『ブーリン家の姉妹』に見るストイックさの魅力
"ストイックさ"。それが『ブーリン家の姉妹』最大な魅力だ。
本作はエリザベス1世の両親であるヘンリー8世とアン・ブーリンと、アンの妹メアリーを中心とした歴史絵巻。主演の姉妹役には今をときめくナタリー・ポートマンとスカーレット・ヨハンセンを迎えている。となると、人気スターをかき集めた豪華絢爛、無駄な贅肉たっぷりの"歴史大作"ではないかと思わず懐疑的になってしまう。
ところが、どうやら本作の製作陣は徹底した減量を決行したようだ。
例えば画面に出てくる場所はブーリン家周辺と王宮周辺がほとんどで、数年にわたる物語でありながら、映画の中の季節は常に秋か冬だ。
さらに主要登場人物は、ほぼ王家とブーリン家の係累のみで占められている。
この題材なら、王の離婚問題に激怒するローマ法王や、王妃の実家であるスペイン王などを絡めたエピソードを描くことによって大作感を出し、観客に「まあ損はしなかったな」とういう気にさせるのは簡単だっただろう。
だが、製作陣はそうしなかった。この映画にそういった空虚な大作感が必要かどうか、徹底的に考え抜いたのだろう。
同様のことが語り口についても指摘でき、通常だったらこれ見よがしの大仰な演出が施されがちな瞬間がストイックな表現によって描写されている。例えばヘンリー8世の落馬は、窓越しに担架に載せられて帰ってくることで示され、ある男の処刑は処刑人の仕草によって示唆されるのみだ。
このストイックさは物語が終盤に差し掛かる頃に弛緩を見せる。ある人物の裁判が始まった後、この人物に死刑を言い渡す裁判官達は、執拗なまでに緊迫感が充満する画面に収められていた。
こうしてストイックさが物語の終末への流れに圧され、ほころびを見せ始める。そして処刑シーンでは、処刑後の光景がはっきりと俯瞰で撮影された画面の中で、ストイックさは決定的に行き場を失うことになる。
ここに来てストイックさと入れ替わりに得られるものは開放感だ。
この感覚は王宮を立ち去る2人を捉えた映像が流れる中高まり続け、次代を担う人物の大写しに切り替わった瞬間に最高潮に達する。
そしてその時、映画も終わるのだ。