Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)
映像翻訳本科「基礎コース・Ⅱ」に籍を置く受講生。北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"中。当年とって53歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。
【作品解説】 3部作―米国アカデミー賞の歴史で、同じシリーズから2作品が作品賞を受賞したのは、「ゴッドファーザー」以外存在しない。巨匠、フランシス・F・コッポラ監督の作品群の中でも、最高傑作の一つと言えるであろう。
今回、私が注目したのは、シリーズ3部作(合計上映時間:9時間5分)を通してアル・パチーノが演じ切った「マイケル・コルレオーネ」という人間の生涯だ。彼の一生とは何であったのかを考えてみたい。
「ゴッドファーザー」3部作に見る「マイケル・コルレオーネ」という生き方
■ 「ゴッドファーザー」(第一部) (1972年):初めての殺人とドン(首領)への道
物語は1945年、第二次世界大戦が終わった年の夏に、マイケルの妹コニー( タリア・シャイア)の盛大な結婚式シーンから始まる。マイケルは結婚を約束しているケイ( ダイアン・キートン)を伴い、式場に現れた。この時のマイケルは戦功を称えられた名誉軍人であり、この後大学に復学して、ケイと結婚することを考えていた。しかし、マイケルもコニーも、裏社会に君臨するマフィア、コルレオーネ・ファミリーの血を継ぐ者たちである。
別のマフィア、タッタリアファミリーから麻薬密売隠蔽に関する協力依頼を蹴ったマイケルの父、ドン・ビトー・コルレオーネ( マーロン・ブランド)が、その報復に銃撃され、瀕死の重傷を負った。そこからマイケルの運命は思わぬ方向へ転がって行く。
マイケルは二人の男を殺害して父の復讐を果たす。その後、ほとぼりが冷めるまでシチリアの父親の知人に庇護を受ける。その間、地元の娘アポロニアと電撃的に結婚するが、彼女はマイケルと間違えたヒットマンに爆殺されてしまった。さらに、米国にいる長兄のソニー(ジェームズ・カーン)が、百数十発の弾丸を浴び殺されたとの悲報が入る。
マイケルはアメリカに戻り、父親(=ドン)の後を継ぐ決意を固めた。ケイと結婚し、父親から帝王学を学びながら、自らの意志で新たな手を打っていく。ファミリーを守り、発展させるという目的のために、的確で、計算高く、冷酷な手を...。
「立場が人を作る」とよく言われる。この映画におけるアル・パチーノがまさにそれだ。最初の柔和な顔が徐々に、しかし確実に、暗く鋭い目を持つ「ドン」の顔に変化していく。レストランで二人を殺害するまでの心の動きを表情でのみで追うシーンは、映画史に残る名場面だと思う。
実は、パラマウント映画の役員たちは、このシーンのラッシュを見るまではアル・パチーノの起用に不満を持っていたそうだ。しかし、その後は一切文句が出なくなったという。
組織が巨大であればあるほど、トップの両肩にかかる責任の重さは並々ならぬものであろう。非合法組織では、命も懸かっている。情報収集のネットを張り巡らし、罠を仕掛け、裏切り者には死をもってその行為を償わせる。一瞬たりとも気を緩めることはできない。
マイケルの策略はことごとく功を奏し、組織は発展していく。しかし、その影で妻との間に埋めることのできない大きな溝が生まれていたことを暗示しながら、第1部は終わる。
■ 「ゴッドファーザーPartII」(1974年):果てしなき勢力拡大と背負った大罪
第二部では、マイケル・コルレオーネの物語と、父親のビトー・コルレオーネの物語が交互に画面に現れる。
若き日のビトー・コルレオーネを演じるのはロバート・デ・ニーロ。公開当時、29歳である。
このデ・ニーロが素晴らしい。ギリシャ時代の彫像を想像させる引き締まった肉体、自信と誇りに満ち溢れた表情、美しい所作、そして黒い瞳のクールな眼差し...。「セクシー」という形容詞を男に当てはめるとこうなるのではと思わせる。
そんな彼が、1920年代のニューヨーク、ロウワー・イースト・サイドの町並みを背に躍動する。撮影のゴードン・ウィリスは、画面の色調を赤みがかった黄色に調整して、時代の雰囲気を出そうと試みた。私には、いくつかの場面がラ・トゥールの絵画を髣髴とさせ、心地よい。
ビトーは、高い上納金で町の人々を苦しめていたドン・ファヌッチを、祭りの喧騒にまぎれて射殺する。その後、友人とオリーブオイルの会社を設立、町の人々の信用を得ながら勢力を徐々に拡大し、現在のコルレオーネ・ファミリーの基礎を築いていく。ビトーは家族でシシリー旅行に出向くが、その間にも策略を立てて敵であるドン・チッチオの抹殺に成功する。
一方、現代。ドン、マイケルによる勢力拡張は留まる所を知らず、上院議員までをも囲い込む。国外投資のために、マイケルはキューバへ飛び、現地の実力者ハイマン・ロス( リー・ストラスバーグ)と接触を持つ。しかし、ロスとは過去のいきさつで互いに怨恨を持つ間柄だ。互いに相手を殺す機会を探り合っていた。
ある年の暮れにクーデターが勃発、新軍事政権によって現政権が瓦解し、マイケルはアメリカに逃げ帰る。このとき、マイケルは次兄のフレド( ジョン・カザール)がロスの一味と通じている事実を知ってしまう。
ロスとの駆け引きの中でマイケルは公聴会において偽証罪で告発される寸前にまで追い詰められる。これは何とか切り抜けたが、妻であるケイの流産、ケイと離婚、次兄フレドの裏切りと、マイケルの帝国は思わぬところから歪を見せはじめる。
マイケルの盲点はどこにあったのか?
その一つが時代の流れである。時代が急速に変化していく中で、ファミリービジネスにおいては、マイケルは何とかその波に乗ろうと試みる。しかし、世の中が如何様に変化しようとも、彼にとっての全ての行動の基準は「ファミリーのために」。それは変わることがなかった。
しかしその信念こそが、周囲の人間たちを不幸に陥れる。彼自身も自縄自縛に気づいているが、どうすることもできないのだ。
ラストシーン。アップで映し出される彼の表情は、懊悩する人間の心のありよう、そのものである。
■ 「ゴッドファーザーPartIII」(1990年):人生の終焉で見たものとは
あれから15年。マイケルはバチカンへの貢献を評価され叙勲を受ける。だが、これには当然裏があり、彼はこれをきっかけにバチカンが運営する企業へ深く入り込んでいった。
二人の子供も成長し、長男アンソニーはクラッシック歌手として、長女メアリーはマイケルの設立した財団の責任者としてそれぞれの道を歩んでいる。マイケルも老境に差し掛かり、病気を患っていた。ファミリーの後継者として甥のビンセントを指名するが。このことが内部の抗争に火を点ける原因となる。
本作は、バチカン内部の対立、バチカンの運営する企業内における既存勢力とマイケルとの対立、そしてファミリー内の抗争を軸に、甥のビンセントと娘のメアリーとの恋愛やマイケルが過去への贖罪の念に苛まれる姿を描く。そして、彼の生地シチリアで、長男アンソニーがオペラ・デビューを果たすシーンへと収束していく。最後の演目、「カバレリア・ルスティカーナ」が幕を閉じた後、マイケルを待ち受けていたのは...。
本作は、3部作の中で最も評価が分かれる問題作となった。キャスティングの問題、技術的な問題で画面に生彩が無い、バチカンのタブーに触れているなどがマイナスの評価を生んでいるようである。
しかしこの作品が、壮大なる「ゴッドファーザー」の物語を完結させているのは間違いないと思う。少なくとも、マイケルの生き様という、このコラムの視点から見れば、ある種の帰結として納得のいくものに仕上がっている。
のし上がり、栄華を謳歌し、人も羨むような一生を送ったマイケル。確かに彼は「コルレオーネ・ファミリー」全体を守れたのかもしれない。
しかし彼自身のほんとうに「ファミリー(家族)」はどうか。
ビトー・コルレオーネはいみじくも語っていた。
「家庭を守れない奴、そんな奴は男じゃない」