vol.120 「遥かなる(文字の)影」 by 石井清猛
10月のテーマ:憧れ
曲りなりにも翻訳の仕事に携わって丸5年を数え、言葉を扱う者の端くれとして日頃から文字について思いを巡らせる機会も少なくないとはいえ、自分がテロップに対してある意味フェティッシュな関心を寄せていると自覚することなど、ごく最近までは想像だにしなかったことでした。
ある時はナレーションの代わりとして。ある時は画面デザインの一部として。ある時は情報を補足するため。またある時はメッセージを届けるため。
映像をさえぎりながら画面に挿入されるそれらのテキストは、特定の意図を背景に、特定のタイミングと、特定の大きさや色や形で私たちの視界に現れます。
映画やテレビである種のテキストが映像にオーバーラップ/カットインする瞬間に、気分が高揚したり心臓の鼓動が速まるのを感じたことがあるのは私だけではないという前提で話を続けますが、テロップに喚起されるこういった感情の変化には、言葉が持つ魔力について考えるためのヒントが隠されているという気がしてなりません。
カリグラフィーやタイポグラフィーといった、文字の形状や意匠そのものに図像性や象徴性を読み取る表現方法があるように、メディア(媒介)としての文字が持つ影響力が"情報の伝達"の範囲を超えていることは明らかで、誰かがどこかでふと「言霊」という言葉を思いついたとしてもそれほど的外れな発想ではないことはすぐに納得できるでしょう。
ただ私がテロップに寄せている(ある意味フェティッシュな)関心は、そのような文字の図像性に対してというよりは、どちらかというと映像に文字が差し挟まれること自体の「快感」に向けられているようです。
文字=言葉が意味やデザイン性を帯びながら一定のタイミングで画面に現れ、そして消える時、「言葉の魔力」は私たちに何を見せようとしているのでしょうか。
チャールズ・チャップリンのサイレント映画の画面いっぱいに広がったフレームつきの字幕や、ジャン=リュック・ゴダールがスクリーン上に点滅させる原色のアルファベット、ボブ・ディランが曲に合わせて1枚ずつめくっていく画用紙に書かれた文字、あるいは松江哲明がカット替わりの激しい画面に幾度となく挿入するテロップ。
画面に現れては消えるそれらのテロップ=文字が持つ不思議な力に触れることで、映像と言葉の世界に対する私の憧れは生まれ、大きくなっていったのかもしれません。
まったく、私にとって映像翻訳が「映像の翻訳」であるだけでなく、同時に「翻訳(=文字)の映像」でもあることに思い当たることなど、ごく最近までは想像だにしなかったことでしたよ。
※FOX bs238で放映されている「アメリカズ・ネクスト・トップ・モデル シーズン8」のデコレーション字幕は、文字の図像性と字幕を結びつけた、驚きの"翻訳エンターテイメント"です。必見!