銀幕の彼方に

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2008年11月 アーカイブ

第12回 『復讐するは我にあり』(1979年)

Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)

映像翻訳本科「実践コース」を2008年3月に終了。在学時は北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"であった。当年とって54歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。



【作品解説】 本年10月5日に71歳で急逝した俳優緒形拳主演の実録犯罪映画です。原作者の佐木隆三は、実際の西口彰事件をもとにした同名のこの小説で第74回直木賞を受賞しています。同年の第3回日本アカデミー賞作品賞、助演女優賞、監督賞、脚本賞、撮影賞を受賞しています。ちなみに同年の外国映画賞はロバート・デ・ニーロ主演のベトナム戦争を主題にした「ディア・ハンター」でした。

犯人の榎津巌(緒形拳)は大正14年(1925年)大阪で生まれ、3歳頃両親の故郷である長崎県五島列島に帰ります。五島列島には隠れキリシタンの伝統があり、両親(父親役:三國連太郎、母親役:ミヤコ蝶々)も本人も洗礼を受けています。その後別府市に転居し父は旅館経営を始め、巌はミッションスクールに入学させられますが、規律の厳しさに耐えられず中途退学してしまい、その後は絵に描いたような転落の人生を歩むことになります。
太平洋戦争中の16歳のときに詐欺罪により福岡少年審判所で保護処分になった後は岩国少年刑務所、そして昭和19年(1944年)には横浜刑務所に移管され、昭和20年(1945年)8月に仮出所となりますが、その後は様々な詐欺罪で刑務所への出たり入ったりを繰り返します。その間には結婚も (榎津加津子役:倍賞美津子)しています。
そしてついに現金強奪を目的に昭和38年(1963年)から昭和39年(1964年)にかけて5人の命を奪い、他に詐欺10件、窃盗2件をはたらき九州から北海道まで日本中を逃げ回りました。延べ12万人の警察官が動員されましたが、その捜査の網をかいくぐり80日近くも逃走したのです。結局11歳の少女の目撃証言がきっかけとなって昭和39年1月に熊本で逮捕起訴されました。同年12月に福岡地裁小倉支部は死刑の判決を言い渡します。その後控訴審が何度か開かれますが、昭和41年(1966年)8月15日になぜか上告を取り下げ死刑が確定し、昭和45年(1970年)12月11日福岡刑務所拘置所で死刑が執行されました。享年44歳でした。


緒形拳に哀悼を捧ぐ

東京オリンピックが開催された翌年の昭和40年(1965年)1月3日、NHK大河ドラマの3作目がスタートした。「太閤記」である。日曜日の夜8時からの放映もこのときからだった。主役の豊臣秀吉に抜擢されたのが緒形拳、デビューしたての新人であった。当時のテレビ画面はもちろんモノクロで、チャンネル、ボリューム、画面調整のつまみはすべて手回しだった。14インチブラウン管の粗い走査線に浮かび上がった緒形拳の顔はエラが張っていて、目はぎょろぎょろと動き、眉の間に大きなほくろがあり、肉の薄い大きな唇からは良く通る声が発されていた。時代の希望と夢を全身で表現していたのではなかったかと思う。その新人を支える主だったキャストとして、ねね役は藤村志保、信長役は高橋幸治、森欄丸は片岡孝夫(現仁左衛門)、明智光秀は佐藤慶、石田光成は石坂浩二、お市の方は岸恵子、茶々が三田佳子と今考えれば大変なキャスティングだった。赤木春恵、神山繁、フランキー堺、浜木綿子などが脇役なのである。私たちの年代としては豪華絢爛としか言いようがない。テレビの本放送が始まってまだ10年前後の頃である。
そしてまだまだ歴史の何たるかもわからない子供が親と一緒に必死に見ていた。その年の4月にやっと小学校6年生に進級する私である。石炭ストーブの横に座り暖を取りながら見ている。そばには妹と弟も座って見ているが眠そうである。母親がストーブの上で干し芋を焼いている。少し焦げて芳ばしい香りがしてくる。両面を焼いて皿にまとめてくれた。当時の石炭ストーブは暖房器具であり、かまどであり、オーブンでもあった。父はほとんど酒が飲めないので、私と一緒に芋をつまみながらあれこれ歴史の知識を披露してくれる。わからないなりにも聞いていたような気がする。
外は寒い。北海道は一月から二月にかけて寒さのピークが来る。当時は夜なら-15度から-20度くらいはあったと思う。当時の我が家のつくりは決して良いとは言えなかった。壁に今のように断熱材が入っているわけでもなく、外が寒ければその通りに家の中も寒くなり、朝-20度以下になると寝ている間に吐いていた息の水分で布団の口のあたる部分が凍っていることもあった。へたをすると醤油や油の瓶が凍って割れるのである。昔液体系の入れ物はほぼガラス瓶だったためよく凍って割れた記憶がある。
加えて狭く、衛生環境も芳しくはなかった。トイレは水洗ではなく、飲料水はポンプで、流し台の隣に据え付けてあった。地下から汲み上げた水を漉し桶に通してから別の桶にためて飲料水として使用したのである。当時住んでいた地域の水は鉄分が多く、漉し桶の砂がすぐに赤くなり父とよく交換したのを覚えている。
毎朝顔を洗うのは湯たんぽのお湯と決まっていた。洗面台と流し台は当然一緒で、一晩経ってぬるくなったのを洗面器に開けて使うのである。目の前のガラス窓には、しばれのアート、氷紋が描かれていたのを覚えている。ガラスに付着した空気中の水分が凍りつくのだが、温度やさまざまな条件でえもいわれぬ文様をガラスに描くのである。
水道の恩恵にあずかったのは昭和42年(1967年)中学2年に引っ越した家が初めてであった。このときから2、3年の間に、冷蔵庫、洗濯機、ガスレンジ、ステレオが我が家にやってきてそこそこ文化的になったのである。そしてこのころから徐々に暖房も含め、エネルギー手段が石炭から石油に切り替わっていったのである。

70年前後の緒形拳といえば「風林火山」(1969)で畑中武平、必殺仕掛人(1972~1973)の藤枝梅安が当たり役だった。

その後野村芳太郎監督の「鬼畜」(1978)に出演した後、「復讐するは我にあり」の今回の榎津に繋がっていくのである。この後も悪役を演じさせると独特の持ち味で、さまざまな悪役を演じ分けていた。そしてどんな悪役を演じさせても画面が凄惨になることはなかった。緒形拳の持つある種愛嬌というのか、独特の人間臭さがあったためではないだろうかと思う。
映画は5人の殺人事件を軸として進行させながら、そこにさまざまな彼の詐欺行為と女性遍歴を絡ませていく。そしてそのプロセスを丁寧に追うことで榎津巌の人間性を浮かび上がらせていく。
詐欺行為とは一口に言えば自分を信じ込ませその信頼を利用し相手から不法に利益を得ることである。言い方を変えれば信頼されるだけの人間的魅力がなければいけないのだが、榎津には天与のそれがあり、しかも男性としての魅力と精力もかなりのようであった。映画の中では女性にはほとんど不自由していなかったとして描かれている。そして彼は最初専売公社の人間二人を半ば衝動的に殺し、集金した26万を盗み逃亡する。その後浜松の連れ込み旅館の女将(小川真由美)といい仲になる。身分は大学教授と偽っていた。その後東京で弁護士を殺害する。そしてまた浜松へ戻ってくる。ある日ひょんなことから二人は榎津が殺人犯であることを知るのだが警察には届けなかった。その後なぜか女将と母親(清川虹子)を殺害するのだ。母親は終戦後疎開先で人を殺し15年服役し最近出所したのだと言う。
殺される前の母親と榎津の印象的な会話がある。

母親 「でもよ、わしゃあの婆あを、ふんとに殺したかったで殺しただ。
    んだもんでやったときは胸がスーッとしただ。あんたスーッとしてるかね今?」
榎津 「いや」
母親 「ほんとに殺したい奴殺してないんかね?」
榎津 「そうかもしれん」
母親 「意気地なしだね、あんた。」「そんじゃ死刑ずら」

ここで彼の父親に目を向けてみる。宗教的な戒律に従い己に厳しく、息子にも厳しく、善を標榜しようとするが、体全体から自ずと滲み出てくる欺瞞の臭いがこちらの鼻をついてくる。榎津の妻から好意を寄せられそれを拒否するのだが自分の思想が正義と考えているため逆に偽善に満ちている。そのような場面が三國連太郎と共に印象に残る。正しく生きるとはどういうことなのか考えさせられる。
そして極めつけは榎津に絞殺される間際の女将、小川真由美である。短いひと言を発するがそのひと言に凝縮されているものがあまりに多く、ご覧になる人によりさまざまな解釈が可能となる名せりふではなかっただろうか。

終戦後わずか18年後に起きた事件である。翌年にはオリンピックを控え、世の中は沸き立っていた。しかしその流れに少なからず取り残された人間たちもいたはずである。前出の会話の前に二人はこう語っていた。

母親 「娑婆はようすっかり変わっちまっただ」
榎津 「変わった。世の中くるっとるんじゃ」

榎津から見ていったい何が狂っているのかぜひとも聞いてみたいと思ってしまった。正常の概念が大きく覆されそうな不安もあるが。

この後、私が鑑賞した緒形拳出演作品はリアルタイムではないものも含めると、「鬼畜」(1978)、「ちょっとマイウェイ」(1979)TV、タクシー・サンバ(1981)TV、「陽暉楼」(1983)、「楢山節考」(1983)、「破獄」(1985)TV、「薄化粧」(1985)、「隠し剣鬼の爪」(2004)、「武士の一分」(2006)、「風林火山」(2007)TV、プラネット・アースの語り部、「白野」舞台(TV)ぐらいだろうか、90年代はほとんど映画と離れていたので抜け落ちている。見てみたい作品はまだまだある。時間を作らねばと考えている。
今オールシネマオンラインを見ているが最初の作品は内川清一郎監督「遠い一つの道」(1960)である。内容も何も知らない。ただ緒形拳が23歳に出演した作品には間違いない。ここから始まっている。しかし私にとっては「太閤記」で信長役の高橋幸治が緒形拳演ずる木下藤吉郎に向かって言った「さる」の響きが忘れられない。そう呼ばれて、「殿」と答えるにこやかな表情が今思い出すと懐かしく、悲しく、そして年齢的にも残念という他はない。きっとあちらの世界でも仲間を集めて新しい演目を考えているに違いない。この上ない贅沢な布陣で。
合掌