銀幕の彼方に

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2008年1月 アーカイブ

第8回 『イージー・ライダー』(1969年)

Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)

映像翻訳本科「実践コース」に籍を置く受講生。北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"中。当年とって54歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。


【作品解説】 「アメリカン・ニューシネマ」を代表する作品であり、ロードムービーの先駆けともなった記念碑的な作品です。監督・製作・脚本・主演はデニス・ホッパーとピーター・フォンダ、共演にジャック・ニコルソン(全員顔にシワがありません。若い!)。短い期間で撮り終え、予算も34万ドル(当時のレートで1.2億円前後)と低めでした。完成直後はさほど注目されず、この映画が売れるとは誰も予想していませんでした。ところが、いざふたを開けてみると、発表後わずか2年の間に世界で6000万ドルの興業収入をあげるという大ヒット。当時の若者(もちろん私も含めてです)は自由を求めてアメリカをさすらう二人に自分を重ね合わせ、流れ出るロックミュージックのヒットナンバーに耳を傾けながら、この映画に酔いしれたのです。

名作に出会うということ ~そこにピーター・フォンダが待っていた~

ドラの連打が始まる。「蛍の光」がのんびりとした3拍子を刻み、周りの景色がゆっくりと回転し始める――。
いや、本当は港を出る連絡船が舳先を南に向けるために旋回しているだけなのだが、船体が大きいので、そう錯覚してしまう。
徐々に私の体全体が微細な振動に震え始める。船底から響いてくるエンジンの轟音が体の内部から鼓膜を振るわせる。

しょっぱい川(北海道の人間はなぜか津軽海峡をこう呼ぶ)を越え、対岸の青森までは4時間30分かかる。船の振動は、荒れる海峡を乗り切るためのパワーを船体の隅々にまで供給している証拠なのだと思え、だんだんと気持ちが高ぶってくる。
私は連絡船のデッキに立ち、冷えた手すりを握った。激しい揺れと潮の香りを含んだ風の中で、抑えきれない好奇心、それに幾ばくかの不安と照れと意気込みを胸に、水平線にうっすらと浮かぶ青森を見た。その年二度目の内地(本州)行きは、高校2年の修学旅行だった。

その年、1970年(昭和45年)はあの大阪万博が開催された年である。会期中には延べ6000万もの人が訪れたという。私もその中の一人であった。

歴史のうえでは「日本の高度経済成長期がピークを迎えた年」であったが、地方で生活している限り、そんな実感はほとんど感じられなかった。決して楽な暮らしとは言えなかったのに、父は多少無理をしてでも息子の見聞を広げようと考えてくれたのか、夏の万博ツアーに申し込んでくれた。今でも本当に感謝している。
修学旅行の3ケ月前のことで、私にとっては初めての団体旅行であった。周りはすべて大人で、知り合いは誰もいない。旅行中ひどく緊張していたのを覚えている。
男性も女性も酒を飲み、大声できわどい話をし、笑い転げている。私がそんな話しに入っていけるわけもなく、時々声をかけてくれる人もいたが、私はといえば力のない愛想笑いを浮かべ、頭をぺこりと下げるくらいが精一杯だった。

この旅行で私の記憶に最も残っているのは、アメリカ館に展示してあったアポロが持ち帰った月の石でも、岡本太郎作の「太陽の塔」でもない。
上野駅に着いて夜行列車から降りた瞬間の、あの殴られたような暑さと、それまで経験したことのない街の異様な匂いである。

肌にまとわりつく蒸し風呂のような湿気と暑さ、そして呼吸するたびに肺の中に何か付着するのではないかと不安にさせる匂い...。当時は環境保護を唱える者など皆無で、何よりも経済成長が優先された時代だった。我々にはそれに抗う術もなく、近代化の過程で生じる矛盾には、見て見ぬ振りを決め込むしかなかった。その影で犠牲にしてきたものの大きさ、大切さに人々が気づくのはまだまだ先のことである。

さて、修学旅行に話を戻そう。7泊8日、うち車中泊が2泊。始めの5日が関西、残り2日が東京であった。関西の最終日は自由行動で、班行動か個人行動かを選べた。私は個人行動を選んだ。今となっては名前も忘れてしまったが、京都市内のある美術館の「ミレーとバルビゾン派の画家たち」という展覧会をのぞいた。

ミレーの作品はいくつか知っていたが、なにせ目の前にあるのは本物である。「種蒔く人」に最も心を惹かれ、思わずポスターを買ってしまった。地味な色調であるが、その力強さと動きの的確な表現は、まだ高校生であった私の心を揺さぶるに十分なものだった。

その後、京都市内をぶらつき、目についたポスター店に入った。店内を見回すと歌手や映画スター、植物、車、飛行機、動物など、ありとあらゆるジャンルのポスターが壁を埋め尽くしていた。(ここなら少しは時間がつぶせそうだ)などと考えながら店内をうろついた。

店の奥まったところにそれはあった。
A0版大(1189×841mm)のモノクロのポスター。近寄って顔を確認した。「イージー・ライダー」のピーター・フォンダだった。

不自然なまでに長いチョッパー・ハンドルのバイクにまたがり、憂いを帯びた表情でゆっくりと左にハンドルを切ろうとしている。確かに全体はモノクロだが、正確に言えばアメリカ国旗をデザインしたガソリンタンクとヘルメットの部分だけは、国旗そのままのカラー印刷だ。

光っていた。大切な何かがこのなかにはあると感じた。ラジオの深夜放送で聴いてから鼓膜に焼き付いていたこの映画の挿入曲が、次々と頭のなかを駆け巡った。ポスターの絵と曲が重なり、ピーター・フォンダの駆るバイクが動き出したように見えた。体がブルッと震えた。

気づいた時にはレジの前に立っていた。京都から北海道の自宅まで、折り目をつけないように持って帰るのは一苦労であった。

それが私にとっての修学旅行の記憶である。否、あれは修学旅行ではなく、1枚のポスターに出会うべく、映画の神様が仕組んだ旅だったのかもしれない。

実家の2階にある私の四畳半の部屋に、早速ポスターを貼ることにした。もちろん「種蒔く人」のほうではない。
しかし当時の壁は、ジェームス・ディーン主演「理由なき反抗」のポスター、レイモンド・ラブロック主演「火の森」のポスター、自筆の下手くそなロダン作「考える人」のデッサン、解散したばかりのビートルズのポスター、そして当時のアイドル歌手、天地真理(あまち まり)のポスターで埋め尽くされていた。
悩んだ末、ここはいったん天地真理にお引取り願うことにした。空いたスペースに少し斜めにして、ピーター・フォンダを貼った。

四隅に画鋲を刺し終わったその瞬間、バイクの排気ガスのにおいが鼻を突いた。そして耳をつんざくエグゾースト音とともに、ステッペン・ウルフのナンバー「ワイルドで行こう」が聞こえてきた。
確かにそんな気がしたのだ。