7月のテーマ:乗り物
1960年、「旧ソ連に後れを取るわけには行かない」と当時のアメリカ大統領ジョン・F・ケネディは宇宙計画に力を注いだ。その後、人類初の月への有人宇宙飛行計画であるアポロ計画をスタートさせ、その思いはリチャード・ニクソン大統領政権下に引き継がれた。そして1969年、ついにアポロ11号が人類の月面着陸という歴史的快挙を成し遂げた。冷戦下における旧ソ連との覇権を争いや、宇宙開発によって莫大な利益を得る大手軍事企業のロビー活動など、いろいろな背景があるものの、当時のアメリカ国民、ひいては全世界に大きな希望を与えたのは間違いない。当時の子供たちはみな宇宙飛行士になりたがり、開発者や科学者たちは国民の尊敬を集めた。
1962年のケネディ大統領の演説に、印象的なセリフがある。
We choose to go to the moon. We choose to go to the moon in this decade and do the other things, not because they are easy, but because they are hard.
「困難だからこそ挑戦する」。いかにもアメリカらしい発想だ。まだ見ぬ新しい世界を夢見ながら、不可能に思えることにあえて挑む。そして幾多の困難を乗り越えて、不可能を可能にする。「無理だ」とあきらめてしまいそうなときに、元気と勇気をくれるセリフだ。
そんなアメリカのチャレンジ精神を象徴したのが、スペースシャトル計画だろう。最初のスペースシャトルが宇宙へ打ち上げられたのは1981年。ロナルド・レーガン大統領政権下のことだ。その成功は、アメリカの国際的な存在感、パワー、偉大さを証明し、アメリカ国民すべての希望と誇りとなった。
しかし1986年に、 チャレンジャー号が爆発。7名の宇宙飛行士全員が死亡する事故が起こる。アメリカの成功と権力を裏付ける存在だったスペースシャトルの初めての大惨事に、当時のアメリカが受けた衝撃と絶望感は計り知れない。その後も、スペースシャトル計画は続くもの、911同時多発テロや2003年のコロンビア号の空中分解による全乗組員死亡事故などを経て、2008年のリーマンショックからほどなくした2011年、アトランティス号の打ち上げをもって、人々に希望を与え続けたスペースシャトル計画は、終わりを告げた。
現在、ディスカバリー号やアトランティス号などのスペースシャトルは引退し、アメリカ国内の航空宇宙博物館に展示されている。中でもエンデバー号は、ロサンゼルスのカリフォルニア科学センターに展示されている。昨年2012年にエンデバーがボーイング747に乗ってロサンゼルス国際空港に到着したときは、大勢の市民が空港周辺に駆けつけて、LAの街中が大混乱となった。皆が上空を見上げ、滅多に見られないその光景に見入っていた。私のその中の一人だ。
私は、アメリカをアイディアの国だと思っている。そのアメリカが誇るインスピレーションとイマジネーションの結晶であるスペースシャトル計画がもう存在しないと思うと、とても切なくなる。「困難だからこそ挑戦する」というアメリカの精神はもう過去のものなのだろうか。引退したスペースシャトルを博物館で見た次世代の子供たちが、その歴史と功績に希望と刺激をもらい、新しいミッションに果敢に挑むことを願うばかりだ。
(写真はロサンゼルスにエンデバーが来た時に撮影したものです)
6月のテーマ:衣替え
6月、冬服から夏服への衣替え。
一斉に紺色ブレザーから白シャツ一色に変わった教室は、一段と明るく感じたものだ。視覚的効果は抜群。梅雨前線が絶賛活発なこんな季節でも、気持ちは一気にアゲアゲだ。そう、ウキウキのワクワクが止らなった制服を着ていたころの夏。
中学・高校において冬服から夏服への移行は5月下旬から6月初旬。そして冬服へ戻るのは10月。時期については地域にもよるが、大体こんな感じだ。中高ともにブレザーの学校に通った。夏は、ブレザーなし、セーターなし、シャツ一枚。3年目になるとテカってきちゃうような通気性のいい薄手素材のスカートといったスタイル。1年のうちに4ヶ月くらいしか夏服って着てなかったんだなと今更ながら気づいてちょっとさびしくなった。私は夏服が好きだった。
「だってあそこの制服かわいいじゃん」
っていうのは、進学校を選ぶ理由としていまだに健在なのか?この少子化時代、一人でも多くの生徒獲得のために伝統の制服デザインを一新、チェックのスカートとブレザーに変えちゃいました、なんて学校も実際あったであろう。それと、都内でのセーラー服遭遇率がめっきり減ったことと関係性を否めない。『あまちゃん』でも、この変化は見られる。母親・春子が通っていた時代はセーラー服だった北三陸高校の制服も、娘・アキが通う現代ではブレザーになっている。セーラー服は、私にとって、一度も袖を通したことのない、あこがれのままあり続ける存在だというのに、世間ではもはや斜陽アイテムなのだ。そんな危惧とは無関係にアニメの世界では圧倒的な存在感を示している。月野うさぎだってセーラー服あっての超有名戦士だし(ちょっと古いが、避けては通れない。その人気、世界レベル)、涼宮ハルヒが通う県立北高校では、男子はブレザーでも女子はセーラー服(amazonではウィッグ付きで\4,999で買えます)。咲ちゃんだって、日暮かごめだって小松崎海だって(昭和過ぎ?)セーラー服を着ているのである。まぁ、例を挙げればきりがない。
不思議な論調で本日のコラムを書いているのは本人が一番気づいている。だが、多大な影響を私に与えたこの作品に触れずにはいられない。1981年制作の角川映画『セーラー服と機関銃』(相米慎二監督)である。この作品のポスターを覚えているだろうか?セーラー服を着たショートカットの薬師丸ひろこが、まん丸の目を見開いて機関銃を高々持ち上げている、あのビジュアル。今見てもかなりの"キュン"ものだ。あのわき腹をほーんの少し見せるか見せないかで、このポスターの魅力は格別に変わる気がする。1990年代後半に安室奈美恵をきっかけに流行した腹見せファッション。腹見せ、へそ出し、へそピー(ピアス)姿の女子たちがそここちらに出現したのだ。しかし、この映画はそれよりずっと前。1981年制作。あのポスターに見る薬師丸ひろこのわき腹は、当時、効果絶大、男子のみならず女子の心までグッとつかんだのであった。たぶん。夏のセーラー服。1920年ぐらいからずっと日本の学校に制服として採用されつづけたデザインにはそんな絶対領域(※注)があったのだっ。たぶん。
「僕はあのポスター大好きですが、同時に悲しくなりますよ。
どんなにキュンとしても、はなから渡瀬恒彦にはかなわないんだろうなという...
敗北感が心に広がるんです。」
同世代の某ディレクターのちょっと切ない、いや、かなり痛いコメントを紹介して本日のコラム、終わり。
【※注:絶対領域】
スカート、ショートパンツなどのボトムスとニーソックス(サイハイソックス)を着用した際にできるボトムスとソックスの間の太ももの素肌が露出した部分を指すオタクの使う萌え用語。
(Wikipediaより)
6月のテーマ:衣替え
私が通っていた中学校では、衣替えはピンポイントで決まっていた。5月31日まで冬服を着ていて6月1日からは全校生徒が一斉に夏服になる。暑さ寒さによってどちらを着ても良いという移行期間がないのだ。でも、それはそれで新鮮だった。昨日まで一緒に過ごしていた友達がいつもと違って見えてくる。お互いちょっと気恥ずかしさがあり教室の中も一気に明るくなる。好きだった女の子もいつもより眩しく見えたりした。テンションも上がり、友達と意味もなく廊下を走り先生に怒られたりもした。
実家に住んでいるときは私服もちゃんと衣替えをしていた。というか親がしてくれていた。今思うと本当にありがたい。しかし、一人暮らしを始めてからは収納スペースがなくなったこともあり、衣替えをしなくなってしまった。もちろん、コートやジャケットなどはクリーニングに出すが、そのままクローゼットに戻すだけだ。夏に着る半袖シャツやTシャツも同じ部屋のタンスの中にある。そして、ただそれを出して着るだけなので衣替えをしている感覚がない。
衣替えのように、身近な環境が変わることによって心も一新して何か新しいことや今まで挑戦したことのないことに自然と目が向いているときがある。
学生時代、私は授業の英語が大嫌いだったが洋画や海外TVドラマは大好きだった。そのこともあり、いつか英語ができるようになりたいという願望はずっと心の奥底に持っていた。いつも着慣れないスーツを着て就職活動をしていたとき、今、英語を勉強しないとこのまま一生何もやらないなと思い一念発起した。せっかく英語を勉強するなら好きなドラマに字幕をつけたいと夢を抱き、映像翻訳者を目指した。結果、立派な翻訳者にはなれなかったけど、何本か翻訳の仕事をさせていただいたことにとても感謝している。もし、あの時思い立たなかったら今でも勉強しておけばよかったとずっと後悔していたと思う。
基本、私は何をやるにも"石橋をたたきすぎる"傾向がある。結局、考え過ぎて何も行動をしなかったということがたくさんある。チャンスやきっかけがあったのに一歩を踏み出さずに終わってしまう。何か始めようと思うきっかけはどこにでもあり、いつ始めるかは自分で決められる。まさに"思い立ったが吉日"だ。衣替えも、気分を一新して何かに挑戦する良いきっかけになるのではないだろうか。今年の夏はいつもより少しちゃんと衣替えをして新しく前に一歩踏み出してみよう。自分の世界がもっと広がり新しい自分を見つけられることに期待をして。
5月のテーマ:寄り道
大学在学中、1年ほどキューバに留学した。日本人の数は、それほど多くなかったけれど、その間、いろんな目的や事情で来ている日本人に出会った。音楽の修行に来ている人、恋人や旦那さんがキューバ人という人。それから、世界中を旅してまわっているバックパッカー。あるバッグパッカーの青年は、キューバは初めてでスペイン語もできないけれど、このイレギュラーだらけの国でもすぐにコツをつかんで、交渉やヒッチハイクをこなしていた。そんな青年を見て、何度もキューバに来ていたある日本人の男性は、私にこんなことを言った。
「世界中いろんなところに行って、旅慣れていることより
この国を深く知っていることの方が価値がある」
いろんなところに行って、旅慣れているわけではない私はこの言葉に励まされながらも、疑問を覚えた。
「そうだろうか?」
そもそもどちらが優れているとかいう問題ではない。いわば旅のプロと、キューバのプロ。どちらにも、それぞれの価値があるし、完全に切り離すことはできないはずだ。旅をするための方法と、どこかに特化した知識。どちらも備われば百人力だ。
映像翻訳を世界に見立ててみれば、同じような問題に突き当たる。映像翻訳のプロというのは、概して例えるなら「旅のプロ」に近い。方法を知っているということは、適応能力があるということだ。専門外のことが来ても、どうすればベストか、判断し実行できる。もちろん、専門性があまりに高い場合は、お手上げのものもあるだろう。その道のプロに任せるのが得策という場合もある。とはいえ、汎用性や柔軟さは、翻訳者として欠かせない要素であることは間違いない。その上で、詳しいと言える分野がいくつかでもあれば、深い海溝を持つ大海原のように、おっきな翻訳者になれる。
受講生や修了生の皆さんのプロフィールを見る度に、ここにたどり着くまでに、実に様々な経験をされているなと感じる。職歴であったり、趣味であったり、子育てであったり、家族の都合であったり...。いろんなところに寄り道(そんな気軽に呼ぶレベルのものではないとしても)をしてきたことが、翻訳者としての付加価値を与えてくれる。実際に仕事が始まれば、新しい案件に出会うたびに、新たな世界の扉を開くことになる。でも、プロの寄り道は本気の寄り道。納期までに全身全霊で、今向き合っている案件に没頭し、突き詰めることができるかどうか。
そうやって、プロとして活躍している修了生の皆さんを、私は心から尊敬している。なかなか直接言える機会はないけれど、ここで改めて感謝の気持ちを表したい。
いつも、本当にありがとうございます。
5月のテーマ:寄り道
これまでの人生、寄り道ばかりしてきた。大概ろくな目にあわないと分かっていながらも、いざとなると目的地とは逆方向の道を選んでしまう自分がいる。
小学生の頃は、学校帰りの小さな寄り道が何よりの楽しみだった。親の注意はそっちのけにして、近所の広場でカマキリを捕まえたり、友達の家に寄ってみたり、毎日のように道草を食いながら帰宅していた。中学生にもなれば、そんなことを続ける子はあまりいないのだろうが、僕は相変わらず寄り道グセが直らず、とうとう親の注意を長年無視してきたバチが当たった。ある日、いつものように友達とふざけながらフラフラと遠回りして帰っていると、部活用にレンタルしていたヴィオラを途中で失くしてしまったのだ。どこで落したんだろう・・・先生になんて説明しよう・・・弁償金はいくらだろう・・・親に殺される・・・。そんな思いが一通り脳裏をよぎると、頭の中が真っ白になり、その場で泣き崩れたのを今でも鮮明に覚えている。尋常じゃない泣き方だったのだろう、一緒にいた友達は本気で引いていた。
小さな寄り道は、迷子や遅刻の原因にもなるのでいい大人がすることではないと思うが、経験上、人生の寄り道と呼べるような思い切った決断となると、その向こうには必ず新たな発見が待っている。現にこうして映像翻訳の仕事をさせてもらっているのも、思えば大きな寄り道から始まった。少なくとも、大学を卒業してアメリカから帰国すると決めた時点ではそのつもりだった。あれから早9年、しばらくは帰国後も寄り道に寄り道を重ねて転々としていたが、映像翻訳に出会ってからは、アメリカに戻って永住するというそれまでの長期プランはご破算になり、ようやく軌道修正できて今は進むべき道が見えている。
ちなみに例のヴィオラはというと、あの後、立ち直れずひたすら号泣している僕を見かねた友達が慌てて辺りを探してくれて、思いのほかすぐに出てきた。逆に申し訳ないぐらい呆気ない結末。それでも他の仲間の前ではこのエピソードについて一切触れないでいてくれた友達には感謝の気持ちでいっぱいだ。
4月のテーマ:涙
涙、または涙を流すという生理現象が、映画やテレビをはじめ多くのエンターテイメントの世界ではキーワードとなっている。
特に宣伝においては、「涙なくしては観ることができない」というキャッチコピーがあったかと思えば、映画を見終えた観客(もしくはそういう設定の役者)が「もう感動して涙が止まりませんでした」とか言っているコマーシャルがある。「汗と涙の結晶」というフレーズには、どんな結晶だとツッコミたくなる。
どうもこうした感情を押しつけるような宣伝には、なじめない。宣伝する側が、その映画がどんなストーリーで、どんな俳優が演じているのかという情報だけでは、その作品の魅力を十分に伝えきれないと思ってるのだろうか。はたまた観客自身が、誰かの意見や感想を聞いてからではないと、観るかどうかの判断を下せなくなってしまったのか。
そういう自分も、ネット通販やレストランガイドのサイトを見るときは、必ずコメント欄をチェックして誰かの意見を参考にしているが、それは製品のスペックと値段を客観的に比較しているのであって、他人の抱いた感情を押しつけられていることとは違うのだ。
そこにいくと同じく「涙」をうたい文句にしているものであっても、昔ながらの「お涙頂戴」というフレーズは潔い。思い切りがよい。一般的には「この映画はお涙頂戴の映画でして...」などと言おうものなら、俗っぽい、安っぽい、みみっちいというマイナスイメージが強烈で、むしろ嫌悪感を抱かれてしまうのだろうが、「私は泣いたけど、あなたが泣くかどうかは分からないわ」という中途半端なことは言っていない。「観客を泣かせるように作っています」という明確なメッセージが届いてくる。「頂戴」、すなわち「泣いてください、お願いします」とへりくだってさえいて、実に吹っ切れているのだ。
いずれにせよ、笑ったり、悲しかったり、感動したりして涙を流すような映画やテレビドラマに出会えればよいのだが、あくびをしり、目にゴミが入ったりしたりするときに出る涙でなければ、良しとしよう。
4月のテーマ:涙
大人になると子どもの頃と比べて号泣することは少なくなると思う。思い返してみても、例えば失恋や仕事で嫌なことがあった時もちょっぴり涙がこぼれる程度だった。映画を観ていて感動シーンに涙しても、エンドロールが終われば余韻に浸りつつ、何でもない顔で映画館を後にすることが多い。では最後にものすごく泣いたのはいつだろうかと考えると中学の卒業式だったような気がする。
友達と遊んだり、部活動にいそしんだり、それなりに楽しかった中学時代ではあったけれど、それほどクラスメートたちと別れるのが悲しかったわけではない。にもかかわらず卒業式の最中、私と、同じクラスの割と仲のよかった数人だけが卒業証書を受け取るのもままならないほど号泣してしまった。
子の成長を涙ながらに見守っているはずの母親からも「あんなに泣くなんて、見ていて恥ずかしかったわ」とか言われて「確かにそうだよね」と我に返ると不思議な気分になった。
もし当時の映像が残っていても絶対に見たくない。当たり前だが、その日に撮ったどの写真を見ても泣きはらしたはれぼったい目をしたブサイクな私が写っている。
しかも悲しいことに、今でも親交のある中学時代の友人はいない...。
SNSを活用する友人から「小学校時代の同級生とつながった!」などと楽しげな話を聞くことがある。そういった類のシステムにまるっきり疎い私だが、近いうちにマスターして、かつての友人に「あの時の涙は何だったんだろうね?」と聞いてみたい。
3月のテーマ:応援
バリアフリー講座が来週、終了する。いま講座の受講生は30分弱という、かなり長めのクローズドキャプション制作の課題に取り組んでいるはずだ。
受講生の中にはすでに映像翻訳の世界で活躍している方もいれば、映像翻訳の実務経験がない方もいる。
さらに飛行機で数時間かけて遠方から来ている方、仕事の合間を縫って時間を捻出し通っている方まで、キャリアや背景は様々だ。
共通しているのは、何が何でも、このスキルを身に付ける! という気迫と表現者としての誇りだ。
講義に入ってみて、それを目の当たりにした。
私をはじめ、スタッフ一同、プロ化のサポートを全力でしていく決意を新たにした。
バリアフリースキルは、いまや映像翻訳者のような、言葉を扱うプロの職能として大変注目されている。
日本語の素材を日本語で伝える、簡単なように思えるかもしれないが、そう思った方は是非、説明会や勉強会に出席してみてもらいたい。
(開催予定は日程が決まり次第、メルマガなどで告知予定)
聴覚障がい者用字幕にしろ、音声ガイドにしろ、映像や音声に頼ることは一切できない。"見れば(聴けば)分かるでしょ"という言い訳は通用しない。
バリアフリーは、見ることや聴くことが困難な視聴者を対象に、日本語で作られた素材を分かりやすい日本語で表現するスキルだ。
一朝一夕で身に付くスキルではないが、言葉を使って何かを表現することに喜びを感じる方はチャレンジしていただきたい。
3月のテーマ:応援
自分以外の何かに全力で肩入れし、声援を送るという心理はとても不思議なものだ。その対象が好きだからといって、なぜ応援したくなるのか? なぜ、ただ好きだと思っているだけでは飽き足らないのだろうか?
そんな応援の心理についてはよくわからないけれど、応援するという行為が特別な体験であることはわかる。わりと冷めた性格の僕にも、そんな思い出があるのだ。
僕はかつて、キャンパーだった。それも設備の整った至れり尽くせりのキャンプ場で満足するようなキャンパーではない。ザックにテントや飯ごうやコッヘル(携帯用の調理器具)を詰め、仕上げにカップをぶら下げる、そんないっぱしのキャンパーだった。とはいっても小学生の頃の話なので、そこまでシリアスなキャンプをしていたわけでもない。たいていの場合は1泊か2泊くらいの日程で奥多摩あたりに出かける程度だ。いってみればアベレージ・キャンパーだったわけだが、そんな僕も一度だけ、わりとハードコアなキャンプを体験したことがあった。
ある夏休み、僕は北海道の人里離れた山奥で1ヵ月のキャンプ生活を送った。今でいうNGOのような組織が主催していたプログラムで、河原や山すそを含む広大な土地に無数のテントが張られ、そこで各地からやってきた数百人の子どもがキャンプ生活を送るのだ。そこで子どもたちは特に何をするというわけでもなく、ほとんどの日は1日3食の食材の配給以外には何も予定がない。ただ毎日キャンプをして過ごすことだけが目的の、極めてリベラルな(というべきか)プログラムだった。
だから子どもたちは自主的にキャンプのノウハウを身につけたり、いろんな時間の潰し方を編み出したりした。ある日は近くを通る川の上流を探検してみたり、また別の日は肉を干してみることを思いついたりして、初期人類が飢えの心配をしなくてよくなったらこんな過ごし方をするだろうなというような日々を送っていた。
そんなキャンプ生活も終盤にさしかかった頃、ある一大イベントが催された。「合戦」である。参加者を2チームに分け、それぞれの陣地(一方は山の中腹、もう一方は川沿い)に自チームの旗を立てる。参加者は頭にはちまきを巻いてそこにお麩(焼き麩)をぶらさげ、そのお麩が取られたり割られたりした者は脱落となる(なぜお麩なのかはわからない)。そして最終的に、敵陣内深くにある相手チームの旗を奪ったチームが勝利するというルールだった。
充実しながらもめぼしい変化のなかった日々に降ってわいたこの壮大なお遊びに、みんな熱狂した。子どもたちは険しい茂みをものともせずかき分けて奇襲攻撃をしかけたり、侵入してきた敵を一網打尽にするべく無数の穴を掘ったりと、あらゆる手を使って勝利を目指した。
攻防は半日にわたって続いた。いくつもの作戦が打ち破られ、何人もがお麩を割られて脱落していった。そして僕が15人くらいの子と敵陣に向けてとぼとぼと移動していた時、味方の側面攻撃隊が開けた山腹にぽつんと立つ大木を取り囲むのが見えた。その木のてっぺんには敵チームの旗が立っている。
周りにいた子たちは、僕も含めてみんな砂ぼこりにまみれて疲れ切っていたが、その様子を見るなり、ありったけの声を上げて声援を送り出した。低学年くらいの子も中学生くらいの子も、誰もが一心不乱に叫んでいた。
実を言えば、この時すでにタッチの差で川岸に立っていた僕たちのチームの旗は奪われていた。でも周りの誰もまだそのことを知らなかったし、僕たちは残りの体力を振りしぼって一丸となって声援を送っていた。声をあげるごとに気分は高揚し、力がみなぎった。それだけですでに勝利を収めたような気持ちになっていた。
その夜、僕は一緒に行動していた子たちと集まって火を熾し、その周りに座って時間を潰していた。ゲームには負けたけれど、不思議なことに誰もが妙に満足げな様子で火を眺めている気がした。僕はぼんやりと、山腹の木に向かって大声を張り上げていた時のことを考えていた。隣の子に今日何が一番面白かったかと聞くと、山腹の木に向かって大声を張り上げていた時だと言った。
今でも、あの木と、それを取り囲む頼もしい連中の姿と、そして僕たちの怒号のような声援ははっきりと思い出せる。そしてあれから今日に至るまで、誰かに対してあれほど精一杯の声援を送ったことはないんじゃないかと思ったりする。
3月のテーマ:応援
「クラウドファンディング」に初めて参加した。クラウドファンディングとは、インターネットを使って小額を多数の支援者から募り、アート、音楽、映画などクリエイティブなプロジェクトを実現するという、資金調達とサポーター集めの方法だ。
今回、私がサポーターとして参加した作品は、映画『ハーブ&ドロシー ふたりからの贈りもの』。これは『ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人』の続編にあたる。前作の先行上映会と佐々木芽生監督のトークイベントに足を運ぶ機会があった私は、続編のプロジェクトのことを知って迷わず参加を決めた。1作目が劇場公開に至るまでの監督の話を思い出したからだ。
大きな映画会社がバックについていないインディペンデント映画を作る場合、製作費を工面することがどれほど困難か、彼女(監督)の話からリアルに伝わってきた。資金が途絶え、借金を抱えながら、約4年の歳月をかけて完成にこぎつけたそうだ。その話にショックを受けた記憶がよみがえり、普段はバーチャルなコミュニティに尻込みする私の指が、ためらいなくプロジェクトへの参加登録を行っていた。
支援といっても、主に本編の観賞券や前作のDVDなど、さまざまな特典を購入する形になっているので、純粋な寄付というスタイルではない。プロジェクトが設定した目標金額は1,000万円。支援期間は2月に終了し、合計915人が参加、 14,633,703円が集まった。寄付ではないにしても、破格の金額である。
「私は、25年間NYに住んでいるので、何でも自分1人でやり遂げることに慣れていました。人にお願いしたり、頼ったりするのが、苦手でした。今回皆さんに応援していただいて、大きな気付きを頂きました。人間は1人では生きていけない、ということ。そして人に支援していただく立場になって初めて、自分も人を支援し、誰かの、世の中の役にたてる人間になりたい、と思うようになりました」 これは監督から届いたメッセージの一部だ。私の貢献など微々たるものだが、今後もさらに多くの人とこの作品を共有できたらうれしいし、3月30日からの公開がとても待ち遠しい。
前作を簡単に紹介すると、主人公はマンハッタンの小さなアパートに住むハーブ&ドロシー夫妻。80歳を超えた2人に密着し、彼らの人生に迫るドキュメンタリー映画だ。
郵便局員の夫ハーブと図書館司書の妻ドロシーは、結婚した直後の1960年代から現代アートのコレクションを始める。彼らが作品を買う基準は2つ。自分たちの収入に見合ったもの、そしてアパートに入る大きさのものだった。当時無名だったアーティストはどんどん有名になり、夫妻のコレクションの価値も高まっていく。メディアでも取り上げられるようになり、夫妻は美術界で有名なコレクターに。30年に及ぶコレクションはアパートの部屋中いたる所にあふれかえり、2人は作品のほとんどをワシントンのナショナル・ギャラリーに寄贈することを決意する...。
アートの世界はまったくの門外漢の私だが、膨大なコレクションを1点も売らずにつつましく暮らすハーブとドロシーに感銘を受け、2人の仲睦まじい姿に頬が緩んだ。夫妻の日常を追う映像からは、監督の深い愛情と尊敬の念がにじみ出ていた。3月の柔らかい日差しのような温かい作品との出会いに感謝し、心からエールを送りたい。