「やり直さない」生き方
2011年が終わる。皆さんにとってはどのような年だっただろうか。
人は過去を振り返るとき、まずは失敗したことや間違ったこと、悔いが残ることから考えてしまう傾向がある。きっとそういう仕組みなのだろう。それはそれで変えようがないし、反省する姿勢が美徳であることに間違いはない。しかし、私を含めた多くの人の反省の仕方について、私はこんな疑問と改善提案を抱いている。
より良き今とこれからを築くための反省とは、「胸を痛めてやり直す」ことではない。過去の行いを認めたうえで、「直す(修正する、改善する、活かす)」ことこそが真の反省であり、正しい。
過去は財産だ。お金をいくら積んでも買い取ることができない宝である。過去の経験があるから今があり、未来がある。あの出来事やあの体験は、良いものも悪いものも含めて、その人だけが手にした生きた証でもある。違う言い方をすれば、過去の経験や手にした知識はすべて、今とこれからの自分の振る舞いに宿るべきものだ。それが「大人がさらに成長する」という言葉の意味だと信じている。
それはそうだ、当たり前だよと感じただろうか。でも、私の目には少なからずの人が過去を軽視し、あるいは間違った反省の対象とし、できるだけ忘れてやり直すことが未来を切り開くことにつながると信じているように映る。'リセット感覚'や'自分探し'というような言葉が流行り、社会から肯定的に受け入れられる状況を見るにつけ、(どうして自分の中の過去を、そんなに簡単に切り捨てられるの?)と悲しくなる。
いい例がある。成功者や目的を達成して尊敬を集める人が「成功の秘訣は?」という質問に、「いつの間にか今の位置にたどり着いた」「絶対に諦めなかった」と答えるシーンをよく目にする。
それを私流に翻訳すると、「私は成功も失敗も、善行も悪事も、すべてを自分が生み出したものとして積み上げることをやめなかった。その結果、当初に描いたものとは見た目は異なるが、人に誇れるような今の自分が出来上がった」となる。過去を必要とし、活かし、決してやり直さなかった人たちだけが発する言葉だ。
過去だけの話ではない。今の世の中、「興味や関心事、すべきことがたくさんあって、どれもが中途半端になりがち」という声をよく耳にする。これももったいない話だ。そういう人は、「頭を切り替える」という言葉を美徳と勘違いしているのだろう。1つひとつに割く時間や労力が少なくなれば、より集中して取り組む人を決して上回ることはできない。やることが沢山あるのであれば、打つ手は1つ。1つに取り組んで得た経験や知識は、何としても異なる取組みにも活かす――。これしかない。
経験したこと、見聞きしたことは自然に身体に残るはずだなどと、何の根拠もないことを言う人がいる。残念だがそれは絶対に、ない。過去の経験や知識は、「留めて活かすぞ!」と強く願い、そう努力する人だけに宿るからだ。忘れてやり直すことを美徳と考える人には決して宿らない。
つらい経験や悲しい出来事、人の期待に応えられなかったこと、人を傷つけたこと、怠けたこと、失敗したことを心に留めるなんてゴメンだという人もいるだろう。
それでも捨て去ってはいけない。私なら他人のそんな過去を、できることなら買い取りたいくらいだ。きっと、それが今とこれからの自分の成長の糧となり、自分を強くしてくれると思うからだ。悲しんでいてもしょうがない。それらを活かすことが迷惑をかけた相手に対する唯一の償いになると、自分に都合がいいように考えたい。究極の正しい自己愛、自己中心主義だ。
少なくとも私は(過去を含めた)自分を愛せないような人とは仕事を共にしたくない。何より信用できない。風呂上りのような顔で「今日から新しい自分が始まります!」などと言われたら、気持ち悪くて卒倒してしまうだろう。そのセリフは生まれたばかりの赤ん坊だけに許されたものだ。(赤ちゃんはしゃべれないが) 私たちは力強く過去を抱いて生きる大人として振る舞い、社会に活かされる存在となりたいのだ。
このメッセージを、未曾有の災害を乗り越え、良き職業人としての目標に向かうエールとして受け取ってもらえれば嬉しい。
さぁ、今年一年を恐れずに振り返ろう。そしてその宝の山を来年のさらなる成長に役立てよう。私もそのようにして、決してやり直さず、まだまだ未熟な自分を直していきたいと思う。(了)