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黄金色の絨毯 〜1989年、ジャパンカップの記憶〜

冬に向かう静かな日曜日。突き抜けるような青空を見上げていると、ふと湧き上がってくる、そんな記憶の一つや二つは誰にでもあるはずだ。

1989年初冬、バブル経済の宴の熱がまだ冷めやらぬこの国に、ニュージーランドから一頭の牝馬がやって来た。名を、Horlicks(ホーリックス)という。
 
彼女は東京、府中市の東京競馬場で開催される、国際招待馬と日本代表馬が凌ぎを削る一大レース、「第9回ジャパンカップ」に出場予定であった。

ジャパンカップは、日本のホースマンたちがフランスの凱旋門賞や米国のブリーダーズカップといった世界最高水準のレースをこの国でも実現しようと創設したレースである。しかし、欧州や北米の、その時点で活躍する一流馬が集まっていたかと言えば、必ずしもそうとは言えなかった。東の果ての日本。繊細なサラブレッドにとってその地は遠く、輸送を強いるにはあまりにも過酷な距離が介在していた。

しかし、「世界中の富が日本に吸い取られるのではないか」といわれた時代である。海外のホースマンにとって、当時の日本には今の中国と同じようにマネーの香りが充満していた。多少の無理は承知で、参戦する意味があったのだ。中でも89年は特別な年になった。世界の超主役級が一堂に会したのだ。

米国からは芝2,400メートルというジャパンカップと同じ距離で、 当時の世界レコードを保持していたホークスターが参戦。「一度逃げたら何者にもその影を踏ませない」と恐れられたターフ(芝コース)の超特急だ。英国からは、 500キロを超す巨体を重戦車のように震わせながら他馬を蹴散らし、欧州の主要レースで連勝を重ねていたイブンベイが来日した。その鋼のような筋肉に、日本の競馬ファンは言葉を失った。

それでも真打は別にいた。競馬界で最も権威あるレース、この年の凱旋門賞を勝ったキャロルハウスが参戦したのだ。凱旋門賞馬、日本のターフに立つ----。その事実だけでも、'衝撃的な事件'であった。

その他の招待馬も第一線級の猛者ばかりだった。ただ一頭、南半球からやって来たホーリックスを除いては----。


迎え撃つ日本陣営も、天皇賞(春・秋)を勝ったスーパークリークやイナリワンら、現役最強馬を送り出した。その中には、日本競馬史上最も多くのファンを獲得したことで知られるオグリキャップも名を連ねていた。日本で地球最速の馬が決まる。そう言っても過言ではなかった。

ホーリックスと共に来日したのは、調教師のデビッド・オサリバン、彼の長男で調教助手のポール、その弟で騎手を務めるランス。ニュージーランドの競馬一家である。そしてもう一人、まだ19歳の女性厩務員(競争馬の世話をする係)、バネッサ・バリーがいた。

彼らはこのジャパンカップに賭けていた。サラブレッドを愛し、育てることでは誰にも負けないという自負があるのに、常に欧州や米国の後塵を拝してきた南半球、オセアニアのホースマンの力を世界に知らしめる機会は今をおいてない----。ホーリックスにはその資格があると信じていた。

しかし、下馬評に耳を傾けるまでもなく、彼女はあくまでも'脇役'の扱いだった。

今でこそ「強い牝馬」が多数出現しているが、当時は牝馬と牡馬の間には絶対的な力の差があると信じられていた。ましてや競走馬のピークは4〜6歳というのが定説だ。7歳の彼女は、既に下り坂だという評価がほとんどだった。きら星の如く居並ぶスターの中にあって、ダークホースといえば聞こえがいいが、要するにファンや専門家、マスコミにとってのホーリックスは「眼中にない馬」だったのである。

ジャパンカップ当日、東京競馬場には歴史的瞬間を見届けようと14万人を超える観衆が集まった。その場にいた誰もが、当時の様子を「一種異様な雰囲気だった」と振り返る。

ゲートが開いた。始まったレースのあまりにも壮絶な展開に、14万の観衆とテレビの前のファンは息を飲んだ。

ホークスターに先頭を譲らずイブンベイが逃げる、逃げる、逃げる。競馬史上例のないハイペース。なんと、1,800メートルまでのラップタイムが、その距離の日本レコードを上回っていたのだ。「マラソン選手の10キロ地点のラップタイムが、トラック競技1万メートルの新記録だった」と言えば、そのスピードの異常さがわかるだろう。

スーパークリークに騎乗し、中段で追走していた天才ジョッキー、武豊でさえ「このままでは馬が壊れると恐ろしくなった」と後に語っている。武と同じように、そこで半数以上の馬と騎手の心は折れていた。さすがの凱旋門賞馬も、見せ場もなく沈んでいった。

ホーリックスとランス・オサリバン騎手は、そんな殺人的、否、殺馬的なペースの中にあって、絶好の3番手で折り合っていた。そして、じっと最後の直線を待っていた。

彼女をそうさせたのは、ランスの手綱さばきだけではないだろう。サラブレッドを愛するオセアニアの人々が託した想いが、(ホーリックスよ、耐えよ)と励ましていたに違いない。

彼女は最終コーナーを過ぎるとホークスターとイブンベイを並ぶ間もなくかわし、先頭に立つ。そして、冬枯れで黄金色に輝く府中の直線走路を風の如く疾走した。その姿はまるで、オスカー像を抱くことを確信し、自信に満ちた面持ちで授賞式場への赤い絨毯を歩む女優のようでもあった。

残り200メートル。 しかし、ホーリックスと鞍上のランスはまだ、勝利を確信するには至らなかった。

彼女を猛然と追う馬が一頭だけいたのだ。オグリキャップである。「オグリはレース前にホーリックスに一目惚れしていたのだ」という逸話は今でも大真面目に語り継がれているが、真偽は定かではない。

ただ、オグリもまた、エリート街道とはほど遠い、雑草の地から這い上がってきた馬である。そんな彼を特別な想いで見守るファンに背中を押され、神がかリともいえる脚力でホーリックスに迫る。

二頭はほぼ同時に2,400メートルを駆け抜けた。その走破時計は、2分22秒2。世界のどの競馬場でも表示されたことがない4つの「2」に、東京競馬場はどよめき、誰もがその目を疑った。驚異の世界レコードである。

ホーリックスはオグリの猛追をクビの差退け、悲願のジャパンカップを手にした。

その時、14万人、テレビを含めれば数百万人の眼差しは、ようやく南半球からやって来た'女優'に向けられた。「彼女こそが真の主役であったのだ」と、誰もが認めた瞬間である。

オサリバン一家は涙でホーリックスを称えた。バネッサもまた、涙でくしゃくしゃになった顔でホーリックスを見上げ、その喉をやさしく撫でた----。

馬は孤独を嫌う。ホーリックスは特に寂しがり屋だったという。南半球からの長距離輸送、季節の逆転、見慣れぬ景色・・・。しかも、日本では検疫上の理由から、オセアニアの馬を隔離して管理しなければならないという、厳しく辛い規制があった。

レースの日まで、バネッサはホーリックスに尽くした。昼夜を問わず彼女に寄り添い、心と身体の状態に注意を払った。それでも寂しそうにしていると、祖国から運んできた大きな鏡を彼女の前に置き、「ここに友達がいるよ」と声をかけた。

凱旋門賞馬が、世界レコードホルダーがどれだけのものなのだ。私のホーリックスが必ず一番にゴールする----。怖いもの知らずと言えばそれまでだが、バネッサはきっと、そんな光景を信じて疑わなかったに違いない。

私の手元に一枚の写真がある。

レースの直前、東京競馬場のパドック(これから走る馬を観客に披露するために周回させる円形の馬道)を歩むホーリックスと、その手綱を引いて歩くバネッサが写っている。

2人にとっては晴れの舞台であるはずなのに、背景の観衆たちは誰ひとりとしてホーリックスを見ていない。きっと彼らの目線の先には、お目当てのスーパーホースたちがいるのだろう。

バネッサはホーリックスを見つめている。(大丈夫、私はいつもあなたと一緒だよ)と話しかけているように見える。(あなたの力のすべてをこのレースで出し切りなさい。必ず勝てる)と叱咤しているようにも見える。

「競馬なんてスポーツじゃないよ」と言う人は少なくない。私には今、それに反論し得る明確な言葉がない。この先も、見つからないかもしれない。

ただ、1989年の初冬にニュージーランドからやって来た彼女たちのことを想うとき、「命を賭けて走るサラブレッドとそれを支える人たちに、自分の人生を重ねてみるのも悪くないよ」と、小さな声で囁きたい気持ちになる。

           --・--・--・--・--

オグリは今年、惜しまれつつ天寿を全うした。ホーリックスは今もなお、ニュージーランドの地で余生を送っているという。

冬に向かう空を見上げていると、凍えかけた心に小さな火を灯してくれる一つの記憶が、私にはある。(了)

※ホーリックスはこの後、2011年8月24日に天に召されました。

      

サラバ、手を抜く人

私は"そこそこ上手くやろうとする人"が嫌いです。そこそこ上手くやろうとする人は、仕事や役割を与えられると真っ先に「合格の最低ラインはどこか?」を気にします。あるいはずる賢く合格点のボーダーを見極め、そのちょっと上にいれば責任は果たせると決めてかかります。「まあ、こんなもんでいいだろう」と自分勝手に思い込んでしまうことがクセになっています。そしてそれ以上の努力をすることを、「損をした」と考えてしまいます。
要領がいい人と言えば聞こえがいいが、ほんとうのところは「手を抜く人」です。相手の顔色、条件、周囲への体裁、自分の今のコンディション、他の仕事との兼ね合い......そこそこ上手くやろうとする人が手を抜くために思いつく言い訳は、探せばいくらでも転がっていますから。
手を抜く人は、仕事の内容が評価されなくても傷つきも反省もしません。口では「ゴメンナサイ」と言っていても、ほんとうに反省なんかしていないのです。「時間がなくて...(時間があれば私はできる人)」「他に仕事が重なって...(一つに集中すればできたはず)」「初めての素材なんで...(調べ物が多すぎる!他の素材ならもっとできた)」「マイナーな作品なんで...(自分が好きなテーマなら力を出せたのに)」「ギャラが安いんで...(この程度の金額で1週間もつぶせないよ)」......。
そんな風に、自分の仕事に"言い訳のための余白"を用意しておけば、力不足を指摘されても傷つかなくて済みます。「だって全力じゃなかったんだから」と、無意識の計算をしているのです。そんな人は、一見小心者で繊細な人のように見えます。しかし、その人が全力で取り組んでくれると信じていた、パートナーや周囲の人の心を深く傷つけていることには気づかない。
繊細な振りをした鈍感な人。

と、厳しく書きましたが、これは「プロ中のプロ」を目指す過程で誰でもぶつかる壁なんです。私などはむしろそんな期間が長すぎた気がします。自分に厳しく、目の前の仕事を通じて一歩でも前に進もうという高い意識を持てば、一瞬で通り過ぎることができる落とし穴。ここを乗り切れるか否かで、プロとしての将来が決まると言っても過言ではありません。
当校の受講生、修了生の皆さんには、そんな障害物を軽々と乗り越えてほしいと願っています。私は、自分自身がそれに気づかずにいた期間に、浪費した時間と人に迷惑をかけた苦い経験をもとにして、皆さんをお手伝いしたいと考えています。
先日、元プロ野球の投手であり、何度も選手生命を脅かされるようなどん底から這い上がって、日本中のファンに感動を与えた村田兆治さんのお話しを聞く機会がありました。打たれても打たれても、左手の腱を切り取って右肘に移植するという大手術を受けてまでも、「先発完投」にこだわって剛速球投を投げ続けた"全力の人"として知られています。
村田さんは今、北は利尻島から南は小笠原諸島まで、日本各地の離島を巡って子供たちに野球を教える活動を続けています。その様子はテレビ番組などでも時々紹介されています。野球なんてやったこともないであろう子供たちにグローブを与え、戸惑い気味の子供の顔など気にする素振りもなく剛速球を投げ込む村田さん。私はそれを観て、「テレビカメラをちょっと意識したパフォーマンスだろう」程度に思っていました。
しかし、村田さんの話を聞いているうちに、恥ずかしながら涙が浮かんできました。
現役を引退して(これから何を心の糧にして生きていけばいいのか)と悩んでいた頃、北海道の小さな村から「子供たちに野球を教えてほしい」という依頼が舞い込んだそうです。特に考えもなく向かった先で、自分を暖かく迎えてくれた人たち、そして目を輝かせて運動場に集まった子供たちを前にして、村田さんはこう考えました。
「手抜きはダメだ。今、自分が投げられる最高のボールを見せて、受け止めさせることが、唯一子供たちにできることだ」。
ソツなく子供たちを指導して、そこそこ野球が上手くなったところで、子供たちの将来の何になるというのか。プロの投手として半生を生きた者として、子供たちにできることは何か。「手を抜かない人間の姿を見せること、手を抜かないボールが生きていることを、直接伝えることだ」と悟ったそうです。
私が感銘を受けたのは、手を抜かないということだけではありません。むしろここからの話です。
「でも、野球をやったことがない子供に剛速球をむやみに投げ込むのは危険ですよね。私は胸の位置でグローブを構えるように指導します。そこを動かすなと念を押します。必ずそこに球が行くから大丈夫だよと宣言して投げるのです。もちろん絶対に外しません。なぜなら私はプロの修羅場をくぐってきた投手だからです。全力の速球を構えたところに投げるのが、私の仕事だったからです。」
「今、私は56歳ですし、肘もボロボロです。でも、子供がグローブを構えたところに正確に強い球を投げるために、毎日、現役時代と同じように練習して鍛えています。だから自信があります」
村田さんは、ただ思いっきり投げているだけではなかった。その球に込められた努力と、そこから来る自信を、ご本人の話を聞いて初めて知りましました。日本を代表する野球人が、名も知れぬ離島の子供たちを相手に、今も手を抜かない投球を続けている。そのために訓練を続けている。私たちがそこから学ばなければいけないことは、あまりにも多い。
不器用にさえ見える生真面目さの裏にある燃えるような情熱と確かな技術。トリノオリンピック・女子フィギュアスケートで金メダルを獲得した荒川静香さんにも、通じるものがあるように思えてなりません。
もし皆さんに"手抜きの誘惑"が襲ってきたら、ぜひこの話を思い出して下さい。(了)

      

ジャン・スティーブンソンの涙 ~スポーツを巡る選手と観客の関係~

アテネ五輪は日本人選手の大活躍の余韻を残したまま終演を迎えました。様々な話題がありましたが、今回は特に「選手と観客の関係」がよく見えた大会だった気がします。自国を応援する大歓声、その反対のブーイング、不当な判定に怒り狂う選手の家族(レスリング日本チームの、あの親子です)、路上に飛び出してマラソンランナーに抱きついてしまった人...。一つ一つの出来事に、観客の数だけの喜びと落胆、選手への尊敬や怒りが現れていました。

スポーツ・イベントを政治的な論争にすり替えてナショナリズムを煽ったり、国民性の優劣の問題に置き換えて語るのが大好きな人たちがいます。私はそんな考え方に大反対です。グラウンド、スタジアム、リング...自らの技を極限まで磨き上げ、自らの力だけを頼りに闘いの場に立つ選手たち。彼らの営みは、観る側の身勝手な解釈を超越したところで、素晴らしい輝きを放っているのだと思うのです。しかし、観る側の身勝手さは、時としてスポーツを卑しめ、選手の心に大きな傷を残すことさえあります。

米国の女子プロゴルフ・ツアーを中心に長らく活躍しているジャン・スティーブンソン(豪州)というベテラン選手がいます。数々の実績を残している大物ゴルファーです。しかし最近、米国のプロ・ツアーで台湾や韓国などアジア圏の選手が活躍している状況に対して、「アジアの選手が米国ツアーに参加するのは歓迎できない。なぜならマナーがなっていないし、ツアーに良い影響を与えていない」といった主旨の発言をして、各方面から「人種差別的だ」と弾劾されています。日本でもその発言は報道され、ネット上などでは「とんでもない発言」、「白人優位主義者だ」などとバッシングされていました。
しかし、私は彼女への批判を素直に受け入れられないのです。

その理由は、20年以上前に遡ります。1980年代前半、私は高校、大学時代を通じて、テレビでゴルフ中継を観戦するのが好きでした。他のプロスポーツに比べて、世界の一流選手が日本のツアーに参戦することが多かったからです。日本経済がバブル前夜の好景気にあり、賞金額が高騰していたことなどが理由だったようですが、それはともかく、世界トップレベルのプレーを生中継で味わえること、そしてその中に岡本綾子(現在は解説者兼プレーヤー)という日本人選手が、世界のトップと肩を並べて活躍していたことに、静かな興奮と感動を覚えていました。

1981年、私が高校3年生の春、ジャン・スティーブンソンは日本女子ツアーのあるトーナメントに参戦し、見事なプレーを披露していました。彼女は世界のトッププロらしく、冷静なプレーを続けて日本人選手に競り勝とうとしていました。しかし、最終ホールでウイニング・パットを決めた瞬間、ギャラリー(観衆)たちから、「あ~あ」という落胆の声が上がったのです。そしてまばらな拍手...。ジャンは気丈に優勝トロフィーを受け取っていましたが、テレビのインタビューでマイクを向けられた時、目頭を押さえながらこう答えました。

「私はこうして優勝したけれども、日本の皆さんに喜んでもらえなくて、悲しいです」

王者にふさわしい喜びの表情はそこにはなく、ジャンの頬をつたったのは、悲しみと失望の涙でした。ジャンの素晴らしいプレーとそれに立ち向かう日本人プレーヤーのチャレンジにただただ感動していた私の心に、その光景は小さな傷を残しました。

その3年後の1984年の秋。広島で行われたマツダクラシックは、全米女子ツアーの公式戦に指定されており、岡本綾子、再び来日したジャン・スティーブンソン、ベッツィ・キングの三つ巴の賞金女王争いに決着がつくという、世界のゴルフファンが注目する大会となりました。日本のマスコミ、いやスポーツに関心のあるすべての人が、岡本の快挙達成に大きな期待を抱いていました。会場にはギャラリーが溢れ、日本のゴルフ史上にかつてない、一種異様な雰囲気だったといいます。
最終日、勝負を分ける重要なホールのグリーン上で、ジャンがパー・パットを外しました。その時です。岡本を応援する一人のギャラリーが、ジャンに向かってこう叫びました。

「ナイスボギー!」

紳士淑女のスポーツといわれるゴルフ競技で、この一言がいかに情けなくひどいものか、そして選手の心をずたずたに引き裂く言葉であるか、想像がつくでしょうか。ジャンは怒りの表情をあらわにして、声の主の方に歩み寄りかけましたが、それより早く反応したのは岡本でした。岡本は目に涙を浮かべながらギャラリーに向かって、「何でそんなことをいうんですか!私たちは一生懸命プレーしているんです。そんなこと言われたらやってる意味がない...」と叫びました。そしてグリーン上でしゃくりあげて泣き出したのです。その時岡本は、(なんで私はこんなところでゴルフをやらなければならないのだろう)と思ったそうです。
もちろん、一番悔しかったのはジャンであったはずですが、涙と怒りでプレーを続けられないでいる岡本にそっと歩み寄って、やさしく肩に手をかけながら「時間をかけていいから、落ち着いてゆっくりやりなよ」と語りかけたそうです。岡本は、(私と同じ日本人が傷つけたオーストラリア人に、私がこうして慰められている)と感じたと後に語っています。
この出来事で、ジャンや岡本と同様に、私の心の傷も少し広がりました。

私はジャンに対する日本人の観衆の行為を「日本人はマナーがなってなくて、しょうがない...」などという、単純で薄っぺらな論旨に置き換えるつもりはありません。これは人種や国民性なんて関係ない、アスリートとそれを観る人の間だけに生じる'特別な関係'に関わる問題だと思うからです。
中国で先ごろ開催されたサッカーのアジアカップでは、地元観衆の日本チームに対するバッシングが問題になりました。確かに悲しく腹立たしい出来事です。しかし、つい20年前、ジャン・スティーブンソンに対して日本のギャラリーがとった行為と、何が違うのでしょうか。この中国での出来事に対してテレビのインタビューに、「未開の民のやることは...」などと答えた政治家がいます。こうした軽率で無知な発言こそが、スポーツの崇高な美しさと、良き観客が育つ風土を台無しにしているのだと、なぜ気がつかないのでしょうか。

自分が傷ついた瞬間にも、ライバルの日本人選手、岡本綾子にやさしく声をかけたジャン・スティーブンソン。彼女が'アジア・アレルギー'にかかっているとしたら、そうなるきっかけは何だったのか。ただひたむきに最高のプレーを披露しようと努めるアスリートたちの行為を卑しめてしまう'観客'とは何者なのか。

極論すれば、最高のアスリートの最高のパフォーマンスとは、観られることや応援されることとは無縁の世界にあるのだと、私は思います。観客には、それらのパフォーマンスから感動や喜びを与えてもらう権利はあるでしょう。しかし、それらを卑しめる権利があるとは、私にはどうしても思えないのです。

ジャンや岡本が流したような涙を、私たちは二度と見たくない。好きな選手、自国の選手を応援するのは素晴らしいことですが、対戦相手や敗者に対する尊敬も、同じくらいに大切なものではないでしょうか。
私は、たとえそれがテレビ観戦であっても、心のどこかで「観る者の責任」を意識しようと努めています。(了)

参照:毎日新聞朝刊:連載記事「ゴルフが好き」(1998年)

      

天国への階段/韓国サッカーの遺伝子

0対1。

「FIFAワールドカップ2002」の決勝トーナメント1回戦で、日本チームがトルコに敗れた瞬間、国中が失望感に包まれました。いやいや、グループ・リーグでは初の勝ち点と初勝利を獲得し、初の決勝トーナメント進出という期待以上の活躍に、我々は大いに満足すべきじゃないか...そう頭ではわかっていても、心と体がついてこないのは、私だけではないはずです。
その数時間後、お隣り韓国を勝利の雄叫びと歓喜の渦が覆い尽くしていました。優勝候補イタリアを破ってベスト8進出を決めたのです。開催国として、これ以上の満足感、達成感はないでしょう。
韓日の境遇は、まるで天国と地獄。口ではおめでとうと言えるが、心の底から湧きあがってくるのは韓国に対する嫉妬、そして劣等感ばかり。この日の「ニュース・ステーション」では、キャスターの久米宏さんが韓国サポーターの応援の仕方を手で真似しながら、おおげさに落胆の表情を見せていました。(韓国のサポーターの皆さん、どうぞはしゃいで下さい、喜んで下さい。どうせ日本は負けましたよ。)そんなメッセージなのでしょう。あるいは、国民の代弁者を自認する彼一流のウィットか...。
人の振り見て我が振り直せとは、よく言ったものです。何か腑に落ちない気持ちが私の心をよぎりました。「我々は、韓国の勝利に、そんな感情だけでケリをつけていいのか?」――。

時間は遡り、1986年。社会人1年生として世間の厳しさに揉まれつつ憂鬱な日々を送っていた私を勇気づけてくれた、一つの出来事がありました。
ワールドカップ・メキシコ大会。ワールドカップといっても、楽しみにしていたのは私のような根っからのサッカーファンくらいで、NHKだけが中継を深夜か早朝にひっそりと放送していた、そんな時代です。決勝戦の結果ですら一部のニュースでしか取り扱われないような状況でした。
日本はアジア予選で早々に敗退していましたが、韓国は1954年のスイス大会以来、32年ぶり2度目の出場を成し遂げていました。欧州や南米のサッカースタイルとスター選手に憧れていた私は、隣国のチームが最高峰の舞台に立つことを素直に喜ぶ気持ちもありましたが、それとは裏腹に'アジアのチームなんて場違いだな'というような複雑な感情を抱いていたのも事実です。
韓国の1次リーグの初戦は優勝候補のアルゼンチン。目を背けたくなるような一方的な試合になることも覚悟しながら中継を見守りました。
しかし、そんな想いをすべて吹き飛ばしてくれる瞬間が訪れました。私の目に今も焼きついているのは、韓国人ストライカー、バック・チャンソンの地を這うような鋭く正確なロングシュートが、アルゼンチン・ゴールに突き刺さった場面です。
結果は1対3の完敗。でも涙が溢れました。今、アジアの片隅にいる自分と、あの華やかなワールドカップは、韓国チームの果敢なチャレンジによってつながっているのだと感じました。翌日は友人たちと、それぞれの感動を語り合いました。

日本人の多くがまだサッカーに関心を抱いていなかったその時代に、韓国サッカーとファンたちは、どのような状況にあったのでしょうか。当時、遥かメキシコに代表チームを送り出した韓国サポーターたちは、きっと、今日までの16年間もサッカーを愛し、そしてこの大会でも同じように声援を送っているのでしょう。それは、ここ数年で人気が広がり、ワールドカップ2回目の出場にして本国開催という恵まれた状況にある日本と比べて語るべきものなのでしょうか。彼らの喜びは、ロシア戦での稲本のゴールに沸いた日本のサポーターの喜びと同じなのでしょうか。この先韓国が破れることがあるとしたら、その無念さと達成感は、我々日本人のそれと同質と言えるのでしょうか。

それを知る手立てとして、韓国の「ワールドカップ戦史」を見てほしいと思います。その軌跡はまさに'忍耐と不屈の精神'の歴史です。

【1954 スイス大会】予選の成績
対 ハンガリー 0 : 9 敗
対 トルコ    0 : 7 敗

【'86 メキシコ大会】予選の成績
対 アルゼンチン 1 : 3 敗
対 ブルガリア  1 : 1 引き分け
対 イタリア    2 : 3 敗

【'90 イタリア大会】 予選の成績
対 ベルギー   0 : 2 敗
対 スペイン 1 : 3 敗
対 ウルグアイ 0 : 1 敗

【'98 フランス大会】 予選の成績
対 メキシコ   1 : 3 敗
対 オランダ   0 : 5 敗
対 ベルギー  1 : 1 引き分け

これを見て皆さんはどう感じるでしょうか。敗戦と屈辱の歴史、それでもチャレンジし続けた忍耐と努力の歴史。韓国サッカーとサポーターたちに組み込まれた48年分の遺伝子は、今大会で開花すべくして開花した、私にはそう思えてなりません。
1986年、私が見つめる中でアルゼンチンのゴールにたたき込まれたシュートは、それ以前の32年間の願いがこもった、ワールドカップ初ゴールだったのです。それは、韓国サッカーにとって'天国への階段'の第一歩だったのだと、思えてなりません。
久米宏キャスターはそんな歴史を知っていたのでしょうか。否、そんなことよりも、彼のパフォーマンスに共感しかけていた私が愚かでした。この大会で、日本は確かに'天国への階段'に足をかけたのです。そのことを素直に喜ぼうではありませんか!
ワールドカップに果敢に挑み続けてきた韓国サッカーは、誇るべき遺伝子を有しています。それは、国境とは無縁に尊ぶべきものであるように思えます。今大会での韓国チームの快進撃を、日本人が妬む理由はどこにもないと私は考えます。もう一度その歴史を見直してほしいのです。サッカーを愛し、自国のチームを支え続けた半世紀の軌跡は、日本サッカーとサポーターにとっての良きお手本になるはずです。お手本は立派なほどよいということに、誰も異論はないでしょう。
日本サッカーの8年後、12年後を思うならば、今は素直に韓国のベスト4、いや優勝を願おうではありませんか!(了)