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重力に抗う

地球の重力に心まで引かれた者と解放された者。人間をそんなふうに2つに分けた世界観を『機動戦士ガンダム』シリーズで示したのは、アニメ原作者の富野由悠季だ。未来に起きる壮絶な戦闘は、国や肌の色、貧富や政治思想の差異ではなく、"心のありどころ"の違いが要因で生じるという衝撃的な内容である。

真の同志は表面上の敵軍にいるかもしれないし、自軍の中にほんとうの敵がいるのかもしれない。さらに話を複雑にしているのは、登場人物それぞれが自らの"心のありどころ"について、明確な自覚がないという設定である。

「重力」は人間の負の部分を誘発する。進化を嫌い、未来から目を背け、今がそこそこよければそれでいいと思う心を誘う。地面にへばりつきながらも、もうこれ以上"落ちる"ことはないだろうと考える。足元に地表がなければ、重力に引かれてどこまでも落ちていくということにすら気づかなくなる。

一方、重力から解放された者は、人間はなすがままにしていれば自滅に向かうと気づく。そして空を見上げ、無限に広がる宇宙に次代のありようを見出そうとする。その最も進化した姿を、原作者の富野は「ニュータイプ」と名付けた。日本のアニメーション・クリエーターがもつ想像力と創造力には、ただただ感服するばかりだ。

それは確かにSFの世界の話かもしれない。でも、「重力に心まで引かれた人」と「重力に抗う人」という人間の在り方は、実は富野の目に映った今の社会の実相ではないかと私は見ている。

誤解を恐れずに言えば、私は自分が出会った人やメディアを通じて知った人を2つに分ける習慣がある。空を見上げて手を伸ばしている人と、そうでない人だ。社会的地位や評価はそれなりに意味があるだろう。しかし、その差異は、小さな山の上や高層ビルの最上階に鎮座しているか、運動場で肩車をされているか程度の違いでしかない。問題は、その人が今この瞬間、空を、自分の未来を、より良き世界を見つめて手を伸ばしているか、である。
 
俗に言う「上昇志向」とは似て非なるものだ。人より高い位置に居座ったところで、重力の呪縛から逃れたことにはならない。私が美しいと思い憧れるのは、現状に満足せず、社会に自分が生かされる理想の在り方を常に求めて、重力に抗い、空へと向かおうとしている人の姿だ。そんな人は、高台から世間を見下ろして満足顔をしている人の何倍も輝いて見える。

世直しの話ではない。ビジネスパーソンとして日々活動している誰にとっても関係のある話だ。私たちは日々ままならない出来事の中で、「それなりにやっていれば何とかなる。自分は自分なりに努力している」と自分自身を慰めがちだ。しかし、それはまさに「重力」にズルズルと引かれ始めた瞬間である。

私たちは常に目に見えない「下へ下へ」という力に支配されている。いつものことをいつも通りにやっているつもりでも、現状に止まることすらできない。鳥は羽ばたいているからこそ水平飛行を保つことができるのに、それに気づかず心の中でこうつぶやく。----どうして自分だけ恵まれてないんだろう?

しかし、今の立ち位置(年齢?学歴?肩書き?収入?財産?国籍?人間関係?)などどうでもいいではないか。そんなちっぽけなハンデなど、重力という人間すべてに平等に課せられた足枷に比べれば、取るに足らないものだ。「あなたは、重力に抗うか?身を任せるか?」----まずはこのシンプルな問いかけに、答えを出すことが大切なのだと思う。

私は自他共に認める楽観主義者である。しかしそれには根拠がないわけではない。私の立ち位置などは社会のものさしからすれば地面どころか地下2階の駐車場かもしれない。が、それでもなお、上を見上げれば、スクールで出会った志の高い人たちと歩んでいる未来の自分が、プラネタリウムのように視界に広がる。重力に抗う気力だけは失いたくないし、失わない。

それでも時々、もう重力に身を任せてしまいたいよと下を向きたくなることがある。私を含めてそんなふうに見える人がいたら、「上を向こうよ!」と叱咤してほしい。重力に抗おうと努める者にとって、そんな言葉は心地よい風、上昇気流になるからだ。(了)