発見!今週のキラリ☆

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vol.64 「海へ行くつもりじゃなかったのは誰だ?」 by 石井清猛


8月のテーマ:海

ふと考えてみてこれまで一度も1人で海へ出かけたためしがないことに思い当たり、"いくら何でもそれはないだろう"と、遠のく過去を改めて辿ってはみたものの、やはり思い出すのは誰かと連れだって海辺へと赴いた記憶ばかり...。

確かに父親に連れられて磯釣りに出かけた日も、町内会の行事で海水浴に行った日も、クラスメートとフェリーで島に渡りキャンプをした日も、地元の友達と県境の港町まで自転車をこいだ日も、彼女とスキューバタンクを背負って浜辺を歩いた日も、同僚とサーフィンをして波にもまれた日も、いつも誰かと一緒でした。

瀬戸内海に面した街に生まれ、幸いなことに水恐怖症とも無縁に育ち、海の美しさや楽しさを知る機会にもそれなりに恵まれてきたはずなのですが、どうやら私はこれまで、居ても立ってもいられなくなってにしろ、何となく思い立ってにしろ、1人で海へ向かわなければならなかった場面には出くわさなかったようです。

そのくせというかその代わりにというか、海でない場所にいる時、ぼんやり思い浮かべる海には大抵、人の影がありません。
少し強めの風が吹き、中くらいに荒れたその海は恐らく冬で、その白黒の光景を私は砂浜の奥まった所にある草地から眺めています。

実際、こうして思い出すのは久しぶりなのですが、たぶんあれは映画で見たいろんな海が混ざり合ってできた光景なのでしょう。
だから思い浮かべる時はいつも一緒に、キム・ノヴァクのしゃべるセリフが(日本語で)ナレーションのように流れていたのだと思います。
"迷うのはいつも1人。2人には必ず行く先があるの"

ひと気のない海辺にはどことなく冥府の入り口を思わせる不吉さが漂っていて、太陽の光が差し込む波間には生命の源そのものの輝きが感じられる。海にそんな相反する2つの顔があるとして、一度だけその両方を同時に発見した気にさせられたことがあります。

中学時代に友達と島でキャンプをした時のこと。今となってはあれが能美島だったか江田島だったか、あるいは似島だったかすら判然としないのですが、確か岸には座礁した廃船が放置されていました。

夜になって私たちは海岸に向かいました。誰かが着ている物をすべて脱ぎ捨て全裸で海に入り、全員がそれに続きます。
素っ裸の体の表面を海水がすり抜ける感触があまりに気持ちよく、ほとんど躁状態の子猿の集団のようにはしゃぐ私たち。一方で、足元に横たわる海底の暗闇に引きずり込まれる不安は片時も頭を離れませんでした。

そして恐怖と興奮がごちゃ混ぜになったまま、若干ヤケ気味に潜水した時、私たちは海中でお互いの体が緑色の光に包まれているのを見たのです。
海水を掻く私たちの手足の動きに刺激を受け、夜光虫が発光したせいでした。

海面に浮かぶ私たちをぼんやりと照らす緑色の光は、原因がプランクトンだと知っていてもなおこの世のものとは思えず、気が遠くなるほど美しく、妖しい輝きを放っていました。
そして私たちはその光を絶やさぬよう、息が切れるまで、ただひたすら水掻きを続けたのです。