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「旬」な映画コラム アーカイブ

      

ジュリア・ロバーツ主演『食べて、祈って、恋をして』
"程よくスピリチュアル"な、ニュー・ライフスタイル・ムービー

                                                  Text by naiamao

8月19日、この9月に公開される、ジュリア・ロバーツ主演の最新作『食べて、祈って、恋をして』のジャパンプレミア試写会に行って来た。


この試写会には初来日のジュリアとプロデューサーのライアン・マーフィーが登場。今までスクリーンで観る分にはほとんど意識していなかったが、ジュリアはモデルさながらの長身で、客席からも「(以前よりもっと)きれいになったね」と感嘆の声が洩れていたほど美しかった。プロデューサーも女性で原作はエリザベス・ギルバートの自伝的小説とのこと、いかにもガールズシネマなのではと想像していた。その予想は、ある意味大当たり(笑)。

ただ、人間の根源的な欲求である「食べる」、「祈る」、「恋をする」という3つのテーマの中で、ウィットに富んだ言葉のスパイスが効いていて、男性が観ても楽しめる内容になっている。


あらすじは、非常にわかりやすい。ニューヨークでジャーナリストをしていたアラフォー女性エリザベス(ジュリア・ロバーツ)は、ある占い師に出会い人生の予言をされる。その後、予言通り離婚をした彼女は、失った何かを取り戻すべく1年をかけて「自分探しの旅」に出ることを決意。そして、イタリアで「食」を堪能し、インドで瞑想に励んで「祈り」、最終的にバリで運命の人と出会い「恋をする」のである。これだけ聞くと「自分探し?もしや単なる傷心旅行記→ハッピーエンドものなのでは...」という、他人の日記を見せられるかような一抹の気まずさを感じて、私などは引いてしまう。しかし、本作は違っていた。


あらすじは単なる設定であり、伝えたいメッセージは全て、旅で出会った人々との会話や、一つ一つの出来事の中での「気づき」として語られるのだ。


例えば、人間の三大欲求である食欲を取り戻すべく訪れたイタリア。このイタリアで、リズはある時友人から「あなたはどんな人なの?」と聞かれる。これに対して、彼女は上手く答えることができない。ここで初めて、彼女は気づく。自分が何者(どういう人間)で、本当は何を望んでいるのか。この根本的なことが、自分自身で分からなくなっていたのだ。

その後、リズはむさぼるように貪欲にイタリアの食を求め、同時に自分を形容する言葉を探し始める。自分の心や体が喜ぶ美味しい食べものを貪欲に追い求めること(=どこで、何を、誰と、どんな風に食べたいかを追求すること)は、誰でもない「自分」を知ることに他ならないからだ。


また、2国目に訪れたインドではメディテーションや祈りといったスピリチュアルな要素が登場し、物語の核になっているのも時代を反映していて興味深い。極端なオカルトではなく、あくまで叡智のエッセンスの一つとしてスピリチュアルな要素を生活に取り入れる。その「ゆるい」感覚が、バランスが取れていてとても新しい。また全編を通して、自然と調和したライフスタイルの提案がさり気なくされているのにも好感が持てる。

最近、特に都会で生活していると「個人レベルで心の平和を手にしたい」と考える人が増えていることを実感する。日本でのスピリチュアルブームもその現れで、戦前の日本人が日常持っていた精神への回帰なのかもしれない。そして、まさに本作は、今私たちがどうすれば心の平和を得られるのか、そのヒントをいくつも与えてくれる。


エンディングのバリは、「天国と地が出会う」場所というだけあり、選りすぐりのロケ映像が最高だ。どこまでもなだらかに広がる棚田(日本より緑が濃い)や、夕陽に照らされた海が金色に輝く断崖の風景に心洗われる。そのBGMにはべべウ・ジルベルトやジョアン・ジルベルトなどのブラジル音楽が絶妙なタイミングでかかり、新鮮かつしっくりと耳に響く。


何気ない台詞の中に散りばめられた、心の琴線に触れることばを見つけるのが楽しい本作は、いわば、ことばと旅の風景が織りなす一遍のタペストリー。観終わっても、心に残ったその美しく繊細な織物のイメージが、豊かな気持ちにさせてくれる。

この映画は、ありがちな「自分探し」というストーリーを追っていたのでは、決して堪能しきれない。観る側も、スピリチュアルに"感じ" "味わう"ための作品なのだ。


肩の力を抜いて自分の人生を考えてみるもよし、バーチャルの世界旅行を楽しむもよし。"程よいスピリチュアル感"で心の平安を得たいと考える人は、ぜひ本作を観に映画館に足を運んでほしい。

      

ジャッキー ファンは必見!
最強の師弟愛が織りなす 新『ベストキッド』

                                                Text by 鈴木純一

id221-1.jpg『ベスト・キッド』は1984年に製作された同名作品のリメイクだ。オリジナル版をリアルタイムで体験した者としては、最近流行のリメイクの1本かと思って観たのだが、結果は予想を上回る面白さだった。基本的なストーリーはオリジナル版とほぼ同じ。違うのは舞台がカルフォルニアから北京になり、主人公が習うのが空手からカンフーへと変更された点だ。


主人公のドレ(ジェイデン・スミス)は、父親を亡くし、新生活を求めて北京に移り住む。新しく始まった北京の生活で、彼はカンフーを習う乱暴な少年チョンのいじめにあう。いじめに苦しむドレは、カンフーの達人であるアパートの管理人ハン(ジャッキー・チェン)にカンフーを教えてくれと頼むのだった。その後、ハンの特訓を受けたドレとチョンは、カンフーのトーナメントで対決することなる......。


ハンから特訓を受けられることになったものの、ドレはいつまで経っても訓練させてもらえず、ひたすら上着を脱いで棒にかけ、それを取って着る動作を繰り返させられる。この場面は、オリジナル版で主人公がひたすら車のワックスがけをさせられるシーンの再現だ。やがて、上着を脱いで棒にかける何気ない動作がカンフーの技につながると分かる。この展開はオリジナル版と同じなのだが、観ていて思わず心が高揚する名場面だ。実は、ワックスがけから、上着の着脱に変更したのは、ジャッキー本人からの提案によるものだという。


30年以上アクション映画に出演してきたジャッキー・チェンだが、今回は師範役ということで得意のカンフーを封印し、俳優として新たな一面を見せている。悲しい過去を持つハンはドレと出会い、人生に希望を持とうとする。一方、父親のいないドレはハンと出会い、大切なことを教えてくれる師範を得る。映画の中で、この擬似的な親子関係が、より顕著に表れるシーンがある。


id221-2.jpgトーナメントを順調に上り詰めていくドレ。ところが因縁のチョンとの決勝戦を目前に、卑劣な選手の反則行為により、大怪我を負わされてしまう。急遽医師の診察を受けるドレ。そこで医師に棄権するよう勧告される。それでも闘うことを主張するドレ。そんなドレに対し、ジャッキー演じるハンが反対し、こう言うのだ。

「もうこれ以上、君が傷つく姿を見たくない ――」

まさに、師匠ではなく、父親としての顔が現れた瞬間だ。しかし、これに対しドレは、なおも闘いの続行を主張する。そこでハンは問う。

「もう十分、君の強さは見せられたはずだ。なぜ、そんなに闘いたいのか」この問いに対するドレの答えはこうだ。


「まだ僕の中に、彼(チョン)を怖いと思う気持ちがあるからだよ。」



これまでの特訓を通して、闘っていたのはドレだけではない。ハンもまた、人生に立ち向かい、己に打ち勝つべく闘っていた。このシーンは、これまで教える立場にあったハンが、初めてドレから「闘いの本質」を教えられた場面だ。

「真の強さとは何か?」本作は、観る者に強烈なメッセージを訴えかけている。


オリジナル版へのリスペクトも忘れず、新たなアイディアを加えて生まれ変わった『ベスト・キッド』。親子で観ても楽しいし、友人同士で観ても面白い。誰が観ても満足できる映画だ。オリジナル版を観たという人も、観ていないという人も、ぜひとも劇場に足を運んでほしい。

      

アンジェリーナ・ジョリー主演映画『ソルト』
一流のクリエイター陣が生み出したアクション大作を見逃すな!

                                                   Text by 鈴木純一

ソルト1.jpgCIA職員であるイヴリン・ソルト(アンジェリーナ・ジョリー)は、突如現れた謎の男の密告でロシアのスパイだと疑われてしまう。追跡を逃れるため、ソルトは知力と体力を駆使し、トラックの屋根に飛び乗り、ビルの壁をよじ登って窮地を切り抜けようとする...。

ここから物語はハイスピードで展開していくが、ソルトの目的は終盤まで明かされないため、最後まで緊張感が持続する映画になっている。

撃たれても立ち上がり、爆発に吹き飛ばされても戦い続ける主人公の姿は、観る者にも痛みが伝わってくる。また実際、激しいアクションのためにアンジェリーナ・ジョリーは負傷しながら撮影を続けていたそうだ。

しかし『ソルト』の魅力は、アンジェリーナ・ジョリーの熱演だけではない。本作品は、優秀なクリエイター陣が周囲を固めているのだ。

監督のフィリップ・ノイスは『パトリオット・ゲーム』などの作品をはじめ、アクションを得意としている人物なので、『ソルト』の演出には適任だ。また、脚本を書いたカート・ウィマーは監督もこなす才人で、これまでにも『リベリオン』(隠れたアクション映画の傑作)や『ウルトラヴァイオレット』といった作品において、たった1人で巨大な組織と戦う主人公の姿を描いてきた。これは、孤独に戦う設定の主人公『ソルト』と共通している。

さらに本作品の息もつかせぬ展開に貢献した人物として、編集のスチュアート・ベアードの存在も大きい。ベアードは『リーサル・ウェポン』、『ダイ・ハード2』の編集を手がけたベテラン編集者で、ハイジャック・サスペンスの秀作『エグゼクティブ・デシジョン』の監督も務めている。

『ソルト』はアンジェリーナ・ジョリーの体当たりの演技と、数々のアクション映画を手がけてきたクリエイターたちが結集し、生み出した秀作なのだ。これで面白くないわけがない。優れたアクション大作は、大画面で観なくては作品に対して失礼にあたる。『ソルト』は、ぜひとも劇場で観ることをお勧めする。

      

アンジェリーナ・ジョリー主演映画『ソルト』
冷酷無比なスパイか? ただの哀れな女か? イヴリン・ソルトの正体に迫る!    

  
                                                   Text by 松澤友子

ソルト_チラシ裏.jpg7月27日(火)、アンジェリーナ・ジョリー主演のアクション・サスペンス「ソルト」のジャパンプレミア試写会に行ってきた。

このジャパンプレミアでは、本編の上映前に、レッドカーペットにアンジェリーナ・ジョリーが登場。同日昼間に行われた記者会見では黒のパンツスーツだった彼女だが、レッドカーペットでは黒のドレス姿で登場。背中が大きく開き、太ももの付け根から深いスリットが入った黒いドレスは、彼女のスタイルの良さを際立たせていた。

また装いのみならず、ドレスに身を包んだアンジーの立ち振る舞いは、女性らしい優しさと、気品に満ち溢れていた。彼女を直接見るのは初めてだったが、そのキラキラしたオーラに、思わずうっとりとしてしまった。


レッドカーペット上でのファンサービスが終了すると、いよいよ舞台挨拶だ。アンジーが登場するやいなや、会場からは黄色い歓声が上がった。舞台上でのインタビューでは、「今回の作品は、これまでのファンタジー色の強いアクション映画とは異なり、現実世界でのストーリーだったので、よりタフで激しい作品に仕上がっている」とコメントし、今回の役柄を演じるにあたり、実際に女性スパイに会って話を聞いた、というエピソードも話した。

本編はアクション・サスペンスと言うだけあり、謎めいたストーリーの中に、激しいアクションシーンが満載。ソルトは本当にロシアのスパイなのか? 彼女の真の目的は一体何なのか? 物語が進むにつれ、この謎が少しずつ明らかになっていく。が、二転三転するストーリーは、驚きの連続で、観る者に息をつく暇すら与えてくれない。そしてもちろん、アクションも見どころの1つ。1時間40分という本編では終始、体当たりのアクションシーンが続く。特に、逃亡を試みるソルト(アンジェリーナ・ジョリー)が高層マンションを壁伝いに移動するシーンでは、手に汗を握りつつも、彼女のしなやかな動きに魅了された。

激しいアクションが続く一方で、女性スパイの内面の描写も印象的だ。冷徹なスパイではあるが、そこにいるのは生身の女性。過酷な訓練に耐え、強靭な肉体と精神を手に入れても、繊細な心は失っていない。相手に危険が及ぶことを承知の上で、人を愛してしまうこともある。自分の任務を全うするために、必死に感情を押し殺すソルトの姿からは、強さと同時に「ただの1人の女である」という儚さを感じた。

複雑なストーリー展開やアクションに加えてアンジーの美しさに魅了され、あっと言う間に過ぎ去り充足感に包まれた1時間40分だった。

      

『サブウェイ123 激突』
 by 鈴木純一(2005年4月期実践クラス修了生)


『サブウェイ123 激突』
デンゼル・ワシントンとジョン・トラボルタが"激突"!!
作品に見え隠れする、タランティーノのエッセンス

by 鈴木純一(2005年4月期実践クラス修了生、翻訳者、映画コラムニスト)


最近、ハリウッド大作にリメイク版が目立つ。リメイクは「知名度」という点でアドバンテージがある。しかし、実はハンデもあるのだ。それは、これまでの少なからずの作品が(オリジナルの方がよかったよ)とネット上などで評価され、ファンの中には期待感以上に懐疑心を抱く人も少なくないからだ。

トニー・スコット監督の最新作、『サブウェイ123 激突』を観た。1974年に「サスペンス映画の傑作!」と絶賛された、『サブウェイ・パニック』のリメイクである。『サブウェイ・パニック』で犯罪者グループがお互いを「ブルー」「グリーン」と色で呼び合う設定は、この映画をこよなく愛するクエンティン・タランティーノ監督の『レザボア・ドッグス』にも登場する。宝石店を襲撃する男たちが同じように色でお互いを呼び合うのだ。そんな逸話からも、『サブウェイ・パニック」が優れた作品であったことがわかる。

スコットとタランティーノの関係は興味深い。スコットの監督作品、『トゥルー・ロマンス』の脚本を書いたのがタランティーノである。また、先に紹介した『レザボア・ドッグス』のエンド・クレジットでは、タランティーノはスコットに謝辞を贈っている。つまり、タランティーノの『レザボア・ドッグス』には、将来スコットが『サブウェイ・パニック』を再現するという"予兆"が記されていたのである。

主演のデンゼル・ワシントンはスコット作品の"常連"スターだ。『クリムゾン・タイド』(実は、タランティーノがノークレジットで脚本に参加)、『マイ・ボディガード』、『デジャヴ』に続き、今回が4度目になる。一方、キレた犯人を演じるもう一人の主役、ジョン・トラボルタは、ご存知、タランティーノの代表作「パルプ・フィクション」で同じように危険な男を演じている。さらに、『トゥルー・ロマンス』で印象的な殺し屋を演じたジェームズ・ガンドルフィーニが、『サブウェイ123 激突』ではニューヨーク市長役を好演している点も見逃せない。

もうおわかりだろう。『サブウェイ123 激突』には、スコットとタランティーノというハリウッドの強力ラインによる、類い稀な"娯楽作品の遺伝子"が組み込まれているのだ。

『サブウェイ123 激突』でもスコットの作風は健在だ。細かいカット割り、早回し、スローモーション、テロップ、ストップモーション、過剰演出ギリギリの音楽も相変わらずで、冒頭から観客は地下鉄ジャック事件のスリルと心地よい不安感に引き込まれていく。
オリジナルの『サブウェイ・パニック』との違いも鮮やかに際立つ。警察と犯人グループとの追跡劇が印象的だった旧作に対し、本作は地下鉄ジャックのリーダー、ライダー(ジョン・トラボルタ)と、実直な地下鉄職員ガーバー(デンゼル・ワシントン)の心理戦に重点が置かれている。

ガーバーはある"罪"を背負いつつ、この事件では、もう一度まっとうな人間として立ち直ろうとライダーと戦う。人間が持つ善と悪を象徴する2人が"激突"する展開は、最後まで緊張感が張りつめている。

主役の2人以外にも、犯人と交渉する警部補役にジョン・タートゥーロ、緊張の合間で絶妙なユーモアを醸し出すガンドルフィーニ、そして私の大好きな名脇役、ルイス・ガスマンが犯人グループの一員を演じ、それぞれがいい味を出している。(ガスマンが活躍する場面が少なかったのは残念だったが)

映画ファンにとってお気に入りの作品がリメイクされるのは、複雑な心境だ。でも今回の『サブウェイ123 激突』は、スコット監督の強烈な映像スタイルと出演者たちの演技から、別の新たな作品と見なしても楽しめるはずだ。オリジナルを未見の方は、ぜひ見比べてほしい。

      

『2012』 by 鈴木純一(2005年4月期実践クラス修了生)


日本で皆既日食(東京では部分日食)が見られた2009年7月22日、ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント様より、2009年12月公開予定の映画「2012」の先行映像お披露目イベントにご招待いただきました。
当日は、六本木ヒルズスカイラウンジでのパーティや宇宙学者によるセミナー、さらには本作のテーマに関連するマヤ文明研究家の講演、世界のメディアが注目する記者会見で大いに盛り上がりました。
このイベントに同席したプロ翻訳者でもあり、映画コラムニストでもある当校修了生、鈴木純一さんに鑑賞後の感想をいただきました。


「2012」、世界の終わりがやってくる!?
 ローランド・エメリッヒ監督のパニック超大作再び!


         
by 鈴木純一(2005年4月期実践クラス修了生、翻訳者、映画コラムニスト)

"実際にあったら大変だけど、エンターテイメントとして観る分には面白い映画"はたくさんある。サメが人を襲う映画、恐竜が現代に甦って暴れる映画などだ。このジャンルではスティーヴン・スピルバーグが代表的な監督だろう。そしてもう1人、人類が遭遇する試練をエンターテイメント大作に作り上げる監督がいる。それがローランド・エメリッヒだ。

エメリッヒ監督は、エイリアンによる地球総攻撃を描いた「インデペンデンス・デイ」、それから地球が異常気象に襲われる「デイ・アフター・トゥモロー」など、特殊効果をふんだんに使ったスペクタクル映画を得意としている。「ゴジラ」のハリウッド版「GODZILLA/ゴジラ」は、最初はスピルバーグに監督のオファーがあった。しかし最終的にはエメリッヒが「GODZILLA」を、スピルバーグが「ジュラシックパーク」を撮っている。お互いに怪獣と恐竜の映画を作っていたことも面白い共通点だ。

エメリッヒ監督が新作「2012」を撮影しているというニュースは聞いていた。今度も地球が大変な目に遭うらしいというウワサも。「2012」とは、古代マヤ文明の暦をヒントに、2012年に起こる世界の滅亡を描いたパニック超大作だ。

先日、エメリッヒ監督が来日して、12月に公開される「2012」の9分間のフッテージが"世界初上映"されるイベントが行われた。アカデミーからのお誘いで、イベントに出席してフッテージを観ることができた。最近のCGが多く使われている映画を見慣れたせいもあり、たぶん「デイ・アフター・トゥモロー」みたいな作品なのではと思っていたのだが...

すごい。本当にすごい映像で圧倒された。観終わった時にはグッタリするぐらいの体験だった。地面が割れ、高層ビルが倒れてくる。隕石が空から大量に落ちてきて、空母が大波にのまれて転覆する。世界が崩壊する圧倒的な描写がこれでもかとスクリーンから観る者に迫ってくるのだ。大きなスクリーンで観ると、これはもう"映画アトラクション"である。

フッテージ上映後に行われた記者会見では、監督が「さまざまな特殊効果を組み合わせて、考えうるすべての技術を使った」と語っていた。その言葉にウソはない。エメリッヒは最高レベルの撮影技術を駆使して、誰も見たことのない究極の映像世界を創造した。9分間の映像でこれだけの迫力なら、本編に期待するなというほうが無理だろう。しかも、見所は映像だけではない。家族を守ろうとする作家を演じるのはジョン・キューザック、それからアメリカ大統領にはダニー・グローヴァーと、実力派の俳優がキャスティングされている。人間ドラマにも力が注がれているようなので、さらに期待は高まるのだ。

世界の終わりは実際には起きてほしくないが、世界の終わりを描いた映画が公開されるのを今から楽しみにしている。

      

『天使と悪魔』
 by 鈴木純一(2005年4月期実践クラス修了生)


先日、アカデミー修了生も勤務する、ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント様より、5月15日から公開の「天使と悪魔」のプレミアム試写会にご招待いただきました。早速、同席したプロ翻訳者でもあり、映画コラムニストでもある当校修了生、鈴木純一さんに、鑑賞後の感想をいただきました。


「天使と悪魔」ラングドン・シリーズ第2弾。

 原作をリスペクトし、原作を超えたタイムリミット・サスペンス

「ダ・ヴィンチ・コード」から3年、いよいよ続編の「天使と悪魔」が公開される。主役のラングドン教授を演じるのは前作同様トム・ハンクス。監督も引き続きロン・ハワードだ。

ロン・ハワードはファンタジー作品の「スプラッシュ」から、実録ドラマ「フロスト×ニクソン」まで幅広く手掛けているが、意外なことにシリーズモノを監督するのは今回が初めてとなる。

原作「天使と悪魔」は「ダ・ヴィンチ・コード」以前に書かれた小説だ。しかし映画版では「天使と悪魔」は続編の設定となっている。第1作目と2作目を入れ替えての映画化となったが、その変更は成功したといえる。なぜかというと、「天使と悪魔」の方が見どころの多い、続編にふさわしい要素を含んでいるからだ。

成功する続編に共通する要素とは何か?第1作目がヒットすると、続編には前作以上の期待が寄せられる。ハードルが上がるわけだ。よって、多くの続編がアクションや見せ場を増やし、キャスティングを豪華にするなど、スケールそのものを拡大する傾向にある。

「ダ・ヴィンチ・コード」では容疑者にされたトム・ハンンクス演じるラングドン教授が逃亡を図りながらも謎を解いていくという、比較的シンプルな構成だった。しかし「天使と悪魔」はいくつものプロットが折り重なった構成になっている。バチカンの頂上部に立つ枢機卿たちの誘拐、秘密結社イルミナティの陰謀、暗号解読、そして恐ろしい予告殺人。

極めつけは、1時間ごとに謎を解決しなければならないタイムリミット・サスペンスの要素だ。これだけのアイディアを惜しみなく注ぎ込み、先が読めないハラハラドキドキのシーンが連続する。究極のジェットコースター・ムービーだ。それもそのはず、ロン・ハワードはあの「24 TWENTY FOUR」の仕掛け人のひとりなのだ。

「天使と悪魔」は原作を読んでいない人が観ても十分にわかりやすく面白いし、原作を読んだ人でも新たな楽しみを発見できる作りとなっている。原作は長編小説なので、そのまま映画にすることはできない。設定を変えるか、登場人物を減らすなど工夫を凝らすことが必要となる。映画版では、原作と比較すると、アレンジを加えた箇所が多く見つかる。文庫本で900ページ以上ある物語を、実にうまくまとめ、2時間18分の引き締まった映像作品に仕上げたことに感動する。

ベストセラーにはファンが多く、原作と比較しての厳しい声は避けられない。世界的ベストセラー「ダ・ヴィンチ・コード」の姉妹作ともなればなおさらだろう。それでもロン・ハワードは、迷うことなく「娯楽サスペンス映画であること」を選んだ。その挑戦は成功したのか?ぜひ映画館で確かめてほしい。

      

『おもちゃの国』 by 鈴木純一(2005年4月期実践クラス修了生)

字幕をつけた作品がアカデミー賞で快挙達成!


先月の米アカデミー賞授賞式では日本の作品「おくりびと」が外国語映画賞、「つみきのいえ」が短編アニメーション賞を受賞しました。さらに今回のアカデミー賞でもう1つ嬉しかったのは、短編実写部門を 「Toyland(おもちゃの国)」というドイツの作品が受賞したことです。

この作品は、2008年に東京で開催された「ショートショートフィルムフェスティバル」で上映された際に私が字幕を担当させていただいた作品でもあります。 自分が字幕という形で関わった作品が評価を受けたことは、本当に嬉しいことでした。

「おもちゃの国」は第二次世界大戦中のドイツ人とユダヤ人の絆を描いた作品です。上映時間は約14分ですが、人と人のつながりや、なぜ同じ人間なのに差別があるのかなどを考えさせられ、観終わったあとも余韻が深く残る作品となっています。


短編映画というと新人監督が作る習作というイメージがありますが、必ずしもそうではありません。例えば短編作品として有名な「10ミニッツ・オールダー」ではヴィム・ヴェンダースやスパイク・リー、「それでも生きる子供たちへ」ではリドリー・スコットやジョン・ウーなどベテラン監督たちが参加し、1つのテーマに基づいたオムニバス作品を作り上げています。また他にもジム・ジャームッシュ監督の「コーヒー&シガレッツ」も味わいのある短編を集めた作品で、おすすめです。

短編映画は、長編と比べると監督のメッセージが強く出ます。また、最後にひねったオチを加えてニヤリとさせる作品もあります。監督の「これを伝えたい」という思いが凝縮されているので、長編にも負けない力強さを持った作品も数多くあるのです。

こうした短編映画をスクリーンで観られる機会は、それほど多くはないでしょう。そんな中、「ショートショートフィルムフェスティバル」は、たくさんの短編映画と出会える貴重な機会です。この映画祭では大勢の監督がゲストとして会場を訪れますので、上映後、ロビーで監督たちと直接話すチャンスもあります。

2年前の映画祭では、自分が字幕を担当させていただいた作品の監督とお話しすることができました。"観る人と作る人の距離が近い映画祭"である「ショートショートフィルムフェスティバル」、まだ行ったことがなければぜひ一度訪れてみてはいかかでしょうか。

      

『ブーリン家の姉妹』 by 鈴木純一(2005年4月期実践クラス修了生)

何が姉妹に起こったか


『ブーリン家の姉妹』の原題は"The Other Boleyn Girl"。これは作中でナタリー・ポートマン演じるアン・ブーリンが、"ブーリン家の姉妹のひとり"という意味で言うセリフである、「私は、もうひとりのブーリン家の女」から来ている。

16世紀のイングランド。ヘンリー8世と王妃には世継ぎの男児がいなかった。貴族のブーリン家は娘のアンをヘンリー8世の愛人に差し出そうとする。もしアンがヘンリーの男児を産めば、宮廷で権力を得られるからだ。しかし、ヘンリーが選んだのはアンの妹のメアリーだった...。

この作品の面白さは姉妹を演じた女優のキャスティングにある。ヘンリーを純粋に愛そうとするメアリーにスカーレット・ヨハンソン。王妃という地位を得るために手段を選ばないアンにナタリー・ポートマン。普通なら2人のキャスティングは反対になるはずだが、あえて逆の役に配置することで観る側に新鮮な印象を与える。
ここでは、スカーレット・ヨハンソンは姉思いの優しいメアリーを、ナタリー・ポートマンは自由奔放で勝気なアンを見事に演じている。
さらに興味深いのは、アンとメアリーを善と悪とに単純には分けずに描いた点だ。姉妹は光と影のように一対の存在で、姉妹のどちらかに光が当たると"もうひとりのブーリン家の女"が影のように現れる。2人は時にはお互いを嫉妬して憎み合うが、ある時には助け合おうと必死になる。
結婚と世継ぎを産むことが権力を得るための手段だった時代。逆らうことのできない運命に翻弄される姉妹の物語は最後まで緊張感にあふれていて、見る者は息を呑むほかない。

蛇足だが、アンの娘エリザベスは後のエリザベス1世である。エリザベス1世について描かれた映画では、1998年に作られた『エリザベス』が有名である。
『ブーリン家の姉妹』を『エリザベス』を観ると、2本の作品の世界をより深く味わうことができるのではないだろうか。

      

「ブーリン家の姉妹」 by 野村ゆみ子(2006年10月期実践コース修了生)

地位か幸せか、欲しいものを手に入れた姉妹の話


私がこの作品のヒロインの1人、アン・ブーリンを知ったきっかけは、ある1枚の絵でした。題名は「ロンドン塔のアン・ブーリン」。
その絶望に満ちた虚ろな目が印象に残っています。確か、王に疎まれ、斬首されたと解説が添えられていました。
今回、この作品の公開を知って、あの虚ろな目が頭をよぎりました。あのアン・ブーリンの映画。斬首されるまでに疎まれた王妃。そこまで疎まれるなんて、一体、どんな女性だったのだろう。今回の作品はアンの物語だと思っていました。
しかし見るにつれ、アンの妹メアリーの深い愛に引き込まれるのです。アンのために王妃の座を追われたキャサリン王妃の気高さに感動するのです。そしてまた、国王ヘンリー8世とブーリン家の男どもの情けなさにある意味泣けるのです。
愛情深い妹メアリーは最終的に幸せを手にいれ、姉のアンは処刑台で人生を終えます。
国王を意のままに動かし、王妃の地位に上り詰めたアン・ブーリン。駆け引きだけで手に入れたものは失うのも早いということでしょうか。
国民から愛されたキャサリン王妃を追いやったことから国民に嫌われ、魔女と呼ばれ、夫の命令により処刑された悲劇の王妃、アン・ブーリン。しかし現在のイギリスでは彼女の人気が高いというのが興味深いところです。
娘が出世の道具だった時代、自らの才覚だけを武器に、一国の王妃にまでのし上がったアンのその手腕と度胸が、現代の女性たちの心に訴えかけるのかも知れません。
勝気で自信たっぷりなナタリー・ポートマン演じるアンに、女の強さと同時に哀れみを感じる作品です。

      

『ブーリン家の姉妹』 by 湯原史子(2005年4月期実践コース修了生)

美しい姉妹の宿命


西洋史に造詣の深い方ならタイトルからピンと来るかもしれませんが、後にイギリス王朝の継承者となったエリザベス1世を生み出した姉妹の物語です。
邦題では姉妹となっていますが、原題"The Other Boleyn Girl(もう1人のブーリン家の娘)"の通り、今では歴史の陰に埋もれてしまった存在を掘り起こして描いています。
英国の曇天のような暗く重々しい雰囲気の中、ヘンリー8世をめぐる姉妹の愛憎劇が描かれていきます。
注目はやはり2人の若手女優の競演でしょう。
後にエリザベス1世の母となるアン・ブーリン役のナタリー・ポートマンは高貴な美しさで魅了します。
周囲の期待や自らの勝気な性質により追い詰められていくアンの姿は気高くも痛々しく、後半、弟妹らと対峙する場面は息をのんで見つめてしまいました。

そして妹のメアリー役のスカーレット・ヨハンソンも、次子として抑圧され続けた存在の情感をうまく表現しています。姉と違って装飾品も少なく地味ないでたちながら役柄の芯の強い美しさがにじみ出ており、普段の彼女とは違った魅力を見せてくれています。

近頃は生まれ順による占いや解説本などがよく出ていますが、この作品からも長子に生まれた子にかかる期待や本人のそれに応えようとする野心、次子として生まれた子への関心・期待の薄さやそれを受け入れる諦観の念など、さまざまな思いが込められていたのだと思います。それらの思いはスクリーンからあふれるように、じわじわと漂ってきました。

歴史物ゆえ、史実に照らした際の論争は多々あるかもしれませんが、まとまりのあるエピソードがコンパクトにまとめられており、退屈さを感じさせません。ラストシーンはこれから来るであろうイギリス王朝の最盛期を感じさせ、高揚感を覚えました。
時間をかけて作られたお酒などをお供にゆったりと鑑賞し、歴史の雄大さを感じたい一作です。

      

『ブーリン家の姉妹』 by 長谷川梓(2008年10月期基礎コースII 金曜夜クラス)

イギリス史の作者達~対照的なブーリン姉妹~


イングランドの歴史家から"歴史の作者"と呼ばれているイングランド王・ヘンリー8世の第2王妃アン・ブーリンという女性。
男児に恵まれなかった国王は彼女に魅了され、再婚する決心を固めるも、当時離婚を認めなかったカトリック教徒と断絶する事態に。この再婚は国を揺るがす大スキャンダルとなった。
一気に王妃の座に駆け上ったアンだったが、女児を出産し国王を落胆させる。そしてすでに次の女性に心変わりをしていたためか、国王は様々な罪を着せて彼女を処刑してしまうのだ。しかし皮肉にも、後のイギリスに45年間の繁栄をもたらしたのは、伝説的な人気を誇る王女・エリザベス1世。すなわちアンの1人娘だった。
36歳の短い生涯だが"イングランド国教会の樹立の原因"となり"黄金期を築いた女王を出産した実母"として、アン・ブーリンが歴史に与えた衝撃は計り知れない。

映画『ブーリン家の姉妹』は、アンとメアリーのブーリン姉妹とヘンリー8世が織り成す愛と陰謀の歴史小説が原作だ。
これまでアン・ブーリンの物語は数多くあるが、今作は歴史の表舞台に名が残っていない姉のメアリーも描かれている。華やかで意志の強いアンとは対照的に従順な田舎娘のメアリーは日陰にいる目立たない人物。陰の存在として強調するために、作中では意図的に設定を変え、メアリーを妹として描いたという。
陰謀渦巻く宮廷内で、アンとメアリーは愛憎や嫉妬など様々な生々しい感情の渦に巻き込まれる。そしてそんな中でも、時折見せる2人の強い姉妹の絆が物語を劇的に盛り上げていく。

16世紀のテューダー朝はイギリスの確立したモダンデザインが発展した時代だ。当時をしのばせる歴史的建築物の数々は一見の価値がある。
制作スタッフは、それらの建築物を現代に蘇らせるため研究に研究を重ね、近代が始まりつつあった、生き生きとした時代をスクリーンに復活させたのだ。
また、衣装を手がけたのは『恋におちたシェークスピア』などでアカデミー賞にノミネートされたサンディ・パウエル。歴史に即しながらも、創造性に富んだおしゃれな衣装をデザインし、誰もが憧れるイギリス貴族の華やかな生活を画面いっぱいに表現している。

      

「ブーリン家の姉妹」 by 大出浩子(2008年10月期実践コース火曜日クラス)

宮廷という名の戦場で~権力を愛した姉、人を愛した妹~


ヘンリー8世統治下のイングランド。それは女が男の"道具"として扱われていた時代。男の世継ぎを望めない王を見て、ある貴族がここぞとばかりに、自分の娘を差し出して地位を得ようともくろむ。
賢く気丈な未婚の姉アンをみそめてもらうつもりが、王は優しく従順な既婚の妹メアリーにひかれる。始めはためらうものの、王の素顔に触れ、彼を愛し始めるメアリーは、愛人として懐妊、出産する。だが王は、元々父親から王を誘惑する任務を託されていたアンの手玉にとられ、子供共々メアリーを見捨ててしまう。
妹の王への愛を踏みにじってまで王妃の座を手に入れたアンだが、男の世継ぎはどうしても産めなかった。"このまま産めないでいると無用の妃として殺される"という恐怖からパニックになり、自分の弟に関係を迫るまでに。
この頃には既にアンへの執着がさめていた王は、アンを姦通の罪で処刑してしまうのだった...。

この映画で描かれたような"貴族"や"宮廷での生活"といえば大抵、きらびやかに着飾り、庶民は口にすることのできないぜいたくな食事をして、優雅に悩みなく暮らしているイメージがある。しかしこの作品では、実はそんな悠長なことなど言っていられなかった内情が描かれている。
世継ぎ(それも男の)を絶やさず、王の地位と権力を引き継いでいかなければならない。そこではもちろん、ただ機械的に子孫を作っているわけではない。夫婦間以外での愛や、世継ぎの親族であることの思惑が入り混じる。
更にこの王は、移り気たっぷりだった。そうなると宮廷は、もはやほとんど"戦場"だったといえるかもしれない。
そんな中で、メアリーは王の愛を信じ、彼の子までもうけた揚げ句、よりによって姉に王を奪われた。アンはアンで、野望のため口説き落とした王との愛など長続きするべくもなく、短い栄華を終える。ヘンリー8世は結局、アンを含めた6人の女性と結婚した。アンやメアリー以外の妻や愛人たち、また他の国王に寵愛を受けた女たちにとって宮廷は、庶民のあこがれる場所ではなく、やはり"戦場"だったのだろう。
映画を観終わった今、改めてテーマ曲(公式HPで流れる曲)を聴くと、そんな女たちの流す苦しみの血が滴っているように感じられる。

華やかなイメージを覆す、どんよりと暗い宮廷での、アンのぎらぎらした野心的な目(そこに王への愛は読み取れない)、そして流産したことを王に告げられず、なんとか妊娠せねばと追い詰められた時の絶望的な目が印象的だ。それとは対照的に、"戦場"を離れたメアリーの目は、その後結婚した愛する男性と我が子(と引き取った姉の娘)をやさしく捉え、どこまでも穏やかであった。


      

「ブーリン家の姉妹」 by 増田清香(2008年10月期実践コース修了生)

幸せへの疑問


ナタリー・ポートマンが今回は珍しく悪役的な役柄だったので、いつもと違う彼女の演技は新鮮だった。あの強い目と彼女独特の雰囲気が、賢く野心的なアンにぴったりで、王妃という立場に執着していく演技はうなるほどに上手い。
対する妹役のスカーレット・ヨハンソンは抑えた演技でコントラストも鮮やか。お互いの長所を絶妙に引き出していて、メリハリの加減が非常に良かった。

アンとメアリーの姉妹を見ていると、現代を生きる女性の姿を投影してしまう。アンは賢く、意志の強い策略家であり、自分の望むものは何としても手に入れる外面的美人タイプ。一方メアリーは控えめで女性の愛らしさがあるが、意志と根性を両方合わせ持っている内面的美人。現代で働く女性は、この2人のどちらかのタイプに分かれるのではないだろうか。
仕事か結婚か、という二者択一の考え方は今ではもう古いとされながらも、やはり女性はどこかで「結婚」の2文字は意識しているものである。結婚だけが幸せではない、というのは頭で分かっていても、感情で納得し難い。
では、結婚すれば必ず幸せになれるのか、というと決してそうではない。それを分かっているからこそ、現代女性もアンも"仕事"や"立場"という不確定なものに執着するのだろう。

「幸せ」に何を求めるかで、その人の人生は変わってくる。見方を変えれば、アンの行動の底には、ある種の純粋さがあるのではないか。
しかしアンの姿を見ていて、何事においても感情に支配されてはいけないのだと感じた。感情ではなく、きちんと頭で物事を考えて、心で感じていればこの悲劇は起きなかったのではないだろうか。
映画が終わった後、自分の望む幸せが、どの方向を向いているのか、という疑問を投げかけられたような気持ちになった。
権力という目に見えない力を求めるのか、ただ1人の愛を求めるのか、人間の心理や欲望を、あらゆる角度から描いた作品である。

      

『ブーリン家の姉妹』 by 西澤歩知(2007年10月期実践コース修了生)

愛か野心か、幸せはどちらに


「私の姉だから...」。メアリーは、自らの身の危険も顧みず、王に対してアンの命乞いをする。メアリーを裏切り、酷い仕打ちを与え、彼女の心をずたずたに傷つけた姉のアン。しかしメアリーは、「自分の分身」であるアンを、助けずにはいられなかった。アンとメアリーが送った人生は、まさに陰日向の繰り返しだったと言える。

王の愛をめぐって運命に翻弄された人生を送った姉妹2人の、この熾烈な勝負、軍配は結局どちらにあがったと言えるのだろうか。
メアリーは、一族繁栄のための道具として王に差し出される。しかし彼女は、純粋な気持ちで王に愛を捧げた。一方アンが王に捧げたのは、野心に満ちた愛だった。
メアリーは、王に優しく愛され、愛人としては見放された後も、王の信頼は失っていなかった。そして宮廷から追放された後は、予ねてから望んでいたとおり、「自分を愛してくれる夫」と田舎での穏やかな生活を送ることができたのだ。
一方、策略で王を拒み続けたアンは、メアリーから王を奪うことには成功するものの、王の真心までは奪えなかった。
王は、アンに拒絶され続けたがゆえに彼女を求めた。つまり愛情によってアンを求めたのではなく、自分のプライドを満たすために彼女を手に入れることに固執したのだ。
しかし、そのようにして手に入れたものに対し気持ちが冷めるのは必至のことである。そしてアンは、最終的には断頭台へ送られることになる。

姉妹の勝負は、メアリーに軍配が上がったかのように見える。平穏な結婚生活を手に入れた彼女に、共感を寄せる人も多いことだろう。しかし、英国国教会を設立する足がかりを作り、後のエリザベス1世をこの世に誕生させ、歴史に名を刻むこととなったのはアンである。
穏やかな結婚生活だけが女の幸せではないはず。そう考えると、アンの生き方には、何か惹かれるものを感じざるを得ない。特に、王の愛を奪うためにアンが遂行した作戦。どうしても欲しいもの(人)がある女性にとっては、学ぶところが多いのでは?

      

『ブーリン家の姉妹』 by 西田洋平(2008年4月期実践コース修了生)

『ブーリン家の姉妹』に見るストイックさの魅力


"ストイックさ"。それが『ブーリン家の姉妹』最大な魅力だ。
本作はエリザベス1世の両親であるヘンリー8世とアン・ブーリンと、アンの妹メアリーを中心とした歴史絵巻。主演の姉妹役には今をときめくナタリー・ポートマンとスカーレット・ヨハンセンを迎えている。となると、人気スターをかき集めた豪華絢爛、無駄な贅肉たっぷりの"歴史大作"ではないかと思わず懐疑的になってしまう。
ところが、どうやら本作の製作陣は徹底した減量を決行したようだ。

例えば画面に出てくる場所はブーリン家周辺と王宮周辺がほとんどで、数年にわたる物語でありながら、映画の中の季節は常に秋か冬だ。
さらに主要登場人物は、ほぼ王家とブーリン家の係累のみで占められている。
この題材なら、王の離婚問題に激怒するローマ法王や、王妃の実家であるスペイン王などを絡めたエピソードを描くことによって大作感を出し、観客に「まあ損はしなかったな」とういう気にさせるのは簡単だっただろう。
だが、製作陣はそうしなかった。この映画にそういった空虚な大作感が必要かどうか、徹底的に考え抜いたのだろう。
同様のことが語り口についても指摘でき、通常だったらこれ見よがしの大仰な演出が施されがちな瞬間がストイックな表現によって描写されている。例えばヘンリー8世の落馬は、窓越しに担架に載せられて帰ってくることで示され、ある男の処刑は処刑人の仕草によって示唆されるのみだ。
このストイックさは物語が終盤に差し掛かる頃に弛緩を見せる。ある人物の裁判が始まった後、この人物に死刑を言い渡す裁判官達は、執拗なまでに緊迫感が充満する画面に収められていた。
こうしてストイックさが物語の終末への流れに圧され、ほころびを見せ始める。そして処刑シーンでは、処刑後の光景がはっきりと俯瞰で撮影された画面の中で、ストイックさは決定的に行き場を失うことになる。
ここに来てストイックさと入れ替わりに得られるものは開放感だ。
この感覚は王宮を立ち去る2人を捉えた映像が流れる中高まり続け、次代を担う人物の大写しに切り替わった瞬間に最高潮に達する。
そしてその時、映画も終わるのだ。

      

『ブーリン家の姉妹』 by 新津香(2008年10月期基礎コースII 火曜日クラス)

運命と歴史が交差する時間


『ブーリン家の姉妹』は、16世紀イギリスの国家を背負っていた者たちの愛と策略をめぐる作品。そうくれば、どうしても気品漂うイギリス英語を期待してしまう。
アメリカ映画であり、キャストがハリウッドスターであることを考慮すれば、言葉にもイギリスらしさを醸し出そうとする努力は充分に感じられた。しかし、なかんずく作品に品格を加えていた存在はといえば、何といってもブーリン姉妹の母を演じるイギリス人女優のクリスティン・スコット・トーマスだ。

言われるがままに、ひたすら一家の名声を上げることに腐心して行動する不甲斐ない夫。その妻として娘たちの幸せを訴える毅然とした態度にイギリス英語の高貴さが響き、映画を引き締めていた。
一方、キャサリン王妃のスペイン語訛りで語気の強い英語は、英国人ではないことと、どんな状況でも王妃としての強さを貫く姿にぴたりとはまっていた。
このような原音のニュアンスを、英語にさほど興味をもたない人にも少しでも伝えられたらという思いが、今こうして学校に通う理由に繋がるのだろうとつくづく思う。
この作品では他にも女性の秘める強さが光っていた。
一族繁栄のための"道具"として扱われながら、自らの望みとは相反する運命に激しく翻弄される女性たち。その中でそれぞれが自分の道を切り開いていく強さが描かれている。
野望をつかむ才能に長けたアンが、国王を虜にしながらも人生の天と地の間を激しく揺れ動く様は凄まじいものがある。
姉との鮮やかな対照を生きる妹のメアリーは、王が待望する男児を生むも、姉に裏切られ、歴史に名を残すことはない。しかし最後は自分が望んだ通り、田舎で平凡な家庭を持つという幸せを掴み取るのだ。
そして、他でもない姉のアンが王との間に唯一もうけた女児は、後に女王として英国に長年君臨することになるエリザベスだ。

冒頭で子供たちが戯れていたシーンが最後に繰り返される。安堵感を与えてくれると同時に、アンの気質を引き継ぐエリザベスを中心にさらなるドラマが繰り返される予感を感じさせる。正に「事実は小説より奇なり」である。
映画として、また史実としても実に興味深い作品だった。

      

『ブーリン家の姉妹』 by 松崎裕美子(2004年10月期実践コース修了)

時代を超える"女のしあわせ"探し


舞台は16世紀のイギリス。それは、嫁ぐことと世継ぎを生むことだけにしか"女のしあわせ"はないとされていた時代である。
男勝りに社会的成功を求めた姉アンと、平凡で温かい家庭を築くことを求めた妹メアリー。一見するとこの姉妹の生き様はひどく対照的なようだが、実はどちらも、結婚&出産を通して、ただ純粋に"しあわせ"になることを夢見ていた女であったという点は同じなのだ。
むしろ、己が信じる道をひたすらに歩み続けた2人のたくましい姿を振り返れば、さすが姉妹!とうなずかされる。
劇中のメアリーのセリフにもあるように、2人はまさに"1人の人間(女)が2つに分かれたよう"なものなのだ。
そして、時は流れて21世紀の日本。社会的成功も、あたたかな家庭もどちらも欲しい! という欲張りなわたし達は、この姉妹のどちらに対しても感情移入しないわけにはいかず、2人の姿を追いかけて物語に引き込まれてしまう。
はてさて、このラストに"女のしあわせ"をどう考える?

      

『ブーリン家の姉妹』
 by 小野寺壮(2008年10月期基礎コースI 水曜昼クラス)

英国ゴールデンエイジ前夜


一体、誰が主人公なのだろう?
激情を隠さず、持てる力全てを使って誰しもを手玉にとり、遂には王までも手中におさめた"光の悪女"アン・ブーリン。
思いやりに溢れ、ささやかな生活を望みながらも王と愛を交わすことになった"陰の淑女、愛の人"メアリー・ブーリン。
信仰の擁護者の称号を授けられつつも"王のアイデンティティー"のために自分の王国内外をねじまげたヘンリー8世。
ひたすらに、一途に。三者三様、己の信じる道を貫きとおす姿が圧倒的だ。
全編通してHDカメラで撮影された映像は中世の美しい自然や衣装、そして表情を克明に映し出している。
表情といえばヨハンソンとポートマンの文字通りの競演が見所の1つ。息遣いひとつから何気ない目線の投げ方までもプライドのぶつけあいをしている。
ヘンリー8世のエリック・バナも2人の引き立て役に留まらず威風堂々たる王様っぷりから歴史を産む狂気までを好演。
鬼気迫る主役陣と周りを固める舞台上がりの演技巧者たちがこの作品に息を吹き込んでいる。
テレビシリーズで名を馳せた監督らしくテンポの良さと巧みな引き込み方で観客を飽きさせることなくエンディングまで運んでいってくれる。その後には少し重たく、しかし後悔のない余韻が残るはずだ。

      

『ブーリン家の姉妹』 by 荒川仁志(2008年10月期実践コース火曜日クラス )

王室のあるべき姿とは


イギリスの王室と聞くと、クイーンズ・イングリッシュを話し、優雅で気品のある人々を思い浮かべる。ノーブレス・オブリージュという考え方があるように、社会的地位の高い人々には社会に対する義務が生じるわけであり、ましてや王室レベルともなると、非常に大きな責任感を抱いていると信じられている。
王室の役割の1つは、国の伝統を守り、国民の規範となることであり、憧れと同時に見習うべき対象なのである。

しかし本作品を観ると、王室の内部での人間模様はそのイメージとは反対に、血生臭く、自己中心的であらゆる欲望にまみれており、そんな人たちが国を動かしてきたのだと知ると、驚きと同時に落胆を感じないわけにはいかない。
当時は議院内閣制が成立しておらず、国王が政治を動かしていた。まさに国王とその周りの人々によってイングランドは振り回されていたのだ。
英国王室は、もともと覇王であり権力闘争で勝ち抜いてきたのだから、ある意味、やりたい放題であっても彼らの力がある限り文句は言えないのかもしれない。しかし、果たしてそれでいいのだろうか。単なる覇王ではなく特別な存在として、彼らは王室の存在意義をまっとうしているだろうか。

この映画を観て日本の皇室を思い浮かべない人はいないだろう。英国の王室と日本の皇室はまったく性格の違うものだが、似通っている部分もあり、やはり両者を重ねて考えてしまう。
制度上は彼らのような公人に人権はないとはいえ、我々と同じ生身の人間である。ロボットのように制度の中に組み込まれて生きていくことに息苦しさを感じるのは当然だ。だからといって、好き勝手されては王室や皇室が機能しなくなる。王室・皇室の人々自身はもちろん、国民にとってもジレンマがあるのだ。
これは、王室・皇室のあるべき姿について考えさせられる作品である。


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