発見!今週のキラリ☆

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2012年11月 アーカイブ

vol.147 「"Blessing(祝福)"の力」 by 吉木英里子


11月のテーマ:幸福

"幸福"...なんとも頼りない響きである。むしろどこかイラッとしてしまう。
この響きに無意識のうちにどこか漠然とした期待をもってしまうからだろう。裏切られる感じというか、失望がつきまとってしまう。思春期を迎えた頃の私は、重い病気にかかったり、事件に巻き込まれたりする人々の姿を見て、"幸福"の見出し方が分からなくなっていた。確かに、人生には理屈で理解できない不公平なできごとがつきものだ。いわゆる"悲劇"の中からどのように"幸福"を見出せばいいのだろう。。。こんな思いが悩みとなっていた時、留学先のアメリカの大学で友人から教えられたある言葉は、今でも私の道の光、歩みを照らす灯になっている。

それは、 "Blessing(祝福)"。この言葉は、人の人生を変える。Blessing(祝福)とは、神から与えられる恩恵のこと。それは包括的に色々な意味を持つが、人知を超える無条件の愛と許しを受けることでもある。幸福は地上での報いを受けることだと思うが、祝福とは、天に報いを積むことだ。たとえ誰にも知られず、理解されていなくても、神はどんな些細な事でも見ていて必ず最善をなしてくださる。欧米ではよく聞く言葉ではあるが、このような死後の世界も含めた信仰と人生観があるからこそ、この言葉の重みや真意に、人を変える力が帯びるのだろう。

今年で、当時13歳だった横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されてから35年の月日が経った。両親の滋さん(79)と早紀江さん(76)が、これまでに全国47都道府県すべてに訪問して行った後援会活動は1300回を超えているという。わが子の幸福を願う両親にとって、この"悲劇"をどうとらえているのか。期待と失望の繰り返しの年月に耐え、いかにして希望を失わずにいられるのか。。。そんな想いである講演会に行った際、早紀江さんからこんな話を聞いた。

ある日突然消息不明となった娘を想い、悲しみと絶望のどん底で来る日も来る日も泣き続けていた早紀江さんに、世間の人が訪ねてきては「それは因果応報ですよ」と言ったそうだ。深く傷つき罪悪感と怒りに潰されそうになる中、同学年の子供をもつ母親が何も語らず聖書を置いて行った。そこである一節が目に留まる。それは生まれつき目が見えない人を前に、イエスの弟子たちがその理由をイエスに尋ねた箇所だった。『先生、この人の目が不自由なのは一体誰のせいですか。本人が悪いことをしたせいですか、あるいは家族の誰かが、先祖が悪いことをしたからでしょうか』そこでイエスは答えました。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。ただ神のみわざがこの人に現れるためです。』(ヨハネ9章:2-3)」この短い一節で、大きな励ましを受け、生き方が変えられていったという。
母親として、めぐみさんの"祝福"を願うようにと変えられたのだろう。手記『めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる』(草思社)ではこう語っている。「誰でもいつかは死にます。小さな者で、一粒ですが、そこから後世の平和のために役立つ、めぐみはそのような人生であったと受け止めます。そこから平和について多くのことを考えなければならない」。苦しみと絶望の日々から這い上がり、このような力強い人生観を持つに至った早紀江さん。今年発売された著書、『めぐみと私の35年(新潮社)』の中で、「どんなに時間がかかっても、最善の時を選ばれる。それが私たちの神であり、希望なのです」と述べている。すべてを神に委ねつつも、懸命に希望をつないでいる姿には、なにか背負った者の覚悟や使命感ともいえる力を感じさせる。
"Blessing(祝福)"を信じることは、いわゆる"悲劇"の中にいる人でも、今ある幸福を見出すための希望だ。そしてはじめて、不公平ともいえる人生の試練を負う様々な立場の人が"幸福"を共有できるのではないかと私は信じている。拉致被害者ご家族の象徴的な姿は、日本に課された"平和"についての問いかけを一身に背負い、人生をかけて応えているように見えた。まずは、何十年もかけて絞り出された言葉を受け止め、この問いかけを共有すべきだろう。早紀江さんも見出した"祝福"は、また誰かの人生を変えるかもしれない。
拉致問題の早期解決を願い、被害者ご家族の方々への祝福を日々祈りたいと思う。

vol.148 「幸福の味」 by 藤田庸司


11月のテーマ:幸福

先日、雑誌の取材を受けた。テーマは"チーム翻訳"。1年ほど前から続いている大規模なドラマ翻訳プロジェクトの話を軸に、私と翻訳者3名(プロジェクトにおけるチームリーダーの方々)との座談会形式で進められた。
メディア・トランスレーション・センターでは、長尺の映像や大量の素材を短期で納品する場合、当たり前のように取り入れているチーム翻訳だが、一般的には"翻訳作業×チーム形態"が簡単には結びつかないらしく、しばしば興味深いという声を聞く。たしかに、翻訳という作業は、書斎に籠って辞書を広げ、コツコツと英文を分析し原稿を書いていくといった、個人で行う仕事というイメージが強い。

しかし、昨今のインターネット普及に代表される通信媒体、通信網の発達、高速化、それに伴う視聴者の欲求を満たすとなると、一人でコツコツ作業する従来のスタイルでは、目まぐるしく変わる時代の流れについていけない。「現地でオンエアされた番組を早く観たい!」、クライアント、いや視聴者のローカライズスピードに対する要求は量のいかんに問わず、限りなくリアルタイム、同時通訳ならぬ同時翻訳に近づく勢いで強まってきている。チーム翻訳は、そうした視聴者のニーズに応えるべく必然的に生まれ、今後もさらに発展し、有用化される作業スタイルだと思っている。

チーム翻訳作業は1つの案件に対してリーダーを立て、翻訳者同士のチェック作業を織り交ぜながら原稿完成を目指す。特記したいのは、単に素材を数名の翻訳者でシェアし、個別に上がってきた原稿を統合するだけでは、完成原稿のクオリティは確実に下がるということだ。作業スピードを上げながらも確かなクオリティをキープするには、それなりのメソッドがあり、これまで多くの試行錯誤を繰り返してきた。特に大きなプロジェクトが始動する時には必ずと言っていいほど、素材到着の遅れ、作業スケジュールの変更、翻訳担当者の交代、書式変更など、いくつもの障害が降りかかる。時には無理強いだと感じつつも、翻訳者に頑張ってもらわないといけない場面や、個々のキャパシティを踏まえたうえで、クライアントに納期の交渉をしなければならない場面も出てくる。この方法でいいのか?悪いのか?戸惑いながらも経験から得た感覚を信じ、原稿納品を目指して進めるのだ。

取材を受けている最中、1年前、プロジェクト始動時に行ったキックオフミーティングを思い出した。「ドラマ1タイトル(3シーズン)=全48話を40日で完納します!!」。私の組んだ強行スケジュールにミーティングの場が静まり返ったのを覚えている。メンバーの顔には"無理"と書いてあったが、私にはこの方たちとなら出来るという確信があった。個々の技術と仕事に対する姿勢を把握したうえでの自信だった。結果はクライアントに満足いただけたのみならず、視聴者からも字幕の出来に対するお褒めの言葉をいただいた。3名の翻訳者さんは当時を振り返り、口々に「死にそうな思いで頑張った」とやや苦い表情で語ったが、続けて「苦しかったが、そうした経験があったからこそ今の自分がある」、「苦しい中にも、一つの作品をみんなで仕上げる団結力、結束力には心地良さを感じた」と切実に語ってくれた。そうした言葉に秘められた彼らの思いや仕事に対する姿勢こそ、私の自信の裏づけだった。インタビューの中で私はプロジェクトメンバーを戦友と呼ばせてもらった。オーバーな気もするが、共に苦境を乗り越えることで、絆というか、信頼関係は生まれるものであり、共に困難を乗り越えた者だけが同等の幸福を味わうことができる。そして、もしその幸福を私のみならず、メンバー全員が味わえなければ、チーム翻訳は成立したとは言えないだろう。