第17回 「エクソシスト/ディレクターズ・カット版」(2000年)
Text by 村岡宏一(koichi Muraoka)
映像翻訳本科「実践コース」を2008年3月に終了。在学時は北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"であった。当年とって55歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。
【作品解説】「エクソシスト/ディレクターズ・カット版」(2000年)――ウィリアム・フリードキン監督の「エクソシスト」シリーズ1作目は1974年に公開され、悪魔祓いを描いた映画として当時一大センセーションを巻き起こしました。今回のディレクターズ・カット版はそれに15分の未公開シーンを加えて再編集されたものです。 モダンホラーの魁ともいえるシリーズ第1作は、それまでのいわゆる恐怖(ホラー)映画のイメージを根底から覆し、鑑賞した人々に経験したことのない新たな恐怖感を抱かせることとなりました。連日大勢の観客が映画館に押し寄せたわけですが、「怖いもの見たさ」の需要は時代、性別、年齢を超えて永遠に不滅のようです。 「エクソシスト」以降も数多くのホラー映画が製作されているわけですが、この作品を凌ぐといえるものは数えるほどしかないと思われます。 機会があれば是非とも映画館のスクリーンで見ていただきたい作品です。そのときはこの映画から発せられるあらゆるサウンドと音楽にも耳を傾けてみてください。恐怖感が何倍にもなって跳ね返ってくるのがお分かりいただけることと思います。 シリーズ1作目は1973年度アカデミー賞の脚色賞と音響賞を受賞し、その他主要8部門にノミネートされました。 原作はウィリアム・ピーター・ブラッティ著「The Exorcist」ですが、この小説は1940年代に何か(悪魔?) に憑依された子供を救うために実際に行われた悪魔祓いの記録を元に執筆されたとのことです。
第17回:恐怖シーンに身震いしつつ、映画の完成度に膝を打つ
この映画で悪魔に憑依されるという難しい役を当時14歳に過ぎなかったリンダ・ブレアが演じきったことは賞賛に値する。
リーガン(リンダ・ブレア)は映画の冒頭に登場してからすぐ、私たちにかすかな、そして不吉な予兆を感じさせる。その後徐々に悪魔に肉体を占有されていく。そのプロセスで見せる圧倒的な演技と特殊撮影に、私たちの目は釘付けになる。
一歩間違えれば失笑を買うようなエキセントリックなシーンがいくつもあるのだが、彼女に比較して他の演技者はドキュメンタリー作品かと思わせるほどの抑えた演技を披露するため、あらゆる状況が逆にリアリティーを持って私たちに迫ってくるのだ。リンダ・ブレアが当時十代にしてアカデミー賞助演女優賞にノミネートされたのもうなずける話である。
当時のSFXの技術は今日とは比べようもなく貧弱であったはずなのに、今鑑賞しても引き込まれる。
画面にスキがないのだ。
それは、原作、脚本のブラッティーとフリードキン監督の力に負う所が大きいと思われる。
彼女の周りで頻発する怪奇現象を究明するために、脳内に原因があるとの推測を基に、当時最先端の脳医学、精神神経学者たちがプライドをかけて、少女を検査漬けにするシーンがある。これは見ていて痛々しい。医者の傲慢さと自分たちにとって都合のよい解釈をまくし立てる態度に腹が立ってくる。(撮影には実際の医療設備と医療スタッフを使ったということだ) 結局原因を特定できずに、最後には彼らの側(科学の側)からリーガンと家族に対して悪魔祓いの話をもちかけることになる。とはいえ、真の意味で悪魔祓いを認めているわけではない。「患者が悪魔祓いをしてもらったということで安心し精神的疾患が治ることがある」という、あくまで医療の見地からの対症療法として提案したのだ。
皮肉の極みとも思えるが、要するにリーガンたちは、現代科学から匙を投げられた。
女優でもある母親クリス(エレン・バーンスティン)の絶望と不安は頂点に達し、カラス神父(ジェイソン・ミラー)に助けを求める。ほんとうに悪魔がとりついたと判断したカラスは教会に悪魔祓いを申請する。悪魔祓いの経験者として教会から選ばれた老神父、メリン(マックス・フォン・シドー)は、ある宿命を感じつつ少女の家に到着する。科学の世紀、しかも文明の頂点を極めたアメリカ都市部の只中で、二人の神父による悪魔祓いがついに始まる...。
冒頭の紹介文の中で述べたように、この映画はアメリカで起きた実話に基づいている。日本でも恐山のイタコなどに代表されるシャーマニズム(シャマンを媒介とした霊的存在との交渉を中心とする宗教様式の考え方―『広辞苑』第五版より)が古くから存在している。では、現代日本で今、最も深く"何か"にとり憑かれている人たちといえば......。
私の目にはこう映る。それは、衆議院議員立候補予定者たちではなかろうか――。
文字通り何かに憑かれたようにあいさつ回りの日々を送っている候補者たち。走り、叫び、握手を繰り返し、支持を訴えている。候補者を突き動かすのは、国民の幸せを願う大志か。それが掌中に納まるであろう権力やカネ、私利私欲であれば、 彼らに"悪魔祓い"を敢行すべきだ。冷静な一票でそれができるのは、私たち国民である。この夏、私はマニフェストとやらにもきちんと目を通し、行間に埋もれている真実とウソを掘り出ひてやろうと考えている。
悪魔祓いが終わり、クリスとリーガンが転居先のロサンゼルスに発った直後、舞台となった家をキンダーマン警部(リー・J・コッブ)が訪れる。警部の何気ないが暖かく人間らしい言葉の一つ一つを、リーガン家に起きた壮絶な出来事と対比しながら味わうと心が和む。張り詰めたものをフッと緩めてくれる存在を好演するリー・J・コッブも、この映画を単なるホラー映画を超えた名作に仕立てた一人だ。
彼は私の世代が二十代の頃に観ていた懐かしの名画に名脇役としてよく出演していた。ヘンリー・フォンダ主演「十二人の怒れる男(1957)」では、最後まで少年の有罪を主張していた陪審員3番役であった。マーロン・ブランド主演「波止場(1954)」では、ボスのジョニー役が印象的だった。当時はぎらぎらした感じでどちらかというと異彩を放っていた部類であった。
残念なことに、1976年、心臓発作で亡くなってしまった。幼少の頃はヴァイオリニストとして神童と呼ばれるほどの腕前であったそうである。
アメリカ映画を見ているとつくづく感じるのだが、特にサスペンス系とホラー系作品において、作中にちりばめられる上品なユーモアとペーソスの匙加減が絶妙なのである。緊張と弛緩が無理なく配されていて、最後まで楽しめる。
恐怖だけではない。よい映画とは何なのかを知るためのエッセンスが、この映画にはたくさんある。