vol.73 「映像翻訳者は未知の河を渡る」 by 石井清猛
1月のテーマ:未知
大晦日のカウントダウンの針が"ゼロ"を打つ瞬間に私たちの胸に沸き起こる感慨はそれこそ千差万別でしょう。明るいものから暗いものまで、軽いものから重いものまで、明晰なものから混乱したものまで様々だと思うのですが、1つ共通しているのは、それら有形無形の感慨が、どれも皆やがて祈りに似た何かに変わっていくということです。
新しい年を迎える時、たとえ拝んだり跪いたりしなくても、私たちは大抵いつも祈るような気持ちで、これから目の前にゆっくりと姿を現そうとしている未知なる時間=(1年分の)未来に思いを馳せている気がします。
何しろ仕事で忙しくて祈るなんて悠長なことは言ってられなかった、という皆さんもいらっしゃることを、もちろん忘れてるわけではありません。
特にそれが私たちの方でお願いしたお仕事のためであればなおのこと。無視するなんてできるわけがないではありませんか!
なので、ここでお話ししているのはあくまで一般論であることをご了承ください...。
さて、徐々にその姿を現しつつあるとは言え、やはり「一瞬先は闇」なのが未来というもの。そこには最も精密な統計データをもってしても分類することも理解することもかなわない不透明な部分が横たわっていて、いつまでも決して解消されることはありません。
となれば忙しい人も忙しくない人も、持つ人も持たざる人も、うまくやっている人もしくじっている人も、西洋の人も東洋の人も、結局、誰もが祈るのもそこそこに、目の前の暗闇の中へ飛び込んでいくしかないというのが、苦くとも否定しがたい現実なのではないでしょうか。
つまり"深くて暗い川がある"のは何も男と女の間に限ったことではないということです。未来と現在の間、そして未知と既知の間にも同じように深くて暗くて急な川が流れている。
そして今を生きる私たちは、一人残らず、それぞれのやり方でその川を渡っているわけです。それがどんな川だったのか、清流だったのか泥水だったのか、あるいは何本渡ったのかすら判然としないまま、夕べも今日も今この瞬間も。
「無知の知」という言葉があって、これは"私は何も知らないということを知っている"という、謙虚な姿勢とも詭弁ともつかない(笑)ある種の宣言なのですが、自分が渡った川のことをよく知らないという私たちの状況は、どちらかというと、"私は知っているということを知らない"というものに近い気がします。
だから私は、これまでに自分が渡ってきたはずのそれらの無数の川のことを思い出したくてたまりません。
見たはずなのに知らない映像のことを、聴いたはずなのに知らない音楽のことを、読んだはずなのに知らない言葉のことを、会ったはずなのに知らない人のことを、私は思い出さなくてはならない。
何だそんなことか、中学生じゃあるまいし。と思われる向きもあるでしょうが、言ってみればこれが私の新年の祈りです。
そして私にとっての映像翻訳とは、毎日の仕事の中でそんな自分の小さな"祈り"と向き合うための場に他なりません。
例えばいかにもシンプルでありふれた単語を訳出するだけなのに、ひとたびそれが具体的な映像と音声を伴った瞬間、私たちは一気に暗闇=川の中へ放り込まれてしまいます。
単語が特定の文脈の中で不透明性を帯び、翻訳者は言葉に詰まって適切な訳語を求めてさまようという事態に直面するわけです。
その時、目の前の深くて暗い川を渡り切るために新しく知らなければならないことがあったとするなら、その1つひとつは、きっと、かつて自分が渡った川のことを思い出すヒントにもなっている気がするのです。
中学校時代に英語の授業で「アンネの日記」を読んだ時、"longing"という言葉に初めて出会い、その訳語に違和感を感じたことを今もよく覚えています。
もちろん、自然な日本語の流れとかワードチョイスに問題があったといった理由からではなく、単に"long=長い"という初歩の単語と同じ綴りのくせに複雑で高尚な概念を表すことができるのは解せないといった程度のレベルの低い違和感だったのですが(笑)、今でも、あの違和感にはある種の愛着があることは確かです。
あの日記の中でアンネ・フランクが"long"していたのは、自由であり平和であり人との出会いでした。
それはまさに彼女の祈りそのものと言えます。
果たしてそんな単語を、辞書どおりに"焦がれる"とか"切に願う"とか"憧れる"といった言葉をあてることで十分に訳出できていたのか、今でもたまに考えることがあるのです。
本当にたまに、ですけどね。