ワタシの3月11日
震災から1年が過ぎようとしている。
当校は震災の翌日、「日常性の確保」を会社の方針として内外に打ち出した。震える
ような光景を映し出すテレビの画面を見守りながら、一晩考え抜いたうえでの判断
だった。その結果、講義を休講としたのは翌12日のみで、13日からは予定通りの講義
とその他の事業運営を続けた。
交通機関を乗り継いで駆けつけてくれた講師の皆さんが支えだった。誰ひとりとし
て、休みを申し出る先生はいなかった。通常日程に加え、その日時に参加できない受
講生がいることをかんがみ、同内容の講義をその翌週にもう一度行う施策も実行し
た。それを受け入れてくれた講師の皆さん、そして実家の家族等との連絡に不安を抱
えながらも通常業務に努めたスタッフを、心から誇りに思う。
そして何より、そうした時期にも関わらず学びに打ち込んだ受講生の皆さん、それぞ
れの仕事を全うしようと努めていた修了生の皆さんを誇りに思った。ほんの束の間、
ロビーで生まれた笑いの輪や、「こんにちは!」と声をかけ合う時にもらった笑顔に
励まされた。
それから5月の連休明けまでの2ヶ月間は、私の職業人人生のうちでも最も濃密な期間
となった。もちろん、身を切られるような思いで過ごした、という意味で。
思い出話をしているのではない。一生懸命やったことを誉めてもらいたいわけでもな
い。きっと多くの人がそうだったはずだから。
伝えたいのは「それが私の、震災と生きるリアル」であるということだ。
これから数日間は、多くのメディア、特にテレビは様々な特集を組み、あの出来事を
振り返るだろう。社会を俯瞰し、総括することに長けた人たちが、心を揺さぶるよう
な映像やコラム、切り口で、あの出来事の悲惨さと今も苦しむ人々の現状を伝えるだ
ろう。そして、「あの出来事を忘れてはならない。私たちにできることは何かを考え
よう」と呼びかけるだろう。
実は、私はそれに一抹の不安を感じている。メディアの総括が巧みで、瞬間的に私た
ちの心を打てば打つほど、震災は頭の中で、まるで遠い国の悲しい出来事のように整
理され、'他人の不幸'を収める箱に収まっていくようにも思えるからだ。
先の大戦が悲しい出来事で、二度とそれを繰り返してはならないとは誰もが思うだろ
う。でも、先の大戦に自らのリアルを重ねることができない私は、そうは思うが今の
24時間を大戦と共に過ごすことはできない。
皮肉なことに「あの出来事はこうだった。だから忘れてはいけない」と言われれば言
われるほど、その出来事はわかりやすい'かたち'となり、記憶の整理箱の片隅にピ
タリと収まってしまう。思い出せばたいへんだたいへんだと言いながら、基本、他人
事になる。
しかし、あの震災は私のリアルだ。彼の地の出来事としてしまい込むなど、決してで
きないし、してはならないと思う。私は今も苦しむ被災地の方々と、自分のリアルを
媒介としてつながっている。「絆」なんかではない。つながってしまっているのだ。
これから何年経とうとも、あの瞬間を共に過ごした人々とのつながりは、私の行動や
選択を決する要因になり続ける。同じ日本人だからなんていうざっくりとした理由か
らじゃない。ましてや同情や憐みでもない。被災地の復興と行く末は、私の人生のあ
り様、そのものと重なるのだ。
震災から1週間ほどしてからだろうか、スクールに宅配便を集荷する青年がやってき
た。集荷だけでなく、たまに彼の手からスクールに戻される発送物がある。スクール
資料の郵送・宅送を希望された方々に送ったものだが、なんらかの手違いで「住所違
い」が生じ、戻ってくるのだ。「これ、配達できませんでした...」と手渡された発送
物に記された宛先を見て、私は言葉を失った。その住所は津波で街ごとなくなってし
まった状況を連日テレビが映し出していた街のものだった。
この方は助かっただろうか、英語の勉強が好きだったのだろうか、映像翻訳の仕事に
どんな夢を抱いただろうか、それとも資料請求したことも覚えてはいなかっただろう
か......。
私はその資料をデスクの引出しにしまっている。そして、時々眺めながらこの1年を
過ごしてきた。きっとこれからも。
私にとっての3月11日。皆さんはどうだろうか。(了)