英国ゴールデンエイジ前夜
一体、誰が主人公なのだろう?
激情を隠さず、持てる力全てを使って誰しもを手玉にとり、遂には王までも手中におさめた"光の悪女"アン・ブーリン。
思いやりに溢れ、ささやかな生活を望みながらも王と愛を交わすことになった"陰の淑女、愛の人"メアリー・ブーリン。
信仰の擁護者の称号を授けられつつも"王のアイデンティティー"のために自分の王国内外をねじまげたヘンリー8世。
ひたすらに、一途に。三者三様、己の信じる道を貫きとおす姿が圧倒的だ。
全編通してHDカメラで撮影された映像は中世の美しい自然や衣装、そして表情を克明に映し出している。
表情といえばヨハンソンとポートマンの文字通りの競演が見所の1つ。息遣いひとつから何気ない目線の投げ方までもプライドのぶつけあいをしている。
ヘンリー8世のエリック・バナも2人の引き立て役に留まらず威風堂々たる王様っぷりから歴史を産む狂気までを好演。
鬼気迫る主役陣と周りを固める舞台上がりの演技巧者たちがこの作品に息を吹き込んでいる。
テレビシリーズで名を馳せた監督らしくテンポの良さと巧みな引き込み方で観客を飽きさせることなくエンディングまで運んでいってくれる。その後には少し重たく、しかし後悔のない余韻が残るはずだ。
王室のあるべき姿とは
イギリスの王室と聞くと、クイーンズ・イングリッシュを話し、優雅で気品のある人々を思い浮かべる。ノーブレス・オブリージュという考え方があるように、社会的地位の高い人々には社会に対する義務が生じるわけであり、ましてや王室レベルともなると、非常に大きな責任感を抱いていると信じられている。
王室の役割の1つは、国の伝統を守り、国民の規範となることであり、憧れと同時に見習うべき対象なのである。
しかし本作品を観ると、王室の内部での人間模様はそのイメージとは反対に、血生臭く、自己中心的であらゆる欲望にまみれており、そんな人たちが国を動かしてきたのだと知ると、驚きと同時に落胆を感じないわけにはいかない。
当時は議院内閣制が成立しておらず、国王が政治を動かしていた。まさに国王とその周りの人々によってイングランドは振り回されていたのだ。
英国王室は、もともと覇王であり権力闘争で勝ち抜いてきたのだから、ある意味、やりたい放題であっても彼らの力がある限り文句は言えないのかもしれない。しかし、果たしてそれでいいのだろうか。単なる覇王ではなく特別な存在として、彼らは王室の存在意義をまっとうしているだろうか。
この映画を観て日本の皇室を思い浮かべない人はいないだろう。英国の王室と日本の皇室はまったく性格の違うものだが、似通っている部分もあり、やはり両者を重ねて考えてしまう。
制度上は彼らのような公人に人権はないとはいえ、我々と同じ生身の人間である。ロボットのように制度の中に組み込まれて生きていくことに息苦しさを感じるのは当然だ。だからといって、好き勝手されては王室や皇室が機能しなくなる。王室・皇室の人々自身はもちろん、国民にとってもジレンマがあるのだ。
これは、王室・皇室のあるべき姿について考えさせられる作品である。
真摯なCostume Playを堪能
悪名高きヘンリー8世に愛された姉妹の対象的な生き方が、時代考証の安定した舞台装置の中で、それぞれの人物が生き生きと躍動し、大変満足度の高い観賞となりました。
ヘンリー8世でさえもそれなりに人間として理解できるのは、チャドウィック監督の脚本選びと撮影が素晴らしい為でしょうか。また、どの俳優も持ち場を生かし、人物描写に無理がなく、権力欲の権化のようなテューダー王朝の現実が今の時代でもありえないことではないと思わせられました。
個人的にはスカーレット・ヨハンセンのメアリーがより画面にしっくりくる印象を受けました。ナタリー・ポートマンはどうしてもアメリカの現代っ子という感じが拭えず、最後まで違和感が消えませんでした。
ただどの場面をとっても絵になっていて、衣装も豪華絢爛、イギリスの古城、自然がただただ美しく目を楽しませてくれたことはいくら強調しても足りないほど。
アンの処刑後、メアリーがアンの女の子エリザベスを育て、田舎で彼女を愛した若者と暮らした結末にはほっとしました。そしてその若者が私が『美しすぎる母』で惚れ込んだ若手舞台俳優出のエディ・レッドメインとは嬉しい配役でした。
以前に『エリザベス:ゴールデンエイジ』を観ていたので、で、エリザベス1世が一生独身だったのも納得という感じです。歴史がとても身近に、人間の今も変わらぬ「性(さが)」がぐっと胸にこたえる映画でした。
また、こういう映画で世界の歴史を身近に学びたいです。
愛が歴史を作った?
『ブーリン家の姉妹』この映画を紹介しようとすると、『ブーリン家の姉妹』は...、と思わず口ごもってしまう。それほど語り難く、一筋縄ではいかない作品である。
16世紀のイングランドの宮廷を舞台に繰り広げられる王(ヘンリー8世)と新興貴族ブーリン家の2人の姉妹、そして周りの人物たちによる愛憎劇がストーリーの1つのテーマだが、背景として、イングランドのローマ教会との断絶や他の欧州諸国(スペイン、フランス)との関係などにも触れており、歴史物としても十分に楽しめる。
公式ホームページを見ると「世界を変えた華麗で激しい愛の物語」とあるが、そこで繰り広げられる人間模様は目まぐるしくも生々しい。
新興貴族であるブーリン家が台頭していくための戦略として、宮廷に愛人として送り込まれた同家姉妹のアンとメアリー。最初に妹のメアリーがイングランド王ヘンリー8世の寵愛を受ける一方、姉のアンは許婚者がいる男性との"不適切な関係"(当時は重大な罪とされた)の表面化を避けるため、フランスへ極秘追放される。
メアリーは王の子を身ごもり、男子を出産するも妊娠を機に王の彼女への訪問回数は減りがちに。そんな折、アンが帰国し、王の気持ちは彼女に傾く。そして姉妹間の確執が始まり、アンは王の寵愛を妹から勝ち取ったのをいいことに王妃の座につくという野心を抱く。
野心の実現のためには、その当時王妃だったキャサリン(ヘンリー8世の最初の妻でスペインから嫁いだ)を排除しなければならない。この目的を達成するためアンは邁進するのだが、彼女の根本にある行動原理は"王から真の愛を得たい"という想いではなかっただろうか。
彼女は「権力や地位の伴わない愛など無意味である」というセリフによって、妹メアリーの王への純愛との違いを鮮明にしてはいるものの、これも彼女なりの真剣な愛し方であった、と捉えることもできる。
こうしたアンの"愛"が結果的にイングランドのローマ・カトリック教会との決別、そして王のイングランド国教会のトップ就任(すなわち政教一致)という歴史の大波をもたらすのである。
この映画は鑑賞後に深い余韻を残すことは言うまでもなく、"イングランドの歴史"というさらに広大な、奥の深い、興味深い世界への道案内の役を果たしてくれる。
何が姉妹に起こったか
『ブーリン家の姉妹』の原題は"The Other Boleyn Girl"。これは作中でナタリー・ポートマン演じるアン・ブーリンが、"ブーリン家の姉妹のひとり"という意味で言うセリフである、「私は、もうひとりのブーリン家の女」から来ている。
16世紀のイングランド。ヘンリー8世と王妃には世継ぎの男児がいなかった。貴族のブーリン家は娘のアンをヘンリー8世の愛人に差し出そうとする。もしアンがヘンリーの男児を産めば、宮廷で権力を得られるからだ。しかし、ヘンリーが選んだのはアンの妹のメアリーだった...。
この作品の面白さは姉妹を演じた女優のキャスティングにある。ヘンリーを純粋に愛そうとするメアリーにスカーレット・ヨハンソン。王妃という地位を得るために手段を選ばないアンにナタリー・ポートマン。普通なら2人のキャスティングは反対になるはずだが、あえて逆の役に配置することで観る側に新鮮な印象を与える。
ここでは、スカーレット・ヨハンソンは姉思いの優しいメアリーを、ナタリー・ポートマンは自由奔放で勝気なアンを見事に演じている。
さらに興味深いのは、アンとメアリーを善と悪とに単純には分けずに描いた点だ。姉妹は光と影のように一対の存在で、姉妹のどちらかに光が当たると"もうひとりのブーリン家の女"が影のように現れる。2人は時にはお互いを嫉妬して憎み合うが、ある時には助け合おうと必死になる。
結婚と世継ぎを産むことが権力を得るための手段だった時代。逆らうことのできない運命に翻弄される姉妹の物語は最後まで緊張感にあふれていて、見る者は息を呑むほかない。
蛇足だが、アンの娘エリザベスは後のエリザベス1世である。エリザベス1世について描かれた映画では、1998年に作られた『エリザベス』が有名である。
『ブーリン家の姉妹』を『エリザベス』を観ると、2本の作品の世界をより深く味わうことができるのではないだろうか。
地位か幸せか、欲しいものを手に入れた姉妹の話
私がこの作品のヒロインの1人、アン・ブーリンを知ったきっかけは、ある1枚の絵でした。題名は「ロンドン塔のアン・ブーリン」。
その絶望に満ちた虚ろな目が印象に残っています。確か、王に疎まれ、斬首されたと解説が添えられていました。
今回、この作品の公開を知って、あの虚ろな目が頭をよぎりました。あのアン・ブーリンの映画。斬首されるまでに疎まれた王妃。そこまで疎まれるなんて、一体、どんな女性だったのだろう。今回の作品はアンの物語だと思っていました。
しかし見るにつれ、アンの妹メアリーの深い愛に引き込まれるのです。アンのために王妃の座を追われたキャサリン王妃の気高さに感動するのです。そしてまた、国王ヘンリー8世とブーリン家の男どもの情けなさにある意味泣けるのです。
愛情深い妹メアリーは最終的に幸せを手にいれ、姉のアンは処刑台で人生を終えます。
国王を意のままに動かし、王妃の地位に上り詰めたアン・ブーリン。駆け引きだけで手に入れたものは失うのも早いということでしょうか。
国民から愛されたキャサリン王妃を追いやったことから国民に嫌われ、魔女と呼ばれ、夫の命令により処刑された悲劇の王妃、アン・ブーリン。しかし現在のイギリスでは彼女の人気が高いというのが興味深いところです。
娘が出世の道具だった時代、自らの才覚だけを武器に、一国の王妃にまでのし上がったアンのその手腕と度胸が、現代の女性たちの心に訴えかけるのかも知れません。
勝気で自信たっぷりなナタリー・ポートマン演じるアンに、女の強さと同時に哀れみを感じる作品です。
美しい姉妹の宿命
西洋史に造詣の深い方ならタイトルからピンと来るかもしれませんが、後にイギリス王朝の継承者となったエリザベス1世を生み出した姉妹の物語です。
邦題では姉妹となっていますが、原題"The Other Boleyn Girl(もう1人のブーリン家の娘)"の通り、今では歴史の陰に埋もれてしまった存在を掘り起こして描いています。
英国の曇天のような暗く重々しい雰囲気の中、ヘンリー8世をめぐる姉妹の愛憎劇が描かれていきます。
注目はやはり2人の若手女優の競演でしょう。
後にエリザベス1世の母となるアン・ブーリン役のナタリー・ポートマンは高貴な美しさで魅了します。
周囲の期待や自らの勝気な性質により追い詰められていくアンの姿は気高くも痛々しく、後半、弟妹らと対峙する場面は息をのんで見つめてしまいました。
そして妹のメアリー役のスカーレット・ヨハンソンも、次子として抑圧され続けた存在の情感をうまく表現しています。姉と違って装飾品も少なく地味ないでたちながら役柄の芯の強い美しさがにじみ出ており、普段の彼女とは違った魅力を見せてくれています。
近頃は生まれ順による占いや解説本などがよく出ていますが、この作品からも長子に生まれた子にかかる期待や本人のそれに応えようとする野心、次子として生まれた子への関心・期待の薄さやそれを受け入れる諦観の念など、さまざまな思いが込められていたのだと思います。それらの思いはスクリーンからあふれるように、じわじわと漂ってきました。
歴史物ゆえ、史実に照らした際の論争は多々あるかもしれませんが、まとまりのあるエピソードがコンパクトにまとめられており、退屈さを感じさせません。ラストシーンはこれから来るであろうイギリス王朝の最盛期を感じさせ、高揚感を覚えました。
時間をかけて作られたお酒などをお供にゆったりと鑑賞し、歴史の雄大さを感じたい一作です。
宮廷という名の戦場で~権力を愛した姉、人を愛した妹~
ヘンリー8世統治下のイングランド。それは女が男の"道具"として扱われていた時代。男の世継ぎを望めない王を見て、ある貴族がここぞとばかりに、自分の娘を差し出して地位を得ようともくろむ。
賢く気丈な未婚の姉アンをみそめてもらうつもりが、王は優しく従順な既婚の妹メアリーにひかれる。始めはためらうものの、王の素顔に触れ、彼を愛し始めるメアリーは、愛人として懐妊、出産する。だが王は、元々父親から王を誘惑する任務を託されていたアンの手玉にとられ、子供共々メアリーを見捨ててしまう。
妹の王への愛を踏みにじってまで王妃の座を手に入れたアンだが、男の世継ぎはどうしても産めなかった。"このまま産めないでいると無用の妃として殺される"という恐怖からパニックになり、自分の弟に関係を迫るまでに。
この頃には既にアンへの執着がさめていた王は、アンを姦通の罪で処刑してしまうのだった...。
この映画で描かれたような"貴族"や"宮廷での生活"といえば大抵、きらびやかに着飾り、庶民は口にすることのできないぜいたくな食事をして、優雅に悩みなく暮らしているイメージがある。しかしこの作品では、実はそんな悠長なことなど言っていられなかった内情が描かれている。
世継ぎ(それも男の)を絶やさず、王の地位と権力を引き継いでいかなければならない。そこではもちろん、ただ機械的に子孫を作っているわけではない。夫婦間以外での愛や、世継ぎの親族であることの思惑が入り混じる。
更にこの王は、移り気たっぷりだった。そうなると宮廷は、もはやほとんど"戦場"だったといえるかもしれない。
そんな中で、メアリーは王の愛を信じ、彼の子までもうけた揚げ句、よりによって姉に王を奪われた。アンはアンで、野望のため口説き落とした王との愛など長続きするべくもなく、短い栄華を終える。ヘンリー8世は結局、アンを含めた6人の女性と結婚した。アンやメアリー以外の妻や愛人たち、また他の国王に寵愛を受けた女たちにとって宮廷は、庶民のあこがれる場所ではなく、やはり"戦場"だったのだろう。
映画を観終わった今、改めてテーマ曲(公式HPで流れる曲)を聴くと、そんな女たちの流す苦しみの血が滴っているように感じられる。
華やかなイメージを覆す、どんよりと暗い宮廷での、アンのぎらぎらした野心的な目(そこに王への愛は読み取れない)、そして流産したことを王に告げられず、なんとか妊娠せねばと追い詰められた時の絶望的な目が印象的だ。それとは対照的に、"戦場"を離れたメアリーの目は、その後結婚した愛する男性と我が子(と引き取った姉の娘)をやさしく捉え、どこまでも穏やかであった。
幸せへの疑問
ナタリー・ポートマンが今回は珍しく悪役的な役柄だったので、いつもと違う彼女の演技は新鮮だった。あの強い目と彼女独特の雰囲気が、賢く野心的なアンにぴったりで、王妃という立場に執着していく演技はうなるほどに上手い。
対する妹役のスカーレット・ヨハンソンは抑えた演技でコントラストも鮮やか。お互いの長所を絶妙に引き出していて、メリハリの加減が非常に良かった。
アンとメアリーの姉妹を見ていると、現代を生きる女性の姿を投影してしまう。アンは賢く、意志の強い策略家であり、自分の望むものは何としても手に入れる外面的美人タイプ。一方メアリーは控えめで女性の愛らしさがあるが、意志と根性を両方合わせ持っている内面的美人。現代で働く女性は、この2人のどちらかのタイプに分かれるのではないだろうか。
仕事か結婚か、という二者択一の考え方は今ではもう古いとされながらも、やはり女性はどこかで「結婚」の2文字は意識しているものである。結婚だけが幸せではない、というのは頭で分かっていても、感情で納得し難い。
では、結婚すれば必ず幸せになれるのか、というと決してそうではない。それを分かっているからこそ、現代女性もアンも"仕事"や"立場"という不確定なものに執着するのだろう。
「幸せ」に何を求めるかで、その人の人生は変わってくる。見方を変えれば、アンの行動の底には、ある種の純粋さがあるのではないか。
しかしアンの姿を見ていて、何事においても感情に支配されてはいけないのだと感じた。感情ではなく、きちんと頭で物事を考えて、心で感じていればこの悲劇は起きなかったのではないだろうか。
映画が終わった後、自分の望む幸せが、どの方向を向いているのか、という疑問を投げかけられたような気持ちになった。
権力という目に見えない力を求めるのか、ただ1人の愛を求めるのか、人間の心理や欲望を、あらゆる角度から描いた作品である。
愛か野心か、幸せはどちらに
「私の姉だから...」。メアリーは、自らの身の危険も顧みず、王に対してアンの命乞いをする。メアリーを裏切り、酷い仕打ちを与え、彼女の心をずたずたに傷つけた姉のアン。しかしメアリーは、「自分の分身」であるアンを、助けずにはいられなかった。アンとメアリーが送った人生は、まさに陰日向の繰り返しだったと言える。
王の愛をめぐって運命に翻弄された人生を送った姉妹2人の、この熾烈な勝負、軍配は結局どちらにあがったと言えるのだろうか。
メアリーは、一族繁栄のための道具として王に差し出される。しかし彼女は、純粋な気持ちで王に愛を捧げた。一方アンが王に捧げたのは、野心に満ちた愛だった。
メアリーは、王に優しく愛され、愛人としては見放された後も、王の信頼は失っていなかった。そして宮廷から追放された後は、予ねてから望んでいたとおり、「自分を愛してくれる夫」と田舎での穏やかな生活を送ることができたのだ。
一方、策略で王を拒み続けたアンは、メアリーから王を奪うことには成功するものの、王の真心までは奪えなかった。
王は、アンに拒絶され続けたがゆえに彼女を求めた。つまり愛情によってアンを求めたのではなく、自分のプライドを満たすために彼女を手に入れることに固執したのだ。
しかし、そのようにして手に入れたものに対し気持ちが冷めるのは必至のことである。そしてアンは、最終的には断頭台へ送られることになる。
姉妹の勝負は、メアリーに軍配が上がったかのように見える。平穏な結婚生活を手に入れた彼女に、共感を寄せる人も多いことだろう。しかし、英国国教会を設立する足がかりを作り、後のエリザベス1世をこの世に誕生させ、歴史に名を刻むこととなったのはアンである。
穏やかな結婚生活だけが女の幸せではないはず。そう考えると、アンの生き方には、何か惹かれるものを感じざるを得ない。特に、王の愛を奪うためにアンが遂行した作戦。どうしても欲しいもの(人)がある女性にとっては、学ぶところが多いのでは?