発見!今週のキラリ☆

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2012年10月 アーカイブ

vol.145 「郷愁の共有」 by 相原拓


10月のテーマ:郷愁

ここ数年、テレビでよく目にするビールのCMシリーズがある。どれも、妻役の某女優が仕事帰りの夫と二人で晩酌を楽しむワンシーン。ただ夫役はおらず、彼女が終始カメラ目線で夫(視聴者)に話しかけるという演出になっている。時には下唇を噛んで上目遣いをしてみたり、時には子供のようにはしゃいでみたり。そんな彼女の愛おしい姿を見た男性はいい気分になってこのビールが買いたくなる、というのが狙いなのだろう。だが何度見ても僕の心には全く響かず、それどころか、この世で最も苦手なCMだと言っても過言ではない。

ひとつの商品のCMがなぜここまで鼻につくのか自分でもよく分からない。商品自体はむしろ好きなほうだ。もっとも、設定からするとターゲットは30代の独身男性とは言い難い。仮にターゲットだったとしても無視すればいいだけの話である。しかし周りに聞くと同意見の人もいるので、僕だけが例外ということではないらしい。世間的にはどう受け入れられているのだろう。

作家の山下柚実氏がこのCMを解説している記事で次のようなコメントを紹介している。
「毎回、妻役の女優が夫の帰りを笑顔で待っているという内容ですが、見ていて違和感を持ちます。気楽で甘えたような妻の姿に、イラつきさえ覚えます。最近は、夫の収入だけで生計を立てている家庭は少数派だと思います」
これは実際に東京新聞(2010年1月12日付)に投稿された40代女性の声だという。

なんと痛快! 僕の中のモヤモヤはこういう感情だったのか。

これでひとまずスッキリしたが、調べていくうちに予想外の情報を見つけてしまった。この商品を製造・販売する会社の社長インタビューを含む記事によると、
「スーパーでビール類を買っていくのは主婦である。家で飲むのは男性だが、購入は女性。この真理を○○のCMは突いている。『主婦が○○を買って、家で夫の帰りを待っている』というコンセプトが明快だ」

ターゲットは女性!? まあ、そう言われてみればそうかもしれないが、ダメではないか。売り手と(想定された)買い手の意見が完全に食い違っている。

それでもヒット商品であり続ける現状について山下氏はこう続ける。
「女が外で働くことが当たり前になった今、『待ってるー』と甘えた口調で叫ぶ『昔の女』像は、男たちの郷愁を呼ぶ。一方で、今を生きる女たちの反発を生む。それは言わば、両刃の剣でもあった。○○の強烈な懐古主義に対する、ある種の反発。それはCMのインパクトがそれだけ強烈だったことを物語る。その意味では広告としては"大成功"だったわけだ」

元の対象は主婦だったが、結果的に中年男性の心を奪った。そのカギとなったのが郷愁の共有。どの時代でも同世代・同人種にしか共有できないノスタルジーというのが必ずある。共に聴いた懐メロだったり、共に経験した歴史的出来事の思い出だったり、形はともかく、そのストライクゾーンにハマればターゲットの心に響き、購買意欲をくすぐる。売り手の意図とは裏腹に一部の女性の反感を買う一方で、このCMが描くノスタルジーに誘惑された日本中の中年男たちは、大量のビールを消費しているに違いない。

結論として、既婚の中年男性でも主婦でもない僕はやはり対象外だったようだ。ただ、それを知ったところでこのCMが引き起こす拒絶反応はどうしようもない。また厄介なことに、このバーチャル妻は街の至る所にいるので、どんなに避けようとしても目に入ってしまう。流れるCMは無視できたとしても、通勤電車の中吊りポスターを未だに飾っているし、会社近辺ではコンビニの上に立ちはだかる巨大なビルボード公告までをも飾っているのだ。せめて発散できればとの思いでこの場を借りて吐いてはみたものの、もはや僕には逃げ場はないのかもしれない。トホホ...

vol.146 「愁いホルモンのローカライズ」 by 杉田洋子


10月のテーマ:郷愁

最近、記憶力の低下も手伝ってか、
郷愁を覚える対象が近い過去になっているように感じる。
上京して間もないころは、夕暮れ時、
路地にただよう夕飯のにおいに実家を思い出し、
感傷にひたったりしたものだ。

しかし東京に来て12年が経った今、
実家に帰って感じるのは、懐かしさというよりは新鮮味である。
父が日曜大工でこしらえたものや、食器や家具の配置が変わっていたり、
古くなった家電が買い換えられていたり...。
親や兄弟との距離感も少しずつ変わってきたように思う。
家族には変わりないが、久しぶりに会うので、少し照れ臭い。
変わらないのはカメだけである。

言葉通りの郷愁は、故郷や実際に体験した過去に対して馳せる思いだろうけれど、
似た類の言葉に、哀愁とか切なさとか恋しさとかいうのがある。
それは少し物悲しくて、胸がキュウっとなるような思いだ。
そしてそんな現象は、日常においてわりと頻繁に起きている気がする。
普段、こうした精神状態を招くのは、夕日だったり、枯葉だったり、
アコーディオンやオルゴールの音色だったり...。
特に個人的に特別な思い入れはないものが多い。
それが醸し出す雰囲気が直接胸に作用しているような感じだ。
あるいは刷り込みによる私たちの思い込みかも知れない。
どこか懐かしいような気持になるが、"懐かしい"という言葉で表現するのも
語弊があるだろう。
現にそれらは、ノスタルジックな旋律とか、哀愁を帯びたメロディーなどという言葉で
形容されたりする。

でも、原因はさまざまに分類できても、
このキュウっとなるようなものに触れたとき、
実際に私たちの胸や頭の中で起きている現象は、
きっと同じなのではないだろうか。
愁いを引き起こすような、同じホルモンが分泌されている、みたいな。

それを例えば日本語では細かく分類し、さまざまな言葉を当てている。
しかし別の国の言葉では、1つの単語がすべての愁いホルモンを
内包している場合もあるだろう。
そんなときは、翻訳するにも言葉選びに一苦労だ。
どの言葉をあてるかによって、第三者の印象は変わってくる。
相手の感情やら、状況やらを推し量りながら、しっくりとくるものを探す。

...結局、最終的にこういう話に行きついてしまうのだから、
私がおばあさんになったころには、辞書やパソコンを見て、
郷愁の念を抱くのかもしれない。

郷愁とはまるで無縁のようなモノたちだけど。