人の心は「言葉にできない感情」で埋め尽くされている。感情は目には見えないから、それは確かに存在するはずなのに再現できない。再現できないからその感情を人と共有できない。だからストレスが溜まる、苦しい。
裏を返せばその感情を言葉で表現し、他者と共有できるようになった時の喜びは測り知れないほど大きい。最近そのことをあらためて実感した。
犬と暮らして15年ほどになる。実家で暮らしていた期間を加えれば25年ほどだろうか。飼い犬への想いは強い。しかし愛犬家かと問われればうつむいてしまう。映画やテレビ、小説、ネットにあふれるペットへの愛情物語や献身的な施しを見て、いつも軽い自己嫌悪に陥っている。自分はその何分の1もしていないからだ。
それでも、自分なりの想いがある。それが言葉にならない時期が、ずいぶん長く続いていた。飼い犬についての、私の"自分で自分の考えがわからない具合"は、恥を承知で言えば、こんな感じだ。
私には子供がいない。(もし子供がいたら、その想いは目の前の犬に抱くものに近いのだろうか)などと考えたくなる気持ちを、一方で強烈に抑制する自分がいる。所詮、犬は犬だ。「うちの子」ではない。そんなことを頭に描くこと自体、子供を大切に育てている人に失礼だ、人と犬との区別もつかないペット馬鹿に成り下がるのはゴメンだと、もう一人の自分が叱っている。
だからいつも自分にこう言い聞かせてきた。(飼い犬を家族であるかのように語るべからず。友人やご近所の方々が子供の話で盛り上がっていても、絶対に同じテンションで犬の話を持ち出してはならない。たとえ「犬も子供と同じだね」などという甘いささやきに遭遇しても(そう切り出す人は案外多い)、「犬は犬だから。子供ではないよ」とクールに応えるべし)。事実そのようにしてきた。
これまでに2匹の犬との別れを経験した。その喪失感は今でも私の身体から抜けきっていない。目の前の犬たちとも、必ずそんな日がやってくるのだろう。その時、自分がどれだけ打ちのめされるかは容易に想像できるが、そうであっても、どんなに人から慰められても、その時はこう応えると決めていた。「犬は犬だから。人の死とは違う」。
それが正しいと思っていた。でも、なぜか苦しかった。
最近、ある企業の広報誌の依頼で「せつない本」をテーマに選書と書評を行った。
軽い気持ちで引き受けたものの、それから約1ヶ月、「『せつなさ』とは何か」という大命題と格闘することになるのだが、その話は別の機会に譲ろう。1冊の本に出会った。『ある小さなスズメの記録 〜人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクラレンスの生涯〜』というタイトルだ。
第二次大戦初期から戦後にかけての12年間を1羽のスズメと過ごした老婦人の実話である。1950年代に欧米でベストセラーになった。昨年末、日本で発行された新装翻訳版でその存在を知り、今回のテーマに沿った1冊として取り上げた。
話を戻そう。飼い犬への私の想いに1つの答えを示してくれた一節は、意外にも物語の中にではなく「訳者のあとがき」にあった。
12年に及ぶ老婦人とスズメの生活に、身も心も入り込んだであろう翻訳者は、その苦労や行間の分析に加え、自身の言葉でこう書き記している。
「もの言わぬ動物を、人生の『同伴者』として共に過ごすことは、自分自身の内側に棲む、生きている鏡と会話を続けるようなものだ。だからこそその喪失は、人間の友を亡くすつらさとは種類の違う、自分自身の内側の、部分的な喪失とも等しい」。
これだと思った。私の心に居座っていた「言葉にできない感情」の正体に、ついに出会うことができた。しかも、かくも美しく気高い文章によって。
自分の心の問題に1つの決着をつけてくれた翻訳家に、感謝してもしきれない気持ちになった。この一節に出会うのに必要であれば、貯金のすべてをはたいてもいいとさえ思った。(実際には千円札2枚でおつりが来ました)
翻訳を手掛けたのは、小説『西の魔女が死んだ』などの創作でも知られる梨木香歩さんだ。彼女は『ある小さなスズメの記録』を翻訳中に、長年連れ添った愛犬を失ったという。その犬から与えられた多くのものが、本書の翻訳に生きたとも綴っている。
今日も、私はもの言わぬ同伴者に向き合い、こう語りかける。(君たちは所詮犬で、人間である僕を理解できない。もちろん僕も君たちを理解できない。世の定義に従えば、君たちは僕の家族とは言えない。でも、君たちはどうやら僕の内側に棲んでいる、僕自身の一部を映し出す鏡らしい。ならば、生きる限り、楽しくやっていこう----)。
言葉を紡ぐことを生業に選んだ人、選ぼうとする人は、言葉にはこんなに偉大で人を救う力があるということを、ぜひ知っていてほしい。 (了)
2011年2月25日 初出