銀幕の彼方に

第10回 『青春の蹉跌』(邦画:1974年)

Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)

映像翻訳本科「実践コース」を2008年3月に終了。在学時は北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"であった。当年とって54歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。
今回は70年代の邦画にスポットをあて、その魅力について論じている。 

                   


【作品解説】 70年代当時は邦画もよく見ていました。独立系のはしりでもあったアート・シアター・ギルド(略称ATG)配給の作品などは、社名の通り非常に芸術性が高く難解でしたが、監督それぞれの個性が極めて色濃く映像に反映されていました。当時の作品は、鑑賞していると何か映像がこちらに挑んでくるような思いにさせられ、常に緊張を強いられたのですが、こちらもその挑戦を受けてたつような気持ちで見ていた記憶があります。
そんなATGの作品の紹介は次の機会に譲るとして、今回は「青春の蹉跌」という東宝配給の作品を取り上げました。この映画は私が学生時代に見た邦画の中で最も印象に残っている作品の一つです。第1回芥川賞受賞作家、石川達三の同名小説を映画化した作品で、監督は当時の日活ロマンポルノで名を馳せていた神代辰巳(クマシロタツミ)です。彼はこの作品で一般映画の監督としてデビューを果たしました。彼の代表作の1本と言えるでしょう。
主演は萩原健一(通称「ショーケン」)と桃井かおり(某クレジットローンのCMに竹中直人と出演している女優さん、と言ったらおわかりでしょうか...)ですが、この2人を見ていると、当時の空気が孕んでいた倦怠感と諦観を感じ取れます。撮影時はそれぞれ24歳と22歳と年齢的にはまだ若手でしたが、その存在感と演技力はすでに高い評価を得ていました。巨匠黒澤明監督の「影武者」に2人が出演するのは、それから5年後のことです。
他にも森本レオ、壇ふみなど、今ではすっかりベテランの域に達した俳優たちがややぎこちなくも初々しい演技を見せています。


自立に向け旅立つとき、その胸に去来するのは

胃の中から何か苦いものがこみ上げてくる。頭の中では(やばい...トイレに行かないと...)と考えているのだが手足が動かない。その一方、アルコール漬けのぼやけた頭で前の日の夜の出来事を少しずつ思い出していた。

東京の夜はその日が最後だった。翌日は、その春入社する予定の会社の寮に向かう。上野池之端にあるいきつけのジャズ喫茶、「壷屋」で飲んだ。酒はいつものサントリー・ホワイトで、酒屋で買うと当時は確か850円くらいだったと思う。ウイスキーには暗黙のステータスがあって、「ホワイト」の上は「角瓶」、その上は「オールド(通称「だるま」)」だった。世の中に出たばかりの新・社会人たちのささやかな夢の一つは、「いつかはオールドをボトルキープ」だった。手にする物の経済価値が幸福感と比例していた時代、そしてそのことを疑う余地などなかった時代の話である。

カウンター越しにマスターといつものように話をした。マスターの声は少しかすれていて、それが話に熱を帯びてくると、時々オネエ言葉になる。本人に言わせれば全くその気(け)はないそうなのだが、慣れるまでは少したじろいでしまう。頭の回転が速く、考え方にも1本筋の通ったなかなかの人物だ。当時30歳少し前だったと思う。

この店ができたのは昭和50年の夏ころだったと思う。無謀にも当時のジャズ喫茶の老舗、「イトウ」のほぼ真向かいにオープンしたのである。しかも1階が大人のおもちゃ店、4階が風俗店という雑居ビルの3階だ。この国の人口の二分の一は、ほぼ最初から来客として望めないすばらしい立地条件であった。

当時のジャズ喫茶というのは純粋にジャズのレコードを鑑賞するところで、会話厳禁がほとんどであった。老舗と呼ばれる店はレコードも数千枚単位で保有し、音響も凝りに凝った仕様で固めていた。住宅事情の悪かった当時では考えられない、テーブルのコーヒーカップが振動するくらいの大音響で聴くことができたのである。今でもこれだけは言えるのだが、音楽はある程度の音圧でないと、聴こえてこない、見えてこない世界がある。その意味で都内のさまざまな店のさまざまな音で聴いた経験は、今でも私の大切な財産となっている。

聴きたいレコードをリクエストするときは、レコードのタイトルとA面かB面を指定し、他人のリクエストがたまっていれば、かかるまでじっと待つ。コーヒーが一杯250円くらいだったろうか。何時間居座っても追い出されることはなく、本を読んだり、新譜に聞き入ったり、それぞれが気ままに過ごせるとても豊かな空間だった。

私は「壷屋」に開店当初から通い詰めで、いつの間にかカウンターの中でマスターの仕事を手伝うまでになっていた。レコードは当初200枚もなかったはずで、客からのリクエストにもなかなか応えられないことがよくあった。それでもなぜか昭和52年の春まで、私は毎日のように「壷屋」に通ったのである。一度、ジャズ評論家のいそのてるヲ氏(現在は故人)がふらっと訪れたことがあった。マスターと少し話をしてすぐに帰られたのだが、当時の業界では重鎮であり、こんな場末のジャズ喫茶にまで足を運んでくれるなどと想像もできなかったので本当に驚いた。何かと評判のあった人だが、気さくに話している様子を見たあとつくづく思ったのは、うわさで人間を判断してはいけないということであり、音楽の愛し方は人それぞれで構わないということだった。

さて、社員寮に出発する前夜は大いに盛り上がった。映画や音楽、アート、政治、将来、異性、ありとあらゆることを話し、議論し、最後は他の客も巻き込んで店全体がダンス場になった。わけの分からないでたらめの歌詞を全員が口走りながら奇声をあげる。体が熱くなり息が切れ、足元がふらつく。しかし、止まらないのかそれとも止めたくないのか、ダンスは延々と続く。
額からは汗が流れ落ち、頬はすでにグシャグシャに濡れていた...

「青春の蹉跌」の主人公、江藤賢一郎(萩原健一) は大学の法学部に通っており、アメリカンフットボール部に所属している。彼が家庭教師をしていた大橋登美子(桃井かおり)が無事短大に合格した。お祝いのスキー旅行に出かけた二人はそこで結ばれ、恋人としての付き合いが始まる。一方、賢一郎の学費を援助している伯父(高橋昌也)は娘・康子(壇ふみ)と賢一郎を結婚させ、ゆくゆくは自分の会社を継がせるつもりでいる。賢一郎は部活を辞めて司法試験の準備を始めるが登美子との関係は続いていた。

賢一郎は康子と結婚すれば裕福で安定した将来が確約されているのはわかっていた。輝ける未来へのレール、貧困生活からの脱却は約束されている。しかし彼の表情には喜びがない。

伯父の手による予定調和の人生に対し、しらけきっている様子がありありと見て取れる。しかし誘いを蹴ってまで目指すものがあるわけでもない。受け入れるしかなかった。

彼は康子とプラトニックな交際をしつつ、登美子との肉体関係も継続させる。惰性と成り行きで生きる賢一郎のさまを、萩原健一が巧みに演じている。賢一郎が心の中でつぶやくように歌う「斎太郎節(さいたらぶし)」 が印象に残る。
"エンヤートット、エンヤートット、マツシマア~ノ"
映画のシーンとはと全く無関係、かつ唐突に発せられるこの歌が、彼の不安定で、現実とまともに対峙しようとしない、醒めきった心のうちを代弁している。

賢一郎は司法試験に合格し、康子と婚約する。そして登美子に別れを告げようとするのだが、そのとき彼女から妊娠を告げられた。すでに5ヶ月が経過しており処置できないという。彼は困惑する。登美子に愛などない。このままでは自分の将来が破綻すると考えた彼は、一つの決断をし、それを実行に移す。

司法試験の合格、そして人生の新たな船出ともいえる康子との婚約披露パーティーが華々しく催される。その瞬間が、彼の人生における一つのピークであった。賢一郎はこの後、底知れぬ闇が覆いつくす縦穴に落ちていくことになる...。

前の日の夜に「壷屋」で繰り広げられた"狂乱の宴"を思い出していると、それは急に喉元までググッと迫ってきた。(限界だ...)。
布団から這い出し、何とか立ち上がり部屋のドアを開ける。当時私が住んでいた部屋は、アパートの一番奥だった。薄暗い廊下の両脇にはそれぞれ何部屋かが並んでいる。右側の並びの中間当たりに共同便所はあった。あわてて中に入り和式の便器の前にうずくまった。呼吸が荒くなってくる。ついに強制的に胃袋をわしづかみにされ残存物を搾り出されるあの感覚が襲ってきた。(またかよ...勘弁してくれ...酒はもういい...)。このアパートで何度体験したかわからない後悔の念が、また襲ってくる。

部屋に戻り、友人の運転するトラックが到着するのを待つ。二日酔いもだいぶ治まってきた。荷物は多くない。唯一の大物だった机は、「壷屋」のマスターにもらってもらうことになっている。
トラックが着いた。荷物を積み込み、鍵を大家に返した。
その後、マスターのところに寄って机を降ろした。マスターとは二言三言、言葉を交わした。その内容は覚えてはいないが、マスターから店のカウンター越しに学んだことは身に染み付いていた。
トラックが走り出す。自立に向けた本当の意味の旅立ちである。窓から何回か振り返り手を振った。目の前を過ぎ去るものすべてに別れを告げる。さよならマスター、さよなら東京、そしてさよなら大人になる前の自分...。

ジャズ喫茶「壷屋」は今も健在である。今年で33年目になる。片や老舗のジャズ喫茶「イトウ」はバブルの頃に土地店舗とも売り払って、今はない。

昨年、「壷屋」を訪ねてマスターと話し込んだ。昔と何も変わっていない。店の内装もカウンターの様子も当時のままである。映画の主人公ほどではないにしろ、私自身の青春の蹉跌もそこには確かに残っている。

興味のある方はお訪ねいただきたい。上野ababの向かいにある仲町通りに入って30メートルほど歩いた左側の雑居ビルの3階である。今は夜のみの営業だそうだ。ジャズを堪能できるのはもちろん、この店は会話OKである。

第9回 『冷血』(1967年)と『カポーティ』(2005年)


Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)

映像翻訳本科「実践コース」を2008年3月に終了。在学時は北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"であった。当年とって54歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。


【作品解説】 「冷血」」(1967年)は「ティファニーで朝食を」の著者としても知られる小説家トルーマン・カポーティによる同タイトルの小説を映画化したものです。小説自体も1959年11月15日カンザス州ホルコムで起きた一家4人の惨殺事件を丹念にレポートし、"ノンフィクション・ノベル"と呼ばれる新しいジャンルを切り拓いた記念碑的作品です。
1967年のアカデミー賞では監督賞をはじめ4部門にノミネートされました。 「カポーティ」(2005年)は、その殺人事件の発生から小説「冷血」を上梓するまでを描いたカポーティの自伝的映画です。主役を演じたフィリップ・シーモア・ホフマンは2005年度アカデミー賞の主演男優賞を獲得、その他4部門にもノミネートされました。今回の執筆にあたり、DVD「カポーティ&冷血マスターピースコレクション<初回限定生産>」(2007/03/16発売:ソニーピクチャーズ)を参考にしました。
鑑賞順序は、「冷血」→「カポーティ」→小説「冷血」がお勧めです。共通する登場人物の演技などを比較番組が流れている。政治、経済をはじめとしていくつかの話題がコンパクトにまとめらするとより楽しめます。特に実在の犯人ペリー・スミスを演じた2人の男優に注目して下さい。


殺人者の心の闇に、踏み込んだ男


仕事を終えてマンションの我が家に帰ると、まずリモコンでテレビのスイッチを入れる。主電源の赤が緑に変わると、ブラウン管テレビの本体から返事のような「チャッ、プッ」というかすかな音がする。

四角い枠の中に映像がふっと現れ、同時に左右の小さいスピーカーから申し訳程度にステレオ式で音声が供給される。(オツカレサマー)と心の中でつぶやきながら、部屋着に着替え、お茶の用意をしてテレビの前に陣取る。気持ちの張りが少しほどける。

NHKの夜9時からのニュースれ、手際よく紹介される。

それが殺人事件であっても、だ。確認された事実が淡々と放送される。動機、経過、容疑者と被害者の関係、そして現場付近の映像、容疑者の顔写真などである。視聴者に大まかな事実を確認させ、概ね納得したであろうあたりの絶妙なタイミングで、ニュースは次の話題に移る。

こうしてほとんどの殺人事件は、「人の命が奪われる」という被害者やその関係者にとってはこれ以上ない重大な出来事にもかかわらず、いとも簡単に忘れ去られてく。

加害者はどうか。

同じように忘却できる鬼畜のごとき人間か、それとも償いの人生しか残らないことをわかっていて、人を殺すのか。真に理解したいのなら自分が殺人犯になるしかないが、それは無理な話である。

しかし今から40年ほど前、小説を通じて殺人者の心をリアルに追体験させることに成功した作家がいた。トルーマン・カポーティである。

1955年11月15日、カンザス州ホルコムの銃撃による一家4人惨殺事件を新聞で目にした瞬間、カポーティは「それまで誰も書き得なかった小説」のインスピレーションを得た。彼はホルコムに飛び、事件の関係者に対して綿密に、丹念に、悪く言えば執拗な取材を始める。

やがて犯人が逮捕された。二人組であった。裁判で二人は死刑評決を受けるが上告する。その過程でカポーティは賄賂まで使って犯人との面会許可を得ている。

人を殺す人間とはいったいどのような人間なのか、なぜ殺す気持ちになったのか、引き金を引く瞬間犯人は何を考えたのか。冷静に、あらゆる角度から犯人だけの心のうちにある真実を暴いていく。すると、カポーティと犯人の一人であるペリー・スミスと間に、奇妙な友情が芽生え始める......。

フィクションにせよノンフィクションにせよ、"傑作"と呼ばれる作品には既成の概念や方法論を打ち破る何かがある。カポーティにとってのそれは、ペリー・スミスとの信頼関係の構築であった。

殺人現場にいたのは6人であり、4人は撃たれて死に、一人は単なる共犯であった。この猟奇的殺人事件の実行犯は世界中でペリー・スミスただ一人なのである。彼がすべてであった。

こうして、武器を持たない二人の心理戦が始まった。カポーティは己の作品のために、ペリー・スミスは自分の命を一日でも長く延ばすために。

カポーティは小説「冷血」を書き上げることに文字通り心血を注ぎこむ。前述したように、法を犯すことも辞さないほど、その仕事に彼は人生を賭した。

真の作家とは、作品の完成と引き換えに悪魔に自分の魂を売ることさえも厭わない人間なのだ。

事件発生から5年を経た1965年、ついに上梓され「冷血」は世界を震撼させた。彼の名声は一気に高まり、その前途は洋洋としているかに見えた。

しかしカポーティはこの「冷血」以降、未完成の「叶えられた祈り」を除き、長編小説を発表していない。

ジョージ・プリンプトンの著書「トルーマン・カポーティ」(野中邦子訳)のなかで、作家ジョン・ノウルズはこう語っている。「あの(「冷血」の)あと、彼は情熱を失ってしまったんだと思う。それまでの彼はとても努力家だった。私の会った中でも最も勤勉な作家だった。しかし、あれ以後、張りつめていた緊張が切れてしまった。突き動かすものが消えてしまった。こうして、崩れていったんだ」。

1984年8月25日、カポーティはドラッグやアルコールの依存症が原因とされる心臓発作により、L.A.の友人宅でこの世を去った。

ペリー・スミスはどうか。「冷血」が上梓された1965年、最高裁は上告を棄却して死刑が確定した。カポーティは彼の処刑に立ち会っている。

彼の目前でペリーは絶命した。絞首刑であった。

今日もまた、テレビのニュースが殺人事件を伝えている。しかし、私たちが茶の間で目撃する事件は、あくまで四角形に切り取られた偽りの世界である。

容疑者の顔写真がアップで映し出された。その表情の裏には、想像を絶するような深い闇の世界が存在することを忘れるな――。「カポーティ」は、そう語りかけてくる作品である。

第8回 『イージー・ライダー』(1969年)

Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)

映像翻訳本科「実践コース」に籍を置く受講生。北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"中。当年とって54歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。


【作品解説】 「アメリカン・ニューシネマ」を代表する作品であり、ロードムービーの先駆けともなった記念碑的な作品です。監督・製作・脚本・主演はデニス・ホッパーとピーター・フォンダ、共演にジャック・ニコルソン(全員顔にシワがありません。若い!)。短い期間で撮り終え、予算も34万ドル(当時のレートで1.2億円前後)と低めでした。完成直後はさほど注目されず、この映画が売れるとは誰も予想していませんでした。ところが、いざふたを開けてみると、発表後わずか2年の間に世界で6000万ドルの興業収入をあげるという大ヒット。当時の若者(もちろん私も含めてです)は自由を求めてアメリカをさすらう二人に自分を重ね合わせ、流れ出るロックミュージックのヒットナンバーに耳を傾けながら、この映画に酔いしれたのです。

名作に出会うということ ~そこにピーター・フォンダが待っていた~

ドラの連打が始まる。「蛍の光」がのんびりとした3拍子を刻み、周りの景色がゆっくりと回転し始める――。
いや、本当は港を出る連絡船が舳先を南に向けるために旋回しているだけなのだが、船体が大きいので、そう錯覚してしまう。
徐々に私の体全体が微細な振動に震え始める。船底から響いてくるエンジンの轟音が体の内部から鼓膜を振るわせる。

しょっぱい川(北海道の人間はなぜか津軽海峡をこう呼ぶ)を越え、対岸の青森までは4時間30分かかる。船の振動は、荒れる海峡を乗り切るためのパワーを船体の隅々にまで供給している証拠なのだと思え、だんだんと気持ちが高ぶってくる。
私は連絡船のデッキに立ち、冷えた手すりを握った。激しい揺れと潮の香りを含んだ風の中で、抑えきれない好奇心、それに幾ばくかの不安と照れと意気込みを胸に、水平線にうっすらと浮かぶ青森を見た。その年二度目の内地(本州)行きは、高校2年の修学旅行だった。

その年、1970年(昭和45年)はあの大阪万博が開催された年である。会期中には延べ6000万もの人が訪れたという。私もその中の一人であった。

歴史のうえでは「日本の高度経済成長期がピークを迎えた年」であったが、地方で生活している限り、そんな実感はほとんど感じられなかった。決して楽な暮らしとは言えなかったのに、父は多少無理をしてでも息子の見聞を広げようと考えてくれたのか、夏の万博ツアーに申し込んでくれた。今でも本当に感謝している。
修学旅行の3ケ月前のことで、私にとっては初めての団体旅行であった。周りはすべて大人で、知り合いは誰もいない。旅行中ひどく緊張していたのを覚えている。
男性も女性も酒を飲み、大声できわどい話をし、笑い転げている。私がそんな話しに入っていけるわけもなく、時々声をかけてくれる人もいたが、私はといえば力のない愛想笑いを浮かべ、頭をぺこりと下げるくらいが精一杯だった。

この旅行で私の記憶に最も残っているのは、アメリカ館に展示してあったアポロが持ち帰った月の石でも、岡本太郎作の「太陽の塔」でもない。
上野駅に着いて夜行列車から降りた瞬間の、あの殴られたような暑さと、それまで経験したことのない街の異様な匂いである。

肌にまとわりつく蒸し風呂のような湿気と暑さ、そして呼吸するたびに肺の中に何か付着するのではないかと不安にさせる匂い...。当時は環境保護を唱える者など皆無で、何よりも経済成長が優先された時代だった。我々にはそれに抗う術もなく、近代化の過程で生じる矛盾には、見て見ぬ振りを決め込むしかなかった。その影で犠牲にしてきたものの大きさ、大切さに人々が気づくのはまだまだ先のことである。

さて、修学旅行に話を戻そう。7泊8日、うち車中泊が2泊。始めの5日が関西、残り2日が東京であった。関西の最終日は自由行動で、班行動か個人行動かを選べた。私は個人行動を選んだ。今となっては名前も忘れてしまったが、京都市内のある美術館の「ミレーとバルビゾン派の画家たち」という展覧会をのぞいた。

ミレーの作品はいくつか知っていたが、なにせ目の前にあるのは本物である。「種蒔く人」に最も心を惹かれ、思わずポスターを買ってしまった。地味な色調であるが、その力強さと動きの的確な表現は、まだ高校生であった私の心を揺さぶるに十分なものだった。

その後、京都市内をぶらつき、目についたポスター店に入った。店内を見回すと歌手や映画スター、植物、車、飛行機、動物など、ありとあらゆるジャンルのポスターが壁を埋め尽くしていた。(ここなら少しは時間がつぶせそうだ)などと考えながら店内をうろついた。

店の奥まったところにそれはあった。
A0版大(1189×841mm)のモノクロのポスター。近寄って顔を確認した。「イージー・ライダー」のピーター・フォンダだった。

不自然なまでに長いチョッパー・ハンドルのバイクにまたがり、憂いを帯びた表情でゆっくりと左にハンドルを切ろうとしている。確かに全体はモノクロだが、正確に言えばアメリカ国旗をデザインしたガソリンタンクとヘルメットの部分だけは、国旗そのままのカラー印刷だ。

光っていた。大切な何かがこのなかにはあると感じた。ラジオの深夜放送で聴いてから鼓膜に焼き付いていたこの映画の挿入曲が、次々と頭のなかを駆け巡った。ポスターの絵と曲が重なり、ピーター・フォンダの駆るバイクが動き出したように見えた。体がブルッと震えた。

気づいた時にはレジの前に立っていた。京都から北海道の自宅まで、折り目をつけないように持って帰るのは一苦労であった。

それが私にとっての修学旅行の記憶である。否、あれは修学旅行ではなく、1枚のポスターに出会うべく、映画の神様が仕組んだ旅だったのかもしれない。

実家の2階にある私の四畳半の部屋に、早速ポスターを貼ることにした。もちろん「種蒔く人」のほうではない。
しかし当時の壁は、ジェームス・ディーン主演「理由なき反抗」のポスター、レイモンド・ラブロック主演「火の森」のポスター、自筆の下手くそなロダン作「考える人」のデッサン、解散したばかりのビートルズのポスター、そして当時のアイドル歌手、天地真理(あまち まり)のポスターで埋め尽くされていた。
悩んだ末、ここはいったん天地真理にお引取り願うことにした。空いたスペースに少し斜めにして、ピーター・フォンダを貼った。

四隅に画鋲を刺し終わったその瞬間、バイクの排気ガスのにおいが鼻を突いた。そして耳をつんざくエグゾースト音とともに、ステッペン・ウルフのナンバー「ワイルドで行こう」が聞こえてきた。
確かにそんな気がしたのだ。

第7回 『ベニスに死す』(1971年)

Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)

映像翻訳本科「実践コース」に籍を置く受講生。北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"中。当年とって54歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。



【作品解説】 トーマス・マンによる同名の原作を、名匠ルキノ・ヴィスコンティが製作・監督し1971年に映画化。作品は同年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールにノミネートされ、ヴィスコンティ自身も同映画祭で25周年記念賞を授与されました。
監督のゆるぎない美意識に裏打ちされた耽美的かつ退廃的な映像が、全編を通して流れていきます。「映像が語りかけてくる作品」と言っていいかもしれません。淡々としたストーリーの中に映し出される美しいベニスの町並み、そして時代に取り残された貴族たちのはかなさ...。スクリーン上に醸し出される独特のエロティシズムも、この作品に独特な味わいを添えています。

公開当事、「ヘテロの男性も動揺する」と言われた美男子、ビョルン・アンドレセンに、今の映画ファン、特に女性ファンはどのような感想を抱くか是非伺ってみたいものです。




愛に溺れた老作曲家の運命

マーラーの交響曲第五番第4楽章の旋律と共に映画は始まる。タイトルロールの背景には夜の闇に沈む、凪いだ海が映っている。時と共に、その色は夜明け前独特のくすんだピンクに変化していき、その上を滑るように進む一艘の客船が現れる。
そこには初老のドイツ人作曲家、グスタフ・アッシェンバッハ教授(ダーク・ボガード)が乗船している。
彼は持病と作曲・公演活動によって疲弊しきった心身を癒すために、夏のベニスにやってきたのだが...
この冒頭のシーンを目にした瞬間から私たちは監督の術中に陥る。
私たちの目に染み込んでくる、色とそのトーン、明と暗。それらの量と配置がスクリーン上で絶妙のバランスを保っている。1910年代のベニスとはおそらくこういう世界だったのだろう。
特にホテルの宿泊客である貴族たちがアペリティフ(食前酒)を楽しんでいるシーンは圧巻である。花瓶と花、電気スタンドの傘、家具、色鮮やかな女性のドレスと帽子、女性たちを引き立てるために存在するがごとき男たちの黒い燕尾服。食事の度の完璧な正装。全くため息しか出てこない。

■ 禁断の愛に没入する姿は、美しいか?醜いか?

老教授は、ポーランド貴族の少年タジオ(ビョルン・アンドレセン)と出会い一目で心を奪われて愛してしまう。ここから懊悩と煩悶の日々が始まる。 教授はタジオを目で追い、それに飽き足らず尾行めいたことまでする。だがそれ以上のことはしない。一定の距離を置き、存在を誇示することもなく話しかけることもない。 タジオもまた微妙な態度をとる。あたかも教授の気持ちを見透かしているかのように、時折無表情な視線を投げかける。 互いの存在を目だけで確認する日々。 ある夜、タジオは初めて教授にほんの微かにだがほほ笑んだ。教授は当惑し、心の中で叫ぶ。 「そんなほほ笑みを他人に見せてはいけない。君を愛している」 教授は特別な人間ではなかった。むしろ、自己を律することができる、地位も名誉もある紳士だった。しかし、恋に落ちた人間の行動は、古今東西、老若男女を問わず、悲しく滑稽で純粋、そのうえ傲慢で浅はかである。 ベニスの町ではひとつの恐ろしい事実が静かに進行していた。コレラの蔓延である。しかし、教授はタジオの姿を求めて、ベニスの町を徘徊する。 海水浴場で友人たちと戯れるタジオ。 折りたたみ椅子に座り、それを眺めている教授。 ただし、タジオに愛されようと若作りをし、化粧まで施した惨めな"紳士"の姿で。病気による大量の汗のために化粧は崩れ、口紅ははげ落ち、髪の染料が汗で溶け出して一筋の黒い線となり頬まで流れ出ている。タジオはそんな教授に気づいている。 そして...。 この作品のラストシーンを、「美しい」という人もいれば、「醜悪」という人もいる。何も感じないという人もいるかもしれない。 ただひとつ言えるのは、この作品が単に同性愛を賛美するものではなく、人生の酸いも甘いも知り尽くした威厳ある老人ですら一瞬のうちに恋に落ちることがあること。そして、愛の対象がたまたま少年であっても、なんの不思議もないという真実だ。 ビスコンティが描き出したのは、愛それ自体が持つ多様な側面の一部に過ぎない。しかしその表現手法は、おそろしく丁寧かつ繊細で優美である。『ベニスに死す』が巻き起こす波動は、時代を超えて観る者の胸に届くはずだ。

参考資料:
書籍    光文社古典新訳文庫 「ヴェネツィアに死す」原作 トーマス・マン 翻訳 岸 美光
DVD 「ベニスに死す」(1971年 イタリア/フランス)
「マーラー」(1974年 イギリス 監督ケン・ラッセル)

第6回 『時計じかけのオレンジ』(1972年)

Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)

映像翻訳本科「実践コース」に籍を置く受講生。北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"中。当年とって54歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。 

 
  


【作品解説】 1999年に亡くなった鬼才スタンリー・キューブリック監督の作品です。「2001年宇宙の旅」(1968年)、「博士の異常な愛情/または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」(1964年)を含む彼のSF3部作の1本です。
傑作の誉れも高く、1971年のアカデミー賞4部門にノミネートもされているのですが、一方で否定的意見も存在する異色作でもあり、紹介してよいものかどうか...と迷いました。


隣の席の外国人は一言「No!」と叫び、上映中の館内から出て行った。


厳しかった受験戦争が終わり、何とか私を受け入れてくれる大学が決まった。埼玉県草加市の獨協大学である。
入学年度は1972年。
入学直前の2月には、連合赤軍による「あさま山荘事件」が勃発する。その後連合赤軍内部のリンチ殺人事件が発覚し、リーダーの永田洋子をはじめ、幹部全員が逮捕された。
この事件を機に、60年代から70年代の前半に吹き荒れた安保反対運動はほぼ終焉することとなる。
祭りは終わった...、そんな年であった。

学内は時折、左翼系学生会と右翼系体育会の小競り合いがあったものの、平穏な時間が流れていた。しかし取り囲む空気は、学生運動の挫折感からくるのだろう、鬱屈した何かをまだ含んでいた。

だが、そんな学生たちのセンチメンタリズムには目もくれず、日本の景気は高度成長真っ只中であった。アメリカ資本の日本市場への本格参入が始まったのもこの頃からだ。前年の71年には銀座三越にマクドナルド1号店がオープンし、2年後の74年にはセブンイレブン1号店が江東区豊洲にオープンする。マックシェイクを初めて飲んだのも大学1年のときである。何とも飲みづらいドリンクだと思った。
そんな状況で方向性を見失っていた日本のキャンパスでは、4年のモラトリアムを享楽的に謳歌しようという気運が支配的であった。今にして思えば、大学がレジャーランド化するはしりの時期だったのかもしれない。

「時計じかけのオレンジ」を見たのは、そんな大学1年生の春の、ある日曜日である。奨学金を貸与されている貧乏学生ではあったが、当時、映画のメッカであった日比谷のロードショーに足を運んだ。鑑賞料は1000円前後であっただろうか。

高校時代に読んだ映画史に関する本に、「博士の異常な愛情/または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」という異様に長いタイトルと、その監督であるキューブリックが紹介されていたことを覚えていた。「時計じかけのオレンジ」というわけのわからないタイトル、公開時のポスターもかなりエキセントリックであった。ひどく危険な匂いがした。

そんな直感で見ることを決めたのだが、この映画、とんでもない代物であった...。


■ 「あちら側」からは常に、どこからか見られている

映画を見終わると私たちは様々な感慨を持つものである。「面白かった」、「ドキドキした」、「スカッとした」、「泣けてきた」などなど。 ところが人間の感情というのは、そう単純なものではない。

映画の製作サイドは、作品にとっておあつらえ向きの感情(悲劇の恋愛ものならば大いに泣いて下さい、とか)を狙い撃ちにする。しかし、稀にだが、観客の「できれば触れて欲しくない、思い出したくもない」という部分を心の底から引きずり出し、鼻先に突きつけることを楽しんでいるかのような監督もいるのだ。

私はこの作品がそうだとは、あえて断定しない。大学生であった私がこの作品に感じた嫌悪感や不快感、不安感、警戒感を、なかには歓迎し、楽しめる人もいるだろう。百歩譲って私の得た感覚がおおよそ正しいものだったとしても、映画として悪い作品だとは決して言い切れない。

映像を見て湧き出た感情はあくまでも「感情」である。後になってから見えてくるものに気づき、その作品が意味する真の価値に感動し、監督の力量をあらためて評価する、という経験は誰にでもあるだろう。

ただ、次のような出来事が、この映画の鑑賞中に実際に起きた。

主人公アレックス(マルコム・マクダウェル)が仲間の裏切りにより警察に逮捕され取調べを受けているシーン。警察の一人が彼の顔に唾を吐きつけた。その瞬間、私の隣に座っていた中年の外国人の女性が、「No!」と低くつぶやいたのだ。続けて顔を左右に振りながら席を立ち、そのまま退場してしまったのである。ひどく当惑し、悲しそうな顔をしていた。

観る者の理性や常識をあざ笑い、揺さぶりをかけ、挑発する映画。あの外国人女性のように、誰もが拒否反応を起こす、というわけではないだろう。例えば、普段は良識派を気取っている人間が、いつのまにか映画のなかで暴力を振るう人間や人権無視の暴挙を働く人間に共感していたとしたら...。そして、そんな自分に気づき、混乱し、途方に暮れているとしたら...。

そんなふうに流されやすい私たちが住む「こちら側」の世界。しかし、私たちからは決して見えない「あちら側」の住人は、頼んでいるわけでもないのに常に私たちを監視し、私たちが彼らを悩ませる方向へ行かないように、さりげなく軌道修正を行っている。

気をつけていないと、彼らの"指導"は、常道を外れることがある。いつの時代でも、どこの国でも。あの学生運動が、時の体制の手によって風の中の塵と消えたように...。

ラストシーンで、アレックスは"完璧"に「こちら側」へ戻ったことを報道陣の前でアピールする。記者たちと受け答えをしながら、カメラのフラッシュを浴びていたその時、彼の気持ちはゆっくりと高揚し始め、表情が少しずつ、しかし確実に変化していく...
このアレックスの表情はどう表現すればよいのだろう、
そして最後までこの作品を見てしまったあなたはいったい何を感じるのだろうか...

まさしくキューブリックを鬼才と呼ぶにふさわしい作品である。

第5回 『ウエスト・サイド物語』(1961年) 

Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)

映像翻訳本科「基礎コース・Ⅱ」に籍を置く受講生。北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"中。当年とって53歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。



【作品解説】 アカデミー賞10部門受賞。ミュージカル映画の金字塔であることはもちろん、その後のあらゆるジャンルのハリウッド映画に多大なる影響を与えている作品です。
二人の主人公が織りなすせつないラブストーリー、レナード・バーンスタインの音楽、そしてダイナミックなダンス。それらが一つとなって、映画史に残るクライマックスに向かって一気に突き進んでいきます。

今回はこの作品にまつわる極めて私的な体験談です。最後までお読みいただければ幸いです。



「ウエスト・サイド物語」―吹雪の夜、 ジョージ・チャキリスは「深川東映」の銀幕で舞った


1971年冬―。
私は昭和28年(1953年)北海道の深川市に生まれ、高校卒業までの18年間をここで過ごした。
市の繁華街には3つの映画館「東映」、「劇場」、「座」があった。正しくは「深川」の文字がそれぞれの頭に付くのだが、誰もが愛着をもってそう呼んでいたのだ。

「座」にAが行ったらしい、クラスの片隅が何となくざわついている。
「座に行ったんかい?」
「何見たんよ?教えれ?」
「女子に言うべ」

私が通った北海道立深川西高校は男女共学である。女子の冷ややかな視線がそれとなくAに降り注ぐ。
「違う、違うって!見たのは"男はつらいよ"だ!」

「座」は松竹系とピンク映画を週替わりで上映しており、「劇場」は大映・東宝・日活の作品と洋画、「東映」は文字通り東映の作品と洋画を上映していた。

上映の日程は、街の"裸の社交場"だった「日の出湯」で確認する。
3館とも2本立て興行である。上映中の作品と次回予定の作品を合わせた計12枚のポスターが、脱衣場の広い壁一面を埋め尽くしていた。待ち焦がれていた作品を見つけたときは、心の内で快哉を叫んだものだ。

積雪が2メートルを超えた厳寒のある日、そのポスターは張り出された。
「ウエスト・サイド物語」

ビデオもDVDもない時代である。すでにその時、日本初公開から10年が過ぎていた。だが、映画の魅力にとりつかれてからの私には、今回が文字通り"ロードショー"であった。主演女優のナタリー・ウッドは、私のお気に入りの一人だった。

胸が高鳴る理由がもう一つあった。中学時代に所属していたブラスバンド部で「ウエスト・サイド物語メドレー」を演奏し、その旋律が心に残っていたのだ。

その日は夕方に家を出た。凍(シバ)れは緩み空は鉛色である。映画が終わるのは8時頃だろう。(吹雪が来るな)と思いつつ、足早に「東映」に向かった。

もぎりから半券をもらい重い扉を開ける。白熱灯の中途半端な明るさが場内をぼんやり照らしていた。

鼻腔に入り込むのは映画館特有の臭いだ。
10人ほどの観客が、上映前の時間を過ごしている。タバコを吸っている者もいた。当時は上映中にもタバコを吸う人がいて、ゆっくり立ち昇る煙の影が、スクリーンに映し出されたりする光景もめずらしくはなかったのだ。

時間がきた。照明がゆっくりと落ち始める。
スクリーンのカーテンが、街の片すみの映画館には不釣合いと思えるほどうやうやしく、左右に開く。本編が始まった――。

――エンドロール、そして終演。私はしばらく席を立てなかった。

「東映」の古いドアを手前に引き外に出ると、予想通り猛烈な吹雪だ。
コートのフードをかぶる。顔に吹き付ける雪を避けるために、頭は自然とうなだれてしまう。それでも吹雪は容赦なく顔を叩きつけ、顔全体が冷えこわばってくる。

私は、1つ1つのシーンをゆっくりと頭の中で反芻することに集中していた。

ニューヨークの街並、ダウンタウンの不良たち、ジェット団とシャーク団の群舞。シャーク団のリーダーを演じるジョージ・チャキリスのダンスには心が震えた。お目当てのN・ウッドは想像していたよりずっとチャーミングだった。

主役の恋人たち、リチャード・ベイマーとナタリー・ウッドも素晴らしかったが、私にはG・チャキリスとその恋人、リタ・モレノの方が一枚上に見えた。それもそのはず、後でわかったが、2人はしっかりアカデミー賞助演賞を獲得していた。

音楽を手掛けたのは近代クラッシックの巨匠、レナード・バーンスタイン。「アイ・フィール・プリティー」、「アメリカ」、「クール」、「サムホエア」、「マリア」...。ブロードウエイとハリウッド映画史に今も残る名曲の数々。
ジャズあり、ラテンあり、どれも印象に残ったが、私の心の深いところにまとわりついて離れないのが「トゥナイト」だ。

登場人物たちは、それぞれの今宵(トゥナイト)への思いを5つの旋律で歌い上げる。主旋律はR・ベイマーとN・ウッド、恋人であるG・チャキリスを待つR・モレノは、全く異なる旋律を歌う。決闘の場に向かうジェット団とシャーク団が、さらに異なる旋律を重ねていく。

それぞれの登りつめた思いが、最後のフレーズ"トゥナイト!"に力強く集約された。

――雪は止む気配すら見せない。つま先が冷え切って感覚がなくなっている。
顔を上げると深川バスターミナルが見えてきた。
(あと少しで家だ...)
「トゥナイト」を小さく口ずさみながら、私はいつのまにか駆け出していた。


参考資料:DVD『ウエスト・サイド物語』
DVD『ザッツ・エンターテインメント』
DVD『ザッツ・エンターテインメントPartII』

※「深川東映」「深川劇場」「深川座」の3館は、すでに取り壊されており、当時を偲ぶ痕跡は全く残っていない。

第4回 『ゴッドファーザー』   


Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)

映像翻訳本科「基礎コース・Ⅱ」に籍を置く受講生。北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"中。当年とって53歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。



【作品解説】 3部作―米国アカデミー賞の歴史で、同じシリーズから2作品が作品賞を受賞したのは、「ゴッドファーザー」以外存在しない。巨匠、フランシス・F・コッポラ監督の作品群の中でも、最高傑作の一つと言えるであろう。
今回、私が注目したのは、シリーズ3部作(合計上映時間:9時間5分)を通してアル・パチーノが演じ切った「マイケル・コルレオーネ」という人間の生涯だ。彼の一生とは何であったのかを考えてみたい。


「ゴッドファーザー」3部作に見る「マイケル・コルレオーネ」という生き方


■ 「ゴッドファーザー」(第一部) (1972年):初めての殺人とドン(首領)への道


物語は1945年、第二次世界大戦が終わった年の夏に、マイケルの妹コニー( タリア・シャイア)の盛大な結婚式シーンから始まる。マイケルは結婚を約束しているケイ( ダイアン・キートン)を伴い、式場に現れた。この時のマイケルは戦功を称えられた名誉軍人であり、この後大学に復学して、ケイと結婚することを考えていた。しかし、マイケルもコニーも、裏社会に君臨するマフィア、コルレオーネ・ファミリーの血を継ぐ者たちである。

別のマフィア、タッタリアファミリーから麻薬密売隠蔽に関する協力依頼を蹴ったマイケルの父、ドン・ビトー・コルレオーネ( マーロン・ブランド)が、その報復に銃撃され、瀕死の重傷を負った。そこからマイケルの運命は思わぬ方向へ転がって行く。
マイケルは二人の男を殺害して父の復讐を果たす。その後、ほとぼりが冷めるまでシチリアの父親の知人に庇護を受ける。その間、地元の娘アポロニアと電撃的に結婚するが、彼女はマイケルと間違えたヒットマンに爆殺されてしまった。さらに、米国にいる長兄のソニー(ジェームズ・カーン)が、百数十発の弾丸を浴び殺されたとの悲報が入る。
マイケルはアメリカに戻り、父親(=ドン)の後を継ぐ決意を固めた。ケイと結婚し、父親から帝王学を学びながら、自らの意志で新たな手を打っていく。ファミリーを守り、発展させるという目的のために、的確で、計算高く、冷酷な手を...。

「立場が人を作る」とよく言われる。この映画におけるアル・パチーノがまさにそれだ。最初の柔和な顔が徐々に、しかし確実に、暗く鋭い目を持つ「ドン」の顔に変化していく。レストランで二人を殺害するまでの心の動きを表情でのみで追うシーンは、映画史に残る名場面だと思う。
実は、パラマウント映画の役員たちは、このシーンのラッシュを見るまではアル・パチーノの起用に不満を持っていたそうだ。しかし、その後は一切文句が出なくなったという。
組織が巨大であればあるほど、トップの両肩にかかる責任の重さは並々ならぬものであろう。非合法組織では、命も懸かっている。情報収集のネットを張り巡らし、罠を仕掛け、裏切り者には死をもってその行為を償わせる。一瞬たりとも気を緩めることはできない。
マイケルの策略はことごとく功を奏し、組織は発展していく。しかし、その影で妻との間に埋めることのできない大きな溝が生まれていたことを暗示しながら、第1部は終わる。



■ 「ゴッドファーザーPartII」(1974年):果てしなき勢力拡大と背負った大罪


第二部では、マイケル・コルレオーネの物語と、父親のビトー・コルレオーネの物語が交互に画面に現れる。
若き日のビトー・コルレオーネを演じるのはロバート・デ・ニーロ。公開当時、29歳である。
このデ・ニーロが素晴らしい。ギリシャ時代の彫像を想像させる引き締まった肉体、自信と誇りに満ち溢れた表情、美しい所作、そして黒い瞳のクールな眼差し...。「セクシー」という形容詞を男に当てはめるとこうなるのではと思わせる。
そんな彼が、1920年代のニューヨーク、ロウワー・イースト・サイドの町並みを背に躍動する。撮影のゴードン・ウィリスは、画面の色調を赤みがかった黄色に調整して、時代の雰囲気を出そうと試みた。私には、いくつかの場面がラ・トゥールの絵画を髣髴とさせ、心地よい。

ビトーは、高い上納金で町の人々を苦しめていたドン・ファヌッチを、祭りの喧騒にまぎれて射殺する。その後、友人とオリーブオイルの会社を設立、町の人々の信用を得ながら勢力を徐々に拡大し、現在のコルレオーネ・ファミリーの基礎を築いていく。ビトーは家族でシシリー旅行に出向くが、その間にも策略を立てて敵であるドン・チッチオの抹殺に成功する。
一方、現代。ドン、マイケルによる勢力拡張は留まる所を知らず、上院議員までをも囲い込む。国外投資のために、マイケルはキューバへ飛び、現地の実力者ハイマン・ロス( リー・ストラスバーグ)と接触を持つ。しかし、ロスとは過去のいきさつで互いに怨恨を持つ間柄だ。互いに相手を殺す機会を探り合っていた。
ある年の暮れにクーデターが勃発、新軍事政権によって現政権が瓦解し、マイケルはアメリカに逃げ帰る。このとき、マイケルは次兄のフレド( ジョン・カザール)がロスの一味と通じている事実を知ってしまう。
ロスとの駆け引きの中でマイケルは公聴会において偽証罪で告発される寸前にまで追い詰められる。これは何とか切り抜けたが、妻であるケイの流産、ケイと離婚、次兄フレドの裏切りと、マイケルの帝国は思わぬところから歪を見せはじめる。

マイケルの盲点はどこにあったのか?
その一つが時代の流れである。時代が急速に変化していく中で、ファミリービジネスにおいては、マイケルは何とかその波に乗ろうと試みる。しかし、世の中が如何様に変化しようとも、彼にとっての全ての行動の基準は「ファミリーのために」。それは変わることがなかった。
しかしその信念こそが、周囲の人間たちを不幸に陥れる。彼自身も自縄自縛に気づいているが、どうすることもできないのだ。
ラストシーン。アップで映し出される彼の表情は、懊悩する人間の心のありよう、そのものである。



■ 「ゴッドファーザーPartIII」(1990年):人生の終焉で見たものとは


あれから15年。マイケルはバチカンへの貢献を評価され叙勲を受ける。だが、これには当然裏があり、彼はこれをきっかけにバチカンが運営する企業へ深く入り込んでいった。
二人の子供も成長し、長男アンソニーはクラッシック歌手として、長女メアリーはマイケルの設立した財団の責任者としてそれぞれの道を歩んでいる。マイケルも老境に差し掛かり、病気を患っていた。ファミリーの後継者として甥のビンセントを指名するが。このことが内部の抗争に火を点ける原因となる。

本作は、バチカン内部の対立、バチカンの運営する企業内における既存勢力とマイケルとの対立、そしてファミリー内の抗争を軸に、甥のビンセントと娘のメアリーとの恋愛やマイケルが過去への贖罪の念に苛まれる姿を描く。そして、彼の生地シチリアで、長男アンソニーがオペラ・デビューを果たすシーンへと収束していく。最後の演目、「カバレリア・ルスティカーナ」が幕を閉じた後、マイケルを待ち受けていたのは...。
本作は、3部作の中で最も評価が分かれる問題作となった。キャスティングの問題、技術的な問題で画面に生彩が無い、バチカンのタブーに触れているなどがマイナスの評価を生んでいるようである。
しかしこの作品が、壮大なる「ゴッドファーザー」の物語を完結させているのは間違いないと思う。少なくとも、マイケルの生き様という、このコラムの視点から見れば、ある種の帰結として納得のいくものに仕上がっている。
のし上がり、栄華を謳歌し、人も羨むような一生を送ったマイケル。確かに彼は「コルレオーネ・ファミリー」全体を守れたのかもしれない。
しかし彼自身のほんとうに「ファミリー(家族)」はどうか。
ビトー・コルレオーネはいみじくも語っていた。
「家庭を守れない奴、そんな奴は男じゃない」

第3回 「家畜以下」から始まった ~スクリーンに刻まれた人種差別の履歴書~ 

Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)

映像翻訳本科「基礎コース・Ⅱ」に籍を置く受講生。北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"中。当年とって53歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。


 前回までは1つの作品を取り上げて紹介してきましたが、今回は映画と深い関わりのあるテーマを切り口に、過去から現在までの複数の作品を紹介しつつ、私の思いを綴りました。

■ 「アミスタッド」に見る黒人奴隷制の実相

「黒人はなぜ卑屈にものを考えるのか、アメリカに住んでても我々はアフリカ人だ。望んでニーニャ号やピンタ号に乗ったのか ? 『建国の父』と名乗る連中の手でこの国に拉致されたのだ ! 」 - 映画「マルコムX」より - アメリカという国の生い立ちに目を向ける時、決して看過してはならないものが三つある。「移民」、「銃」そして「黒人奴隷」である。「移民」と「銃」の問題については別の機会に譲るとして、今回は奴隷制度から始まる黒人への人種差別と公民権運動の終結までの足跡をたどってみたい。 1839年に奴隷船アミスタッド号で起きた黒人奴隷の反乱を題材とした映画「アミスタッド」(1997年)を撮ったのはスティーブン・スピルバーグ監督だ。彼は映画のなかで、奴隷たちの受けた仕打ちの理不尽さを、正視するのがためらわれるほど生々しい映像で表現している。彼らはアフリカで拉致され、有無を言わさず家族と引き裂かれ、牛馬以下の扱いで、船底に押し込まれていった...。 航海の途中で食料が不足すれば「間引き」される。それは筆舌に尽くし難い悲惨な光景である。私は、文字通り体当たりの演技で撮影に臨んだ多くの黒人エキストラに尊敬の念を抱かずにはいられない。 アミスタッド号事件の後、1860年にリンカーンがアメリカ大統領に選出され、その翌年、南北戦争が勃発した。1865年に北軍が勝利するまでの4年間、アメリカの歴史上唯一の「内戦」が繰り広げられた。 戦後、黒人は市民権を得ることになるが、白人側の差別感情は消えること無く、150年を経た今も、種火はくすぶっていると言わざるを得ない。

■ ネイティブ・インディアンへの迫害を描いた「ソルジャー・ブルー」
この頃から米国西部への移住者が増え始めた。カリフォルニアで金鉱が発見されたことが、西への移動にさらに拍車をかけ、この現象は「ゴールド・ラッシュ」と呼ばれる。映画の黄金期を支えたジャンルの一つ、「西部劇」の背景となった時代だ。
しかしここでも「差別」が暗い影を落とす。先住民族への迫害である。この悲劇を真正面から捕らえた問題作が1970年に発表された。ラルフ・ネルソン監督「ソルジャー・ブルー」である。
"西部開拓史の汚点"とも言うべき1864年の「サンドクリークの大虐殺」をモチーフにした作品で、人種差別問題という枠で捉えれば、前述の「アミスタッド」と比肩し得る作品と言える。
このようにアメリカという国は、最初の入植者が上陸して以来、内包している自己矛盾(=人種差別問題)を増幅させながら、20世紀初頭に起きた産業革命の恩恵により、巨大国家へと成長していく。

■ マルコムXが「ブラック・パワー」に残したもの
1917年に第一次世界大戦が終結。1920年代に入るとアメリカは未曾有の繁栄を迎えた。いわゆる「ローリング・トゥエンティーズ」、「ジャズ・エイジ」などと呼ばれる時代である。
冒頭でセリフを引用した、スパイク・リー監督による「マルコムX」(1992年)の主人公、マルコムX(デンゼル・ワシントン)は、この時代の只中1925年に生まれている。
マルコムXは、十代で麻薬と犯罪に走り刑務所に収監される。その時イスラム教の信者と知り合い決定的な影響を受け、入信する。1952年に仮出獄すると、白人を「青い目の悪魔」とみなす教義の説教者となり、辛らつではあるが知性に富み、急進的かつ戦闘的な演説によって、瞬く間に黒人層の心を掴んでいく。
その後、彼は組織の発展に大きく貢献するのだが、妬みを買うことも多く、結局独立する。独立後、まず行ったのはメッカへの巡礼であった。この地にあらゆる人種が集う場面を目の当たりにすることで、自分の頭が偏狭なナショナリズムに凝り固まっていたことに気づく。思想的に大きく舵を切ろうと決心するマルコムX。しかしその端緒を開いたばかりの1965年2月、凶弾に倒れ、不帰の人となった。
彼の与えた影響の大きさ、深さを感ぜずにはいられない作品だ。彼の思想の過激な一面は、キング牧師が提唱していた非暴力主義に物足りなさを感じていた集団のエネルギーと呼応し合い、その後の急進的な「ブラック・パワー」運動の精神的支柱となる。
202分というかなりの長尺ではあるが一気に見せてくれる。バックミュージックがその年代に流行していた黒人アーティストの作品ばかりでることにも注目してほしい。そんな監督のこだわりによって、私にとっては耳でも楽しめた一本であった。

■ 差別の克服という理想を描いた「招かれざる客」
マルコムXが暗殺された2年後の1967年、全米で一大議論を巻き起こした作品が封切られた。スタンリー・クレーマー監督の「招かれざる客」である。
この作品を数十年ぶりに見直した正直な感想は、「どこが問題作だったのだろう?」というものだ。
妻と子供を事故で亡くした、世界的に有名な黒人医師ジョン・プレンティス(シドニー・ポワチエ)。新聞社社長のマット・ドレイトン(スペンサー・トレイシー)の愛娘である白人女性、ジョーイ(キャサリン・ホートン)とハワイで知り合う。二人は恋に落ち、結婚の許可を得るために、二人してドレイトン家を訪れる。
黒人であるジョンを目の前にしてマットと彼の妻(キャサリン・ヘプバーン)は慌ててしまう。そこに、ジョンの両親もやってくるのだが、彼らも同じように息子の相手は黒人だと思い込んでいたためにショックを受ける。6人は戸惑いつつも話し合いを始める...。
違和感があったのは、登場人物が皆、素晴らしく理解があり、相手の立場を尊重し、愛情溢れる態度と言動で接する点だ。話は、ご覧になった方々のほぼ思い通り進んでいく。ただし、差別問題に関しての「悲惨な現実」ではなく、「希望と理想」を描いた作品として見れば、印象も変ってくる。この作品でアカデミー賞主演女優賞を受賞したキャサリン・ヘプバーンと、同じく主演男優賞にノミネートされたスペンサー・トレイシーの演技は素晴らしく、作品に説得力と厚みを与えている。
特筆すべきは、当時黒人男優として注目を集めていたシドニー・ポワチエの存在感であろう。1963年の「野のユリ」では、黒人初のアカデミー賞主演男優賞を獲得している。それまでスクリーン上では、黒人俳優には黒人であることを意味するような役回りが与えられることがほとんどであったと思う。アフリカの人々、またはルイ・アームストロングのような"白人の引き立て役"である。堂々と正統派の役者としての大役を演じきったシドニー・ポワチエが、黒人俳優の地位向上に果たした役割は計り知れない。
しかし、公民権運動の光だけでなく、影の部分を世に知らしめようというムーブメントが映画の世界をも凌駕し始めたとき、それと呼応するように、"正統派俳優"ポワチエの存在感は希薄になっていく。
1968年4月4日、キング牧師が暗殺される。これ以降カリスマ的な黒人指導者は現れていない。公民権運動については、1964年の公民権法、1965年の投票権法の制定で、当局は一応結実したことを強調するが、現実はどうか。
黒人市民に対する不等な差別や貧困層の問題は、今なお継続していると言わざるを得ない。
「私には夢があります。いつの日か、谷間という谷間は高められ、あらゆる丘や山は低められて、でこぼこしたところは平らにされ、曲がりくねったところはまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示されて、生きとし生けるものすべてが、それをともに見る時が来る夢です。」--1963年8月28日 ワシントンD.C.の25万人集会におけるマーチン・ルーサー・キング・ジュニアのスピーチより

参考資料:
DVD 「招かれざる客」 「夜の大捜査線」 「マルコムX」 「アミスタッド」
書籍 『史料で読むアメリカ文化史(5) アメリカ的価値観の変容 1960年代 - 20世紀末』
(東京大学出版会)
『浸透するアメリカ、拒まれるアメリカ 世界史の中のアメリカニゼーション』
(東京大学出版会)
『60年代アメリカ 希望と怒りの日々』 (彩流社)

第2回 『ジョニーは戦場へ行った』 (1971年)

Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)

映像翻訳本科「基礎コース・Ⅱ」に籍を置く受講生。北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"中。当年とって53歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。


原題:Johnny Got His Gun (1971年)


   

■ 国家へ忠誠を誓った一人の若者の終着点、或いは出発点


1917年アメリカはドイツに宣戦布告し第一次大戦に参戦する。この映画の主人公であるアメリカ人の青年、ジョニーも徴兵され戦地へ赴く。
戦闘が繰り返される毎日。ある雨の夜、ジョニーの部隊は上官の命令により、前線に放置された敵兵の死体を埋葬することになった。そのあまりにもひどい腐敗臭は、自分は戦争の只中にいるのだという現実を、ジョニーに否応無く突きつけるのであった。
作業を終えて撤収しようとしたその時、敵の奇襲攻撃が始まった。
ジョニーは塹壕に逃げ込むが至近距離で爆弾が破裂。致命的とも思われる重傷を負った。ジョニーは意識を失い、そのまま病院に担ぎ込まれる...。
死の淵から意識を取り戻したジョニー。しかし、何か様子がおかしい。時とともに、ジョニーは、自分のおかれた現実に気づいていく。
五体はほとんどすべての機能を失い、ベッドから降りることは生涯不可能、そのうえ顔面は爆風で抉り取られ、声を発することもできない。そこにいるのは、生きているだけの自分だった・・・。
声なき声で叫び続けるジョニー。このような状況で、人間は何を呪い、何に救いをもとめればよいのか・・・。

同名の小説の原作者は、ダルトン・トランボ(1905~79年)。一兵卒として戦地に赴く青年の絶望を描いたこの本のテーマのひとつは明らかに"反戦"である。それにもかかわらず、初版は第二次世界大戦が始まった1939年に発行されている。
案の定、本書は国威の高揚やお国のために身を捧げる精神の流布に力を注いでいた米国当局の圧力で、絶版の憂き目にあった。

しかし、この本の持つ真理や普遍性に対する根強い支持によって復刻を果たす。その後も絶版と復刻を繰り返しながら、今現在まで世界中で広く愛読されてきた。
トランボ自身は、第二次大戦後ハリウッドに吹き荒れた「赤狩り(レッド・パージ)」によって共産主義者の烙印を押され、1947年、ハリウッドから追放された。
しかし、彼はその後も名を偽りながら脚本の執筆活動を続けていたのだ。1953年には、あの「ローマの休日」を"イアン・マクレラン・ハンター"の名で書き上げている。
1960年にはハリウッドの表舞台へ復帰を果たす。映画史に残る名作「栄光への脱出」は、彼が脚本家として実名復帰を果たした第一作目でもある。

トランボが自身の創作活動の原点ともいえる「ジョニーは戦場へ行った」を映画化したのは1971年になってからだ。脚本のみならず監督も務め、自ら出演まで果たしていることからも、本作への並々ならぬ思い入れがうかがえる。
公開後はアメリカ国内をはじめ世界各国で反響を呼び、同年のカンヌ国際映画祭で「審査員特別グランプリ」を受賞した。

この映画が今も私をひきつける理由の一つに、ラストシーンがある。
ラストシーンは、監督が作品の締めとして最も神経を使うパートの一つであり、観客への作品への印象をほぼ決定付けてしまう、重要な時間帯だ。
私の中で印象深く、忘れがたいラストシーンは数多くあるが、この作品のそれは、まさしくベスト中のベストなのだ。
撮影手法は極めて単純である。ベッドに横たわるジョニーを最初はアップで捉え、その後は引いてゆくだけだ。
ただ引きのシーンに掛ける時間が異常に長い。なんと約2分30秒、しかもワンカットである。映画でここまで長いワンカットには、なかなかお目にかかれるものではない。
しかし、私は時間の長さを一切感じない。戦争と平和、地獄と天国、失意とわずかな希望――。淡々と響くジョニーの心の声に耳をすましながら、皆さんはこの2分30秒に何を感じ、何を思うだろうか。

ここで視点を少し変えて、国家と個人との関わりについて少し考えてみたい。
映画の冒頭に取り入れられた記録フィルムで、第一次大戦に参戦した諸国の為政者たちが次々と顔を出す。
手を振り、にこやかに微笑み、閲兵する国家のリーダーたち。戦争を操るのは、まさに彼らである。各国はそれぞれのエゴをむき出しにし、犠牲をいとわずに領土をむさぼる。しかし為政者たちの手は一切汚れない。
「国家」に名を借りた為政者のエゴのために召集され、死んでいくのは、いつの時代も名も無きジョニーたちである。彼らはそれぞれの幸せを故郷に置き去りにして戦地に赴き、「お国のため」という一見美しいスローガンのもとに散っていく。
それは今も全く変わらないのではないか。
私も含め、世界中の多くの人間は戦争やテロの傍観者である。今もどこかで新たなジョニーが生まれているというのに、他人事を決め込んでいる。それは戦争を是とする為政者の側にいるのと等しい、という事実を、我々は認識し反省する必要があると思う。
せめて、戦いに己の命を賭したジョニーたちが発信するメッセージを、我々はきちんとすくい取る必要がある。
個人は無力だと諦める前に、彼らの存在、そして彼らの心の癒えない傷にまず目を向けること、それこそが人類の新たな旅立ちの第一歩ではないのか、私はそんな気がしてならない。
映画の持つ力、魔力とさえいえるかもしれない何かを再認識させられる「ジョニーは戦場へ行った」。このような感動に出会えるからこそ、私の映画行脚は終わらないのだ。


参考資料: VIDEO版「Johnny Got His Gun」Distributed by CBS/SONY INC.
(※日本語字幕版はAMAZON JAPAN などで検索可)
「ジョニーは戦場へ行った」ドルトン・トランボ著(信太英夫訳
角川書店 平成2年3月30日 44刷)
「レッドパージ・ハリウッド」上島晴彦著
「アメリカの世紀 1950-1960 赤狩りとプレスリー」Time-Life Books編集部編著 他

第1回 『まごころを君に (原題:Charly)』(1968年)

Text by 村岡宏一(Koichi Muraoka)

映像翻訳本科「基礎コース・Ⅱ」に籍を置く受講生。北海道・札幌市から毎週土曜日"飛行機通学"中。当年とって53歳。映画、特に人生に大きな影響を与えてくれた、60年代終盤から70年代にかけての「アメリカン・ニューシネマ」をこよなく愛す。




このコラムでは、私の心に残る「アメリカン・ニューシネマ」の時代の作品について自由に綴ってみました。名作には、いつ観てもかならず新しい発見があります。古き良き映画の魅力に気づけば、新作の楽しみ方も広がるはず。そんな気持ちでこのコラムを楽しんで下さい。


■ "ハッピーエンド無き時代"の希望と絶望

知的障害を持つチャーリーはパン工場で働いている。日々仲間から馬鹿にされ、知能テストを受ければ実験用のねずみ、アルジャーノンにも劣るほど低い結果であった。 そんなある日、チャーリーは彼の通う夜学の先生の推薦で、脳手術の被験者に選ばれる。 手術は成功した。チャーリーの知能レベルは手術を施した学者の予測以上に高まった。新たな"知能"を手に入れ、幸せを掴めたかのように見えるチャーリーだったが・・・。

原作はダニエル・キースによる小説「アルジャーノンに花束を」。今日でも世界中に根強いファンを持つ異色の小説だ。この映画でチャーリーを演じたクリフ・ロバートソンは、第41回アカデミー賞で主演男優賞を獲得している。

チャーリーに脳手術を施した2人の学者が、その研究成果を学会で発表する場面がある。
チャーリーの知能は、当時としては「最高の科学者のレベル」にまで発達していた。そのため、発表後の会見の席に集まった科学者連中は、自らの知能では到達できていない疑問について、"天才"となったチャーリーに質問を浴びせかける。

将来、この世界はどうなるのか ? --。そんな難問に対しても、チャーリーは淀みなく答えていく...。

チャーリーの口から出た回答を、2007年の今、あらためて聞き直してみた。驚くべきことに、チャーリーの"予言"は、現在の社会の状況をほぼ正確に言い当てているのである。その具体的な内容に興味が湧いたという人は、ぜひ作品を観て確かめてほしい。

次に、役者の演技という視点でこの作品を見てみよう。クリフ・ロバートソン演ずる手術前のチャーリーは、言葉がスムーズに流れず、しゃべるたびに口元は歪み、動作は緩慢で目の焦点も定まっていない。映画とわかっていても同情の念を禁じえないほどのキャラクター作りは、まさに"主演男優賞クラスの演技"と言えよう。脳手術を受けた後に、知性を帯び、人格ごと変化していくチャーリーを完璧に演じきっているのにも脱帽だ。馬鹿にされていたチャーリーが、周囲の者たちに認められていくシーンは、何度見返しても痛快な気持ちになる。

この作品が優れているのは、人間の本質に関わる問題にも踏み込んでいる点にある。つまり、「知能と精神のバランスの問題」だ。

知識が身についても、精神面の成長がそれに追いつかない人間はどうなるのか--。この作品ではそれを、「チャーリーの目線」を示すカメラワークで赤裸々に表現している。卓越した知能を得ながら、ごくごく日常的な「性的な衝動」との葛藤で、心の均衡を失うチャーリー。その心象を、例えばカメラが女性を追うアングル ( チャーリーの目線 ) で、観る者に疑似体験させる。

当時の話題作、特に「ニューシネマ」と呼ばれた一連の作品群には、ハッピーエンドはまず期待できない。もちろんこの作品も例外ではない。「映画とは、その時代の空気を織り込み、反映するもの」という普遍の定義に従えば、この映画が生まれた時代は「美しいエンディングを容認できない時代」だったのだ。

1960年代後半、ベトナム戦争は泥沼化の様相を呈し、米国で起きた学生運動のうねりは、日本を含む世界中の国々に広がっていった。学生や市民の中からは、世界の幸福を願う熱いマグマのような善意があふれ出してはいたものの、その想いがどこに流れ着けばよいのかがわからない。何かを変えなければいけないという焦りはあるが、明日がよく見えない...。

「閉塞感と明日への希望が交差する不思議な時代」を象徴する映画の一つが、「まごころを君に」である。

 1  |  2  | All pages