vol.124 「嘘の共有」 by 相原拓
12月のテーマ:プレゼント
僕はいまだにサンタクロースを信じている。正確にいうと、サンタクロースという名の嘘を信じている。もちろん、ぽっちゃり体型の髭おじさんが、フィンランドで自ら大量生産している手作りおもちゃを、12月24日の夜にトナカイが引く空飛ぶソリに乗って世界中の子供たちにプレゼントする、なんていう物理的に不可能な設定を信じているわけではない。それでも信じるというのは、嘘でありながらも世界中の人々を楽しませるエンターテイナーとしては、サンタは紛れもなくリアルだからだ。
初めてサンタにもらったプレゼントは当時大流行したファミコンだった。その数年後、サンタの実態を知り、早くも夢は壊れる。プレゼントをもらうたびに「いつまで続けるのかなあ、このウソ」と、親を小馬鹿にするように心の中でつぶやくクリスマスが続いた。しかし高校生になったころにサンタは僕の中で再び蘇る。今思えば当然だが、親はそもそも本気だったわけではない。サンタからのプレゼントは、単にクリスマスを盛り上げて子供を喜ばせるための親なりの演出、親なりの努力だった。その事実を受け入れた瞬間、「ウソだけど楽しいならいいじゃん」と思うようになり、サンタは親と共有できる嘘、つまりエンターテインメントとして蘇ったのだ。
季節にちなんでサンタクロースを例に挙げたが、エンターテインメントと呼ばれるものはすべてそういった「嘘の共有」から生まれる。僕が尊敬するお笑い芸人のダイノジ大谷ノブ彦さんはそう言う。とあるイベントで大谷さんはアイドルのすごさにについてこう語っている。
「つまりアイドルっていうのは、ここの舞台に立っている芸人も一緒ですよ、要するにウソなんですよね、ウソの共有なんです、例えば面白ければいいわけでしょ?みんなも話が、それがホントであろうがウソであろうが、笑えたらいいわけじゃないですか、その笑えた瞬間、みんなは生きていけるわけでしょ?次の日も」
なるほど、嘘でもいいのか。むしろ嘘だからいいのか。サンタと同じだ。それまでアイドルというものを毛嫌いしてきた僕にとって衝撃の言葉だった。それからというもの、アイドルだけでなく、エンタメ全般に対して考え方が大きく変わった。
映画やドラマ、漫才、落語、どれをとっても作り手と受け手が嘘を共有できるから成り立っている。作り話だと承知のうえで我々はその架空の世界に引き込まれ、映画を観て感動したり、漫才を聞いて笑ったりするのではないないだろうか。すばらしいことだと思う。映像翻訳者というのは、こういった嘘の共有を可能にする。だから僕はこの仕事が好きだし、いい歳してサンタクロースを信じているなどと言える理由はそこにある。サンタこそが、究極の嘘が生みだす究極のエンターテインメントだからだ。
※余談だが、アメリカではクリスマスプレゼントを返品する風習があることを皆さんはご存じだろうか。日本の年賀状に似たような義理が伴うため、季節になると親戚や友人、同僚のために大量のプレゼントを一気に買い求める。相手が何が欲しいかなど考える余裕もないほどの大ラッシュになるため、気に入らなければ返品できるよう、プレゼントはレシート付きで贈られることが多い。事実、クリスマスの翌日には全国のモールに行列ができるほど大量のプレゼント(サンタからのも含め)が返品されるのだ。非常に合理的ではあるが、全くもって夢のないこの風習はいかがなものかと思う(笑)。