気ままに映画評

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2010年11月 アーカイブ

ホラー? サスペンス? アクション?
盛りだくさんで満足度100%のコリアンシネマ

                                                    by松澤友子 

bestseller1.jpg韓国のベストセラー作家として脚光を浴びるぺク・ヒス(オム・ジョンファ)は、盗作疑惑をかけられ、スランプに陥ってしまう。その後、彼女は再起をかけて執筆活動に専念するため、娘を連れてソウルを離れ、ある静かな村の別荘に滞在することにする。そこは、かつてアメリカ人宣教師が住んでいたという古い洋館。村の住人は彼女を歓迎するが、どことなく奇妙な雰囲気が漂っていた。

別荘での生活が始まっても、なかなか筆が進まないぺクだったが、娘がその洋館で出会った"お姉さん"から聞いたという話を元に、見事な作品を書きあげる。しかし、何とこの作品が再度盗作疑惑をかけられてしまう。果たして彼女は本当に盗作をしたのか? 娘のヨニが村の洋館で出会った "お姉さん"とは一体誰だったのか? 真実を知るために行動を起こすぺクを悲惨な運命が待ち受ける......。


映画は冒頭から、ぺク・ヒスが盗作疑惑をかけられて泣き叫ぶシーンが続き、波乱に満ちた展開を想像させる。更に、彼女が執筆活動のために滞在することになった洋館は、薄暗い森に囲まれて、何とも言えない不気味な雰囲気を醸し出していた。ここまで観ただけでも、いかにも「何か起こりそう」な予感。もちろん、その期待は裏切られることなく、洋館や村では奇妙な出来事が続く。特に物語の前半部分は、先の展開が全く読めず、驚きの連続だ。

加えて、ぺク・ヒスを演じるオム・ジョンファの演技が一級だ。目の周りを黒く縁取ったメイクに猫背、更にぼさぼさパーマの髪の毛がダラリと顔の上に垂れ落ちている。この外見を見ただけでも、まるで何かに取り憑かれているかのようだが、この不気味な外見に更に拍車をかけるのが、彼女の演技だ。執筆活動が思うように進まないシーンでノートパソコンを破壊したり、娘にどなり散らしたりする演技は迫真に迫り、思わず一緒に叫んでしまいそうになった。

ホラー映画の雰囲気で始まった本作品だが、後半は一転して、激しいアクションの連続。2度目の盗作疑惑をかけられて、真実を確かめるために調査を始めたヒスは、思いもよらぬ事件に巻き込まれていく。真実を明らかにしようとするヒスと、それを隠そうとする者たち。両者が文字通り、激しい死闘を繰り広げる。物語の前半では、背筋が凍るような恐怖を感じて手に汗を握りっぱなしだったが、後半では激しいアクションに、やはり手に汗を握りっぱなしだった。

作品の所要時間は約2時間。その中にホラー、サスペンス、アクション等、様々な要素が盛り込まれている。加えて、謎に満ちた物語の展開からは片時も目が離せず、気づいたらエンドロールが流れていた。

緻密な構成の中に "仕掛け"がキラリと光る
韓国映画『ベストセラー』

                                                    bestseller2.jpgby岩屋圭典

恐らく自分以外にもいると思うが、映画を見ていると時折、途中でだらけてしまって内容が入ってこなくなる時がある。ソワソワしたり、時間をやたらと気にしてしまったり......。

どんなにストーリーが良くても、なるときはなる。プツンと糸が切れるかのように、ふいに集中力が切れてしまうのだ。問題は、ストーリーではなく構成にある。構成が平板だと、"中だるみ"してしまうのだ。

しかし、今回の韓国映画、『ベストセラー』はそんな"中だるみ"を一切許さない。緻密に計算され、作りこまれた構成になっているのだ。

2年前に盗作疑惑をかけられて以来、スランプに陥ってしまったベストセラー作家ペク・ヒス(オム・ジョンファ)。再起をかけ、彼女は執筆活動に専念するため1人娘のヨニ(パク・サラン)と共に、小さな村のとある別荘にこもることにする。

しかし、その別荘は、家全体に奇妙な音が響いたり、2階の奥に固く閉ざされた部屋があったりと、異様な雰囲気に包まれていた。村の人たちも、親切だがどこかよそよそしく不自然。ある日、娘のヨニが"お姉さん"と呼ぶ、謎の人物との会話の内容をヒスに話す。ヨニの話に魅入られたヒスは、その話を題材に新作を書き上げる。しかし、その作品に、またしても盗作疑惑がかけられてしまうのだ。無実を主張するヒスは、再び村に戻って調査を開始する......。

前半で描かれているのは、ぺクが怪奇現象を元に小説を書き上げるまで。ここまでは、いわばホラー映画の要素が強い。娘が話している"お姉さん"とは一体誰なのか? ペクが屋敷で見た怪奇現象とは何だったのか? 様々な謎が秘められ、非常に難解なストーリーになっている。能動的な姿勢で必死に謎ときを強いられ、セリフの1つ1つに集中して観なければすぐに展開についていけなくなってしまう。

一方 後半では、ペクが盗作の疑いを晴らすために調査を開始し、村の秘密が明らかになっていく。こちらはいわば、サスペンスの要素が強い。スピード感があり、グイグイと視聴者を引っ張っていってくれる。話が2転3転する意表を突く展開の連続だが、謎が次々とひも解かれていくため、受け身の姿勢で見られるようになっている。

そして特筆すべきは、前半と後半の境目に埋め込まれたちょっとした"仕掛け"だ。この仕掛けによって、前半を見ていた時に感じた違和感の正体が、明らかになる。ここで前半の流れが覆り、あっと言う間に後半に突入する。本来なら、ホラー映画がサスペンスに変わるなど、違和感を感じる所だろう。ところが、この映画では、前半のホラー部分と後半のサスペンス部分の間に粋な仕掛けを盛り込むことで、視聴者にその違和感を一切感じさせることなく、一気に結末まで展開させている。

恐らく、前半のホラーの要素だけで最後まで行く映画だったら、中だるみして飽きていただろう。逆に、後半のサスペンスの中に見られる激しいシーンばかりだったら、間違いなく疲れてしまっていただろう。しかし、この映画は、ホラーの要素の強い前半とサスペンス色の強い後半、そしてその両者の間に緻密に計算され、植え込まれた "仕掛け"の3つが揃うことにより、絶妙なバランスを生み出し、誰もが最後まで集中力を切らさずに見れる映画になっているのだ。

それにしてもこんなにも思い切った構成にしてしまうとは、実はイ・ジョンホ監督も映画の途中でソワソワし始める1人なのではないだろうか? しかもこの大胆さから察するに、その症状は案外深刻なのかもしれない...。

東京国際映画祭出展の『ベストセラー』、集中力がある人も無い人も、ぜひとも映画館へ足を運んでほしい。

哲学者ニーチェへ捧ぐオマージュ
映画『ベストセラー』

                                                     by 樋口孝一

bestseller1.jpg盗作疑惑をかけられた女流作家ペク・ヒスは、再起をかけて娘と2人、人里離れた洋館にこもって執筆活動に専念する。村の人々は親切に迎え入れてくれたものの、どこか違和感を感じていた。そんな中、娘が村で出会った"お姉さん"に聞いたという話を元に、ヒスは新作『深淵』を書き上げる。この作品で、再びベストセラー作家に返り咲いたヒス。ところが、この作品までもが盗作だと疑われてしまう。

周囲に狂気を疑われながらも、無実を晴らすために村に戻って調査を始めたヒスは、村に隠されたある秘密に気付き始める。そして調査を進める内に、次第にその秘密に巻き込まれ、自らがその当事者となっていく......。

この映画、実はドイツの哲学者ニーチェへのオマージュなのではないだろうか。私にはそう思えて仕方ない。そう感じさせるポイントは、2つある。


まず1つ目。それは、ヒスが書きあげた小説のタイトル『深淵』だ。
ニーチェの言葉に、次のようなものがある。

怪物と戦う者は、その際に自分が怪物にならないように、注意するがいい。また、君が長いこと深淵をのぞきこむならば、深淵もまた君をのぞきこむ。

                                         〔白水社『ニーチェ全集』より〕

正義を貫くために悪を追及するあまり、自分が悪に染まってしまうという人間の弱さに警鐘を鳴らした内容だ。これはまさに、ヒスが村に隠された秘密の真相を探るうちに自らもその秘密に巻き込まれ、次第にその当事者になっていくことを暗示しているかのようである。

そして、もう1つは「狂気」だ。作品の中で、常に「狂気」を疑われ続けていたヒス。果たして彼女は本当に気が違っていたのだろうか? あるいは、「狂気」は他にあったのか?

ニーチェは「ツァラトゥストラの序説」の中で、最も望ましくない人間の姿を表すものとして「最後の人間」という言葉を繰り返し使っている。ここで言う「最後の人間」を、彼は「民主主義的な価値観にまい進し、他人と競争することを嫌い、気概を失った人間」と定義している。これは噛み砕いて言えば、「多数決で数が多い方=正義」とする「集団主義的な考え方をする人間」のことを指している。

作品中に出てくる村は、まさにこの集団主義を重視する共同体の象徴に他ならない。そしてこの映画では、個人主義よりも集団主義を重要視するその共同体の中に見え隠れする「狂気」を浮き彫りにしている。

狂気は個人の場合には滅多にないことである、――しかし集団、党派、民族、時代の場合には定例である

                                               〔『ニーチェ全集』より〕

ニーチェのこの言葉に、村に隠された秘密の真相に迫るカギがありそうだ。

キミは拍手と歓声、そしてリスペクトを捧げるか?
幸福なカルト映画、『クレイジーズ』、『マチェーテ』の予告編

日本初!? 劇場公開映画の"予告編"を斬るコラム

明日に向って観ろ!



Text by Junichi Suzuki (鈴木純一/映画コラムニスト)


自分が映画を観るようになったのは80年代の半ば、まだインターネットがない時代だった。公開作の情報を得る手段といえば映画情報誌の記事や新聞の広告、映画館に置いてあるチラシくらい。本編上映前の"予告編"もあるにはあったが、予告編の上映中はまだ席についていない人もたくさんいて、さほど重要視されていなかった。内容も主役が登場するシーンをつないだ程度のものが多かったと思う。

ところが今はどうだ。予告編の良し悪しで観客の入りが変るとまでいわれ、配給会社はその製作に膨大な予算をつぎ込んでいる。本編撮影に先んじて予告編専用のシーンを撮ることさえあるそうだ。そんな風にして世に放たれる予告編たちは、脇役でありながら観客の目を釘付けにし、時にはその後の本編より強い印象を与えることもある。最近は劇場でだけでなく、インターネットを通じて誰もが気軽に楽しむようになった。

もはや予告編は1つの"作品"だ。ならば予告編を独立した完成形と見立てた論評があってもいいと思った。このコラムは、本編を観る前に気になった予告編を取り上げ、その印象から本編の出来などを好き勝手に想像しながら論じるものだ。

なお、実際に本編をご覧になった皆さんの感想がこのコラムの論評とズレていても、当局は一切関知しない......。




東京国際映画祭、東京フィルメックスを始め、秋は映画祭が多く開催される。
僕にとって思い出深い映画祭は、1985年から2005年まで渋谷で開催されていた東京国際ファンタスティック映画祭である。"東京ファンタ"の愛称で親しまれ、ホラーやSF、アクション分野にフォーカスして数々のユニーク作品を日本で初めて紹介してくれた映画祭だった。

なんと言ってもファンが集まって作品をリスペクトする、あの空気感が最高だった。オープニングのクレジットで監督や主演俳優の名前が出てきた時、映画が山場を迎えた時には歓声や拍手が巻き起こった。そんなお祭り騒ぎ的なノリが楽しいイベントであった。

今回紹介するのは、もし今もファンタスティック映画祭が開催されていたらきっと上映されたであろう映画の予告編だ。

まずは『クレイジーズ』。
ジョージ・A・ロメロ監督による『ザ・クレイジーズ/細菌兵器の恐怖』(1973年)のリメイク版だ。リメイク版では、ロメロは製作総指揮を務めている。

細菌兵器を載せた軍用機がある小さな町に流れる川に墜落し、その川の水を飲んだ人間が凶暴化(クレイジー)する。人間がウィルスに感染するという設定は、『バイオハザード』シリーズ(2001年~)や『28日後...』(2002年)に近いかも。子供たちが野球をしているグラウンドにバットを持った男が突然乱入!そんな日常が凶暴化する恐怖が滲み出たシーンが連続する。

予告編全体に漂うのは「悲壮感」。家族や親しい人が感染したら人はどうするのか?また、誰が感染したのか分からない状態で誰もが不信感にさいなまれる様子が描かれている。
終盤に流れる曲は、イギリスの2人組のバンド、ティアーズ・フォー・ティアーズの名曲『狂気の世界』。この歌は『ドニー・ダーコ』(2001年)でも使われていた。♪マッド・ワールド...♪という悲しい歌詞が、この救いなき世界を描いた映画にはピッタリだ。

本作には"東京ファンタ"的な視点でこんな評価を。カルトとも言っていいジャンルの往年の名作を掘り出してリメイクした製作者たちの心意気にまずは敬意を表したい。そしてホラー映画一筋の人生を歩み続ける巨匠ジョージ・A・ロメロにスタンディング・オベーションを捧げる!

次は『マチェーテ』の予告編。

なんとこの映画、ロバート・ロドリゲス監督による異色作、『プラネット・テラー in グラインドハウス』(2007年)の"オマケ"として作られた架空の映画の予告編『マチェーテ』が元ネタである。ニセ予告編をほんとうの作品にしたってことだ。
『マチェーテ』のニセ予告編を観た時に「面白いから本編作ってくれないかな」と思っていたのだが、まさかの映画化で夢が叶いました。

主人公のマチェーテはある組織の依頼で上院議員の暗殺を企てるが、実は組織のワナだった...という展開である。マチェーテを演じるのはダニー・トレホ。本作が初主役である。

トレホは"ハリウッドの悪役商会"と言っていいほど見た目が怖い俳優で、元ギャングという経歴を持つ筋金入りのヒールである。そして実は本作の監督、ロバート・ロドリゲスの親戚筋でもあるそうだ。親族愛なのか、ヒールばかりの配役を見かねたロドリゲス監督の温情か、ロドリゲス監督作品『スパイ・キッズ』(2001年)では子供に優しい"マチェーテおじさん"を好演した。でもマチェーテおじさんには、こんな恐ろしい素顔があるんですよ。

"東京ファンタ"的な視点で観ると「キャスティングの賑やかさ」に心が踊る。ジェシカ・アルバはロドリゲス監督の『シン・シティ』(2005年)に出演していたから、想像するにロドリゲスから「ちょっと出てくんない?」と頼まれたのかも。さらに、『キル・ビル』(2003年)のダリル・ハンナみたいな片目の戦士を演じるミシェル・ロドリゲスもいい味を出している。そして何といってもロバート・デ・ニーロ、スティーブン・セガール、ドン・ジョンソン、リンジー・ローハンなど、超豪華な出演者たちを無駄にキャスティングしているところに大きな拍手を送りたい!(ほめてるんですよ)
それにしてもハリウッドって『グラン・トリノ』(2008年)のような名作が制作される一方で、「よくこんなの本気で作るよな」としか思えない映画が作られているのがすごい(ほめてるんですよ)。

"東京ファンタ"は幕を下ろしたが、「ファンタな気分度」はいずれも★★★★★!(★五つが満点)


* * * * * * * * * *

今回注目した予告編
『クレイジーズ』と『マチェーテ』


★『クレイジーズ』
監督:ブレック・アイズナー
製作総指揮・オリジナル脚本:ジョージ・A・ロメロ
脚本:スコット・コーサー、レイ・ライト
出演:ティモシー・オリファント、ラダ・ミッチェル、ダニエル・バナベイカー
制作国:アメリカ
11月13日より公開
公式サイト
公式サイト:http://crazies.jp/



★『マチェーテ』
監督:ロバート・ロドリゲス、イーサン・マニキス
脚本:ロバート・ロドリゲス、アルヴァロ・ロドリゲス
出演:ダニー・トレホ、ジェシカ・アルバ、ロバート・デニーロ、ミシェル・ロドリゲス
スティーブン・セガール
制作国:アメリカ
11月6日より公開
公式サイト
http://www.machete.jp/



鶏が偉いか? 卵が偉いか?
フェイスブックの立ち上げ秘話に迫る『ソーシャル・ネットワーク』

                                             Text by Kenji Shimizu

ソーシャル裏.jpg現在では全世界に5億人のユーザーを抱えるSNS(ソーシャルネットワークサービス)フェイスブックは、ハーバード大学寮の一室で作られたものだった。創ったのは、ハーバードの学生である19歳のマーク・ザッカーバーグ。しかし、その過程の裏で、様々なトラブルを抱えていた。

映画はザッカーバーグが女の子にフラれた腹いせに「カワイイ女の子比較サイト」を驚異的なスピードで立ち上げるところから始まる。そのサイトの評判は瞬く間に学内に広まり、ザッカーバーグは一躍有名人となる。そんな折、その噂を聞きつけた双子の金持ち学生から新しいSNSの制作を依頼される。寝る間を惜しんでサイトのプログラムを書いたザッカーバーグだったが、それは双子の学生とは無縁の自身のSNS、フェイスブックのためだった...。



映画「ソーシャル・ネットワーク」の中で描かれる「フェイスブックを創ったのは誰か?」を巡る論争は、知的財産の所有権に関するスタンスの取り方で見え方が全く異なってくる。

例えば、インターネット検索エンジンで有名なグーグル社では、アイデアを思いついただけでは評価されない。つくって実現させて初めて評価を得る。それがまだ創立12年に満たないグーグル社の社風だ。「新興」ゆえ、まだ一般的とは言えない考え方だが、グーグル的視点に立つとザッカーバーグはヒントをもらっただけ、つまり、フェイスブックの創始者は間違いなくザッカーバーグなのだ。

一方で、アイデアが無くては何も生まれないこともまた事実。現代社会では、知的財産の所有権は特に尊重される。一般的な常識に照らし合わせれば、ザッカーバーグが双子の上級生からアイデアを「盗んだ」と言える。

さて、どちらの見方が正しいのか? 個人的にはザッカーバーグだと思うが、こうした考えは恐らくはまだ少数派だろう。「人のアイデアをパクっておいて何が正しいんだ?」と反発されるかもしれない。しかし、価値観の変容が著しい現在、多数派だから正しいとも限らない。特にIT、デジタルの世界ではそれが顕著だ。あまり頑なな態度を取ると、置いてけぼりを食らいかねない。何故かそんな危機感を感じた映画だった。


ネット・ビジネスに翻弄される
人間の"心の闇"を描く『ソーシャル・ネットワーク』

                                                Text by 鈴木純一

ソーシャル表.jpgFacebookは全世界で5億人が登録している世界最大のSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)である。Facebookの創設者であるマーク・ザッカーバーグの物語をデヴィッド・フィンチャーが監督すると聞いて違和感があった。フィンチャーといえば、絶望的なラストを迎える『セブン』、実在の連続殺人犯を追う『ゾディアック』など、独自の映像美とダークな世界観を持つ監督である。『ソーシャル・ネットワーク』を観る前は、正直に言って「SNSってよく分からないし、ネットビジネスで億万長者になった学生の話を映画化して面白いの?」と思い込んでいた。でも映画を観たら面白かったのである。フィンチャーごめんなさい。

ハーバード大学に通うマーク・ザッカーバーグは、大学の学生たちがお互いに情報交換できるサイト、Facebookを完成させる。やがて、 Facebookは大学という枠を超え、更には大陸を超えて、世界中に浸透していく。ところが、ある学生たちに「ザッカーバーグは俺たちのアイディアを盗んだ」と言われ、訴訟へと発展する。

メインの登場人物は3人。主人公であるザッカーバーグは「俺は特別な人間」だと他人を見下し、女友達から「最低(asshole)」と呼ばれている。そんな最低の男ザッカーバーグを、友情のためと資金面で支える真面目なエドゥアルド・サベリン。そしてもう1人、Facebookに目をつけたナップスター(音楽データの交換をするアプリケーション)の創設者ショーン・パーカー。このパーカーの存在が、ザッカーバーグとエドゥアルドに思わぬ影響を与えていく。

この映画を観ていて、フィンチャー監督の『ファイト・クラブ』を思い出した。『ファイト・クラブ』は殴り合って痛みを感じることで、「自分は生きている」と実感できる男たちの物語。殴り合う仲間たちの"ファイト・クラブ"がアメリカ中に広がっていったように、インターネットを通じて仲間を増やす" ネット・クラブ"Facebookはハーバード大学の寮から、大学を超え、更には大陸を超えて、世界中に浸透していくのだ。

『ファイト・クラブ』との共通点で本作に"フィンチャーらしさ"を感じた自分だが、他にも"フィンチャーらしい"と感じる部分は随所に散りばめられている。まずは、独自の映像スタイルについてである。ザッカーバーグを訴える学生の中心にいるのがスポーツ万能、エリートで金持ちという双子の学生なのだが、実はこの双子は1人の俳優が演じている。双子の俳優を使って撮影したように見せかけて、CGで合成して双子にしているのだ。

こうした映像スタイルは、監督の過去の作品でも見られる。『ベンジャミン・バトン ~数奇な人生~』ではブラッド・ピットの顔を子供の体に合成したり、さらにブラッド・ピットを10代まで若返らせていた。また、『ゾディアック』でも70年代のサンフランシスコの街並みをCGで再現している。もともとジョージ・ルーカスの特撮工房ILMで働いていたフィンチャーは、特殊効果に並々ならぬこだわりを持っているのだろう。

次に注目したいのが音楽だ。この映画でアクセントを効かせている音楽を担当したのは、ナイン・インチ・ネイルズのトレント・レズナーである。思えば、『セブン』の不気味なオープニング・タイトルで流れていたのもナイン・インチ・ネイルズの「Closer」だった。フィンチャーとレズナーのコラボレーションが再び実現した音楽にも注目(注聴)だ。また、ストーリーの中で、キーマン的な役割を担うパーカー役に、グラミー賞を受賞したミュージシャンのジャスティン・ティンバーレイクを振ったのも、音楽つながりで面白い。ティンバーレイクは軽薄だが話術が巧みなカリスマ性のあるパーカーを好演している。

最後に"フィンチャーらしさ"として特筆したいのが、"人間の心の闇"だ。『セブン』では殺人犯を捜そうと奔走する刑事たち、そして『ファイト・クラブ』は暴力に魅せられた男たち。両作とも登場人物が殺人と暴力という暗闇に引きずり込まれていく物語だった。『ソーシャル・ネットワーク』では、ネット時代のビジネスに翻弄される若者たちが名声に酔い、お互いを疑い、傷つけ合っていく様が鮮やかに描かれている。Facebookの栄光に魅せられ、闇に飲みこまれていく男たちがどのような結末を迎えるのか。ぜひ映画館で見届けてほしい。