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2011年5月 アーカイブ

vol.108  「自転車漕ぎと記憶力」 by 藤田奈緒


5月のテーマ:自転車

桜が咲き始めた頃、自転車に乗る機会があった。私は自転車を持っていないので、乗るのは随分と久しぶりだ。正確に言うと、小学校3年生の時にスピードの出しすぎで顔面を強打するという大惨事に見舞われて以来だから、実に20数年のブランクを経て自転車を漕ぐことになったわけである。

ふいに訪れたチャンスを前に、私は内心ちょっぴり不安だった。いい年をした大人が、バランスを崩して無様な格好をさらす羽目になるのは避けたい。期待を込めてぐいっとひと漕ぎ。すると自転車は何事もなくスムーズに前に進み出した。予想外にあっけない。どこか釈然としない気持ちのまま、公園の自転車コースを2周ほどし、休日の一大イベントは静かに幕を閉じた。

物事を記憶するには、「方法記憶」「知識記憶」「経験記憶」の3つの方法があると言う。中でも「方法記憶」(いわゆる体で覚える記憶)が一番忘れにくく、自転車はそのいい例だそうだ。体を使って習得したものは、どんなにブランクがあっても無意識に覚えていてできるものだと言われると、確かに納得がいく。そういえば数年ぶりのスキーも問題なく滑れたし、普段は車に乗っていなくても、実家に帰れば難なく車を運転できる。

ところで、最近仕事をしていて、自分の記憶力のなさにつくづく呆れることがある。辞書を引くクセがついたせいか、引いても引いてもその単語の意味が覚えられない。特定分野のシリーズ番組のチェックをしていても、気づけば毎回のように同じ調べ物をしている。シリーズなのだから、過去の調べ物を生かせそうなものだけど、すんなりと目的のページにたどり着くことができず、あっちに行ったり、こっちに行ったり、新たなルートで探し当てる羽目に陥ることがあまりに多いのだ。これらは頭で覚える「知識記憶」に当たるのだから仕方がないと、自分を納得させるしかない。

それにしても、自転車が「方法記憶」で本当に良かった。これが翻訳作業のように「知識記憶」だったら、カーブを曲がりきれずに壁に激突したり、突然チェーンががしゃんと外れたり、前に漕ぐつもりがバックしたりと、20年ぶりのサイクリングを終えた私は、顔面強打どころか全身打撲で青アザだらけになっていたに違いない。

vol.109 「ぼくの自転車のうしろで聴きなよ」 by 石井清猛


5月のテーマ:自転車

人類がかつて想像し実現しえたあらゆる移動手段の中で、エネルギー効率が最も優れているのが自転車であるという話を昔聞きかじったことがあって、昨今の地球環境悪化および電力供給不安の報道に触れるにつけ"あれは本当の話だったのだろうか"とふと思い立ってパソコンに向かい調べてみると、やはりその記憶は確かなもののようでした。(皆さんもぜひ一度検索してみてください。飛行機や電車はもとより、動物や鳥と比較しているサイトもあってちょっと笑えます)
19世紀初めに誕生して以来長い歴史を持ちながら、いまだに"未来の乗り物"であり続ける偉大なる自転車、というわけですが、自転車には一方で、乗る行為そのものを楽しむことができるという"遊び道具"としての一面もあり、バイクやボートをはじめとしたあまたの乗り物遊びと比べても議論の余地なく安価で身近なサイクリングはある意味、乗り物レクリエーションの王様と呼んでも差し支えないように思えます。

体の延長としての車体を比較的容易にコントロールできる安心感、ペダルを回すごとにゆっくりとあるいは急速に増していく加速感、そして左右の足を交互に踏み込むことで生まれる躍動感は、日常的にはほとんど意識しないものの、自転車に乗るという体験を他と隔てて特別なものにしていると言えるでしょう。つまり自転車においては目的地に移動するという行為そのものに、体と心を解放する契機が含まれているわけです。

電車通勤を"電車の旅"または自動車通勤を"ドライブ"と思っている人はそれほど多くなさそうですが、最寄駅までの自転車通勤を"サイクリング"と考えている人は結構いるのでは、という気がするのも自転車に乗る時のそんな身体感覚と関係あるのかもしれません。実際の話、駅から自転車で10分ちょっとの所に住んでいた頃、私はただそれだけで履歴書の趣味欄に"サイクリング"と書いて提出したことがあります。他に書くことがなかったという悲しい理由も一部あったのですが...。

とはいえ、駅から自転車で10分ちょっとの所から歩いて10分の所に引っ越した今、自転車に乗る機会が随分減っているのが私の生活の現状です。幸いなことにそのせいでストレスがたまって仕方がないという段階ではないのですが、それでも時折、自転車に乗るあの感覚が恋しくなることがあります。

駅から自転車で10分ちょっとの自宅から出発して途中緩やかに下る坂に差し掛かり、やがて徐々にスピードが上がっていく時の疾走感。大学に通学中、調布飛行場の脇にあったサビだらけの巨大な倉庫から、開けた空の下に広がる団地群、水辺に鬱蒼と茂る緑と、刻々と変わっていく風景が視界を横切る爽快感。そして郊外の小高い丘の上にある高校へ自転車を20分以上こいで向かう間、お気に入りのアルバムの1曲目から順番にうろ覚えの歌詞のまま構わず歌い続ける高揚感。そういった自転車体験は、今では離れて久しくなってしまいました。

ノスタルジーついでにもう1つ、自転車体験で忘れてはならないのが二人乗りです。
今では安全性の観点からオフィシャルに"禁じられた遊び"となってしまいましたが、皆さんもきっと家族や友人や恋人を乗せた(に乗せられた)二人乗りの忘れられない思い出があることでしょう。
北野武の『キッズリタ―ン』であまりに美しくあまりに映画的な1シーンとしてフィルムに収められていたのを筆頭に、映画やドラマや歌に登場することも少なくない二人乗りには、しかし、単なる郷愁として片付けることのできない何かがある気がします。

もともと効率のいいところに2名を運ぶことでエネルギーをさらに有効活用できる乗り方であるだけにとどまらず(でも危険なのでやめましょう)、前後に至近距離で座ることから会話や接触の機会となる上にバランスを取るために協力し合う必要があることから、ある種のコミュニケーションの場としても機能する二人乗り。

二人乗りをした体験が私たちの記憶の中で特別な場所を占めているとするならば、それはただの懐かしい思い出としてだけでなく、現在の私たち(の心の一部)を支える大切な何かとして体に刻まれているからではないか、と思ったりするのはちょっと大げさでしょうか。