先日、小学校からの友人が陶芸作品のグループ展をひらくというので、新高円寺にあるギャラリーをのぞいてきました。沖縄に縁のある4人の作家がイメージした「いきもの」の世界がテーマ。それぞれの個性が光る作品が並び、そこにいるだけで想像力が刺激される素敵な空間でした。
この友人とは知り合ってかれこれ16年。高校を出てから彼女は沖縄の芸大へ、私は東京の大学へ出たため、しばらく離れ離れでしたが2年前に彼女が結婚と共に上京。それ以来、昔と変わらぬ付き合いをしています。
彼女とは家が近所で、よく待ち合わせて一緒に登下校をしました。
お菓子をもりもり食べながら...、マンガを読みながら...。数え切れないほど何度も、自転車で天白川沿い(*注)を一緒に走ったものです。
そしてある春の日、学校からの帰り道。
いつものように2人で天白川沿いを走っていると彼女が言いました。
「私の夢は人間国宝になることなんだ」
何とも壮大な夢!この言葉を今の彼女が覚えているか分からないけれど、今彼女はこうして陶芸家としてものを作り続けている...。そんなことを思いながら私はギャラリーのドアを開け、出迎えてくれた彼女と目が合った瞬間、キラリ☆。
そこには確かに、10数年前、夢を語り合ったあの時の空気が流れていました。
(*注)天白川とは愛知県を流れるわりと大きな川で、ちょっとした釣りをしたり、夕暮れ時に河原で語り合ったり、花火をしたりと、名古屋人の日常から切り離せない場所。愛知県出身のユニット、スキマスイッチもこの川をテーマに曲を作ったほど。
みなさん、はじめまして!
翻訳センターで日英部門と編集部門のリーダーをしている丸山雄一郎です。今回から「キラリ☆」執筆のローテーションに加わって、日頃感じていることや新たに発見したことなどを、皆さんに伝えていきたいと思います。
私はもともと「映像翻訳」の世界の人間ではなく、出版の世界で雑誌作りや広告制作に従事してきました。というわけで、いつもとは一味違う「番外編」、「キラリ☆」ではなく「ギラリ★」をテーマにしたコラムとして、楽しんでくだされば幸いです。
1ヶ月ほど前の話です。たまたまその日は早い時間に帰宅することができたので、TVでドラマを見ていました。現在も放送中の『バンビーノ』(日本テレビ系)という松本潤主演のドラマです。マツジュンが演じるのは、有名なイタリアンレストランの見習いシェフ。その回は一流のシェフになろうと意気込むマツジュンがホール担当にまわされ、不満を募らせるというようなストーリーでした。印象に残ったのは、マツジュンが調理場に立ちたいという思いを、佐々木蔵之介演じる先輩シェフに訴えるシーンでした。マツジュンからの料理への熱い思いと、ホール担当という仕事への不平を聞いた先輩シェフはこう答えます。
「目の前のことに一生懸命になれない人間に夢を語って欲しくない」
台詞の内容自体は、新しい言葉でも何でもありません。職場の上司からお説教半分で同じようなことを言われた記憶なら多くの人にあるでしょう。でもその時、僕はその台詞にハッとさせられました。僕が普段から親しくして頂いている大御所の作家先生から言われた、ある一言を思い出したからです。
ある日、先生と食事をしている時に、僕はこう尋ねました。
「その道の一流と呼ばれるような人間にとって一番大切なものはなんですか?」
先生は一言、僕にこう答えました。
「懸命さだよ」
当時の僕(20代後半)には正直、その答えの意味はよく分かりませんでした。作家、デザイナー、建築家、映画監督、料理人など、特にクリエイティブな分野で一流と称されるために一番必要なのは、やはり才能だと思っていたからです。
しかし僕はその後、編集者やライターとして、フリーランスのプロとしてのキャリアを重ねていくうちに、先生の言っていた意味がなんとなく理解できるようになりました。
気づいてみれば簡単なことでした。懸命になれていないなと感じつつこなした仕事は、決して評価してもらえないのです。そしてそれは一流か中堅か、見習いの段階かには関係なく、そもそも「仕事をする」という行為の必要条件なのだと分かりました。「才能があるから片手間でよい」などということはあり得ない。才能を持った人間が「懸命に」作り上げるからこそ、他の人間には真似のできないものが生まれるのです。
才能の有無を語る以前に、私たちは、目の前にある仕事や勉強を懸命にやることでしか、評価もチャンスも得られないのです。その逆に、懸命ささえあれば、人はその人を信用し、次の道を示してくれるのです。
この学校で、講師や翻訳センターのスタッフは、常にみなさんの懸命さを探しています。例えスキルがまだ十分でなくとも、あなたに懸命さがあれば、僕らは必ず力を貸します。
時にはギラリ★と輝くあなたの懸命さを見せてください――。
僕らは常にそういう人を待っています。
最後にもう一度、自戒を込めて書きます。
皆さんは、今目の前にある仕事(勉強)に懸命に取り組んでいますか?
今翻訳している仕事、いま取り組んでいる課題に、自分はベストを尽くしたと胸を張れますか?
最近、ジャズが心地よい。元々ロックやブルース、フォーク、ラップといった、メッセージ性の強い音楽が好きな僕には、ちょっとした革命である。もちろん、以前から好きなジャズアーティストはいるし、CDも何枚か持っているが、最近ほど"心地よい"と思ったことは正直なかった。
僕が今ジャズに感じるもの、それは"自由"だ。4ビートだの、即興演奏だの、音楽的うんちくを述べるつもりはないが、それらが織り成すスリルと開放感にハマっている。
音楽とは面白いもので、その時々の生活環境や精神状態、また季節や時間帯などによって聴こえ方や感じ方が異なる。思うに最近ジャズが心地よいのは、それが映像翻訳と正反対の位置にあるからだ。
片や1秒4文字というストイックな世界において、映像と言葉を駆使して一つの世界を作り上げる映像翻訳。片やあふれ出る感情をリズムや音によって思うがままに表現するジャズ。
映像翻訳者である僕は、心のどこかでジャズの"自由"に憧れ、聴くことで作業により発生するストレスを発散し、精神のバランスを保っているような気がする。実際、仕事で煮詰まった時など、手を休めてジャズを聴く。すると思いがけず良い表現が浮かんだりすることがある。ストイックな世界だけでは疲れるし、"自由"ばかりでも飽きてしまう。それぞれをバランスよく楽しむことができれば、個々の世界はより一層キラリ☆と光るのだ。
地球環境問題を取り上げた『不都合な真実』のことは、皆さんもご存知だろう。これに関連する映像素材の翻訳依頼を、翻訳センターの同僚が担当したときのことだ。
同僚は、電話でクライアントや翻訳者さんと話す時、常にアル・ゴア氏を、"さん"づけで呼ぶのだ。「アル・ゴアさんの件なんですけどね」とか、「アル・ゴアさんはですねえ」という具合に。
この表現、端で聞いていた私には、若干の違和感があった。「"ゴアさん"って、アンタの友達かよっ!」と。実際にそう突っ込みを入れたこともあった。
しかし、同僚が思わず"アル・ゴアさん"と呼びたくなる気持ち、実は分からないでもない。人は、有名人なら誰にでも"さん"づけをしたくなるわけではなく、何かがそうさせるのだ。
ゴア氏は、ゴアではなく、やっぱり"アル・ゴアさん"がピッタリだ。
理由は、彼が地球環境について真剣に訴えている"偉さ"故だと思う。何となくリスペクトせずにはいられない、みたいな。
しかし、恥ずかしながら私の地球環境問題に関する認識は、正直、曖昧だった。アル・ゴアさんについて詳しく知る前から雰囲気でリスペクトしてしまう感じ=(イコール)私の地球環境問題の認識。つまり、大事だとは分かっているが、一歩踏み込むことはなく、ふわっとして「何となく」なのだ。
異常気象が著しいと、「やっぱり温暖化って感じだよね」などと世間話程度に口に出してみるものの、どこか他人ごと。というか、テーマが重すぎて「見たくない、知りたくない」というのが本音だ。
そんな時、あるテレビ番組で、海を漂流するシロクマの姿を見た。温暖化で北極の氷が溶け出し、流されたシロクマたちは海を泳ぎ続けた末に、力尽きて死んでいるという。
(これは、まずいぞ)、と思った。
映像翻訳に携わるようになって、数え切れないほど、いろんなドキュメンタリー作品を扱ってきた。その中で一番衝撃を受けたのが、シロクマの生態についてのある作品だ。シロクマのメスは3年に一度しか発情しない。必然的に、オスが自分の遺伝子を残すのは容易ではない。まずはメスのところへたどり着くまでの、オス同士の激しい闘いを勝ち抜かねばならない。
うなり声をあげ、ガチンコで闘うシロクマのオスたち。900キロもの巨体がぶつかり合う映像を見たときは、正直ひいた。動物園でのんびり日なたぼっこしているシロクマの面影など、そこにはみじんもなかった。文字通り、必死なのである。
闘いに勝ったシロクマは、メスのもとへ向かう権利を得るわけだが、ここからが遠い。お目当てのメスは、70キロも先にいるのである。その道のりを走り、泳ぎ、傷つきながらもシロクマは進んでいく。やっとメスの元にたどり着いたときには、100キロ近くも体重が減っているという。
シロクマの世界は、ただでさえ過酷だ。それなのに、私たち人間のせいで、さらに苦しい状況に追い込まれているなんて。これは何とかしなくちゃならない。
シロクマはこう教えてくれている。
(自分に何ができるか考えてみよう。アル・ゴアさんの意見に耳を傾けてみよう)。
梅雨だというのに、ちっとも雨が降らない空を見上げながら、そんなことを考えた。