黄金色の絨毯 〜1989年、ジャパンカップの記憶〜
冬に向かう静かな日曜日。突き抜けるような青空を見上げていると、ふと湧き上がってくる、そんな記憶の一つや二つは誰にでもあるはずだ。
1989年初冬、バブル経済の宴の熱がまだ冷めやらぬこの国に、ニュージーランドから一頭の牝馬がやって来た。名を、Horlicks(ホーリックス)という。
彼女は東京、府中市の東京競馬場で開催される、国際招待馬と日本代表馬が凌ぎを削る一大レース、「第9回ジャパンカップ」に出場予定であった。
ジャパンカップは、日本のホースマンたちがフランスの凱旋門賞や米国のブリーダーズカップといった世界最高水準のレースをこの国でも実現しようと創設したレースである。しかし、欧州や北米の、その時点で活躍する一流馬が集まっていたかと言えば、必ずしもそうとは言えなかった。東の果ての日本。繊細なサラブレッドにとってその地は遠く、輸送を強いるにはあまりにも過酷な距離が介在していた。
しかし、「世界中の富が日本に吸い取られるのではないか」といわれた時代である。海外のホースマンにとって、当時の日本には今の中国と同じようにマネーの香りが充満していた。多少の無理は承知で、参戦する意味があったのだ。中でも89年は特別な年になった。世界の超主役級が一堂に会したのだ。
米国からは芝2,400メートルというジャパンカップと同じ距離で、 当時の世界レコードを保持していたホークスターが参戦。「一度逃げたら何者にもその影を踏ませない」と恐れられたターフ(芝コース)の超特急だ。英国からは、 500キロを超す巨体を重戦車のように震わせながら他馬を蹴散らし、欧州の主要レースで連勝を重ねていたイブンベイが来日した。その鋼のような筋肉に、日本の競馬ファンは言葉を失った。
それでも真打は別にいた。競馬界で最も権威あるレース、この年の凱旋門賞を勝ったキャロルハウスが参戦したのだ。凱旋門賞馬、日本のターフに立つ----。その事実だけでも、'衝撃的な事件'であった。
その他の招待馬も第一線級の猛者ばかりだった。ただ一頭、南半球からやって来たホーリックスを除いては----。
迎え撃つ日本陣営も、天皇賞(春・秋)を勝ったスーパークリークやイナリワンら、現役最強馬を送り出した。その中には、日本競馬史上最も多くのファンを獲得したことで知られるオグリキャップも名を連ねていた。日本で地球最速の馬が決まる。そう言っても過言ではなかった。
ホーリックスと共に来日したのは、調教師のデビッド・オサリバン、彼の長男で調教助手のポール、その弟で騎手を務めるランス。ニュージーランドの競馬一家である。そしてもう一人、まだ19歳の女性厩務員(競争馬の世話をする係)、バネッサ・バリーがいた。
彼らはこのジャパンカップに賭けていた。サラブレッドを愛し、育てることでは誰にも負けないという自負があるのに、常に欧州や米国の後塵を拝してきた南半球、オセアニアのホースマンの力を世界に知らしめる機会は今をおいてない----。ホーリックスにはその資格があると信じていた。
しかし、下馬評に耳を傾けるまでもなく、彼女はあくまでも'脇役'の扱いだった。
今でこそ「強い牝馬」が多数出現しているが、当時は牝馬と牡馬の間には絶対的な力の差があると信じられていた。ましてや競走馬のピークは4〜6歳というのが定説だ。7歳の彼女は、既に下り坂だという評価がほとんどだった。きら星の如く居並ぶスターの中にあって、ダークホースといえば聞こえがいいが、要するにファンや専門家、マスコミにとってのホーリックスは「眼中にない馬」だったのである。
ジャパンカップ当日、東京競馬場には歴史的瞬間を見届けようと14万人を超える観衆が集まった。その場にいた誰もが、当時の様子を「一種異様な雰囲気だった」と振り返る。
ゲートが開いた。始まったレースのあまりにも壮絶な展開に、14万の観衆とテレビの前のファンは息を飲んだ。
ホークスターに先頭を譲らずイブンベイが逃げる、逃げる、逃げる。競馬史上例のないハイペース。なんと、1,800メートルまでのラップタイムが、その距離の日本レコードを上回っていたのだ。「マラソン選手の10キロ地点のラップタイムが、トラック競技1万メートルの新記録だった」と言えば、そのスピードの異常さがわかるだろう。
スーパークリークに騎乗し、中段で追走していた天才ジョッキー、武豊でさえ「このままでは馬が壊れると恐ろしくなった」と後に語っている。武と同じように、そこで半数以上の馬と騎手の心は折れていた。さすがの凱旋門賞馬も、見せ場もなく沈んでいった。
ホーリックスとランス・オサリバン騎手は、そんな殺人的、否、殺馬的なペースの中にあって、絶好の3番手で折り合っていた。そして、じっと最後の直線を待っていた。
彼女をそうさせたのは、ランスの手綱さばきだけではないだろう。サラブレッドを愛するオセアニアの人々が託した想いが、(ホーリックスよ、耐えよ)と励ましていたに違いない。
彼女は最終コーナーを過ぎるとホークスターとイブンベイを並ぶ間もなくかわし、先頭に立つ。そして、冬枯れで黄金色に輝く府中の直線走路を風の如く疾走した。その姿はまるで、オスカー像を抱くことを確信し、自信に満ちた面持ちで授賞式場への赤い絨毯を歩む女優のようでもあった。
残り200メートル。 しかし、ホーリックスと鞍上のランスはまだ、勝利を確信するには至らなかった。
彼女を猛然と追う馬が一頭だけいたのだ。オグリキャップである。「オグリはレース前にホーリックスに一目惚れしていたのだ」という逸話は今でも大真面目に語り継がれているが、真偽は定かではない。
ただ、オグリもまた、エリート街道とはほど遠い、雑草の地から這い上がってきた馬である。そんな彼を特別な想いで見守るファンに背中を押され、神がかリともいえる脚力でホーリックスに迫る。
二頭はほぼ同時に2,400メートルを駆け抜けた。その走破時計は、2分22秒2。世界のどの競馬場でも表示されたことがない4つの「2」に、東京競馬場はどよめき、誰もがその目を疑った。驚異の世界レコードである。
ホーリックスはオグリの猛追をクビの差退け、悲願のジャパンカップを手にした。
その時、14万人、テレビを含めれば数百万人の眼差しは、ようやく南半球からやって来た'女優'に向けられた。「彼女こそが真の主役であったのだ」と、誰もが認めた瞬間である。
オサリバン一家は涙でホーリックスを称えた。バネッサもまた、涙でくしゃくしゃになった顔でホーリックスを見上げ、その喉をやさしく撫でた----。
馬は孤独を嫌う。ホーリックスは特に寂しがり屋だったという。南半球からの長距離輸送、季節の逆転、見慣れぬ景色・・・。しかも、日本では検疫上の理由から、オセアニアの馬を隔離して管理しなければならないという、厳しく辛い規制があった。
レースの日まで、バネッサはホーリックスに尽くした。昼夜を問わず彼女に寄り添い、心と身体の状態に注意を払った。それでも寂しそうにしていると、祖国から運んできた大きな鏡を彼女の前に置き、「ここに友達がいるよ」と声をかけた。
凱旋門賞馬が、世界レコードホルダーがどれだけのものなのだ。私のホーリックスが必ず一番にゴールする----。怖いもの知らずと言えばそれまでだが、バネッサはきっと、そんな光景を信じて疑わなかったに違いない。
私の手元に一枚の写真がある。
レースの直前、東京競馬場のパドック(これから走る馬を観客に披露するために周回させる円形の馬道)を歩むホーリックスと、その手綱を引いて歩くバネッサが写っている。
2人にとっては晴れの舞台であるはずなのに、背景の観衆たちは誰ひとりとしてホーリックスを見ていない。きっと彼らの目線の先には、お目当てのスーパーホースたちがいるのだろう。
バネッサはホーリックスを見つめている。(大丈夫、私はいつもあなたと一緒だよ)と話しかけているように見える。(あなたの力のすべてをこのレースで出し切りなさい。必ず勝てる)と叱咤しているようにも見える。
「競馬なんてスポーツじゃないよ」と言う人は少なくない。私には今、それに反論し得る明確な言葉がない。この先も、見つからないかもしれない。
ただ、1989年の初冬にニュージーランドからやって来た彼女たちのことを想うとき、「命を賭けて走るサラブレッドとそれを支える人たちに、自分の人生を重ねてみるのも悪くないよ」と、小さな声で囁きたい気持ちになる。
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オグリは今年、惜しまれつつ天寿を全うした。ホーリックスは今もなお、ニュージーランドの地で余生を送っているという。
冬に向かう空を見上げていると、凍えかけた心に小さな火を灯してくれる一つの記憶が、私にはある。(了)
※ホーリックスはこの後、2011年8月24日に天に召されました。