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2009年3月 アーカイブ

vol.53 『恋におちて』 by 潮地愛子


3月のテーマ:出会い

ダブリンの街中で友達とコーヒーショップで暇つぶしをしていた時、What is life ? と聞かれたことがある。その時20代前半だった私は、その問いに即答することができなかった。たいして旨くもないコーヒーをすすりながらしばらく考えてみたけれど、気のきいた答えなどちっとも思い浮かばなかった。「人生なんて、ひとことで言い表せるもんじゃないよ」と私が言い訳をすると、彼女は言った。「そんなことないって、もっとシンプルだよ。私にとっては、Life is a choice.なの」
私よりいくつか年上の彼女がとてもオトナに思えたことを今でも覚えている。
そして、人生経験を重ねるにつれて、彼女の言ったLife is a choice. を実感することが多くなった。
人生には選択がつきまとう。私が今ここにいること。それは数々の選択の結果に他ならない。流されているつもりでも、思うようにいかなように見えても、結局は何気ない小さな選択の積み重ねの結果だったりするんじゃないか。そして、人生の選択につながる重要なファクターが「出会い」なのじゃないかと、この頃考えている。
誰と出会うか、何と出会うか。望んでいても、望んでいなくても。行き着く先が分からなくても。出会いは人生を左右する。ただ、右にいくか、左にいくかは、結局your choice なのだ。

何年か経って、彼女と再会した。当時、彼女は夫と離婚の話し合いを進めていた。彼は家を出て、新しい恋人と暮らしているということだった。結婚当初、彼はまだ学生だったので、生活を支えていたのは彼女だった。だが、彼が就職して生活が安定してから、彼女はずっと専業主婦だった。離婚となっては仕事を探さねばならない。彼女は言わなかったけれど、職探しは順調ではないようだった。シングルマザーで生活を支えていかなければならないことに苦労している様子がうかがえた。
もちろん夫婦の間にはいろんなことがあるのだろうし、私がとやかく言えることではないけれど、私は彼女の夫に対して腹立たしい気持ちでいっぱいだった。そんな私の心のうちを察したのか分からないが、彼女は言った。
「後悔してない。出会った頃、彼のことが本当に好きで、まるで『恋におちて』みたいだった。人生であんな思いを味わわせてくれた彼には、本当に感謝しているの」
そして、夫が新しい恋人に対してあの頃の私のような思いを抱いているんだろうなって、客観的には理解できるのよね、と言って彼女は笑った。
私は何も言えず、旨くもないコーヒーをすすりながら彼女の話を聞いていた。感覚を失ったかのように、何も感じることができなかった。そんなことを言えてしまう彼女に、ただただ圧倒された。

「恋におちて」をDVDレンタルショップで見かけて手にしたのは、彼女との再会を果たしてしばらくしてからだったと思う。
「恋におちて」はロバート・デ・ニーロ演じる妻子ある男フランクと、メリル・ストリープ演じる人妻モリーの恋物語だ。2人は偶然の出会いから恋に落ち、プラトニックな関係を続けていく。だが、結局はほころびが見えていたそれぞれの結婚生活には終止符が打たれる。
そして映画は、お互いを忘れられない2人の再会によりハッピー・エンドで終わる。

確かに、相手を思い続ける2人の愛は純粋で美しいのかもしれない。でも、私はこの映画を好きにはなれなかった。多分それは、愛している相手が他の人に心を奪われていくモリーの夫やフランクの妻の哀しさに、胸を打たれてしまうからなのだと思う。もちろん人の気持ちは無理に変えることはできないけれど、この映画で描かれる純粋で美しいとされる愛が、去られた者に残すのは、時に残酷で醜いものだったりするのではないか。
それでもすべては結局、それぞれの選択の結果に過ぎないのかもしれない。残酷で醜いものを残されてしまうことも含めて。いや、だけど・・・。
まだまだ、私が未熟なのだろうと思う。もっといくつもの選択を重ねて、いつかこの映画を観たら、異なる想いを抱くことができるのかもしれない。

彼女とは、あれ以来会っていない。でも、たいして旨くもないコーヒーをすする羽目になるたび、彼女の言葉を思い出す。そして、彼女がどこかで幸せにやっていることを願うのだ。

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『恋におちて』
出演:ロバート・デ・ニーロ、メリル・ストリープ
監督:ウール・グロスバード
製作:マーヴィン・ワース
製作年:1984年
製作国:アメリカ
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vol.54 『地獄の黙示録』 by 浅野一郎


3月のテーマ:出会い

"朝に嗅ぐナパームの匂いは格別だ"
『地獄の黙示録』で、ロバート・デュヴァル扮するキルゴア中佐が、敵兵の潜むジャングルを焼き払った際に言った名セリフだ。僕が、この映画を観たのは小学生の頃だったと思うが、幼い僕の心には鮮烈な印象が残された。とはいっても、映画の内容などよく分かっていなかったし(ちなみに、いま観てもよく分からない...。)、映画そのものに感銘を受けたわけではない(ちなみに、それは今でも同じ...。)

僕の心を捉えたのは、ズバリ音楽だ。

キルゴア中佐率いる武装ヘリ師団が敵の村へ向かい、攻撃を仕掛けるシーンで、僕はワグナーの「ワルキューレの騎行」に出会った。この曲が流れてきた瞬間、僕は急いでラジカセを持ってきて、テレビから流れてくる音を必死に録音し、その後、文字通りテープが切れるまで聞き込んだ。クラシックの荘厳な曲調に乗せて、眼下に広がる海岸線を抜けて敵に向かって突進する無数の武装ヘリ...。そのシーンの意味することなど何も分からなかったが、聴くたびに情景を思い出し、胸を躍らせていたものだ。

つくづく、映画と音楽の相乗効果には驚かされる。
たとえば、カヴァレリア・ルスティカーナを聞けば、『ゴッドファーザーPART III』のラスト、陽の当たる道を歩きたいと願い、必死に這い上がろうとしたものの、ついに果たせなかった男が迎える哀しい人生の終末がまざまざと頭に浮かぶし、『ジョーズ』のテーマを聞けば、何か禍々しい事態が近づいていることを連想する。

最近、映画を観て、こんな経験をすることが、あまりにも少ない気がする。それは、サントラ音楽の選定に主な原因があるのではないかと思う。ロックやポップスをサントラに使うのが、最近ではすっかり定番になっているが、たいていの場合、映像との相乗効果が得られないのだ。ほんの一例だが、『ブラックホーク・ダウン』でも武装ヘリが敵地に向けて飛ぶシーンがあり、間違いなく『地獄の黙示録』へのオマージュなのだが、このシーンは全然心に残らない。なぜなら、フェイス・ノー・モアというバンドの曲が使われているからだ。フェイス・ノー・モア自体はいいバンドだと思うが、やはり、映画にはオーケストラで奏でられるクラシックやオペラのアリアこそふさわしいと思う。

ところで、幼少のころに「ワルキューレの騎行」に深く感銘を受けた僕は、そのままクラシック音楽に傾倒するのかと思いきや、幸か不幸かヘビーメタルという音楽に出会い、そちらの世界に行ってしまった。本来ならば、AC/DCやメタリカの代わりに、バッハやモーツァルトのCDが山積になっていたかもしれないのに...。

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『地獄の黙示録』
出演:マーロン・ブランド、マーティン・シーン
監督:フランシス・フォード・コッポラ
製作:フランシス・フォード・コッポラ
製作年:1979年
製作国:アメリカ
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