5月のテーマ:光
光は闇を美しく魅せる。舞台の照明や夜にライトアップされた建物など、私は光を美しく演出したものが好きだ。松明や薪で明かりを取る野外劇場も、その幻想的な雰囲気が気に入っている。昔は特に好きではなかった夜景だが、今は妙に見とれてしまう。特にロサンゼルスのダウンタウンの夜景はお気に入りで、フリーウェイでは、ついついよそ見をしてしまいそうになる。他にも夜空に浮かぶ月、キャンドルの光など、私は暗がりに映える光がどうも好きらしい。
劇場を建設するにあたって一番重要かつ難しいのは、常に真っ暗闇を作れる空間にすることだと言う。激しく燃え輝く星も夜にならないと姿が見えないように、光を操るにはまず闇がないといけない。写真にしろ絵画にしろ、明るいだけの空間を描いたものより、陰影があるほうが作品に深みが出る。影があるからこそ、光は存在でき、際立つことができるのだ。
山の中など、大自然で夜空を見上げると、あまりの星の数の多さにビックリする。宝石をちりばめたような星空があまりに美しくて、その無数の星に吸い込まれそうになる。しかも今、私が見ている光は、宇宙の彼方で何万年も前に発せられた光だと思うと、自分が本当にちっぽけに思えてきて、妙に感傷的になったりして、いろんな思いが湧いてくる。
暗闇に行くと無数に存在する星だが、ネオンが輝く都会に星はない。正確に言えば、星はどこかに存在しているのだろうが、空を見上げてもほとんど見えない。山中から都会に近づくに連れて夜空からは星がだんだん消えて行く。普段はいろんな明かりに惑わされ、目の前にある星に気づかないことが多い。たくさんの美しい星を見逃しているという事実にすら気づかず、星がないということを嘆きながら毎日が過ぎていく。でも余計なものを取っ払って真っ暗闇に身をおくと、普段は見えない光が見える。
「いつも太陽の光に顔を向けていれば、影を見ることはない」とヘレン・ケラーは言った。もちろん、常に明るい方向だけを見ているのもいいと思う。現に私はひまわりみたいに、太陽のほうばかり見ている人間だ。でも、影にいるからこそ見える光もあるような気がする。影にいることは必ずしも悪いことではなく、これから先に光をより多く感じるために必要なことなのかもしれない。たまには不安になったり、落ち込んだりしてもいい。その分、小さな幸せに感謝できる。些細なことに喜びを見出せる。
傷つくことによって人の痛みが分かり人にやさしくなれるように、闇を知ってるからこそ、そこに差し込んだ光に感謝し、結果として周りをやさしく深く照らすことができるようになるのもしれない。光にはもちろん、それを引き立てる闇にも敏感でありたいと思う。そして、誰かが暗闇に迷い込んだら、そっとやさしくあたたかく周りを照らしてあげられる存在になりたい。
5月のテーマ:光
それが映写機からスクリーンに投影されたものであれ、コンピューターのモニター上に映し出されたものであれ、映像が錯覚と残像による"見せかけの運動"で、現実の世界を模写し複製した"コピー"であることに変わりはありません。
そして映像がそのような光のトリックによって成立する本当は存在しない幻影だとすれば、私たち映像翻訳者が日々向き合っている"映像に伴われた言葉"の扱い方が通常の言葉よりも少なからずトリッキーなものになったとしても、さほど不思議なことではないでしょう。
例えば同じ漢字や平仮名を何度も繰り返し書いたり長時間凝視したりすることで生じる認識の混乱(文字の構成パーツがバラバラになって何か別の文字や模様などに化けて見えるアレですね)はゲシュタルト崩壊と呼ばれ、知覚や心理の研究においても謎の多い現象とされています。
「そうそう。あのえも言われぬ妙な感覚を味わいたくて、たまに同じ文字をじっと見つめることがある」という人は案外多いのではないかと思いますし、かく言う私もその1人だったのですが、映像翻訳の仕事に関わるようになり、誤脱(誤字脱字)チェックがほぼ日課となった今ではそれほど悠長なことも言っていられなくなりました。
さすがに「この漢字で合ってるんだっけ?」とか「これって"ら"だよね?違う?"ち"?」とかいう激しいレベルでのゲシュタルト崩壊に毎日さらされているわけではないにしろ、チェック中に何気なく通り過ぎた字幕の文字にほのかな疑念を覚え、あわてて視線を戻す場面には割と頻繁に出くわします。
また誤脱チェックでは、"間違った文字が混入した文章であるにもかかわらず支障なく意味を了解してしまう"という「逆ゲシュタルト崩壊」ともいうべき危険な落とし穴があちこちで口を開けて待っていて、そのことがこの仕事をさらに困難に、同時に非常にやり甲斐のあるものにしていると言えなくもありません。
そういう危険な刺激に満ちあふれた仕事に明け暮れる毎日の中で、ふとした瞬間に頭をよぎるのは、私たちはこのゲシュタルト崩壊=全体性喪失の危機に、文字だけでなく文章の単位でも直面しているのかもしれないという思いです。
実際、言語的には誤りなく翻訳できているはずなのに、映像とマッチする表現を探すために何度も繰り返し同じカットを再生して見ているうちに程なくしてワードチョイスや文章構成、果てはニュアンス解釈までもが、まるっきり見当違いなのではないかと思えてきてしまい血の気が引く、という経験は皆さんも1度や2度ではなくお持ちなのではないでしょうか。
そんな時、私はよく、昔どこかで聞きかじった"Fair is foul, and foul is fair"(きれいはきたない、きたないはきれい)という一節を思い出します。
『マクベス』は未だにあらすじしか読んだことがない上にその内容の記憶すらおぼろげなのでシェークスピアがそこに込めた真意は不明ですが、どうやら私は、謎めいた響きを持つこの言葉に、勝手に勇気づけられているようです。
つまり「きれいときたないは対立する二項ではないし、価値の転倒を待っているわけでもない。そもそも、きれいときたないに区別なんてない。どっちともただの言葉だ」、だから「ゲシュタルトが崩壊したって別に大したことじゃない。そんなに気を落とすな」と、何となくそんなことを言われている気がするのです。
ここに、ランプシェードの光で照らされたある部屋の出来事を年配の男性が"In a lowly lit room, the other night..."と回想するシーンがあったとします。
そのセリフにあてる日本語は「あの夜 薄明かりの部屋で...」と「あの夜 ほの暗い部屋で...」とでは、一体どちらがふさわしいと思われますか?
どちらを選ぶにしても、その答えを導き出すために考えなければならないのは、必ずしも"明かるい"と"暗い"という言葉の意味だけではないと、皆さんにはお分かりいただけるでしょう。
そこに明るくも暗くもあり、暗くも明るくもないランプシェードの光があるなら、恐らくその光に目を凝らすことでしか、私たち映像翻訳者は、どんな答えにもたどり着くことはできないのです。
その時、その光が幻影でありコピーであることは、きっと"別に大したことじゃない"のだと思います。