Tipping Point
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アンドロイドは機械翻訳で夢を見るか?

コンピュータ翻訳(機械翻訳)が注目を浴びている。あなたはこのトレンドをどうとらえるだろう?「翻訳者の仕事が失われるのではないか」と危惧する声も少なくない。ほんとうにそうだろうか?

私は「翻訳者が翻訳者たる存在感を示す好機だ」と考えている。

まず事実を確認しておきたい。今年ベストセラーとなった『2050年の世界 ~英「エコノミスト」誌は予測する~』の中に、翻訳の今後を扱った項目がある。「言語と文化の未来」と題された著者の分析を要約すると次の通りだ。

・コンピュータを使った翻訳技術はさらなる進化を遂げる。しかし、「言語を理解させて翻訳する」という方法ではなく、「人間が翻訳した訳文を大量にかき集めて原文に一致させる、統計学を駆使した方法」が主流であり続ける。

・言語学者ニコラス・オスラーは「コンピューターが人間の脳のように言葉を理解できるようになるには長い時間を要する。ましてや迅速かつ正確に翻訳するには、さらに長い時間が必要になる」と述べている。

・こうしたことから、あと40年かけても優秀なプロレベルの翻訳をコンピュータが行うのは難しいだろう。

誤解を恐れず一言で言えば「機械翻訳が単純な言語マッチングの域を超えることはなく、人間の言葉を人間自身の理解と創造性をもって変換するニーズは失われない」ということだ。

その通りだと思う。私は最近、講演やセミナーなどに呼ばれるとこんな話をしている。「Good morningを日本語にする作業は誰でもできるしやっている、もちろん翻訳ソフトでもできる。でも、プロの翻訳者が『おはようございます』と訳したらそれは'仕事'となる。つまり、報酬を求めるに値する」。

しかし、もしその訳者が「Good morning=おはようございますでしょ」などと片づけてしまうような人なら、それはプロの翻訳者ではない。機械と同じだ。「おはよう!/お早うございます/おっは~!out(訳さない)/グッド・モーニング/ぐっどもーにんぐぅ/(前後の流から)もう起きたのか/お目覚めか/遅いね......そんな無限の候補から根拠をもって最適な訳語を導き出すのがプロの翻訳者だ。

ここまで書いていたら、修了生で映像翻訳者の扇原篤子さんがとても面白い事例をSNSで挙げて下さっていたので紹介したい。絵本の金字塔『百万回生きたねこ』の英訳版が2013年に出版されるのだが、その翻訳者の作業に関するエピソードだ。

訳者はタイトルの英訳にあたり、「1万回死んだねこ」ではダメなのか?と悩んだという。英語の語感なのか、インパクトなのか、それとも内容の解釈からか、それはわからないが、とにかくそんなふうにしばらくの間悩んだというのだ。結局『The cat that lived a million times』に落ち着いたという。そのまんまだ(笑)。しかし、その結論に至るプロセスには人間臭が充満している。プロだ。

素晴らしき哉、翻訳者――社会にそう認めさせ続けるために今、私たちは何を習得すべきか? 機械翻訳ができない、やらないことを考えれば自ずと答えは見えてくる。社会はヒト。アンドロイドではない。

この冬休み、そんなことを頭の片隅に置きながら1冊の本、1本の映画やテレビ番組と向き合ってみてはどうだろう。(了)

ワタシの3月11日

震災から1年が過ぎようとしている。

当校は震災の翌日、「日常性の確保」を会社の方針として内外に打ち出した。震える
ような光景を映し出すテレビの画面を見守りながら、一晩考え抜いたうえでの判断
だった。その結果、講義を休講としたのは翌12日のみで、13日からは予定通りの講義
とその他の事業運営を続けた。

交通機関を乗り継いで駆けつけてくれた講師の皆さんが支えだった。誰ひとりとし
て、休みを申し出る先生はいなかった。通常日程に加え、その日時に参加できない受
講生がいることをかんがみ、同内容の講義をその翌週にもう一度行う施策も実行し
た。それを受け入れてくれた講師の皆さん、そして実家の家族等との連絡に不安を抱
えながらも通常業務に努めたスタッフを、心から誇りに思う。

そして何より、そうした時期にも関わらず学びに打ち込んだ受講生の皆さん、それぞ
れの仕事を全うしようと努めていた修了生の皆さんを誇りに思った。ほんの束の間、
ロビーで生まれた笑いの輪や、「こんにちは!」と声をかけ合う時にもらった笑顔に
励まされた。

それから5月の連休明けまでの2ヶ月間は、私の職業人人生のうちでも最も濃密な期間
となった。もちろん、身を切られるような思いで過ごした、という意味で。

思い出話をしているのではない。一生懸命やったことを誉めてもらいたいわけでもな
い。きっと多くの人がそうだったはずだから。

伝えたいのは「それが私の、震災と生きるリアル」であるということだ。

これから数日間は、多くのメディア、特にテレビは様々な特集を組み、あの出来事を
振り返るだろう。社会を俯瞰し、総括することに長けた人たちが、心を揺さぶるよう
な映像やコラム、切り口で、あの出来事の悲惨さと今も苦しむ人々の現状を伝えるだ
ろう。そして、「あの出来事を忘れてはならない。私たちにできることは何かを考え
よう」と呼びかけるだろう。

実は、私はそれに一抹の不安を感じている。メディアの総括が巧みで、瞬間的に私た
ちの心を打てば打つほど、震災は頭の中で、まるで遠い国の悲しい出来事のように整
理され、'他人の不幸'を収める箱に収まっていくようにも思えるからだ。

先の大戦が悲しい出来事で、二度とそれを繰り返してはならないとは誰もが思うだろ
う。でも、先の大戦に自らのリアルを重ねることができない私は、そうは思うが今の
24時間を大戦と共に過ごすことはできない。

皮肉なことに「あの出来事はこうだった。だから忘れてはいけない」と言われれば言
われるほど、その出来事はわかりやすい'かたち'となり、記憶の整理箱の片隅にピ
タリと収まってしまう。思い出せばたいへんだたいへんだと言いながら、基本、他人
事になる。

しかし、あの震災は私のリアルだ。彼の地の出来事としてしまい込むなど、決してで
きないし、してはならないと思う。私は今も苦しむ被災地の方々と、自分のリアルを
媒介としてつながっている。「絆」なんかではない。つながってしまっているのだ。

これから何年経とうとも、あの瞬間を共に過ごした人々とのつながりは、私の行動や
選択を決する要因になり続ける。同じ日本人だからなんていうざっくりとした理由か
らじゃない。ましてや同情や憐みでもない。被災地の復興と行く末は、私の人生のあ
り様、そのものと重なるのだ。

震災から1週間ほどしてからだろうか、スクールに宅配便を集荷する青年がやってき
た。集荷だけでなく、たまに彼の手からスクールに戻される発送物がある。スクール
資料の郵送・宅送を希望された方々に送ったものだが、なんらかの手違いで「住所違
い」が生じ、戻ってくるのだ。「これ、配達できませんでした...」と手渡された発送
物に記された宛先を見て、私は言葉を失った。その住所は津波で街ごとなくなってし
まった状況を連日テレビが映し出していた街のものだった。

この方は助かっただろうか、英語の勉強が好きだったのだろうか、映像翻訳の仕事に
どんな夢を抱いただろうか、それとも資料請求したことも覚えてはいなかっただろう
か......。

私はその資料をデスクの引出しにしまっている。そして、時々眺めながらこの1年を
過ごしてきた。きっとこれからも。

私にとっての3月11日。皆さんはどうだろうか。(了)

知を(少しだけ)深める

何かについて「知る」という行為には段階がある。見たことも聞いたこともない状態を「知らない」とすれば、見たり聞いたりして頭の中に何かイメージが残った状態をもって、多くの人はそれを「知った」と認識する。

情報が氾濫している時代だ。知りたいことや知っておいた方がよさそうなことは、パソコンやスマホ、メディアを通じて次から次へと目の前に現れる。その急流に身を任せていれば、自ずと「知っていること」は増えていく・・・。誰もが思い当たることだろう。

ところがそこに落とし穴がある。まずは次の質問に答えてほしい。

「『人間失格』は太宰治の小説ですか?」

「民主党は現政権を担う政党ですか?」

「東京スカイツリーは日本一高い電波塔になる予定ですか?」

答えはいずれも「イエス」である。何を聞くのかと思っただろう。
では、次の質問はどうか。


「『人間失格』は小説なのですね。では小説とは何ですか?」

「そもそも政党って何ですか?」

「電波塔について説明して下さい」


目の前に問われた相手がいると思って何か言葉を発してほしい。それが正確かどうかはさておき、まずは30秒でも説明できれば立派である。もしできないとすれば、その状態の「知」とは何か?誤解を恐れずに言えば、「知っている」というのは錯覚で、実は「何も知らない」に等しい。

日常生活ではどうでもよいことかもしれない。しかし、映像翻訳者をはじめメディアで言葉を商材にする人やそれを目指す人にとっては致命傷になりかねない。

冷静に考えてほしい。「小説とは何か?それは文章の形式を指すのか?フィクションは小説ではないのか?小説の対極にあるものは何か?」などについて何も考えたことがない人が「村上春樹は一流の小説家だ」という文章を読者や視聴者に売る。それは、食材について何の知識もない料理人がその辺の野山で適当に集めた草木を鍋に放り込んでできた料理を売りつけるのと同じである。

だからと言って、へこむことも落ち込むこともない。「知っている」リストを増やすことをこれから楽しんでいこうと考えた人なら、大丈夫だ。恥を忍んで言えば、上の設問はいずれも私が最近になって思い至り、自分なりに調べてようやく「知っていること」に加えたものである。

「小説」に至っては、ある編集者から「次は『実話をもとにした小説』をテーマに書評を書いて下さい」と頼まれ、気軽に引き受けたものの、いざ選書の段階になると「実話って?フィクションって?ノンフィクションって?そもそも小説って何だ?」と思い悩んでしまったのが調べるきっかけとなった。その過程でフィクションとノンフィクションの中間に「ファクション」というジャンルがあり、現代文学におけるファクションの始まりはトルーマン・カポーティの『冷血』であることなど、興味深い知識をたくさん仕入れることができた。

「知っている」の数を増やすのに、早い遅いはなく、焦る必要もない。大切なのは、見過ごさないこと、そして生涯それを楽しみ、続けることだと思う。もし共感できる部分があれば、今すぐ自分の「知ってるけど知らない」を探そう。答え探しに難航したら、ぜひ手伝わせてほしい。(了)

「やり直さない」生き方

2011年が終わる。皆さんにとってはどのような年だっただろうか。

人は過去を振り返るとき、まずは失敗したことや間違ったこと、悔いが残ることから考えてしまう傾向がある。きっとそういう仕組みなのだろう。それはそれで変えようがないし、反省する姿勢が美徳であることに間違いはない。しかし、私を含めた多くの人の反省の仕方について、私はこんな疑問と改善提案を抱いている。

より良き今とこれからを築くための反省とは、「胸を痛めてやり直す」ことではない。過去の行いを認めたうえで、「直す(修正する、改善する、活かす)」ことこそが真の反省であり、正しい。

過去は財産だ。お金をいくら積んでも買い取ることができない宝である。過去の経験があるから今があり、未来がある。あの出来事やあの体験は、良いものも悪いものも含めて、その人だけが手にした生きた証でもある。違う言い方をすれば、過去の経験や手にした知識はすべて、今とこれからの自分の振る舞いに宿るべきものだ。それが「大人がさらに成長する」という言葉の意味だと信じている。

それはそうだ、当たり前だよと感じただろうか。でも、私の目には少なからずの人が過去を軽視し、あるいは間違った反省の対象とし、できるだけ忘れてやり直すことが未来を切り開くことにつながると信じているように映る。'リセット感覚'や'自分探し'というような言葉が流行り、社会から肯定的に受け入れられる状況を見るにつけ、(どうして自分の中の過去を、そんなに簡単に切り捨てられるの?)と悲しくなる。

いい例がある。成功者や目的を達成して尊敬を集める人が「成功の秘訣は?」という質問に、「いつの間にか今の位置にたどり着いた」「絶対に諦めなかった」と答えるシーンをよく目にする。

それを私流に翻訳すると、「私は成功も失敗も、善行も悪事も、すべてを自分が生み出したものとして積み上げることをやめなかった。その結果、当初に描いたものとは見た目は異なるが、人に誇れるような今の自分が出来上がった」となる。過去を必要とし、活かし、決してやり直さなかった人たちだけが発する言葉だ。

過去だけの話ではない。今の世の中、「興味や関心事、すべきことがたくさんあって、どれもが中途半端になりがち」という声をよく耳にする。これももったいない話だ。そういう人は、「頭を切り替える」という言葉を美徳と勘違いしているのだろう。1つひとつに割く時間や労力が少なくなれば、より集中して取り組む人を決して上回ることはできない。やることが沢山あるのであれば、打つ手は1つ。1つに取り組んで得た経験や知識は、何としても異なる取組みにも活かす――。これしかない。

経験したこと、見聞きしたことは自然に身体に残るはずだなどと、何の根拠もないことを言う人がいる。残念だがそれは絶対に、ない。過去の経験や知識は、「留めて活かすぞ!」と強く願い、そう努力する人だけに宿るからだ。忘れてやり直すことを美徳と考える人には決して宿らない。

つらい経験や悲しい出来事、人の期待に応えられなかったこと、人を傷つけたこと、怠けたこと、失敗したことを心に留めるなんてゴメンだという人もいるだろう。

それでも捨て去ってはいけない。私なら他人のそんな過去を、できることなら買い取りたいくらいだ。きっと、それが今とこれからの自分の成長の糧となり、自分を強くしてくれると思うからだ。悲しんでいてもしょうがない。それらを活かすことが迷惑をかけた相手に対する唯一の償いになると、自分に都合がいいように考えたい。究極の正しい自己愛、自己中心主義だ。

少なくとも私は(過去を含めた)自分を愛せないような人とは仕事を共にしたくない。何より信用できない。風呂上りのような顔で「今日から新しい自分が始まります!」などと言われたら、気持ち悪くて卒倒してしまうだろう。そのセリフは生まれたばかりの赤ん坊だけに許されたものだ。(赤ちゃんはしゃべれないが) 私たちは力強く過去を抱いて生きる大人として振る舞い、社会に活かされる存在となりたいのだ。

このメッセージを、未曾有の災害を乗り越え、良き職業人としての目標に向かうエールとして受け取ってもらえれば嬉しい。

さぁ、今年一年を恐れずに振り返ろう。そしてその宝の山を来年のさらなる成長に役立てよう。私もそのようにして、決してやり直さず、まだまだ未熟な自分を直していきたいと思う。(了)

"生きる鏡"と暮らす

人の心は「言葉にできない感情」で埋め尽くされている。感情は目には見えないから、それは確かに存在するはずなのに再現できない。再現できないからその感情を人と共有できない。だからストレスが溜まる、苦しい。

裏を返せばその感情を言葉で表現し、他者と共有できるようになった時の喜びは測り知れないほど大きい。最近そのことをあらためて実感した。

犬と暮らして15年ほどになる。実家で暮らしていた期間を加えれば25年ほどだろうか。飼い犬への想いは強い。しかし愛犬家かと問われればうつむいてしまう。映画やテレビ、小説、ネットにあふれるペットへの愛情物語や献身的な施しを見て、いつも軽い自己嫌悪に陥っている。自分はその何分の1もしていないからだ。

それでも、自分なりの想いがある。それが言葉にならない時期が、ずいぶん長く続いていた。飼い犬についての、私の"自分で自分の考えがわからない具合"は、恥を承知で言えば、こんな感じだ。

私には子供がいない。(もし子供がいたら、その想いは目の前の犬に抱くものに近いのだろうか)などと考えたくなる気持ちを、一方で強烈に抑制する自分がいる。所詮、犬は犬だ。「うちの子」ではない。そんなことを頭に描くこと自体、子供を大切に育てている人に失礼だ、人と犬との区別もつかないペット馬鹿に成り下がるのはゴメンだと、もう一人の自分が叱っている。

だからいつも自分にこう言い聞かせてきた。(飼い犬を家族であるかのように語るべからず。友人やご近所の方々が子供の話で盛り上がっていても、絶対に同じテンションで犬の話を持ち出してはならない。たとえ「犬も子供と同じだね」などという甘いささやきに遭遇しても(そう切り出す人は案外多い)、「犬は犬だから。子供ではないよ」とクールに応えるべし)。事実そのようにしてきた。

これまでに2匹の犬との別れを経験した。その喪失感は今でも私の身体から抜けきっていない。目の前の犬たちとも、必ずそんな日がやってくるのだろう。その時、自分がどれだけ打ちのめされるかは容易に想像できるが、そうであっても、どんなに人から慰められても、その時はこう応えると決めていた。「犬は犬だから。人の死とは違う」。

それが正しいと思っていた。でも、なぜか苦しかった。

最近、ある企業の広報誌の依頼で「せつない本」をテーマに選書と書評を行った。
軽い気持ちで引き受けたものの、それから約1ヶ月、「『せつなさ』とは何か」という大命題と格闘することになるのだが、その話は別の機会に譲ろう。1冊の本に出会った。『ある小さなスズメの記録 〜人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクラレンスの生涯〜』というタイトルだ。

第二次大戦初期から戦後にかけての12年間を1羽のスズメと過ごした老婦人の実話である。1950年代に欧米でベストセラーになった。昨年末、日本で発行された新装翻訳版でその存在を知り、今回のテーマに沿った1冊として取り上げた。

話を戻そう。飼い犬への私の想いに1つの答えを示してくれた一節は、意外にも物語の中にではなく「訳者のあとがき」にあった。

12年に及ぶ老婦人とスズメの生活に、身も心も入り込んだであろう翻訳者は、その苦労や行間の分析に加え、自身の言葉でこう書き記している。

「もの言わぬ動物を、人生の『同伴者』として共に過ごすことは、自分自身の内側に棲む、生きている鏡と会話を続けるようなものだ。だからこそその喪失は、人間の友を亡くすつらさとは種類の違う、自分自身の内側の、部分的な喪失とも等しい」。

これだと思った。私の心に居座っていた「言葉にできない感情」の正体に、ついに出会うことができた。しかも、かくも美しく気高い文章によって。

自分の心の問題に1つの決着をつけてくれた翻訳家に、感謝してもしきれない気持ちになった。この一節に出会うのに必要であれば、貯金のすべてをはたいてもいいとさえ思った。(実際には千円札2枚でおつりが来ました)

翻訳を手掛けたのは、小説『西の魔女が死んだ』などの創作でも知られる梨木香歩さんだ。彼女は『ある小さなスズメの記録』を翻訳中に、長年連れ添った愛犬を失ったという。その犬から与えられた多くのものが、本書の翻訳に生きたとも綴っている。

今日も、私はもの言わぬ同伴者に向き合い、こう語りかける。(君たちは所詮犬で、人間である僕を理解できない。もちろん僕も君たちを理解できない。世の定義に従えば、君たちは僕の家族とは言えない。でも、君たちはどうやら僕の内側に棲んでいる、僕自身の一部を映し出す鏡らしい。ならば、生きる限り、楽しくやっていこう----)。

言葉を紡ぐことを生業に選んだ人、選ぼうとする人は、言葉にはこんなに偉大で人を救う力があるということを、ぜひ知っていてほしい。 (了)

2011年2月25日 初出

ポケットに'mission'を忍ばせて

節電の夏がやってきた。

この国がかつて経験したことがない緊急事態に、多くの人が戸惑いながらも様々な工
夫や努力を行っている。

その行動自体はとても美しいと思う。何に対してもこじつけの反論や皮肉の言葉が心
に浮かんでは消える癖がある私でも、「節電しなければ電気が止まる」と言われた
ら、なんとかできないかと思う。

ただ、少しだけ考えたい。節電は目的ではなく手段である。多くの人がその事実を忘
れがちなことが気になる。

日本に暮らす私たちは「道」が大好きだ。「みち」ではなく「どう」と読む。柔道や
剣道、合気道に茶道。そうした伝統あるものとは関係のない営みにも、「道」をつけ
て不思議な何かに仕立て上げる習慣がある。野球道や営業道、パチンコ道に整理整頓
道(断捨離道)、数え上げたらきりがない。

「道」とはプロセスである。その先には目標、つまりゴールが待っているはずだ。散
歩や運動を除けば、道を歩くことそのものを目的にしている人はいないだろう。『ち
い散歩』でさえ、ぶらりと立ち寄るお店や施設にはスタッフが事前に話をつけている
(と、番組で立ち寄られたお店の人から聞きました)。

だが、道半ばにある人の少なからずが、道を歩む行為そのものに美徳や価値をこじつ
けようとし、ゴールテープから目を背ける傾向がある。この国の人々は特にそうだ。
個々の資質の問題ではない。そうした空気がこの社会では支配的なのだ。受験道で力
尽き、せっかく念願の学校に入ったにもかかわらず、その後抜け殻のような日々を過
ごす一部の若者がその典型的な例だろう。

さて、節電の話だ。節電は私たちのゴールではない。節電によって暮らしを守り、本
来あるゴールに達すること。それが、自分のため、社会のため、ひいては次代を担う
子供たちのためになることを忘れてはならない。節電に夢中になりすぎて消耗し、委
縮し、歩みを緩めることなど、私に言わせれば本末転倒、言語道断である。

仕事で責任ある業務を担ったことがある人ならわかるだろう。目的に達するプロセス
には、必ずと言っていいほど予測不能かつ想定外の障壁が現れる。そこで心が折れる
か、言い訳を考え始めるか、あるいは(やっぱりな)とニヤリと笑って突破を試みる
か----。そのパフォーマンスによって、できない人か、できる人かが決まる。

『もしドラ』の大ブームについて、古くからのドラッカー信者の私としては多少の異
論がある。しかし、高校球児が砂をかみ、日々理不尽なしごきに耐え、全国から精鋭
を集めた強豪校に敗北覚悟の戦いを挑んでいくというこの国では当たり前の事象(高
校野球道)に対して、同書は「高校野球の目的はファンや母校を応援する人々を感動
させることだ」という明確な目標を設定し、多くの大人をハッとさせた。それはド
ラッカーの教えの中核であり、秀逸なアイデアだと思った。

ともすれば「道」に没入しただけの青春をすごしがちな若者たちに、「社会的行為
(この場合高校野球)には共通の目標が必要であり、それに向かって一心不乱に歩む
ことこそが美しい」という、その後の長い人生を生き抜くうえで、最も重要な教訓の
1つを同書は諭している。

道に没入しすぎるとmissionを見失う。あるいは、missionを抱きながら歩むことを苦
にし、歩みを止める都合のいい'言い訳'として、道に心身を投じる自分に酔おうと
する。そんな人が少なくない。このように、道そのものを目標にすり替える悪習は、
その人の心の弱さの現れでもある。

歴史上、社会ぐるみでそんな風に振る舞うことで、私たちはどれだけ大きな失敗を繰
り返してきただろう。先の大戦も然り、原発事故も然りだ。

あなたの(私の)、そしてこの社会のゴールは何か。今一度それを確認し直そう。節
電の努力は必要だろう。しかし、それによってポケットからmissionを放り出しては
ならない。「これで身軽になった」と、自分を騙してはならない。一度手放した
missionは、二度とその手には戻らないからだ。

グローバル化は増々加速する一方だ。私たちの目の前に現れたこの程度の障壁に同情
し、待ってくれるほど世界は甘くない。

水平化に向かう世界は、コミュニケーションを担うプロを必要とする。そうなった世
界で活き活きと活動したいと願う人は、この夏こそこれまで以上のエネルギーを注ぎ
込み、自らのmissionに突き進んでほしい。

そのために電気が必要なら思う存分使うといい。少なくとも私は支持する。

なぜなら実りある未来は、そうして育ち、開花した人材を必要としているからであ
る。(了)

黄金色の絨毯 〜1989年、ジャパンカップの記憶〜

冬に向かう静かな日曜日。突き抜けるような青空を見上げていると、ふと湧き上がってくる、そんな記憶の一つや二つは誰にでもあるはずだ。

1989年初冬、バブル経済の宴の熱がまだ冷めやらぬこの国に、ニュージーランドから一頭の牝馬がやって来た。名を、Horlicks(ホーリックス)という。
 
彼女は東京、府中市の東京競馬場で開催される、国際招待馬と日本代表馬が凌ぎを削る一大レース、「第9回ジャパンカップ」に出場予定であった。

ジャパンカップは、日本のホースマンたちがフランスの凱旋門賞や米国のブリーダーズカップといった世界最高水準のレースをこの国でも実現しようと創設したレースである。しかし、欧州や北米の、その時点で活躍する一流馬が集まっていたかと言えば、必ずしもそうとは言えなかった。東の果ての日本。繊細なサラブレッドにとってその地は遠く、輸送を強いるにはあまりにも過酷な距離が介在していた。

しかし、「世界中の富が日本に吸い取られるのではないか」といわれた時代である。海外のホースマンにとって、当時の日本には今の中国と同じようにマネーの香りが充満していた。多少の無理は承知で、参戦する意味があったのだ。中でも89年は特別な年になった。世界の超主役級が一堂に会したのだ。

米国からは芝2,400メートルというジャパンカップと同じ距離で、 当時の世界レコードを保持していたホークスターが参戦。「一度逃げたら何者にもその影を踏ませない」と恐れられたターフ(芝コース)の超特急だ。英国からは、 500キロを超す巨体を重戦車のように震わせながら他馬を蹴散らし、欧州の主要レースで連勝を重ねていたイブンベイが来日した。その鋼のような筋肉に、日本の競馬ファンは言葉を失った。

それでも真打は別にいた。競馬界で最も権威あるレース、この年の凱旋門賞を勝ったキャロルハウスが参戦したのだ。凱旋門賞馬、日本のターフに立つ----。その事実だけでも、'衝撃的な事件'であった。

その他の招待馬も第一線級の猛者ばかりだった。ただ一頭、南半球からやって来たホーリックスを除いては----。


迎え撃つ日本陣営も、天皇賞(春・秋)を勝ったスーパークリークやイナリワンら、現役最強馬を送り出した。その中には、日本競馬史上最も多くのファンを獲得したことで知られるオグリキャップも名を連ねていた。日本で地球最速の馬が決まる。そう言っても過言ではなかった。

ホーリックスと共に来日したのは、調教師のデビッド・オサリバン、彼の長男で調教助手のポール、その弟で騎手を務めるランス。ニュージーランドの競馬一家である。そしてもう一人、まだ19歳の女性厩務員(競争馬の世話をする係)、バネッサ・バリーがいた。

彼らはこのジャパンカップに賭けていた。サラブレッドを愛し、育てることでは誰にも負けないという自負があるのに、常に欧州や米国の後塵を拝してきた南半球、オセアニアのホースマンの力を世界に知らしめる機会は今をおいてない----。ホーリックスにはその資格があると信じていた。

しかし、下馬評に耳を傾けるまでもなく、彼女はあくまでも'脇役'の扱いだった。

今でこそ「強い牝馬」が多数出現しているが、当時は牝馬と牡馬の間には絶対的な力の差があると信じられていた。ましてや競走馬のピークは4〜6歳というのが定説だ。7歳の彼女は、既に下り坂だという評価がほとんどだった。きら星の如く居並ぶスターの中にあって、ダークホースといえば聞こえがいいが、要するにファンや専門家、マスコミにとってのホーリックスは「眼中にない馬」だったのである。

ジャパンカップ当日、東京競馬場には歴史的瞬間を見届けようと14万人を超える観衆が集まった。その場にいた誰もが、当時の様子を「一種異様な雰囲気だった」と振り返る。

ゲートが開いた。始まったレースのあまりにも壮絶な展開に、14万の観衆とテレビの前のファンは息を飲んだ。

ホークスターに先頭を譲らずイブンベイが逃げる、逃げる、逃げる。競馬史上例のないハイペース。なんと、1,800メートルまでのラップタイムが、その距離の日本レコードを上回っていたのだ。「マラソン選手の10キロ地点のラップタイムが、トラック競技1万メートルの新記録だった」と言えば、そのスピードの異常さがわかるだろう。

スーパークリークに騎乗し、中段で追走していた天才ジョッキー、武豊でさえ「このままでは馬が壊れると恐ろしくなった」と後に語っている。武と同じように、そこで半数以上の馬と騎手の心は折れていた。さすがの凱旋門賞馬も、見せ場もなく沈んでいった。

ホーリックスとランス・オサリバン騎手は、そんな殺人的、否、殺馬的なペースの中にあって、絶好の3番手で折り合っていた。そして、じっと最後の直線を待っていた。

彼女をそうさせたのは、ランスの手綱さばきだけではないだろう。サラブレッドを愛するオセアニアの人々が託した想いが、(ホーリックスよ、耐えよ)と励ましていたに違いない。

彼女は最終コーナーを過ぎるとホークスターとイブンベイを並ぶ間もなくかわし、先頭に立つ。そして、冬枯れで黄金色に輝く府中の直線走路を風の如く疾走した。その姿はまるで、オスカー像を抱くことを確信し、自信に満ちた面持ちで授賞式場への赤い絨毯を歩む女優のようでもあった。

残り200メートル。 しかし、ホーリックスと鞍上のランスはまだ、勝利を確信するには至らなかった。

彼女を猛然と追う馬が一頭だけいたのだ。オグリキャップである。「オグリはレース前にホーリックスに一目惚れしていたのだ」という逸話は今でも大真面目に語り継がれているが、真偽は定かではない。

ただ、オグリもまた、エリート街道とはほど遠い、雑草の地から這い上がってきた馬である。そんな彼を特別な想いで見守るファンに背中を押され、神がかリともいえる脚力でホーリックスに迫る。

二頭はほぼ同時に2,400メートルを駆け抜けた。その走破時計は、2分22秒2。世界のどの競馬場でも表示されたことがない4つの「2」に、東京競馬場はどよめき、誰もがその目を疑った。驚異の世界レコードである。

ホーリックスはオグリの猛追をクビの差退け、悲願のジャパンカップを手にした。

その時、14万人、テレビを含めれば数百万人の眼差しは、ようやく南半球からやって来た'女優'に向けられた。「彼女こそが真の主役であったのだ」と、誰もが認めた瞬間である。

オサリバン一家は涙でホーリックスを称えた。バネッサもまた、涙でくしゃくしゃになった顔でホーリックスを見上げ、その喉をやさしく撫でた----。

馬は孤独を嫌う。ホーリックスは特に寂しがり屋だったという。南半球からの長距離輸送、季節の逆転、見慣れぬ景色・・・。しかも、日本では検疫上の理由から、オセアニアの馬を隔離して管理しなければならないという、厳しく辛い規制があった。

レースの日まで、バネッサはホーリックスに尽くした。昼夜を問わず彼女に寄り添い、心と身体の状態に注意を払った。それでも寂しそうにしていると、祖国から運んできた大きな鏡を彼女の前に置き、「ここに友達がいるよ」と声をかけた。

凱旋門賞馬が、世界レコードホルダーがどれだけのものなのだ。私のホーリックスが必ず一番にゴールする----。怖いもの知らずと言えばそれまでだが、バネッサはきっと、そんな光景を信じて疑わなかったに違いない。

私の手元に一枚の写真がある。

レースの直前、東京競馬場のパドック(これから走る馬を観客に披露するために周回させる円形の馬道)を歩むホーリックスと、その手綱を引いて歩くバネッサが写っている。

2人にとっては晴れの舞台であるはずなのに、背景の観衆たちは誰ひとりとしてホーリックスを見ていない。きっと彼らの目線の先には、お目当てのスーパーホースたちがいるのだろう。

バネッサはホーリックスを見つめている。(大丈夫、私はいつもあなたと一緒だよ)と話しかけているように見える。(あなたの力のすべてをこのレースで出し切りなさい。必ず勝てる)と叱咤しているようにも見える。

「競馬なんてスポーツじゃないよ」と言う人は少なくない。私には今、それに反論し得る明確な言葉がない。この先も、見つからないかもしれない。

ただ、1989年の初冬にニュージーランドからやって来た彼女たちのことを想うとき、「命を賭けて走るサラブレッドとそれを支える人たちに、自分の人生を重ねてみるのも悪くないよ」と、小さな声で囁きたい気持ちになる。

           --・--・--・--・--

オグリは今年、惜しまれつつ天寿を全うした。ホーリックスは今もなお、ニュージーランドの地で余生を送っているという。

冬に向かう空を見上げていると、凍えかけた心に小さな火を灯してくれる一つの記憶が、私にはある。(了)

※ホーリックスはこの後、2011年8月24日に天に召されました。

重力に抗う

地球の重力に心まで引かれた者と解放された者。人間をそんなふうに2つに分けた世界観を『機動戦士ガンダム』シリーズで示したのは、アニメ原作者の富野由悠季だ。未来に起きる壮絶な戦闘は、国や肌の色、貧富や政治思想の差異ではなく、"心のありどころ"の違いが要因で生じるという衝撃的な内容である。

真の同志は表面上の敵軍にいるかもしれないし、自軍の中にほんとうの敵がいるのかもしれない。さらに話を複雑にしているのは、登場人物それぞれが自らの"心のありどころ"について、明確な自覚がないという設定である。

「重力」は人間の負の部分を誘発する。進化を嫌い、未来から目を背け、今がそこそこよければそれでいいと思う心を誘う。地面にへばりつきながらも、もうこれ以上"落ちる"ことはないだろうと考える。足元に地表がなければ、重力に引かれてどこまでも落ちていくということにすら気づかなくなる。

一方、重力から解放された者は、人間はなすがままにしていれば自滅に向かうと気づく。そして空を見上げ、無限に広がる宇宙に次代のありようを見出そうとする。その最も進化した姿を、原作者の富野は「ニュータイプ」と名付けた。日本のアニメーション・クリエーターがもつ想像力と創造力には、ただただ感服するばかりだ。

それは確かにSFの世界の話かもしれない。でも、「重力に心まで引かれた人」と「重力に抗う人」という人間の在り方は、実は富野の目に映った今の社会の実相ではないかと私は見ている。

誤解を恐れずに言えば、私は自分が出会った人やメディアを通じて知った人を2つに分ける習慣がある。空を見上げて手を伸ばしている人と、そうでない人だ。社会的地位や評価はそれなりに意味があるだろう。しかし、その差異は、小さな山の上や高層ビルの最上階に鎮座しているか、運動場で肩車をされているか程度の違いでしかない。問題は、その人が今この瞬間、空を、自分の未来を、より良き世界を見つめて手を伸ばしているか、である。
 
俗に言う「上昇志向」とは似て非なるものだ。人より高い位置に居座ったところで、重力の呪縛から逃れたことにはならない。私が美しいと思い憧れるのは、現状に満足せず、社会に自分が生かされる理想の在り方を常に求めて、重力に抗い、空へと向かおうとしている人の姿だ。そんな人は、高台から世間を見下ろして満足顔をしている人の何倍も輝いて見える。

世直しの話ではない。ビジネスパーソンとして日々活動している誰にとっても関係のある話だ。私たちは日々ままならない出来事の中で、「それなりにやっていれば何とかなる。自分は自分なりに努力している」と自分自身を慰めがちだ。しかし、それはまさに「重力」にズルズルと引かれ始めた瞬間である。

私たちは常に目に見えない「下へ下へ」という力に支配されている。いつものことをいつも通りにやっているつもりでも、現状に止まることすらできない。鳥は羽ばたいているからこそ水平飛行を保つことができるのに、それに気づかず心の中でこうつぶやく。----どうして自分だけ恵まれてないんだろう?

しかし、今の立ち位置(年齢?学歴?肩書き?収入?財産?国籍?人間関係?)などどうでもいいではないか。そんなちっぽけなハンデなど、重力という人間すべてに平等に課せられた足枷に比べれば、取るに足らないものだ。「あなたは、重力に抗うか?身を任せるか?」----まずはこのシンプルな問いかけに、答えを出すことが大切なのだと思う。

私は自他共に認める楽観主義者である。しかしそれには根拠がないわけではない。私の立ち位置などは社会のものさしからすれば地面どころか地下2階の駐車場かもしれない。が、それでもなお、上を見上げれば、スクールで出会った志の高い人たちと歩んでいる未来の自分が、プラネタリウムのように視界に広がる。重力に抗う気力だけは失いたくないし、失わない。

それでも時々、もう重力に身を任せてしまいたいよと下を向きたくなることがある。私を含めてそんなふうに見える人がいたら、「上を向こうよ!」と叱咤してほしい。重力に抗おうと努める者にとって、そんな言葉は心地よい風、上昇気流になるからだ。(了)

コトバはヒカリ

2008年1月20日の日曜日、一つの映画祭が催されました。
「CityLights(シティ・ライツ)映画祭」。目の不自由な方々と一緒に映画を鑑賞する映画祭です。

「映画が見たいけれど鑑賞がままならない」という視覚障害者の方々のために、すべてのシーンを音声で解説した原稿を作成し、ナレーターが朗読する----。テレビ番組の副音声でこうした試みが時々なされていることは知っていましたが、映画、それも多くの観客が同居する劇場で、それを実現しようと努力している団体があったことを、恥ずかしながら、私は知りませんでした。

運営にあたっているのは、「いつでも誰でも当たり前に立ち寄れる『バリアフリー映画館』の建設」を目指す団体シティ・ライツと、多くのボランティアの皆さんです。そのなかに、当校の修了生で、現在は編集者・ライターとして活躍されている方がおり、その活動について教えて下さったのです。事後報告になりますが、当校はその活動主旨に賛同し、「第1回 CityLights(シティ・ライツ)映画祭」に協賛することを決めました。協賛といっても、とても小さな第一歩です。実質的に運営の役に立つ規模の応援ではありません。まずは実際の様子を拝見して、今後私たちに何ができるかを考えようと、私は会場に足を運びました。「音声解説の制作には、映像翻訳者の作業に通じ、役立つヒントがある」とも思ったらです。

会場は、多くの人々で賑わっていました。目の不自由な方々もそうでない人も、この映画祭を心から楽しみにしていたことがすぐにわかりました。スタッフやボランティアの方々の誘導や運営管理も整然とスマートにとり行われていて、例えば行き来がしやすいようにゆったりと取られた座席前や通路には、盲導犬がちょこんと座っていたりなど、居心地がよい心配りがなされていました。

上映作品は、いずれも欧州の秀作『ミルコのひかり』と『善き人のためのソナタ』の吹替え版。私はドイツ映画で2007年にアカデミー賞外国語映画賞を受賞した『善き人のためのソナタ』と、幕間に企画されたパネルディスカッション「音声ガイドの舞台裏」を楽しませて頂きました。会場ではFMラジオを貸し出していて、これで周波数を合わせると音声ガイドを聞けるのです。イヤホンを付けな ければ、普通に吹替え版を楽しむことができます。

私は持参した小型ラジオで音声ガイドを聞きながら鑑賞しました。
そして鑑賞後----。私の心に焼きついたのは、「コトバはヒカリ」であるという真実です。

音声ガイドの制作には、実に多くの人が関わっています。まずは原稿を作る人たち。何人ものボランティアの方々が、直接集まって議論を繰り返しながら原稿を仕上げていきます。映像翻訳に関わる、関わったことのある皆さんなら、1本の作品のシーンをコトバで説明するということが、どれほどの繊細さと忍耐力を必要とするか想像がつくと思います。そうしてできた原稿を監修する人がいます。概ね、元の原稿は「情報量が多過ぎる」そうです。監修には実際に目の不自由な方があたることが多いようで、作品の流れを壊さず、それでいて観客に必要な情報や感動を伝えるコトバを適格に残していきます。

パネルディスカッションではひとりの監修者が、「映画は見るためのものであって、コトバですべてを伝えることなんてまず不可能ですよ」と、堂々と語っておられたのが印象的でした。それを言ったら元も子もないし、何より視覚障害者の方々ががっかりするだろうって? 冗談じゃない。事実は事実。映像翻訳の原点だって、そこにあるじゃないですか。私はこの団体で音声ガイドを作る人たちが、それが形態としてはボランティアであれ何であれ、逞しく信頼にたるプロとしての気概に満ちていると感じました。

そしてその原稿を読むナレーター、それらを映像に組み込む作業を行う人・・・。一つひとつの音声ガイドを、字幕やリップシンクの吹き替えと同じように尺を合わせ、フレーム単位で気を配りながら挿入していくのです。これはもう、「もう一つの"映像翻訳"」と呼ぶにふさわしい作業だと感動しました。それぞれ作業は異なっても、関わる人すべてに「映画が大好き!」という思いが共通していることにも胸を打たれました。

外国語がわからない人のための映像翻訳者、視力に障害のある人のための音声ガイド制作者。コトバでヒカリを与えるという共通点をもつ両者は、良き友であり、良きライバルであるべきだと思いました。そして、良きライバルがもっている技術、ハート、ミッションから、我々が学ぶべきことはたくさんあると、心を新たにしました。

同団体やそれを支援する方々とは、少しずつよい関係を築いていければと思っています。また、皆さんのなかに音声ガイドの制作を通じて自分を磨きたいと思う方がいらっしゃれば、ぜひシティ・ライツさんの活動に興味を持って下さい。(了)

※このコラムは2008年1月の「Tipping Point vol.101」に加筆修正を加えたものです。

忙しい人たちへ

映像翻訳の技術の習得や英語力の向上を心に誓ったものの、今の仕事が忙し過ぎてなかなか集中できない...。そんな不安の声を、少なからぬ受講生・修了生から耳にします。

その気持ちはとてもよくわかります。課題に全力を注げなかったり、時間的にどうしても講義に出席できなかったりすると悔しいですし、めげそうになりますよね。私も同じような気持ちになった経験が何度もあります。

でも、「今の職場でよく働いている人や仕事を任されている人ほど独立起業に向いている」という法則があるのも、一つの事実です。

そこで、近い将来、本気で独立を考える人にぜひこんなアドバイスをしたいと思います。

目の前の仕事に専念する日々の中にあっても、「常に新しい職能について考えている、イメージしている」ということを心掛けて下さい。

継続こそ力なのです。それは、本業に支障があるほど強く、大胆である必要もなく、かといって、気晴らしや現実逃避ではなく、頭の一部分ででもいいのでゆっくりと、ロジカルに、自分を信じて、根気強く継続するのがコツです。決して無理をしたり、今の境遇にストレスを感じてはいけません。

そのようにして映像翻訳という職能に向き合い、学校との関わりを保ち続けてくれた修了生がデビューしていく姿を見ると、私はこの仕事を選んでほんとうによかったと思えるのです。

忙しい人、応援します。(了)

※このコラムは、2003年9月の「Tipping Point'Vol.9」に加筆修正を加えたものです。

「24」を24倍楽しむ法

「秋の夜長、ちょっと夜更かしてDVDをもう1本!」、という人も多いのでは。私の場合、最近は「24」の第4シーズンにハマっています。午前7時に全米を揺るがすテロ事件が勃発。翌日の同時刻までにアッと驚くような出来事やどんでん返しが津波のように押し寄せる。どこにでもいそうな市民から米国大統領までが、その場その場の主役となって、国の行方を左右する決断を迫られる...。世界中で大ヒットしているのも納得がいく娯楽作です。

とはいえ、「少し観たけどなんかペースに乗れない。まどろっこしいストーリーがダルい」という声があるのも事実。私が聞いてみた範囲では、むしろそうした人の方が多いような気さえします。作品の良し悪しではなく、肌に合わないものを無理に好きになる必要はありません。私にも薦められても観る気になれない、観たとしても個人的には心にヒットしない作品は沢山あります。

でも、これだけの話題作ですから、気になる人も多いでしょう。そこで、私の観方を紹介します。もしかしたら、「フツーに観るのはイマイチ」という人でも興味が湧く観方かもしれません。従来のファンや観ている人には新しい発見があれば幸いです。


●「24」のもう一つの観方、その1...「字幕と吹替え、両方を同時に視聴する」

私はもっぱらこの方法です。映画とはセリフ量が異なる連続ドラマ、しかもスピ-ディに展開し、なおかつ独特の固有名詞(機関の名称、コンピュータ・通信用語、戦争関連用語など)が飛び交うこうした作品では、多くの場面で字幕と吹替えの表現法が異なっています。単なる文字数制限や省略箇所の問題ではない、根本的な違いです。

例えば、銃撃戦で一斉射撃を止める時に指揮官が叫ぶセリフ。字幕では(確か)「射撃中止」ですが吹替えでは「撃ちかた止めーっ!」。この違い、どう感じますか?

字幕では、「あの」「その」など指示代名詞や省略で処理されている部分、または「彼」「彼女」などとしている部分があります。しかし吹替えでははっきりと固有名詞に。「彼が向かったわ」と「ジャックは墜落地点に向かってる」。良し悪しとは別に、何か視聴者に伝わるものが違っていると思いませんか?

そして決定的なのはキャラクター付けです。字幕では、AとBの人間関係が例えば上司と部下なら、ほぼ徹底的にBはAに対して「~です。~ます」調で語りかけます。そうしないと視聴者が混乱するからです。しかし吹替えでは、周囲の目を気にしつつ敬語を使う場合もあれば、ちょっと気を許した時には「~だ。~さ」としたり、切羽詰った状況ではさらにタメ口になったりと、自在に変化を付けています。

 字幕の制約と苦労、吹替えの自由さと言葉の選択の難しさが、この観方だとよーくわかるのです。DVDって便利ですよね。ビデオの時代には不可能だったこんな楽しみ方ができるんですから。

映像翻訳にはまったく素人の私の家族も、始めは「どっちかにしてよ!」と怒っていましたが、そのうちに「今、字幕だとコレを説明しなかったね」か、「今の字幕、上手いね」などと言って楽しむようになりました。


●「24」のもう一つの観方、その2...「アクション部分をまったく無視し、昼メロだと信じて観る」

 この作品が決定的に普通のアクションものと違うのは、国家の行方を左右するような緊急事態においても、登場人物たちが家族や恋人、仕事仲間との人間関係に振り回されていることです。

「それはよくある」と思うかもしれませんが、家族愛とか友情とか裏切りとか、「ハルマゲドン」的な、そんな格好のいいもんじゃない。この登場人物たちは「親バカ」で「恋愛下手」で「移り気」で「浮気性」で「人見知り」で「覗き見、立ち聞き好き」。あと1時間で米国市民の何百万人が死ぬかという時でさえ、CTU(主役たちが勤務する機関)のトップはフラれた恋人の目線を気にしてうじうじしたりしています。 命を賭けたテロリストですらも、一番大事な時に彼女からケータイに電話が入って「アンタ、どこで浮気してんのよ!」とまくし立てられ、しどろもどろになったりしています・泣

これはもはや「渡る世間」状態、でなければコテコテの昼メロ。もし次回シリーズに日本人が抜擢されるなら小沢真珠がお薦め。フラれて、イビられてオロオロしているCTUの連中に向かって、「こんな大事な時にトボケたこと考えてんじゃないのよっ!このブタ野郎どもめっ!!」と怒鳴りつけてほしい(ウソ)。

アクションシーンや国家の危機に関わるシーンはどんどん飛ばして、仕事はできるのに親子関係、恋愛関係はまったくダメという男女の喜劇を笑い飛ばそう!

いかがでしょうか? ファンからは反論が殺到しそうですがお手柔らかに・笑皆さんもお薦めの作品や楽しみ方があったら教えて下さい!(了)

ジャン・スティーブンソンの涙 ~スポーツを巡る選手と観客の関係~

アテネ五輪は日本人選手の大活躍の余韻を残したまま終演を迎えました。様々な話題がありましたが、今回は特に「選手と観客の関係」がよく見えた大会だった気がします。自国を応援する大歓声、その反対のブーイング、不当な判定に怒り狂う選手の家族(レスリング日本チームの、あの親子です)、路上に飛び出してマラソンランナーに抱きついてしまった人...。一つ一つの出来事に、観客の数だけの喜びと落胆、選手への尊敬や怒りが現れていました。

スポーツ・イベントを政治的な論争にすり替えてナショナリズムを煽ったり、国民性の優劣の問題に置き換えて語るのが大好きな人たちがいます。私はそんな考え方に大反対です。グラウンド、スタジアム、リング...自らの技を極限まで磨き上げ、自らの力だけを頼りに闘いの場に立つ選手たち。彼らの営みは、観る側の身勝手な解釈を超越したところで、素晴らしい輝きを放っているのだと思うのです。しかし、観る側の身勝手さは、時としてスポーツを卑しめ、選手の心に大きな傷を残すことさえあります。

米国の女子プロゴルフ・ツアーを中心に長らく活躍しているジャン・スティーブンソン(豪州)というベテラン選手がいます。数々の実績を残している大物ゴルファーです。しかし最近、米国のプロ・ツアーで台湾や韓国などアジア圏の選手が活躍している状況に対して、「アジアの選手が米国ツアーに参加するのは歓迎できない。なぜならマナーがなっていないし、ツアーに良い影響を与えていない」といった主旨の発言をして、各方面から「人種差別的だ」と弾劾されています。日本でもその発言は報道され、ネット上などでは「とんでもない発言」、「白人優位主義者だ」などとバッシングされていました。
しかし、私は彼女への批判を素直に受け入れられないのです。

その理由は、20年以上前に遡ります。1980年代前半、私は高校、大学時代を通じて、テレビでゴルフ中継を観戦するのが好きでした。他のプロスポーツに比べて、世界の一流選手が日本のツアーに参戦することが多かったからです。日本経済がバブル前夜の好景気にあり、賞金額が高騰していたことなどが理由だったようですが、それはともかく、世界トップレベルのプレーを生中継で味わえること、そしてその中に岡本綾子(現在は解説者兼プレーヤー)という日本人選手が、世界のトップと肩を並べて活躍していたことに、静かな興奮と感動を覚えていました。

1981年、私が高校3年生の春、ジャン・スティーブンソンは日本女子ツアーのあるトーナメントに参戦し、見事なプレーを披露していました。彼女は世界のトッププロらしく、冷静なプレーを続けて日本人選手に競り勝とうとしていました。しかし、最終ホールでウイニング・パットを決めた瞬間、ギャラリー(観衆)たちから、「あ~あ」という落胆の声が上がったのです。そしてまばらな拍手...。ジャンは気丈に優勝トロフィーを受け取っていましたが、テレビのインタビューでマイクを向けられた時、目頭を押さえながらこう答えました。

「私はこうして優勝したけれども、日本の皆さんに喜んでもらえなくて、悲しいです」

王者にふさわしい喜びの表情はそこにはなく、ジャンの頬をつたったのは、悲しみと失望の涙でした。ジャンの素晴らしいプレーとそれに立ち向かう日本人プレーヤーのチャレンジにただただ感動していた私の心に、その光景は小さな傷を残しました。

その3年後の1984年の秋。広島で行われたマツダクラシックは、全米女子ツアーの公式戦に指定されており、岡本綾子、再び来日したジャン・スティーブンソン、ベッツィ・キングの三つ巴の賞金女王争いに決着がつくという、世界のゴルフファンが注目する大会となりました。日本のマスコミ、いやスポーツに関心のあるすべての人が、岡本の快挙達成に大きな期待を抱いていました。会場にはギャラリーが溢れ、日本のゴルフ史上にかつてない、一種異様な雰囲気だったといいます。
最終日、勝負を分ける重要なホールのグリーン上で、ジャンがパー・パットを外しました。その時です。岡本を応援する一人のギャラリーが、ジャンに向かってこう叫びました。

「ナイスボギー!」

紳士淑女のスポーツといわれるゴルフ競技で、この一言がいかに情けなくひどいものか、そして選手の心をずたずたに引き裂く言葉であるか、想像がつくでしょうか。ジャンは怒りの表情をあらわにして、声の主の方に歩み寄りかけましたが、それより早く反応したのは岡本でした。岡本は目に涙を浮かべながらギャラリーに向かって、「何でそんなことをいうんですか!私たちは一生懸命プレーしているんです。そんなこと言われたらやってる意味がない...」と叫びました。そしてグリーン上でしゃくりあげて泣き出したのです。その時岡本は、(なんで私はこんなところでゴルフをやらなければならないのだろう)と思ったそうです。
もちろん、一番悔しかったのはジャンであったはずですが、涙と怒りでプレーを続けられないでいる岡本にそっと歩み寄って、やさしく肩に手をかけながら「時間をかけていいから、落ち着いてゆっくりやりなよ」と語りかけたそうです。岡本は、(私と同じ日本人が傷つけたオーストラリア人に、私がこうして慰められている)と感じたと後に語っています。
この出来事で、ジャンや岡本と同様に、私の心の傷も少し広がりました。

私はジャンに対する日本人の観衆の行為を「日本人はマナーがなってなくて、しょうがない...」などという、単純で薄っぺらな論旨に置き換えるつもりはありません。これは人種や国民性なんて関係ない、アスリートとそれを観る人の間だけに生じる'特別な関係'に関わる問題だと思うからです。
中国で先ごろ開催されたサッカーのアジアカップでは、地元観衆の日本チームに対するバッシングが問題になりました。確かに悲しく腹立たしい出来事です。しかし、つい20年前、ジャン・スティーブンソンに対して日本のギャラリーがとった行為と、何が違うのでしょうか。この中国での出来事に対してテレビのインタビューに、「未開の民のやることは...」などと答えた政治家がいます。こうした軽率で無知な発言こそが、スポーツの崇高な美しさと、良き観客が育つ風土を台無しにしているのだと、なぜ気がつかないのでしょうか。

自分が傷ついた瞬間にも、ライバルの日本人選手、岡本綾子にやさしく声をかけたジャン・スティーブンソン。彼女が'アジア・アレルギー'にかかっているとしたら、そうなるきっかけは何だったのか。ただひたむきに最高のプレーを披露しようと努めるアスリートたちの行為を卑しめてしまう'観客'とは何者なのか。

極論すれば、最高のアスリートの最高のパフォーマンスとは、観られることや応援されることとは無縁の世界にあるのだと、私は思います。観客には、それらのパフォーマンスから感動や喜びを与えてもらう権利はあるでしょう。しかし、それらを卑しめる権利があるとは、私にはどうしても思えないのです。

ジャンや岡本が流したような涙を、私たちは二度と見たくない。好きな選手、自国の選手を応援するのは素晴らしいことですが、対戦相手や敗者に対する尊敬も、同じくらいに大切なものではないでしょうか。
私は、たとえそれがテレビ観戦であっても、心のどこかで「観る者の責任」を意識しようと努めています。(了)

参照:毎日新聞朝刊:連載記事「ゴルフが好き」(1998年)

「ピーコのファッション・チェック」に備えてる?


――そう聞かれて「ハイ」と応えるのにはかなり勇気がいりますよね。「自意識過剰だよ」なんて言われて笑われそうで...。でも私の経験上、フリーエージェントの世界でバリバリやている人たちにこう聞くと、「ちょっと急いでるんでって言って、サックリ逃げるね」とか、「ピーコとガチンコ勝負ッ!ケチをつけられたらテレビに向かって「アンタのセンスって最低!」って怒鳴ってやる」とか、即座に愉快な答えが返ってきます。
本気で備えているわけじゃないだろうけど、私もそうなんですが、普段から「もしこんな場面に遭遇したらこうしよう」という風に空想するのが大好きなんだと思います。
もし雑誌の編集者なら「ワタシがもし自分の信念だけで雑誌を創刊するなら...」とか、映像翻訳者であれば「ハリウッドの映画界は、恋愛映画の翻訳ならワタシに全部任せればいいのに...」とか。一つ間違えたら妄想癖のある人(笑)。想像が現実的だろうとなかろうと、少なくとも私はそんな話を聞くと幸せな気分になります。

将来の仕事の可能性を話している時に、「ワタシには縁がないから」、「ワタシの力じゃまだまだ語る資格がなくて...」なんてすぐに言う人がいる。謙遜なのかもしれないけれど、ちょっとがっかりです。「そりゃアンタ、そうかもしれないけどね。自分の未来に対してそんなに無防備でいいの?もし明日にチャンスが訪れたら最善の対応ができるの?そんなことじゃ、ピーコの思うツボだよ!」。

仕事でもスポーツでも、何かの道を極めた人がテレビや雑誌のインタビューに応えて「無我夢中でやっていたら、いつの間にかここまでたどり着いただけです」とか、「私はまだまだです。師の教えに忠実に従ったら上手くいっただけです」なんて発言するのをよく目にします。でもそれ、はっきり言って本音じゃないですよ。本人にはウソをついているという自覚はないのかもしれません。でも周りの人への気遣いを優先したそんな社交辞令は、「あなたが成功したほんとうの理由を知りたいんです!参考にしたいんです!」と願う人にとって、何の役にも立たない。

2004年のアテネ・オリンピックで活躍した日本人選手たちのインタビューを聞きましたか?「絶対にメダルを取る!表彰台に上る!それだけを考えて今日まで頑張ってきた!」。堂々とそう言ってはばからないじゃないですか。自分が至るべき結果をどの選手もが明確に口にし、それをイメージすることからスタートしたと言います。
卓球ではベスト16で敗れた福原愛選手が、記者会見でこう聞かれていました。「この負けは次へのいいステップになりますね」。なんてありがちで意味のない質問...とガッカリしていたその時、あの'泣き虫愛ちゃん'が「そんなきれい事じゃありません!」と声を荒げたのです。。福原愛選手の世界ランキングは当時20位にも達していませんでした。それでも表彰台に上がるぞというイメージを明確に持って試合に臨んでいたんですね。カッコイイです。
日本人選手のメダルラッシュの秘密は、選手たちのそんな意思の力、イメージの力によるところも大きいと思いました。

NHKの番組(2004年現在)「難問解決!ご近所の底力」って知ってますか。「何でそんな番組観てるの?」なんてつっこまれそうですが(笑)。ある日の特集は、「オレオレ詐欺(振り込め詐欺)や悪徳商法に引っかからない法」でした。騙されやすい人は、「まさか自分のところに来るわけがない。来たとしてもワタシは騙されるような人間じゃない」と思い込んでいるんだそうです。今電話がかかってきたら、'受け応えをしている自分のイメージ'が頭の中にまるでないから引っかかる。推奨する対策は、「ほんとうの息子なら、生年月日を言いなさい!」、「そんな商品はいりません。帰って下さい!」など、普段から役者の稽古さながらに、声に出して練習しておくことだそうです。

映像翻訳に関わる人も同じだと思いました。メジャーな作品、憧れの素材、目標としている仕事を横目で眺めながら、「まだまだワタシには縁がないんだ」なんて思っている人がいたら、そんな思考停止そのものが望む仕事を遠ざけ、進歩の足枷になっていることに気づいてほしいのです。映画が大好きな映像翻訳者であれば、「ワタシが監督になって、潤沢な予算を与えてくれたら、こんな映画を創ってやる!」なんて普段から考え、熱く語ってくれるような人が頼もしいですね。
ハードルを高くしたところにあるイメージは、明日の仕事の備えであるとともに、向上心や知識欲を駆り立ててくれます。道を歩いている時でも、就寝前のちょっとした時間でもこなせる'仕事'の一部だと考えてみてはどうでしょうか。勉強中の人はもちろん、すでにプロとして活動している皆さんもぜひ実践して下さい。
まずはピーコへの反撃でも考えておきましょうか(笑)。

マギー司郎が教えてくれた、自分の弱みを認める強さ

NHKで放映中の「課外授業 ようこそ先輩」。
各界で活躍する著名人が母校の小学校を訪ねて、今の子どもたちを相手に独自の授業を行う番組です。欠かさず観ているわけではありませんが、注目している人が先生になったり、ユニークなテーマだったりすると観ることがあります。料理研究家の平野レミさんは、あのハイテンションで子どもたちに創作料理を手ほどきし、生真面目で知られる元プロ野球選手の村田兆治さんは、野球になんの興味もなさそうな子どもに向かって、豪快な'まさかり投法'で速球を投げ込んでました(笑)。子どもたちにとってはもちろん、教壇に立つ'先生'たちにも大きな発見と感動があって、終わりにはさわやかな気持ちにさせてくれる番組です。

再放送でしたが、ベテラン・マジシャンのマギー司郎さんが先生を務める回を観ました。マギー司郎さんと言えば、今では弟子であるマギー審司さんの方が有名になってしまって、「ちょっとパンチに欠けるなー」という印象です。
授業のテーマはもちろん「手品」。先生は、「手品を披露することで、人を楽しませる喜び」を子供たちに体験してほしいと考えています。もっと言えば、手品のテクニックは重要ではなく、「どうしたら多くの人に笑ってもらえるのか」を教えたいらしいのです。先生のウリである茨城弁のまったりしたトークを真似しろというわけではありません。翌日には全員が隣のクラスにたった独りで乗り込んで、マジックを披露して笑わせろというのです。
「こりゃー、けっこうキビシい要求だな」と思いました。でも「まぁ最後はいつものごとく、課題を克服した子どもたちが先生に感謝して、さわやかな別れってことで」――。
そんなシーンを想像していた私は、大きなショックを受けました。

先生は、笑わせるコツが見つからない子供たちに「確実に笑いを取れる方法」として、こんな風に教えたのです。「手品に関係なくていいからね。自分のダメなところ、弱いところを見つけて正直に話すんだよ。そうするとお客さんはきっと笑ってくれるよ」。
一瞬、我が耳を疑いました。だって、自分の弱みやコンプレックスを他人に話して笑われるんですよ。そんなことをフツーにできる人は、大人にだってめったにいないじゃないですか。

当然、子供たちは悩みました。そりゃそうですよ。皆さんも自分が小学生の頃を思い起こして下さい。「寝ぐせがついているよ」なんて言われただけで傷ついたり泣いたりするのが子どもです。「ボクは勉強ができないんですよー、アハハッ」とか、「ワタシは人と話しをするのが苦手なんです」なんて自ら打ち明けること、ましてや隣のクラスの同級生全員から笑い者にされるなんて...。
「これまで観たシリーズの中で、子どもたちに最大の試練がやってきた!」と思いました。なかなか自分の弱みと向き合えずに苦しむ子供たちを見て、チャンネルを変えようかなとさえ思いました。

シーンは翌日――。一人の男の子が隣のクラスでヘタなマジックを披露しています。そして一生懸命に話しかけているんです。「ぼくはですねー。ダメなやつなんですよー。家にいる時と学校にいる時の態度が違うんですねー。学校だとカッコつけてちゃんとしてるけどぉ、家の人にはぁ、お母さんとかにはぁ、意地悪しちゃうんですねー」。
同級生たちから自然な笑い声が湧き起こっています。その様子をマギー司郎先生はじっと見つめていました。男の子はマジックが終わって、「うまくいって嬉しかった」。

自分の弱みと向き合う苦悩。そしてそれから逃げずに他人に打ち明けて笑われる喜び。子どもたちがたどった道程は、マギー司郎さんの人生そのものだったのです。様々な体験を乗り越えて、ある境地に達した人間の大らかさと厳しさ。マギー司郎さんの堂々とした姿を前にして、私はしばし言葉を失いました。

それと同時に、「たとえ相手が子どもであっても'教える'という行為に妥協や誤魔化しは通用しないんだよ。自分が正しいと信じることを真っ直ぐに伝えることが、相手への礼儀であり筋というものなんだよ」――マギー司郎さんのそんな声なき声が、確かに聴こえました。

彼が多くの弟子から愛されている理由が、わかったような気がしました。

(追記:この番組(NHK「ようこそ先輩!~マギー司郎さん編~」)は、このコラムを執筆した後に、教育番組国際コンクール「2004年日本賞」の東京都知事賞を受賞しています)(了)

サラバ、手を抜く人

私は"そこそこ上手くやろうとする人"が嫌いです。そこそこ上手くやろうとする人は、仕事や役割を与えられると真っ先に「合格の最低ラインはどこか?」を気にします。あるいはずる賢く合格点のボーダーを見極め、そのちょっと上にいれば責任は果たせると決めてかかります。「まあ、こんなもんでいいだろう」と自分勝手に思い込んでしまうことがクセになっています。そしてそれ以上の努力をすることを、「損をした」と考えてしまいます。
要領がいい人と言えば聞こえがいいが、ほんとうのところは「手を抜く人」です。相手の顔色、条件、周囲への体裁、自分の今のコンディション、他の仕事との兼ね合い......そこそこ上手くやろうとする人が手を抜くために思いつく言い訳は、探せばいくらでも転がっていますから。
手を抜く人は、仕事の内容が評価されなくても傷つきも反省もしません。口では「ゴメンナサイ」と言っていても、ほんとうに反省なんかしていないのです。「時間がなくて...(時間があれば私はできる人)」「他に仕事が重なって...(一つに集中すればできたはず)」「初めての素材なんで...(調べ物が多すぎる!他の素材ならもっとできた)」「マイナーな作品なんで...(自分が好きなテーマなら力を出せたのに)」「ギャラが安いんで...(この程度の金額で1週間もつぶせないよ)」......。
そんな風に、自分の仕事に"言い訳のための余白"を用意しておけば、力不足を指摘されても傷つかなくて済みます。「だって全力じゃなかったんだから」と、無意識の計算をしているのです。そんな人は、一見小心者で繊細な人のように見えます。しかし、その人が全力で取り組んでくれると信じていた、パートナーや周囲の人の心を深く傷つけていることには気づかない。
繊細な振りをした鈍感な人。

と、厳しく書きましたが、これは「プロ中のプロ」を目指す過程で誰でもぶつかる壁なんです。私などはむしろそんな期間が長すぎた気がします。自分に厳しく、目の前の仕事を通じて一歩でも前に進もうという高い意識を持てば、一瞬で通り過ぎることができる落とし穴。ここを乗り切れるか否かで、プロとしての将来が決まると言っても過言ではありません。
当校の受講生、修了生の皆さんには、そんな障害物を軽々と乗り越えてほしいと願っています。私は、自分自身がそれに気づかずにいた期間に、浪費した時間と人に迷惑をかけた苦い経験をもとにして、皆さんをお手伝いしたいと考えています。
先日、元プロ野球の投手であり、何度も選手生命を脅かされるようなどん底から這い上がって、日本中のファンに感動を与えた村田兆治さんのお話しを聞く機会がありました。打たれても打たれても、左手の腱を切り取って右肘に移植するという大手術を受けてまでも、「先発完投」にこだわって剛速球投を投げ続けた"全力の人"として知られています。
村田さんは今、北は利尻島から南は小笠原諸島まで、日本各地の離島を巡って子供たちに野球を教える活動を続けています。その様子はテレビ番組などでも時々紹介されています。野球なんてやったこともないであろう子供たちにグローブを与え、戸惑い気味の子供の顔など気にする素振りもなく剛速球を投げ込む村田さん。私はそれを観て、「テレビカメラをちょっと意識したパフォーマンスだろう」程度に思っていました。
しかし、村田さんの話を聞いているうちに、恥ずかしながら涙が浮かんできました。
現役を引退して(これから何を心の糧にして生きていけばいいのか)と悩んでいた頃、北海道の小さな村から「子供たちに野球を教えてほしい」という依頼が舞い込んだそうです。特に考えもなく向かった先で、自分を暖かく迎えてくれた人たち、そして目を輝かせて運動場に集まった子供たちを前にして、村田さんはこう考えました。
「手抜きはダメだ。今、自分が投げられる最高のボールを見せて、受け止めさせることが、唯一子供たちにできることだ」。
ソツなく子供たちを指導して、そこそこ野球が上手くなったところで、子供たちの将来の何になるというのか。プロの投手として半生を生きた者として、子供たちにできることは何か。「手を抜かない人間の姿を見せること、手を抜かないボールが生きていることを、直接伝えることだ」と悟ったそうです。
私が感銘を受けたのは、手を抜かないということだけではありません。むしろここからの話です。
「でも、野球をやったことがない子供に剛速球をむやみに投げ込むのは危険ですよね。私は胸の位置でグローブを構えるように指導します。そこを動かすなと念を押します。必ずそこに球が行くから大丈夫だよと宣言して投げるのです。もちろん絶対に外しません。なぜなら私はプロの修羅場をくぐってきた投手だからです。全力の速球を構えたところに投げるのが、私の仕事だったからです。」
「今、私は56歳ですし、肘もボロボロです。でも、子供がグローブを構えたところに正確に強い球を投げるために、毎日、現役時代と同じように練習して鍛えています。だから自信があります」
村田さんは、ただ思いっきり投げているだけではなかった。その球に込められた努力と、そこから来る自信を、ご本人の話を聞いて初めて知りましました。日本を代表する野球人が、名も知れぬ離島の子供たちを相手に、今も手を抜かない投球を続けている。そのために訓練を続けている。私たちがそこから学ばなければいけないことは、あまりにも多い。
不器用にさえ見える生真面目さの裏にある燃えるような情熱と確かな技術。トリノオリンピック・女子フィギュアスケートで金メダルを獲得した荒川静香さんにも、通じるものがあるように思えてなりません。
もし皆さんに"手抜きの誘惑"が襲ってきたら、ぜひこの話を思い出して下さい。(了)

忘れること、肯定すること、許すこと

鑑賞会で観た映画「ノエル」に、かつて自らの身勝手な行動が原因で、イヴの夜に妻を交通事故で亡くした老人が登場します。ニューヨーク市警の若い警官(男)をなぜか妻の生まれ変わりだと思い込んだ彼は、周囲から狂人扱いされます。雪の中に倒れ込んだ老人をしかたなく病院に担ぎ込んだ警官は、老人の息子からはじめて事実を告げられました。
(翻って自分はどうか)――警官は、同じように身勝手な行動によって大切な婚約者を失いかけている自分の姿を重ねます。このままではきっと来年もその次の年も、同じ苦しみを味わうであろう老人を救うことはできないか?自分にできることは何か?警官はベッドに横たわる老人の手をそっと握って、こう言いました。
「私(妻)は、あなたを許します」

皆さんの2005年はどんな年でしたか?私はと言えば、頭を過ぎるのは失敗した自分、怠けた自分、嘘をついた自分、そして思い通りにならなかったあの人、迷惑をかけられた(と思っている)あの人、自分を嫌っている(と思っている)あの人...。ため息とともに「今年は最悪だったよ」という言葉が口から出てきそうになります。

でも、実際のところは「今年はかけがえのない、いい年だった!」と、自信を持って言えます。なぜかというと、心に備わっているある"ろ過装置"を、今、フル稼働させているからです。
記憶など、しょせんはできそこないのこの頭に貼りついた、不確かな情報に過ぎない。大晦日に何を食おうか、姪のお年玉のぽち袋のデザインは何がいいか、同じ時間に3つのチャンネルでやるお笑い特番をどう録画するか、そんな一大事でいっぱいいっぱいの脳細胞に、どうこう騒いでもどうにもならないことを収納するスペースなどもはやない。まかり間違って収納したとしても、あれもやりたいこれもやりたい2006年に、ちまちまと引っ張り出して感傷に浸っているほど暇でもない。

悪い記憶は今年のうちにろ過装置を通してしまいます。第一の機能は「忘れること」。覚えていて得をしたという、恨みつらみや自己嫌悪って、これまでの人生でありましたか? 今年ほんとうに学んだこと、反省し活かすべきことは、意識しなくても頭の適所に収まっているはず。人の体とは、そういう風になっている(と思う)。早いとこ忘れて下さい。
それでも頭を離れない悪い記憶は、第二の機能「肯定すること」で片付けて下さい。私はこれが得意です。信念を持ってやったことは結果が悪くても、肯定する。理屈で考えなくても、大概のことは「おかげで成長した」と思えばいいんです。(自分を否定した憎っくきアイツ、ありがとう。おかげで成長できちゃったよ)って具合に。思い出す度に「ムカッ」、「ズキッ」とするのではなく、相手の顔を思い描いて、心の中で「ありがとう!」と繰り返して下さい。そのうち忘れますから。

それでもなお残る手ごわい相手をどうするか――。もちろん私にもそういう記憶があります。恐らく一生引きずるかもしれないという、心の痛みと恐怖...。癒えない傷として、胸に刻み付けられるかどうかの瀬戸際で、私の中のろ過装置の、最後の機能が動き出します。

「ワタシハ、アナタ(ワタシ)ヲ、ユルシマス」

「ノエル」では警官の一言で、老人は過去の呪縛から解放されました。しかし、警官は神でもなければ、懺悔に耳を傾ける神父ではない。そう、「許します」の一言は、自分自身を救うために向けられた言葉だったのです。

映像作品が持つほんとうの価値を発見し、広く世の中に伝える使命を担った映像翻訳者の心眼は、常に澄んでいなければならないと、私は思います。
皆さんにはぜひそうあってほしいと願っています。すっきりした気持ちで、2006年を過ごして下さい!(了)

'その場にいる'ことの大切さ

基礎コース・IIの後半で、私は「映像翻訳者の営業術」という講座を担当しています(修了生には懐かしいですね)。いつものように、いろんな無駄話(!?)をした挙句に「自己PRシート」を書いてもらうという内容ですが、講義のねらいをさらに強調する意味で、皆さんにこんな言葉をプレゼントしたいと思います。

「'その場にいる'という行為が、新たな仕事を生み出す最善の方法である」

私がまだ20代の頃、自分で立ち上げた会社が軌道に乗り始めると、「忙しそうにしている自分」に酔っている状態、今にして思えば単なるお調子者以外の何者でもないのですが、そんな時期がありました。「体が二つ欲しい、1日に30時間あればいいのに...」なんて考えていると、打ち合わせや会議に出る時間がどうも無駄に思えてきます。特に、内容の想像がつく会議や、儀礼的な顔合わせだとわかっていると、「オレの役割は決まってるんだ。さっさと依頼を済ませてくれ!」と心の中でつぶやきながら、なんだかんだと理由をつけて避けるようになりました。それでもやりたい仕事は永久に自分のところにやってくるように思えたのです。

そんなある日、'マーケティングの神様'とまで言われた某広告代理店の御大から食事に誘われました。

ものごとの'かたち'は、見る人の心持しだい!
(「ロールシャッハテスト」風の作画です)

「この前の企画会議に顔を見せなかったね」
「はい、でもあのプロジェクトでは、重要な部分ですでに仕事を頼まれてますから...(行くだけ時間が無駄なんですよ)」。
すると神様はポツリと一言。
「新楽君、その場にいることの大切さがわからないような奴は、次のステージに進めないよ...」

それから何年も、私はその言葉のほんとうの重みを理解することはありませんでした。今はそんな期間を過ごしていたことをとても後悔しています。皆さんには、絶対に犯してほしくない失敗です。

メールや電話のやりとりで生じた誤解が、直接会って話したら簡単に解けたなんて経験はありませんか?顔を出さずに立派な贈り物を送ってくれる人よりも、わざわざ訪ねて来てくれて「いつもありがとう!」と笑顔と共に渡された小さなプレゼントが嬉しく思えたことはありませんか?

何か新しい仕事を始める時、新しい発注に応じる時、その場で顔を合わせた者同士には、前向きで心地よい連帯感、信頼感、エネルギーが生まれます。それは決してレジュメや企画書や議事録、メーリングリストで表現することはできないもの。そういう気持ちを共有した者同士は、困った時に静かに助け合ったり、新たな展開に同じようにわくわくしたりすることができるのです。
当時の私のように、「自分は自分の役割をこなせばいい」などと考えているうちは、決してそんな気持ちを味わうことができません。楽しく価値ある仕事をしているつもりでも、実は機械の歯車と同じ。相手にとっては便利な存在だけど、発展する関係を望まれてはいない。ましてや「この人に賭けてみよう。新しい仕事をいっしょに始めよう」などと思われるわけがないのです。

厳しい言い方をすれば、仕事の相手と向き合って話すことさえ面倒だと思っている怠け者が何と多いことか。それでいて、「自分は評価されていない。なんでもっと条件のいい仕事を発注してくれないんだ」などと愚痴をこぼしている。私の耳に届くフリーランサーからのトラブルの相談の多くは、「直接相手と会って話をしていれば避けられたはずなのに」というものが大半です。逆に'その場にいる'ことを楽しんでいるフリーランサーで、発注がなくて困っている人や、無用のトラブルに悩んでいる人をあまり見たことがありません。

映像翻訳は、言ってみれば新規プロジェクトの連続です。ジャンルが変わり、メディアが変わり、パートナーとなるチェッカーが変われば、確認し合うべき内容、新しいルール、新鮮な発見が必ず発生します。発注者と受注者が会って話すネタは尽きないのです。

「素材を送ってもらえば作業はできる」、「時間調整が難しい」、「交通費が無駄」など、直接会わないで事を運ぼうとする言い訳は、いくつも転がっています。それに流されるか、立ち止まって行動を起こすか...

すでにデビューされている修了生の皆さんが、現状を少しでも変えてみたいと思ったら、翻訳の依頼の電話があったクライアントのところに出向くこと、そしてほんの10分だけでも'その場にいる'ことをお勧めします。きっと新たなスキル、作業の方法、見識を高めるヒントを掴めるはずだからです。何より、相手との信頼関係が深まります。

なんでそんなに自信を持って言えるのかって? 私自身が今日、2つのプロジェクトが生まれる場に足を運んだことで、大きな疑問が一つ解消し、新たなビジネスのヒントを掴むことができたからです。(了)

へこんで、落ち込んで、何が悪い?

嫌なことや自分の力ではままならないことに遭遇したら、へこんで、落ち込んでいればいいじゃないか――向上心に溢れた受講生や、新たな仕事に臨もうと腕まくりをしている修了生の中からは、「そんなマイナス志向のアドバイスは聞きたくない!」という声が聞こえてきそうです。でも、ちょっとだけ私の体験談を聞いて下さい。

私は、はっきり言って1年中、天下を取ったような満足感、優越感と、北の果てに1人で旅に出ようかと真剣に悩んでしまうほどの劣等感、自己嫌悪の間を行ったり来たりしています。もう少し正確に言うと、その割合は2対8くらい。へこんで落ち込んでいる時間の方が、実際はかなり長いのです。

よくよく考えてみれば、ある目標を一つ成し遂げるためには、試行錯誤や、地道な努力や、失敗や、人に迷惑をかけることや、予定外の出来事から逃げられない。それらを乗り越えて何とか目標にたどり着いたとしても、「やった、やった!」と喜んでいられる時間はほんの一瞬で終わってしまう...。ゴールした瞬間には、もう次の目標が待ち構えているわけですから。
達成感に浸っている時間は2割。もがいている時間は8割。冷静に考えれば、これは逃れようのないサイクルだと言えます。

ならば、へこんで落ち込んでいる時の自分といかに上手くつきあうか――。その方法をマスターすれば、日々の戦いはほんの少し楽になるのではないでしょうか。
 
そんなシンプルな道理を私に強く納得させてくれたのが、米国の心理学者にして大ベストセラー作家でもあるリチャード・カールソン博士でした。90年代後半、博士の著書の一つ「小さいことにくよくよするな!」は、全世界で1500万部を売り上げ、日本でも100万部を超える大ベストセラーとなりました。私はいわゆる「自己啓発本」というのがピンとこない性質(たち)だったので、「あふれんばかりの啓発本の中で、たまたまブームに乗った1冊」、そんな程度にしか思っていませんでした。

ある日、同書を扱う日本の出版社の要請で、博士が急きょ来日することになりました。本はさらに売れ続けていて一種の社会現象を巻き起こしていたので、マスコミ各社は、ここがチャンスとばかりに取材依頼を申し出ていました。私もその一人で、書評を担当する「日経ビジネス」という雑誌の記事のために、博士にインタビューすることになったのです。私の次にはTBS「NEWS23」の筑紫哲也さんがインタビューの順番待ちをしていたこともあって、その時は「サッサと終わらせてしまおう」などと思っていました。

しかし博士の話を聞いていくうちに、「これは!」と感じ始めました。博士は私が想像していたような、耳ざわりのいい言葉を並べるだけの啓蒙家ではありませんでした。普段は主に米国企業の経営者やリーダーを対象に、地道な心理カウンセリングを手掛ける心のケアの専門家であり、ビジネス社会のしくみを子細に分析したうえで、論理的かつ現実的に精神の問題を解決しようと努力を重ねている人だったのです。
博士曰く、「米国ビジネス界のリーダーは、1980年代以降、'Break Through(現状打破)'という言葉の呪縛から逃れられないでいる。そういう経営者は'Break Through'を勝手に自分の宿命と勘違いし、自分を追い立てることで心のゆとりを失い、遂には不安と焦りに苛まれて、何をやってもうまくいかない状態に陥る。結局、途中で大事な仕事を放り出してしまうか、精神を壊してしまう人も少なくない。今、その傾向が世界中の人々に蔓延し始めている」。

なるほど、つまり「小さいことにくよくよするな!」という教えは、「小さい出来事をガンガン乗り越えて、目標に向かってまっしぐらに突き進め!くよくよするなよ!」というエールではないのです。正確には、「小さなトラブルや気がかりは常に存在するもの。だったらそれを認めてしまおう。「焦ってもすぐにはどうにもならないことや現状打破できないこと」があるのは当然だ。解決を求めず、今は堂々と受け入れなさい。そんなことよりも、今のあなたにはじっくり取り組むべきことは、他にあるでしょう」という、暖かい助言なのです。
実はこれ、目標達成を最速で叶える実践的な方法論でもあるんです。確かにこうやる方が、持続力を長く保てるし、焦らずあの手この手を考える余裕も生まれてくる。これはまさに心をマネジメントする'技術'。私は博士の言葉に大いに共感しました。

現状打破に躍起になったり、目の前の小さな問題に悩み抜いたせいで、当初の「目標」を見失ってしまう人がいます。中には、いわゆる「リセット願望」が強くなり過ぎて、何もかもを途中で投げ出してしまう人も見かけます。とても残念なことです。

居酒屋に置き忘れたケータイは、たいがいの場合翌日戻ってきませんか?パソコンが壊れても、何日か後には誰かにメールをしている自分がいませんか?喧嘩した友達も、次の日笑顔で挨拶すれば、たいがいの場合機嫌を直してくれますよ...
そんな小さな出来事のために毛布にくるまって胃をきりきりさせて過ごすくらいなら、課題をもう一度見直したり、単語を3つ覚えることの方が、楽しくて効率的ですよね。(笑)

私はまだまだ未熟で、自分のことでもいっぱいいっぱいの毎日ですが、少なくとも「映像翻訳の技術を習得する。映像翻訳者になる。映像翻訳業界やそれに関連するフィールドで活躍する」と願う皆さんの真っ直ぐな目標においてならば、その入り口と出口を、いつもしっかりと見つめています。もし、壁にぶつかってくよくよするようなことがあったら、遠慮なく相談して下さい。とはいっても、大抵の場合はこんなアドバイスかもしれませんが。(笑)

「へこんで落ち込んでいるんだね。なるほどよくわかる。でもね。そんな小さいことは、とっとと忘れちゃうか、放っぽらかしときゃいいんじゃない!?」(了)

がんばれ、フリーエージェント!


「一つの企業や団体と長期間に渡る被雇用契約を結ばずに、「スキルに裏打ちされた独立自営の精神」に従って、自らの能力を最大限に活かせる職場を社会に広く求めることができる人材」――フリーエージェントという言葉に対する正確な定義はまだありませんが、アメリカで発表されている最新文献などを参考にした上での私の解釈です。

映像翻訳者になるということは、同時に優秀なフリーエージェントになることが要求されます。企業や団体の構成員とは本質的に異なる職業意識、対応力、生活習慣を身に付ける必要があるのです。
仕事の質や量を年々向上させていくための「スキルアップ」について言えば、大きな組織には教育係がいて、研修があって、日々の会議がある。自ら動かずとも、お膳立てが整っている場合がほとんどです。もし会社からスキルアップを求められないのなら、それは「どうぞ反復作業を繰り返して下さい。あなたには今以上のスキル
は求めません」という意味。一見ラクで効率的なように見えますが、それでは固定の歯車です。錆びついたら新品と交換される運命も覚悟しなければなりません。
一方、私の周りで活き活きと働くフリーエージョントたちは、自ら進んで学ぶことに躊躇がありません。新人のうちはもちろん、ベテランと呼ばれようと、安定収入を得て成功者と讃えられようと、新しい出会い、新しいスキル、新しい価値に常に関心を抱き、それを自分の力にしようとする努力を怠らないのです。

ではここで、あなたの「フリーエージェント指数」をチェックしてみましょう。
【問題】「今の仕事に必要だから、スキルを学んだ」。「新たなスキルを学んだら、仕事がついてきた」。両者の違いを一言で述べなさい。
(【答え】は巻末を読んで下さい)

当校の講師の多くは、翻訳・通訳・執筆業の世界を生き抜いている筋金入りのフリーエージェントです。講義が終了した後に「今日はどうでしたか?」と聞くと、受講生の訳出や鋭い質問、考えさせられた指摘などについて、140分の講義を終えたばかりとは思えないほど、いつまでも熱く語り続けます。受講生の皆さんを指導するのはもちろんのこと、同時に「自分自身のスキルの向上に、受講生との出会いを役立てているんだな」と感心します。
当校の多くの修了生は自主的な勉強会を開いたり、プロになった後も積極的にセミナーや研修会に参加しています。そんな姿を見た受講生の中には、「いつまで勉強を続ければいいの?」と思う人もいるかもしれません。でも、フリーエージェントの本質が「自ら学んで進化し備えること」だと理解できれば、納得のいく姿ではありませんか?
このようにたくましく成長し続けるフリーエージェントの先輩たちが、受講生のすぐ近くに大勢いるのです。

フリーエージェントという生き方への関心は、日本でも年々高まりつつあります。将来的には国や自治体も支援に乗り出すことでしょう。しかし、そんなものを当てにするようではフリーエージェントの名が廃(すた)ります。
私は職業人としての人生の大半がそうであったように、フリーエージェントという生き方が大いに気に入っています。自分が気に入っているから、年齢も性別も性格も背景も超えたところで、この生き方を目指す人を応援したいのです。
がんばれ!フリーエージェント! 

【答え】前者は「仕事は与えられるもの」と考える人の発想。後者は「仕事は自分が創る」と考えるフリーエージェントの発想。 (了)

「鉄腕アトム」の生みの親、手塚治虫氏は負けず嫌いだった

NHK-BSで不定期に放送されている「マンガ夜話」。

話題のマンガや名作について文化人が熱く語り合うユニークな番組です。2004年4月の放送では手塚治虫さんを特集していました。私が興味を持ったのは「手塚治虫先生は、誰もが認める国民的マンガ家。なのに、どんなに尊敬される立場になっても負けず嫌いな性格は変わらなかった」というエピソードです。

若手のマンガ家に会うと必ず「私はキミと同じタッチで絵が書けるんだゾ」と、自分から議論を挑んできたのだそうです。'神様'としてのたしなめではなく、本人は至ってまじめだったといいます。
まるで子供!究極の負けず嫌い!新しい作風やアイデアがいつも気になっていて、マンガ界のトップに立ってもまだ、「進化を続けよう、腕を磨いていくぞ」というわけです。同時に感心したのは、恐らく当時は"日本で最も忙しい人"の一人であったはずの手塚治虫さんが、続々と登場する新人マンガ家の作品の隅々までに目を通していたという事実です。それはトップとしての誇りなどとは無縁の、純粋な「負けず嫌いの気持ち」が生む力だったのではないでしょうか。

わが身を振り返ると、「忙しいから、仕事に直接つながらないことだから」などと自分自身に言い訳して、「ほんとうは今、腕を磨くために理屈抜きで没頭しなければいけないこと」を後回しにする機会が何と多いことか!
今、行動を起こすのに理屈が必要なら「負けず嫌いだから!」だけで十分なんだと思います。今、単語を覚える、ビデオを観る、映画を観に行く。それができない、やらない自分に言い訳は無用だと、手塚治虫さんのエピソードは教えてくれます。負けず嫌いだから知らなきゃ悔しい、できなきゃ悔しい、だから今やる...。それでOKなんです。(了)

天国への階段/韓国サッカーの遺伝子

0対1。

「FIFAワールドカップ2002」の決勝トーナメント1回戦で、日本チームがトルコに敗れた瞬間、国中が失望感に包まれました。いやいや、グループ・リーグでは初の勝ち点と初勝利を獲得し、初の決勝トーナメント進出という期待以上の活躍に、我々は大いに満足すべきじゃないか...そう頭ではわかっていても、心と体がついてこないのは、私だけではないはずです。
その数時間後、お隣り韓国を勝利の雄叫びと歓喜の渦が覆い尽くしていました。優勝候補イタリアを破ってベスト8進出を決めたのです。開催国として、これ以上の満足感、達成感はないでしょう。
韓日の境遇は、まるで天国と地獄。口ではおめでとうと言えるが、心の底から湧きあがってくるのは韓国に対する嫉妬、そして劣等感ばかり。この日の「ニュース・ステーション」では、キャスターの久米宏さんが韓国サポーターの応援の仕方を手で真似しながら、おおげさに落胆の表情を見せていました。(韓国のサポーターの皆さん、どうぞはしゃいで下さい、喜んで下さい。どうせ日本は負けましたよ。)そんなメッセージなのでしょう。あるいは、国民の代弁者を自認する彼一流のウィットか...。
人の振り見て我が振り直せとは、よく言ったものです。何か腑に落ちない気持ちが私の心をよぎりました。「我々は、韓国の勝利に、そんな感情だけでケリをつけていいのか?」――。

時間は遡り、1986年。社会人1年生として世間の厳しさに揉まれつつ憂鬱な日々を送っていた私を勇気づけてくれた、一つの出来事がありました。
ワールドカップ・メキシコ大会。ワールドカップといっても、楽しみにしていたのは私のような根っからのサッカーファンくらいで、NHKだけが中継を深夜か早朝にひっそりと放送していた、そんな時代です。決勝戦の結果ですら一部のニュースでしか取り扱われないような状況でした。
日本はアジア予選で早々に敗退していましたが、韓国は1954年のスイス大会以来、32年ぶり2度目の出場を成し遂げていました。欧州や南米のサッカースタイルとスター選手に憧れていた私は、隣国のチームが最高峰の舞台に立つことを素直に喜ぶ気持ちもありましたが、それとは裏腹に'アジアのチームなんて場違いだな'というような複雑な感情を抱いていたのも事実です。
韓国の1次リーグの初戦は優勝候補のアルゼンチン。目を背けたくなるような一方的な試合になることも覚悟しながら中継を見守りました。
しかし、そんな想いをすべて吹き飛ばしてくれる瞬間が訪れました。私の目に今も焼きついているのは、韓国人ストライカー、バック・チャンソンの地を這うような鋭く正確なロングシュートが、アルゼンチン・ゴールに突き刺さった場面です。
結果は1対3の完敗。でも涙が溢れました。今、アジアの片隅にいる自分と、あの華やかなワールドカップは、韓国チームの果敢なチャレンジによってつながっているのだと感じました。翌日は友人たちと、それぞれの感動を語り合いました。

日本人の多くがまだサッカーに関心を抱いていなかったその時代に、韓国サッカーとファンたちは、どのような状況にあったのでしょうか。当時、遥かメキシコに代表チームを送り出した韓国サポーターたちは、きっと、今日までの16年間もサッカーを愛し、そしてこの大会でも同じように声援を送っているのでしょう。それは、ここ数年で人気が広がり、ワールドカップ2回目の出場にして本国開催という恵まれた状況にある日本と比べて語るべきものなのでしょうか。彼らの喜びは、ロシア戦での稲本のゴールに沸いた日本のサポーターの喜びと同じなのでしょうか。この先韓国が破れることがあるとしたら、その無念さと達成感は、我々日本人のそれと同質と言えるのでしょうか。

それを知る手立てとして、韓国の「ワールドカップ戦史」を見てほしいと思います。その軌跡はまさに'忍耐と不屈の精神'の歴史です。

【1954 スイス大会】予選の成績
対 ハンガリー 0 : 9 敗
対 トルコ    0 : 7 敗

【'86 メキシコ大会】予選の成績
対 アルゼンチン 1 : 3 敗
対 ブルガリア  1 : 1 引き分け
対 イタリア    2 : 3 敗

【'90 イタリア大会】 予選の成績
対 ベルギー   0 : 2 敗
対 スペイン 1 : 3 敗
対 ウルグアイ 0 : 1 敗

【'98 フランス大会】 予選の成績
対 メキシコ   1 : 3 敗
対 オランダ   0 : 5 敗
対 ベルギー  1 : 1 引き分け

これを見て皆さんはどう感じるでしょうか。敗戦と屈辱の歴史、それでもチャレンジし続けた忍耐と努力の歴史。韓国サッカーとサポーターたちに組み込まれた48年分の遺伝子は、今大会で開花すべくして開花した、私にはそう思えてなりません。
1986年、私が見つめる中でアルゼンチンのゴールにたたき込まれたシュートは、それ以前の32年間の願いがこもった、ワールドカップ初ゴールだったのです。それは、韓国サッカーにとって'天国への階段'の第一歩だったのだと、思えてなりません。
久米宏キャスターはそんな歴史を知っていたのでしょうか。否、そんなことよりも、彼のパフォーマンスに共感しかけていた私が愚かでした。この大会で、日本は確かに'天国への階段'に足をかけたのです。そのことを素直に喜ぼうではありませんか!
ワールドカップに果敢に挑み続けてきた韓国サッカーは、誇るべき遺伝子を有しています。それは、国境とは無縁に尊ぶべきものであるように思えます。今大会での韓国チームの快進撃を、日本人が妬む理由はどこにもないと私は考えます。もう一度その歴史を見直してほしいのです。サッカーを愛し、自国のチームを支え続けた半世紀の軌跡は、日本サッカーとサポーターにとっての良きお手本になるはずです。お手本は立派なほどよいということに、誰も異論はないでしょう。
日本サッカーの8年後、12年後を思うならば、今は素直に韓国のベスト4、いや優勝を願おうではありませんか!(了)

「 ロード・オブ・ザ・リング」の主人公たちに見る'揺れ'の考察

「ロード・オブ・ザ・リング」が世界中で大ヒットを記録しています。
その理由は様々で、もはや言い尽くされた感もありますが、私なりに思うところを綴ってみました。

まずは「BOX OFFICE」発表の全米興行成績を調べました。2002年2月時点で約3億ドル。既にベスト10からは姿を消していたので、その後の追加を考えてもざっと3億2000万ドルくらいでしょうか。「ハリー・ポッター」が3億1000万ドルですから、ほぼいい勝負といったところ。「タイタニック」の全米6億ドル、全世界9億ドルには遠く及びそうにありませんが、全米3億2000万ドルというのは「フォレスト・ガンプ / 一期一会」、「ライオン・キング」あたりと同じ業績で、歴代6~7位にランキングされます。名実共に大ヒット作です。

この映画のある側面が、特異なほど日本的であることに痛く共感を覚えるとともに、世界中の人々がこの作品を評価したことに正直驚いています。
主人公らの醸し出す「自虐的なヒロイズム」は、これまでのハリウッド作品にありそうでなかったもの。「スター・ウォーズ」や「シュレック」が大好きというアメリカ人には新しく、「宇宙戦艦ヤマト」や「機動戦士ガンダム」の洗礼を受けた日本人には懐かしい。そんな古くて新しいヒーロー像を解読することは、今後のハリウッド大作の方向性を占ううえで、大いに役に立つと思われます。
主人公らは偶然背負った運命を時に呪い、自信を失い、自らの価値を問い続けます。これまで受け入れられてきた「ファンタジー」とは対極にあるような「リアリズム」です。原作の「ホビット」、「指輪物語」に忠実であることがこの映画のウリの一つだと言われていますが、古典的なストーリーに忠実であるだけでは、この21世紀にリアリティは生まれません。
公開時の宣伝の謳い文句は「友情と自己犠牲、サバイバルと勇気」などといったちょっと気恥ずかしいものですが、ほんとうにそれを表現したいだけならば、カルトな作品の制作にしか実績のないピーター・ジャクソンが監督に抜擢された理由の説明がつきません。

監督はおそらく日本のアニメをよーく研究しているのではないか、そう思えてならないのです。全編を通じて描かれる、ヒーローであるはずの主人公たちの心の'揺れ'(不安、自信の無さ、苦悩、消極性)は、日本のアニメ作品「機動戦士ガンダム」シリーズの主人公、アムロ・レイやカミーユ・ビダンのそれに酷似しています。子供たちまでをも視聴者対象にするハリウッド映画の大作で、そのような主人公たちが登場するものは、あまり私の記憶にありません。
なかば無理やりヒーローに仕立て上げられた人間の心の歪みを、底抜けにわかりやすい勧善懲悪劇に投影する手法は、まさに日本のマンガやアニメのお家芸でした。ガンダムにしても、サスケにしても、星飛雄馬にしても、壮大な設定と圧倒的な戦闘シーン(陽)が、常に主人公の自虐的ヒロイズム(陰)と対をなしている様は見事でした。「ロード・オブ・ザ・リング」の主人公たちは、私たちが心の片隅で渇望しているそんなヒーロー像にピタリと当てはまるのです。
「ハリー・ポッター」との比較で興味深いのは、伝説の巨人トロルと闘うシーンです。両作品(第1作)に登場します。従来のハリウッド映画的に(「ホーム・アローン」のカルキン少年VS悪者のように)痛快に闘ってみせる「ハリー・ポッター」に対して、リングの子らは、まるで学徒出陣の様相を呈している。目的を見出せない戦い、まるでベトナム戦争を描いた「プラトーン」、あるいは「ディア・ハンター」...。
時々は、こんな視点を思い出して映画・ドラマ・アニメ・小説を読み解いてみて下さい。(了)

「Tipping Point」とは

'Tipping Point(ティッピング・ポイント)'は、アメリカで近年注目されているマーケティングの用語。

「まるで1本のマッチの火から野火が広がるように、小さなきっかけが人に影響を与え、連鎖し、やがて大きなトレンドや流行に変わっていく瞬間」のことです。

それを「自分が変わる瞬間、進歩する瞬間」に置き換えてみましょう。小さな発見や気づきが自分を良い方向に導くきっかけになった...そんな経験は誰にでもあるはずです。能力やスキルの向上はもちろんのこと、学校との関わりの中で一つでも多くの'Tipping Point'を発見して下さい。受講生や講師・スタッフとのちょっとした会話、映画やテレビ番組、1冊の本...、視点を変えれば、そこは'Tipping Point'の宝庫。このコラムを、そんなきっかけの一つとして楽しんでもらえれば幸いです。

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