鑑賞会で観た映画「ノエル」に、かつて自らの身勝手な行動が原因で、イヴの夜に妻を交通事故で亡くした老人が登場します。ニューヨーク市警の若い警官(男)をなぜか妻の生まれ変わりだと思い込んだ彼は、周囲から狂人扱いされます。雪の中に倒れ込んだ老人をしかたなく病院に担ぎ込んだ警官は、老人の息子からはじめて事実を告げられました。
(翻って自分はどうか)――警官は、同じように身勝手な行動によって大切な婚約者を失いかけている自分の姿を重ねます。このままではきっと来年もその次の年も、同じ苦しみを味わうであろう老人を救うことはできないか?自分にできることは何か?警官はベッドに横たわる老人の手をそっと握って、こう言いました。
「私(妻)は、あなたを許します」
皆さんの2005年はどんな年でしたか?私はと言えば、頭を過ぎるのは失敗した自分、怠けた自分、嘘をついた自分、そして思い通りにならなかったあの人、迷惑をかけられた(と思っている)あの人、自分を嫌っている(と思っている)あの人...。ため息とともに「今年は最悪だったよ」という言葉が口から出てきそうになります。
でも、実際のところは「今年はかけがえのない、いい年だった!」と、自信を持って言えます。なぜかというと、心に備わっているある"ろ過装置"を、今、フル稼働させているからです。
記憶など、しょせんはできそこないのこの頭に貼りついた、不確かな情報に過ぎない。大晦日に何を食おうか、姪のお年玉のぽち袋のデザインは何がいいか、同じ時間に3つのチャンネルでやるお笑い特番をどう録画するか、そんな一大事でいっぱいいっぱいの脳細胞に、どうこう騒いでもどうにもならないことを収納するスペースなどもはやない。まかり間違って収納したとしても、あれもやりたいこれもやりたい2006年に、ちまちまと引っ張り出して感傷に浸っているほど暇でもない。
悪い記憶は今年のうちにろ過装置を通してしまいます。第一の機能は「忘れること」。覚えていて得をしたという、恨みつらみや自己嫌悪って、これまでの人生でありましたか? 今年ほんとうに学んだこと、反省し活かすべきことは、意識しなくても頭の適所に収まっているはず。人の体とは、そういう風になっている(と思う)。早いとこ忘れて下さい。
それでも頭を離れない悪い記憶は、第二の機能「肯定すること」で片付けて下さい。私はこれが得意です。信念を持ってやったことは結果が悪くても、肯定する。理屈で考えなくても、大概のことは「おかげで成長した」と思えばいいんです。(自分を否定した憎っくきアイツ、ありがとう。おかげで成長できちゃったよ)って具合に。思い出す度に「ムカッ」、「ズキッ」とするのではなく、相手の顔を思い描いて、心の中で「ありがとう!」と繰り返して下さい。そのうち忘れますから。
それでもなお残る手ごわい相手をどうするか――。もちろん私にもそういう記憶があります。恐らく一生引きずるかもしれないという、心の痛みと恐怖...。癒えない傷として、胸に刻み付けられるかどうかの瀬戸際で、私の中のろ過装置の、最後の機能が動き出します。
「ワタシハ、アナタ(ワタシ)ヲ、ユルシマス」
「ノエル」では警官の一言で、老人は過去の呪縛から解放されました。しかし、警官は神でもなければ、懺悔に耳を傾ける神父ではない。そう、「許します」の一言は、自分自身を救うために向けられた言葉だったのです。
映像作品が持つほんとうの価値を発見し、広く世の中に伝える使命を担った映像翻訳者の心眼は、常に澄んでいなければならないと、私は思います。
皆さんにはぜひそうあってほしいと願っています。すっきりした気持ちで、2006年を過ごして下さい!(了)