vol.165「大海を泳ぎ進む魚」 by藤田奈緒
8月のテーマ:魚
めっきり魚ばかり好む年頃になった。行きつけの魚屋さんで友人と落ち合う約束をしていた仕事帰りの夜、少し早く着いたのでカウンターで1人待っていると、ケースの中の魚と目が合った。そこのお店のカウンターには大きなガラスのケースがあり、魚の顔がこっちを向いていることはよくあることだ。でもこの日はいつもと少し様子が違った。その金目鯛の目は未だかつて見たことがないほど濁っていたのだ。
内心ぎょっとしながら、私は目を濁らせて横たわる目の前の魚とは対照的な、ある女性のことを思い出していた。香港に住むその女性は私の友人の母親。初めて会ったのは12年ほど前、友人を訪ねて香港に一人旅した時のことだった。白い歯が光る大きな笑顔が印象的な彼女は、それまで会ったこともない外国人の私を快く家に招き入れ、宿を提供してくれた。以来、会うのは数年に1度のペースだが、会うたび、彼女はある種のインスピレーションを私に与えてくれる。
体を動かすことが大好きで、ジムのプールで泳ぐのが日課。若い仲間に交じってダイビングに出かけるのが趣味。とにかく超アクティブな彼女は、驚くほどオープンマインドでものの考え方もスーパーポジティブだ。
数ある言葉の中でも特に記憶に残っているのは、初めて会った時に彼女が言ってくれた「Take risks」という言葉。当時私は大学を卒業して損害保険の会社に勤め始めたものの、やはり映像翻訳への夢を捨てきれず、どのタイミングで方向転換すべきかを迷っていた。そんな私に向かって彼女は言った。「やりたいことがあるなら突き進みなさい。それが正しい道よ。Take risks!」と。
背中をぐんっと後押しされた気がした。試してみたものの、案の定馴染めなかった普通の会社へのちょっぴりの未練(正確には、社会経験がないままフリーの翻訳者を目指して人として大丈夫かしら...という心配)は、その瞬間、あっさりと捨て去ることができた。その後、私が選んだ道は皆さんもご存知のとおり。日本映像翻訳アカデミーに1年通ったあと、トライアルに合格し念願の映像翻訳者に。その後、縁あってディレクターとして勤めることになった。かれこれ10年前の話だ。
数日前、彼女から連絡があった。「NAO、聞いて! 最近、バドミントンのシニアの部で準優勝したの。しかもドラゴンボートの2つの試合で優勝したのよ。年寄りにしてはやると思わない?」 パソコンの向こうで目を生き生きと輝かせている彼女の笑顔が目に浮かぶようだった。
秋に私は久々に香港を訪ねる。香港の母はそれまでに更なる進化を遂げているのだろうか。ジムのプールから海へと飛び出した彼女は、今度はどこまで泳ぎ進んでいるのだろう。今から話を聞くのが楽しみでならない。