今週の1本

« vol.37 『ICE』 by 潮地愛子 | 今週の1本 トップへ | vol.39 『ワイルドバンチ』 by 桜井徹二 »

vol.38 『バグダッド・カフェ』 by 柳原須美子


8月のテーマ:太陽

"退屈な時間"で彩られた、私の学生時代。手帳は、予定を書くためではなく、何も約束されていない一日に起こった出来事を書き留めるためのものでした。日々、何を期待するでもなく、また何に失望するでもなく、ただ、過ぎていく時間に身を任せていたあの頃。"退屈"がもたらしてくれる時間に何となく興奮しながら日々を過ごしていました。"退屈"という言葉は、状況によって様々なニュアンスを持つと思いますが、ここで私が言う"退屈"は限りなくポジティブな意味を持ちます。そんなとびきり"退屈"な時間を共に過ごした仲間から薦められて見た映画「バグダッド・カフェ」について、ちょっと語らせてください。

この映画を語るのに欠かせないのは、ジェヴェッタ・スティールが歌う主題歌「コーリング・ユー」、そして登場人物を表情豊かに照らす太陽の光でしょう。この映画で描かれているのは、平たく言えば"バグダッド・カフェ"というさびれたモーテルで繰り広げられる"きっとどこにでも有り得る退屈な日常"であり、物語自体はとても淡々と進んでいきます。しかし本作を観ていると、日常とはとても鮮やかで、驚きと発見に満ちたものだということに気づかされます。登場人物の心を読むかのように降り注ぐ太陽の光、そして随所で挿入される主題歌が、そんな素敵な発見へと観る者を導いていてくれるからです。

ここで冒頭部分を少しご紹介しましょう。

映画は、車でラスベガスに向かうドイツ人夫婦がケンカ別れするところから始まります。1人、車を降り、砂漠の一本道を歩き始める夫人のジャスミン。ここでいきなり「コーリング・ユー」が流れ出します。まるで、ジャスミンの背中を押すかのように。
ちょうど2度目のサビにさしかかったところで、ジャスミンはふと足を止め、空を見上げます。そこでジャスミンの目に映ったのは、空に瞬く太陽の光でした。ジャスミンは静かに来た道を振り返り、何かを決意したかのようにまた空を見上げます。そして深呼吸をし、再び歩き始めます。尺にして実に1分足らずのこのシーン。観るたび、涙で鼻の奥がツーンとしてしまうのはなぜでしょうか。このシーンでジャスミンは、ただ歩いていただけなのです。

やがてジャスミンはバグダッド・カフェに辿り着き、女主人のブレンダと子供たち、そして周囲の住民との人間関係を築いていきます。その過程で、小さな事件は起こったりしますが、それらはすべて日常レベルの出来事。息を飲むような展開はどこにもありません。しかし、淡々と続いていく彼らの日常に引き付けられてしまうのはきっと、そこに太陽と主題歌があるから。人生とは決しておおげさなものではないのだろうけど、ちょっと視点を変えるだけで驚きに満ち溢れたものになるんだと思わされます。人知れず懸命に生きる人々の表情は、太陽の光に照らされてドラマチックに浮かび上がり、また、各シーンに寄り添う主題歌が、光の動きとやけにマッチしていて、思わず涙が出そうになるのです。

この映画は日々の生活に刺激が欲しくなった時にこそ観るべき!
「バグダッド・カフェ」を観て、退屈な日常にちょっと興奮してみませんか?

───────────────────────────
『バグダッド・カフェ』
監督:パーシー・アドロン
出演:マリアンネ・ゼーゲブレヒト、CCH・パウンダー他
製作年:1989年
製作国:西ドイツ
───────────────────────────