)。

マギー司郎が教えてくれた、自分の弱みを認める強さ

NHKで放映中の「課外授業 ようこそ先輩」。
各界で活躍する著名人が母校の小学校を訪ねて、今の子どもたちを相手に独自の授業を行う番組です。欠かさず観ているわけではありませんが、注目している人が先生になったり、ユニークなテーマだったりすると観ることがあります。料理研究家の平野レミさんは、あのハイテンションで子どもたちに創作料理を手ほどきし、生真面目で知られる元プロ野球選手の村田兆治さんは、野球になんの興味もなさそうな子どもに向かって、豪快な'まさかり投法'で速球を投げ込んでました(笑)。子どもたちにとってはもちろん、教壇に立つ'先生'たちにも大きな発見と感動があって、終わりにはさわやかな気持ちにさせてくれる番組です。

再放送でしたが、ベテラン・マジシャンのマギー司郎さんが先生を務める回を観ました。マギー司郎さんと言えば、今では弟子であるマギー審司さんの方が有名になってしまって、「ちょっとパンチに欠けるなー」という印象です。
授業のテーマはもちろん「手品」。先生は、「手品を披露することで、人を楽しませる喜び」を子供たちに体験してほしいと考えています。もっと言えば、手品のテクニックは重要ではなく、「どうしたら多くの人に笑ってもらえるのか」を教えたいらしいのです。先生のウリである茨城弁のまったりしたトークを真似しろというわけではありません。翌日には全員が隣のクラスにたった独りで乗り込んで、マジックを披露して笑わせろというのです。
「こりゃー、けっこうキビシい要求だな」と思いました。でも「まぁ最後はいつものごとく、課題を克服した子どもたちが先生に感謝して、さわやかな別れってことで」――。
そんなシーンを想像していた私は、大きなショックを受けました。

先生は、笑わせるコツが見つからない子供たちに「確実に笑いを取れる方法」として、こんな風に教えたのです。「手品に関係なくていいからね。自分のダメなところ、弱いところを見つけて正直に話すんだよ。そうするとお客さんはきっと笑ってくれるよ」。
一瞬、我が耳を疑いました。だって、自分の弱みやコンプレックスを他人に話して笑われるんですよ。そんなことをフツーにできる人は、大人にだってめったにいないじゃないですか。

当然、子供たちは悩みました。そりゃそうですよ。皆さんも自分が小学生の頃を思い起こして下さい。「寝ぐせがついているよ」なんて言われただけで傷ついたり泣いたりするのが子どもです。「ボクは勉強ができないんですよー、アハハッ」とか、「ワタシは人と話しをするのが苦手なんです」なんて自ら打ち明けること、ましてや隣のクラスの同級生全員から笑い者にされるなんて...。
「これまで観たシリーズの中で、子どもたちに最大の試練がやってきた!」と思いました。なかなか自分の弱みと向き合えずに苦しむ子供たちを見て、チャンネルを変えようかなとさえ思いました。

シーンは翌日――。一人の男の子が隣のクラスでヘタなマジックを披露しています。そして一生懸命に話しかけているんです。「ぼくはですねー。ダメなやつなんですよー。家にいる時と学校にいる時の態度が違うんですねー。学校だとカッコつけてちゃんとしてるけどぉ、家の人にはぁ、お母さんとかにはぁ、意地悪しちゃうんですねー」。
同級生たちから自然な笑い声が湧き起こっています。その様子をマギー司郎先生はじっと見つめていました。男の子はマジックが終わって、「うまくいって嬉しかった」。

自分の弱みと向き合う苦悩。そしてそれから逃げずに他人に打ち明けて笑われる喜び。子どもたちがたどった道程は、マギー司郎さんの人生そのものだったのです。様々な体験を乗り越えて、ある境地に達した人間の大らかさと厳しさ。マギー司郎さんの堂々とした姿を前にして、私はしばし言葉を失いました。

それと同時に、「たとえ相手が子どもであっても'教える'という行為に妥協や誤魔化しは通用しないんだよ。自分が正しいと信じることを真っ直ぐに伝えることが、相手への礼儀であり筋というものなんだよ」――マギー司郎さんのそんな声なき声が、確かに聴こえました。

彼が多くの弟子から愛されている理由が、わかったような気がしました。

(追記:この番組(NHK「ようこそ先輩!~マギー司郎さん編~」)は、このコラムを執筆した後に、教育番組国際コンクール「2004年日本賞」の東京都知事賞を受賞しています)(了)

サラバ、手を抜く人

私は"そこそこ上手くやろうとする人"が嫌いです。そこそこ上手くやろうとする人は、仕事や役割を与えられると真っ先に「合格の最低ラインはどこか?」を気にします。あるいはずる賢く合格点のボーダーを見極め、そのちょっと上にいれば責任は果たせると決めてかかります。「まあ、こんなもんでいいだろう」と自分勝手に思い込んでしまうことがクセになっています。そしてそれ以上の努力をすることを、「損をした」と考えてしまいます。
要領がいい人と言えば聞こえがいいが、ほんとうのところは「手を抜く人」です。相手の顔色、条件、周囲への体裁、自分の今のコンディション、他の仕事との兼ね合い......そこそこ上手くやろうとする人が手を抜くために思いつく言い訳は、探せばいくらでも転がっていますから。
手を抜く人は、仕事の内容が評価されなくても傷つきも反省もしません。口では「ゴメンナサイ」と言っていても、ほんとうに反省なんかしていないのです。「時間がなくて...(時間があれば私はできる人)」「他に仕事が重なって...(一つに集中すればできたはず)」「初めての素材なんで...(調べ物が多すぎる!他の素材ならもっとできた)」「マイナーな作品なんで...(自分が好きなテーマなら力を出せたのに)」「ギャラが安いんで...(この程度の金額で1週間もつぶせないよ)」......。
そんな風に、自分の仕事に"言い訳のための余白"を用意しておけば、力不足を指摘されても傷つかなくて済みます。「だって全力じゃなかったんだから」と、無意識の計算をしているのです。そんな人は、一見小心者で繊細な人のように見えます。しかし、その人が全力で取り組んでくれると信じていた、パートナーや周囲の人の心を深く傷つけていることには気づかない。
繊細な振りをした鈍感な人。

と、厳しく書きましたが、これは「プロ中のプロ」を目指す過程で誰でもぶつかる壁なんです。私などはむしろそんな期間が長すぎた気がします。自分に厳しく、目の前の仕事を通じて一歩でも前に進もうという高い意識を持てば、一瞬で通り過ぎることができる落とし穴。ここを乗り切れるか否かで、プロとしての将来が決まると言っても過言ではありません。
当校の受講生、修了生の皆さんには、そんな障害物を軽々と乗り越えてほしいと願っています。私は、自分自身がそれに気づかずにいた期間に、浪費した時間と人に迷惑をかけた苦い経験をもとにして、皆さんをお手伝いしたいと考えています。
先日、元プロ野球の投手であり、何度も選手生命を脅かされるようなどん底から這い上がって、日本中のファンに感動を与えた村田兆治さんのお話しを聞く機会がありました。打たれても打たれても、左手の腱を切り取って右肘に移植するという大手術を受けてまでも、「先発完投」にこだわって剛速球投を投げ続けた"全力の人"として知られています。
村田さんは今、北は利尻島から南は小笠原諸島まで、日本各地の離島を巡って子供たちに野球を教える活動を続けています。その様子はテレビ番組などでも時々紹介されています。野球なんてやったこともないであろう子供たちにグローブを与え、戸惑い気味の子供の顔など気にする素振りもなく剛速球を投げ込む村田さん。私はそれを観て、「テレビカメラをちょっと意識したパフォーマンスだろう」程度に思っていました。
しかし、村田さんの話を聞いているうちに、恥ずかしながら涙が浮かんできました。
現役を引退して(これから何を心の糧にして生きていけばいいのか)と悩んでいた頃、北海道の小さな村から「子供たちに野球を教えてほしい」という依頼が舞い込んだそうです。特に考えもなく向かった先で、自分を暖かく迎えてくれた人たち、そして目を輝かせて運動場に集まった子供たちを前にして、村田さんはこう考えました。
「手抜きはダメだ。今、自分が投げられる最高のボールを見せて、受け止めさせることが、唯一子供たちにできることだ」。
ソツなく子供たちを指導して、そこそこ野球が上手くなったところで、子供たちの将来の何になるというのか。プロの投手として半生を生きた者として、子供たちにできることは何か。「手を抜かない人間の姿を見せること、手を抜かないボールが生きていることを、直接伝えることだ」と悟ったそうです。
私が感銘を受けたのは、手を抜かないということだけではありません。むしろここからの話です。
「でも、野球をやったことがない子供に剛速球をむやみに投げ込むのは危険ですよね。私は胸の位置でグローブを構えるように指導します。そこを動かすなと念を押します。必ずそこに球が行くから大丈夫だよと宣言して投げるのです。もちろん絶対に外しません。なぜなら私はプロの修羅場をくぐってきた投手だからです。全力の速球を構えたところに投げるのが、私の仕事だったからです。」
「今、私は56歳ですし、肘もボロボロです。でも、子供がグローブを構えたところに正確に強い球を投げるために、毎日、現役時代と同じように練習して鍛えています。だから自信があります」
村田さんは、ただ思いっきり投げているだけではなかった。その球に込められた努力と、そこから来る自信を、ご本人の話を聞いて初めて知りましました。日本を代表する野球人が、名も知れぬ離島の子供たちを相手に、今も手を抜かない投球を続けている。そのために訓練を続けている。私たちがそこから学ばなければいけないことは、あまりにも多い。
不器用にさえ見える生真面目さの裏にある燃えるような情熱と確かな技術。トリノオリンピック・女子フィギュアスケートで金メダルを獲得した荒川静香さんにも、通じるものがあるように思えてなりません。
もし皆さんに"手抜きの誘惑"が襲ってきたら、ぜひこの話を思い出して下さい。(了)

忘れること、肯定すること、許すこと

鑑賞会で観た映画「ノエル」に、かつて自らの身勝手な行動が原因で、イヴの夜に妻を交通事故で亡くした老人が登場します。ニューヨーク市警の若い警官(男)をなぜか妻の生まれ変わりだと思い込んだ彼は、周囲から狂人扱いされます。雪の中に倒れ込んだ老人をしかたなく病院に担ぎ込んだ警官は、老人の息子からはじめて事実を告げられました。
(翻って自分はどうか)――警官は、同じように身勝手な行動によって大切な婚約者を失いかけている自分の姿を重ねます。このままではきっと来年もその次の年も、同じ苦しみを味わうであろう老人を救うことはできないか?自分にできることは何か?警官はベッドに横たわる老人の手をそっと握って、こう言いました。
「私(妻)は、あなたを許します」

皆さんの2005年はどんな年でしたか?私はと言えば、頭を過ぎるのは失敗した自分、怠けた自分、嘘をついた自分、そして思い通りにならなかったあの人、迷惑をかけられた(と思っている)あの人、自分を嫌っている(と思っている)あの人...。ため息とともに「今年は最悪だったよ」という言葉が口から出てきそうになります。

でも、実際のところは「今年はかけがえのない、いい年だった!」と、自信を持って言えます。なぜかというと、心に備わっているある"ろ過装置"を、今、フル稼働させているからです。
記憶など、しょせんはできそこないのこの頭に貼りついた、不確かな情報に過ぎない。大晦日に何を食おうか、姪のお年玉のぽち袋のデザインは何がいいか、同じ時間に3つのチャンネルでやるお笑い特番をどう録画するか、そんな一大事でいっぱいいっぱいの脳細胞に、どうこう騒いでもどうにもならないことを収納するスペースなどもはやない。まかり間違って収納したとしても、あれもやりたいこれもやりたい2006年に、ちまちまと引っ張り出して感傷に浸っているほど暇でもない。

悪い記憶は今年のうちにろ過装置を通してしまいます。第一の機能は「忘れること」。覚えていて得をしたという、恨みつらみや自己嫌悪って、これまでの人生でありましたか? 今年ほんとうに学んだこと、反省し活かすべきことは、意識しなくても頭の適所に収まっているはず。人の体とは、そういう風になっている(と思う)。早いとこ忘れて下さい。
それでも頭を離れない悪い記憶は、第二の機能「肯定すること」で片付けて下さい。私はこれが得意です。信念を持ってやったことは結果が悪くても、肯定する。理屈で考えなくても、大概のことは「おかげで成長した」と思えばいいんです。(自分を否定した憎っくきアイツ、ありがとう。おかげで成長できちゃったよ)って具合に。思い出す度に「ムカッ」、「ズキッ」とするのではなく、相手の顔を思い描いて、心の中で「ありがとう!」と繰り返して下さい。そのうち忘れますから。

それでもなお残る手ごわい相手をどうするか――。もちろん私にもそういう記憶があります。恐らく一生引きずるかもしれないという、心の痛みと恐怖...。癒えない傷として、胸に刻み付けられるかどうかの瀬戸際で、私の中のろ過装置の、最後の機能が動き出します。

「ワタシハ、アナタ(ワタシ)ヲ、ユルシマス」

「ノエル」では警官の一言で、老人は過去の呪縛から解放されました。しかし、警官は神でもなければ、懺悔に耳を傾ける神父ではない。そう、「許します」の一言は、自分自身を救うために向けられた言葉だったのです。

映像作品が持つほんとうの価値を発見し、広く世の中に伝える使命を担った映像翻訳者の心眼は、常に澄んでいなければならないと、私は思います。
皆さんにはぜひそうあってほしいと願っています。すっきりした気持ちで、2006年を過ごして下さい!(了)

'その場にいる'ことの大切さ

基礎コース・IIの後半で、私は「映像翻訳者の営業術」という講座を担当しています(修了生には懐かしいですね)。いつものように、いろんな無駄話(!?)をした挙句に「自己PRシート」を書いてもらうという内容ですが、講義のねらいをさらに強調する意味で、皆さんにこんな言葉をプレゼントしたいと思います。

「'その場にいる'という行為が、新たな仕事を生み出す最善の方法である」

私がまだ20代の頃、自分で立ち上げた会社が軌道に乗り始めると、「忙しそうにしている自分」に酔っている状態、今にして思えば単なるお調子者以外の何者でもないのですが、そんな時期がありました。「体が二つ欲しい、1日に30時間あればいいのに...」なんて考えていると、打ち合わせや会議に出る時間がどうも無駄に思えてきます。特に、内容の想像がつく会議や、儀礼的な顔合わせだとわかっていると、「オレの役割は決まってるんだ。さっさと依頼を済ませてくれ!」と心の中でつぶやきながら、なんだかんだと理由をつけて避けるようになりました。それでもやりたい仕事は永久に自分のところにやってくるように思えたのです。

そんなある日、'マーケティングの神様'とまで言われた某広告代理店の御大から食事に誘われました。

ものごとの'かたち'は、見る人の心持しだい!
(「ロールシャッハテスト」風の作画です)

「この前の企画会議に顔を見せなかったね」
「はい、でもあのプロジェクトでは、重要な部分ですでに仕事を頼まれてますから...(行くだけ時間が無駄なんですよ)」。
すると神様はポツリと一言。
「新楽君、その場にいることの大切さがわからないような奴は、次のステージに進めないよ...」

それから何年も、私はその言葉のほんとうの重みを理解することはありませんでした。今はそんな期間を過ごしていたことをとても後悔しています。皆さんには、絶対に犯してほしくない失敗です。

メールや電話のやりとりで生じた誤解が、直接会って話したら簡単に解けたなんて経験はありませんか?顔を出さずに立派な贈り物を送ってくれる人よりも、わざわざ訪ねて来てくれて「いつもありがとう!」と笑顔と共に渡された小さなプレゼントが嬉しく思えたことはありませんか?

何か新しい仕事を始める時、新しい発注に応じる時、その場で顔を合わせた者同士には、前向きで心地よい連帯感、信頼感、エネルギーが生まれます。それは決してレジュメや企画書や議事録、メーリングリストで表現することはできないもの。そういう気持ちを共有した者同士は、困った時に静かに助け合ったり、新たな展開に同じようにわくわくしたりすることができるのです。
当時の私のように、「自分は自分の役割をこなせばいい」などと考えているうちは、決してそんな気持ちを味わうことができません。楽しく価値ある仕事をしているつもりでも、実は機械の歯車と同じ。相手にとっては便利な存在だけど、発展する関係を望まれてはいない。ましてや「この人に賭けてみよう。新しい仕事をいっしょに始めよう」などと思われるわけがないのです。

厳しい言い方をすれば、仕事の相手と向き合って話すことさえ面倒だと思っている怠け者が何と多いことか。それでいて、「自分は評価されていない。なんでもっと条件のいい仕事を発注してくれないんだ」などと愚痴をこぼしている。私の耳に届くフリーランサーからのトラブルの相談の多くは、「直接相手と会って話をしていれば避けられたはずなのに」というものが大半です。逆に'その場にいる'ことを楽しんでいるフリーランサーで、発注がなくて困っている人や、無用のトラブルに悩んでいる人をあまり見たことがありません。

映像翻訳は、言ってみれば新規プロジェクトの連続です。ジャンルが変わり、メディアが変わり、パートナーとなるチェッカーが変われば、確認し合うべき内容、新しいルール、新鮮な発見が必ず発生します。発注者と受注者が会って話すネタは尽きないのです。

「素材を送ってもらえば作業はできる」、「時間調整が難しい」、「交通費が無駄」など、直接会わないで事を運ぼうとする言い訳は、いくつも転がっています。それに流されるか、立ち止まって行動を起こすか...

すでにデビューされている修了生の皆さんが、現状を少しでも変えてみたいと思ったら、翻訳の依頼の電話があったクライアントのところに出向くこと、そしてほんの10分だけでも'その場にいる'ことをお勧めします。きっと新たなスキル、作業の方法、見識を高めるヒントを掴めるはずだからです。何より、相手との信頼関係が深まります。

なんでそんなに自信を持って言えるのかって? 私自身が今日、2つのプロジェクトが生まれる場に足を運んだことで、大きな疑問が一つ解消し、新たなビジネスのヒントを掴むことができたからです。(了)

へこんで、落ち込んで、何が悪い?

嫌なことや自分の力ではままならないことに遭遇したら、へこんで、落ち込んでいればいいじゃないか――向上心に溢れた受講生や、新たな仕事に臨もうと腕まくりをしている修了生の中からは、「そんなマイナス志向のアドバイスは聞きたくない!」という声が聞こえてきそうです。でも、ちょっとだけ私の体験談を聞いて下さい。

私は、はっきり言って1年中、天下を取ったような満足感、優越感と、北の果てに1人で旅に出ようかと真剣に悩んでしまうほどの劣等感、自己嫌悪の間を行ったり来たりしています。もう少し正確に言うと、その割合は2対8くらい。へこんで落ち込んでいる時間の方が、実際はかなり長いのです。

よくよく考えてみれば、ある目標を一つ成し遂げるためには、試行錯誤や、地道な努力や、失敗や、人に迷惑をかけることや、予定外の出来事から逃げられない。それらを乗り越えて何とか目標にたどり着いたとしても、「やった、やった!」と喜んでいられる時間はほんの一瞬で終わってしまう...。ゴールした瞬間には、もう次の目標が待ち構えているわけですから。
達成感に浸っている時間は2割。もがいている時間は8割。冷静に考えれば、これは逃れようのないサイクルだと言えます。

ならば、へこんで落ち込んでいる時の自分といかに上手くつきあうか――。その方法をマスターすれば、日々の戦いはほんの少し楽になるのではないでしょうか。
 
そんなシンプルな道理を私に強く納得させてくれたのが、米国の心理学者にして大ベストセラー作家でもあるリチャード・カールソン博士でした。90年代後半、博士の著書の一つ「小さいことにくよくよするな!」は、全世界で1500万部を売り上げ、日本でも100万部を超える大ベストセラーとなりました。私はいわゆる「自己啓発本」というのがピンとこない性質(たち)だったので、「あふれんばかりの啓発本の中で、たまたまブームに乗った1冊」、そんな程度にしか思っていませんでした。

ある日、同書を扱う日本の出版社の要請で、博士が急きょ来日することになりました。本はさらに売れ続けていて一種の社会現象を巻き起こしていたので、マスコミ各社は、ここがチャンスとばかりに取材依頼を申し出ていました。私もその一人で、書評を担当する「日経ビジネス」という雑誌の記事のために、博士にインタビューすることになったのです。私の次にはTBS「NEWS23」の筑紫哲也さんがインタビューの順番待ちをしていたこともあって、その時は「サッサと終わらせてしまおう」などと思っていました。

しかし博士の話を聞いていくうちに、「これは!」と感じ始めました。博士は私が想像していたような、耳ざわりのいい言葉を並べるだけの啓蒙家ではありませんでした。普段は主に米国企業の経営者やリーダーを対象に、地道な心理カウンセリングを手掛ける心のケアの専門家であり、ビジネス社会のしくみを子細に分析したうえで、論理的かつ現実的に精神の問題を解決しようと努力を重ねている人だったのです。
博士曰く、「米国ビジネス界のリーダーは、1980年代以降、'Break Through(現状打破)'という言葉の呪縛から逃れられないでいる。そういう経営者は'Break Through'を勝手に自分の宿命と勘違いし、自分を追い立てることで心のゆとりを失い、遂には不安と焦りに苛まれて、何をやってもうまくいかない状態に陥る。結局、途中で大事な仕事を放り出してしまうか、精神を壊してしまう人も少なくない。今、その傾向が世界中の人々に蔓延し始めている」。

なるほど、つまり「小さいことにくよくよするな!」という教えは、「小さい出来事をガンガン乗り越えて、目標に向かってまっしぐらに突き進め!くよくよするなよ!」というエールではないのです。正確には、「小さなトラブルや気がかりは常に存在するもの。だったらそれを認めてしまおう。「焦ってもすぐにはどうにもならないことや現状打破できないこと」があるのは当然だ。解決を求めず、今は堂々と受け入れなさい。そんなことよりも、今のあなたにはじっくり取り組むべきことは、他にあるでしょう」という、暖かい助言なのです。
実はこれ、目標達成を最速で叶える実践的な方法論でもあるんです。確かにこうやる方が、持続力を長く保てるし、焦らずあの手この手を考える余裕も生まれてくる。これはまさに心をマネジメントする'技術'。私は博士の言葉に大いに共感しました。

現状打破に躍起になったり、目の前の小さな問題に悩み抜いたせいで、当初の「目標」を見失ってしまう人がいます。中には、いわゆる「リセット願望」が強くなり過ぎて、何もかもを途中で投げ出してしまう人も見かけます。とても残念なことです。

居酒屋に置き忘れたケータイは、たいがいの場合翌日戻ってきませんか?パソコンが壊れても、何日か後には誰かにメールをしている自分がいませんか?喧嘩した友達も、次の日笑顔で挨拶すれば、たいがいの場合機嫌を直してくれますよ...
そんな小さな出来事のために毛布にくるまって胃をきりきりさせて過ごすくらいなら、課題をもう一度見直したり、単語を3つ覚えることの方が、楽しくて効率的ですよね。(笑)

私はまだまだ未熟で、自分のことでもいっぱいいっぱいの毎日ですが、少なくとも「映像翻訳の技術を習得する。映像翻訳者になる。映像翻訳業界やそれに関連するフィールドで活躍する」と願う皆さんの真っ直ぐな目標においてならば、その入り口と出口を、いつもしっかりと見つめています。もし、壁にぶつかってくよくよするようなことがあったら、遠慮なく相談して下さい。とはいっても、大抵の場合はこんなアドバイスかもしれませんが。(笑)

「へこんで落ち込んでいるんだね。なるほどよくわかる。でもね。そんな小さいことは、とっとと忘れちゃうか、放っぽらかしときゃいいんじゃない!?」(了)

がんばれ、フリーエージェント!


「一つの企業や団体と長期間に渡る被雇用契約を結ばずに、「スキルに裏打ちされた独立自営の精神」に従って、自らの能力を最大限に活かせる職場を社会に広く求めることができる人材」――フリーエージェントという言葉に対する正確な定義はまだありませんが、アメリカで発表されている最新文献などを参考にした上での私の解釈です。

映像翻訳者になるということは、同時に優秀なフリーエージェントになることが要求されます。企業や団体の構成員とは本質的に異なる職業意識、対応力、生活習慣を身に付ける必要があるのです。
仕事の質や量を年々向上させていくための「スキルアップ」について言えば、大きな組織には教育係がいて、研修があって、日々の会議がある。自ら動かずとも、お膳立てが整っている場合がほとんどです。もし会社からスキルアップを求められないのなら、それは「どうぞ反復作業を繰り返して下さい。あなたには今以上のスキル
は求めません」という意味。一見ラクで効率的なように見えますが、それでは固定の歯車です。錆びついたら新品と交換される運命も覚悟しなければなりません。
一方、私の周りで活き活きと働くフリーエージョントたちは、自ら進んで学ぶことに躊躇がありません。新人のうちはもちろん、ベテランと呼ばれようと、安定収入を得て成功者と讃えられようと、新しい出会い、新しいスキル、新しい価値に常に関心を抱き、それを自分の力にしようとする努力を怠らないのです。

ではここで、あなたの「フリーエージェント指数」をチェックしてみましょう。
【問題】「今の仕事に必要だから、スキルを学んだ」。「新たなスキルを学んだら、仕事がついてきた」。両者の違いを一言で述べなさい。
(【答え】は巻末を読んで下さい)

当校の講師の多くは、翻訳・通訳・執筆業の世界を生き抜いている筋金入りのフリーエージェントです。講義が終了した後に「今日はどうでしたか?」と聞くと、受講生の訳出や鋭い質問、考えさせられた指摘などについて、140分の講義を終えたばかりとは思えないほど、いつまでも熱く語り続けます。受講生の皆さんを指導するのはもちろんのこと、同時に「自分自身のスキルの向上に、受講生との出会いを役立てているんだな」と感心します。
当校の多くの修了生は自主的な勉強会を開いたり、プロになった後も積極的にセミナーや研修会に参加しています。そんな姿を見た受講生の中には、「いつまで勉強を続ければいいの?」と思う人もいるかもしれません。でも、フリーエージェントの本質が「自ら学んで進化し備えること」だと理解できれば、納得のいく姿ではありませんか?
このようにたくましく成長し続けるフリーエージェントの先輩たちが、受講生のすぐ近くに大勢いるのです。

フリーエージェントという生き方への関心は、日本でも年々高まりつつあります。将来的には国や自治体も支援に乗り出すことでしょう。しかし、そんなものを当てにするようではフリーエージェントの名が廃(すた)ります。
私は職業人としての人生の大半がそうであったように、フリーエージェントという生き方が大いに気に入っています。自分が気に入っているから、年齢も性別も性格も背景も超えたところで、この生き方を目指す人を応援したいのです。
がんばれ!フリーエージェント! 

【答え】前者は「仕事は与えられるもの」と考える人の発想。後者は「仕事は自分が創る」と考えるフリーエージェントの発想。 (了)

「鉄腕アトム」の生みの親、手塚治虫氏は負けず嫌いだった

NHK-BSで不定期に放送されている「マンガ夜話」。

話題のマンガや名作について文化人が熱く語り合うユニークな番組です。2004年4月の放送では手塚治虫さんを特集していました。私が興味を持ったのは「手塚治虫先生は、誰もが認める国民的マンガ家。なのに、どんなに尊敬される立場になっても負けず嫌いな性格は変わらなかった」というエピソードです。

若手のマンガ家に会うと必ず「私はキミと同じタッチで絵が書けるんだゾ」と、自分から議論を挑んできたのだそうです。'神様'としてのたしなめではなく、本人は至ってまじめだったといいます。
まるで子供!究極の負けず嫌い!新しい作風やアイデアがいつも気になっていて、マンガ界のトップに立ってもまだ、「進化を続けよう、腕を磨いていくぞ」というわけです。同時に感心したのは、恐らく当時は"日本で最も忙しい人"の一人であったはずの手塚治虫さんが、続々と登場する新人マンガ家の作品の隅々までに目を通していたという事実です。それはトップとしての誇りなどとは無縁の、純粋な「負けず嫌いの気持ち」が生む力だったのではないでしょうか。

わが身を振り返ると、「忙しいから、仕事に直接つながらないことだから」などと自分自身に言い訳して、「ほんとうは今、腕を磨くために理屈抜きで没頭しなければいけないこと」を後回しにする機会が何と多いことか!
今、行動を起こすのに理屈が必要なら「負けず嫌いだから!」だけで十分なんだと思います。今、単語を覚える、ビデオを観る、映画を観に行く。それができない、やらない自分に言い訳は無用だと、手塚治虫さんのエピソードは教えてくれます。負けず嫌いだから知らなきゃ悔しい、できなきゃ悔しい、だから今やる...。それでOKなんです。(了)

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