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ジャン・スティーブンソンの涙 ~スポーツを巡る選手と観客の関係~

アテネ五輪は日本人選手の大活躍の余韻を残したまま終演を迎えました。様々な話題がありましたが、今回は特に「選手と観客の関係」がよく見えた大会だった気がします。自国を応援する大歓声、その反対のブーイング、不当な判定に怒り狂う選手の家族(レスリング日本チームの、あの親子です)、路上に飛び出してマラソンランナーに抱きついてしまった人...。一つ一つの出来事に、観客の数だけの喜びと落胆、選手への尊敬や怒りが現れていました。

スポーツ・イベントを政治的な論争にすり替えてナショナリズムを煽ったり、国民性の優劣の問題に置き換えて語るのが大好きな人たちがいます。私はそんな考え方に大反対です。グラウンド、スタジアム、リング...自らの技を極限まで磨き上げ、自らの力だけを頼りに闘いの場に立つ選手たち。彼らの営みは、観る側の身勝手な解釈を超越したところで、素晴らしい輝きを放っているのだと思うのです。しかし、観る側の身勝手さは、時としてスポーツを卑しめ、選手の心に大きな傷を残すことさえあります。

米国の女子プロゴルフ・ツアーを中心に長らく活躍しているジャン・スティーブンソン(豪州)というベテラン選手がいます。数々の実績を残している大物ゴルファーです。しかし最近、米国のプロ・ツアーで台湾や韓国などアジア圏の選手が活躍している状況に対して、「アジアの選手が米国ツアーに参加するのは歓迎できない。なぜならマナーがなっていないし、ツアーに良い影響を与えていない」といった主旨の発言をして、各方面から「人種差別的だ」と弾劾されています。日本でもその発言は報道され、ネット上などでは「とんでもない発言」、「白人優位主義者だ」などとバッシングされていました。
しかし、私は彼女への批判を素直に受け入れられないのです。

その理由は、20年以上前に遡ります。1980年代前半、私は高校、大学時代を通じて、テレビでゴルフ中継を観戦するのが好きでした。他のプロスポーツに比べて、世界の一流選手が日本のツアーに参戦することが多かったからです。日本経済がバブル前夜の好景気にあり、賞金額が高騰していたことなどが理由だったようですが、それはともかく、世界トップレベルのプレーを生中継で味わえること、そしてその中に岡本綾子(現在は解説者兼プレーヤー)という日本人選手が、世界のトップと肩を並べて活躍していたことに、静かな興奮と感動を覚えていました。

1981年、私が高校3年生の春、ジャン・スティーブンソンは日本女子ツアーのあるトーナメントに参戦し、見事なプレーを披露していました。彼女は世界のトッププロらしく、冷静なプレーを続けて日本人選手に競り勝とうとしていました。しかし、最終ホールでウイニング・パットを決めた瞬間、ギャラリー(観衆)たちから、「あ~あ」という落胆の声が上がったのです。そしてまばらな拍手...。ジャンは気丈に優勝トロフィーを受け取っていましたが、テレビのインタビューでマイクを向けられた時、目頭を押さえながらこう答えました。

「私はこうして優勝したけれども、日本の皆さんに喜んでもらえなくて、悲しいです」

王者にふさわしい喜びの表情はそこにはなく、ジャンの頬をつたったのは、悲しみと失望の涙でした。ジャンの素晴らしいプレーとそれに立ち向かう日本人プレーヤーのチャレンジにただただ感動していた私の心に、その光景は小さな傷を残しました。

その3年後の1984年の秋。広島で行われたマツダクラシックは、全米女子ツアーの公式戦に指定されており、岡本綾子、再び来日したジャン・スティーブンソン、ベッツィ・キングの三つ巴の賞金女王争いに決着がつくという、世界のゴルフファンが注目する大会となりました。日本のマスコミ、いやスポーツに関心のあるすべての人が、岡本の快挙達成に大きな期待を抱いていました。会場にはギャラリーが溢れ、日本のゴルフ史上にかつてない、一種異様な雰囲気だったといいます。
最終日、勝負を分ける重要なホールのグリーン上で、ジャンがパー・パットを外しました。その時です。岡本を応援する一人のギャラリーが、ジャンに向かってこう叫びました。

「ナイスボギー!」

紳士淑女のスポーツといわれるゴルフ競技で、この一言がいかに情けなくひどいものか、そして選手の心をずたずたに引き裂く言葉であるか、想像がつくでしょうか。ジャンは怒りの表情をあらわにして、声の主の方に歩み寄りかけましたが、それより早く反応したのは岡本でした。岡本は目に涙を浮かべながらギャラリーに向かって、「何でそんなことをいうんですか!私たちは一生懸命プレーしているんです。そんなこと言われたらやってる意味がない...」と叫びました。そしてグリーン上でしゃくりあげて泣き出したのです。その時岡本は、(なんで私はこんなところでゴルフをやらなければならないのだろう)と思ったそうです。
もちろん、一番悔しかったのはジャンであったはずですが、涙と怒りでプレーを続けられないでいる岡本にそっと歩み寄って、やさしく肩に手をかけながら「時間をかけていいから、落ち着いてゆっくりやりなよ」と語りかけたそうです。岡本は、(私と同じ日本人が傷つけたオーストラリア人に、私がこうして慰められている)と感じたと後に語っています。
この出来事で、ジャンや岡本と同様に、私の心の傷も少し広がりました。

私はジャンに対する日本人の観衆の行為を「日本人はマナーがなってなくて、しょうがない...」などという、単純で薄っぺらな論旨に置き換えるつもりはありません。これは人種や国民性なんて関係ない、アスリートとそれを観る人の間だけに生じる'特別な関係'に関わる問題だと思うからです。
中国で先ごろ開催されたサッカーのアジアカップでは、地元観衆の日本チームに対するバッシングが問題になりました。確かに悲しく腹立たしい出来事です。しかし、つい20年前、ジャン・スティーブンソンに対して日本のギャラリーがとった行為と、何が違うのでしょうか。この中国での出来事に対してテレビのインタビューに、「未開の民のやることは...」などと答えた政治家がいます。こうした軽率で無知な発言こそが、スポーツの崇高な美しさと、良き観客が育つ風土を台無しにしているのだと、なぜ気がつかないのでしょうか。

自分が傷ついた瞬間にも、ライバルの日本人選手、岡本綾子にやさしく声をかけたジャン・スティーブンソン。彼女が'アジア・アレルギー'にかかっているとしたら、そうなるきっかけは何だったのか。ただひたむきに最高のプレーを披露しようと努めるアスリートたちの行為を卑しめてしまう'観客'とは何者なのか。

極論すれば、最高のアスリートの最高のパフォーマンスとは、観られることや応援されることとは無縁の世界にあるのだと、私は思います。観客には、それらのパフォーマンスから感動や喜びを与えてもらう権利はあるでしょう。しかし、それらを卑しめる権利があるとは、私にはどうしても思えないのです。

ジャンや岡本が流したような涙を、私たちは二度と見たくない。好きな選手、自国の選手を応援するのは素晴らしいことですが、対戦相手や敗者に対する尊敬も、同じくらいに大切なものではないでしょうか。
私は、たとえそれがテレビ観戦であっても、心のどこかで「観る者の責任」を意識しようと努めています。(了)

参照:毎日新聞朝刊:連載記事「ゴルフが好き」(1998年)