やさしいHAWAI’ I

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第3回: "サードフロア"の空き部屋  
2010年05月20日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近のわたし】つらいヒノキの花粉症シーズンも終わり、これからは大好きな夏を迎える季節。輝く太陽を見ると胸がときめくこの頃です。
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当時のアパートのマネージャーは、ファーンズワース夫妻といった。夫のビルはアメリカ人でユナイテッド・エアラインに勤務。妻のオナーはイギリス人で、マネージャーの仕事の傍ら、YWCAでエアロビックスを教えていた。

この優しい夫妻にはクレイグとグレンという2人の息子とネコが1匹いた。ネコの名前は「アカ」。アカは「赤」、毛並みの色から付けた名だ。オナーは大の日本好きで、ネコに日本語の名前を付けたのだ。長男のクレイグもママに似て日本が好きで、私は彼にしばらく簡単な日本語を教えていた。二男のグレンはまだ小学生なのに手足が長く、実にカッコいい少年だった。

ハワイ生活が始まり2カ月ほどした時、義父が食道がんで倒れ、日本に一時帰国した。病院につききりで看病していたのだが、看病にあたる私もどうも気分が悪い。ついでと思って義父が入院していたその病院で診てもらうと、おめでたであることがわかった。間もなく義父は亡くなり、夫は仕事があるので先にハワイへ帰ったが、私は安定期の5カ月になるまで日本に残った。

その間、家族が1人増えるということで、ハワイにいる夫は同じアパートでも部屋数が1つ多い、4階建ての棟に移ることにした。マネージャーの妻オナーに部屋を移る件を相談すると、彼女は、4階建での方は"サードフロアに1つ空き部屋がある"と言ったそうだ。夫は3階なら、階段の上り下りも、まあ何とかなるだろうと考え、すぐに部屋を移る契約を交わした。ところがオナーはイギリス人。建物の階数を数える時、まず1階の"グランドフロア"から始め、2階がファーストフロア、3階がセカンドフロア...と続く。つまり、オナーの言う空き部屋とは、3階ではなく、4階の部屋のことだったのだ。

2カ月後、ハワイに戻った私は、大きなおなかを抱えながら、買い物をするたびに、4階までよいしょ、よいしょと階段を上り下りすることになる。このアパートにはエレベーターなどはなく、ランドリールームは3階建ての棟と同じく1階。長男が生まれた後は、毎日のおむつの洗濯もある。(当時は今のように紙おむつがそれほど一般的ではなく、私は昔ながらの木綿のおむつを使っていた)。

ある日、おむつを洗いに1階まで下りていき、用を済まして走って部屋まで戻った時のことだ。私も気付かない間に突然寝返りを覚えた長男は、側に置いてあったベビーパウダーの入れ物をひっくり返し、顔中真っ白にしていたのだ。それを見て、あわてて長男の顔をぬぐった私は、笑いごとではないと思いながらも、何だかたまらなく可笑しくなって、しばらく笑いが止まらなかった。

息子よ、ゴメンなさい。

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〔4階建のアパートの部屋で長男の1歳のバースデー。ファーンズワース一家は右からビル、オナー、クレイグ(手前の金髪の長男)、グレン(奥にいる面長な二男)。中央が私と長男。左にいるのが、日系二世のタノウエさんとお孫さん、娘さん。1974年当時〕







第2回:「ヒロのアパート」   
2010年05月07日

1972年も押し迫った12月、夫の海外赴任でいよいよハワイでの生活が始まった。住まいとなったアパートは、ヒロのダウンタウンへ向かうキラウエアアベニューから北に少し入った、マイレストリートにあった。

アパートは3階建と4階建の2棟。造作は実に簡単で、壁はむき出しになったブロックにペンキが塗ってあるだけだった。我が家は3階建の棟の2階で、入り口のドアを開けるとリビング・ダイニングキッチンと、奥にベッドルームが1つ。しかし2人暮しには十分な広さだった。リビング・ダイニングキッチンはおよそ20畳ほどあっただろうか。

冷蔵庫、オーブン、ベッド、ソファ、ダイニングセットなどは備え付けだった。流しにはディスポーザー(生ごみ粉砕機)がついており、鶏の骨以外の生ごみはそこに詰めて粉砕し、水で流してしまう。慣れないうちは、指まで粉砕してしまいそうで怖かった。エアコンはついていなかったが、あまり必要性を感じなかった。

ヒロは雨がよく降る町で、特に夜明け前の4時前後に、ザーッという雨音でよく目が覚めた。その雨で気温が下がり、朝方はヒヤッとするくらいだった。

ハワイでの快適な毎日の生活で、ただ1つ不便なことがあった。ランドリールームが1階にあり、毎日洗濯かごを抱えて階段を上り下りしなくてはならない。ランドリールームの入り口があるアパートの裏側には、当時バナナの木やヤシが生い茂っていた。真っ暗な室内には大きな洗濯機と乾燥機が2台ずつ並び、誰かの下着を入れてガラガラと音をたてながら回っている。

周囲には人の気配がなく、少しぐらい声を上げても誰にも気づかれそうになかった。私は洗濯かごを抱えながら、恐る恐る入口の電灯のスイッチを点け、中に誰もいないことを確認しながら洗濯をした。

しかしそのうちそんな環境にも慣れ、時には洗濯機が空くのを待ちながら、アパートの住民と世間話ができるようになった。私たち以外はすべてローカルの人たちで、とてもフレンドリーで親切な人たちばかりだった。

この"1階のランドリールーム"は、その後もちょっとしたトラブルの原因になる。私たちはホノルルへ移るまでのおよそ2年間を
このアパートで過ごすことになる。ランドリールームが1階にあることを除いたら、全てが快適な このアパートで。


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[30年以上経って訪れてみたが、以前よりきれいになっていた。
現在の所有者は弁護士でハワイ大学の学生向けのアパートに変わっていた。写真は現在の様子]