やさしいHAWAI’ I

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第15回:哀しいプリンセス
2011年05月20日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】今は梅雨が始まる直前の、1年で一番気持ちの良い季節。テニス仲間と思い切りプレーを楽しめる時だ。最近は省エネテニスの傾向大だが、日常のわずらわしさを忘れ、ボールを追いかける最高の時間。
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ハワイの魅力の1つは、微妙なバランスで成り立っているハワイのマルチカルチャーにあると思う。過去の歴史が物語る、さまざまな異文化の混入。それを拒みきれなかったところに、ハワイの哀しさが存在するが、それがまた何とも言えない魅力になっている。

ホノルルにある、プリンセスカイウラニホテル。このホテルの名の由来にもなっているカイウラニ王女にも、日本という"異文化"に接する可能性があった。実は、日本の皇族との縁談が持ち上がったことがあったのだ。

カギを握る人物は、"メリーモナーク(陽気な王さま)"の愛称で親しまれる、第7代目カラカウア王。19世紀半ばあたりから、アメリカを始め多くの国々が捕鯨や貿易に重要な位置にあるハワイへの勢力を強めてきた。脅威を感じたカラカウア王は、以前から移民を受け入れていた日本に救いを求め、1881年に日本を訪問。自分の姪であるカイウラニ王女に日本皇族の一人を王婿に迎え、相互協力を強化しようと考えたのだった。カラカウア王が婿にと考えたのは、まだ幼い山階宮定麿親王。ハワイの王室と日本の皇室が親戚関係になる・・・あまり現実的とは思えないが、白人からの脅威を感じていたカラカウアにとっては、苦肉の策だったのだろう。

15-image001.jpg      15-image004.jpgのサムネール画像

〔左は、カラカウア王が日本からお土産に持って帰った着物を着ているカイウラニ王女、右が婚姻話があった皇族山階宮定麿親王
「A Pictorial History of the Japanese in Hawai'i」 から〕

しかしカラカウア王が離日した翌年、明治天皇はこの縁談を丁重にお断りするようにと、ハワイへ使者を送っている。ハワイとの絆を強くすることで、アメリカとの関係を悪化させることを恐れたのだ。

それから数年後、カイウラニ王女はイギリスへ留学。カラカウア王の妹リリウオカラニは手紙のやり取りの中で、たびたびこの親王との婚約を提議しているが、カイウラニはこう返答している。
「愛していない方と結婚することは間違ったことで、私は決して幸福にはなれませず、二人は融和できないだろうと信じます」(「ハワイ日本人移民史」より)。カイウラニ王女は、ハワイ王国の不穏な行く末を心から案じていたが、だからと言って愛のない結婚はどうしても受容れることが出来なかったのだろう。

カラカウア王の没後、1891年に妹のリリウオカラニが王位を継承するが、2年後クーデターが発生。結局ハワイ王国は滅亡し、1898年にアメリカに併合された。クーデターが勃発した時、その違法性を訴えるため、イギリスからアメリカ本土まで乗り込んでいったカイウラニの心を思うと、本当に胸が痛む。

そして王国崩壊後、日本の在留民保護のため、当時の軍艦浪速の艦長 東郷平八郎と共に、山階宮定麿親王が海軍中尉としてハワイにやって来た。幻の縁談話から17年のときを経て、ついにカイウラニ王女と会う絶好の機会だったが、カイウラニ王女はイギリス留学中。その後も2人には顔を合わせるチャンスが訪れることはなく、カイウラニ王女はアメリカ併合の翌年の1899年、肺炎のためこの世を去った。23歳の若さだった。

私はホノルルに行くと、必ずプリンセスカイウラニホテルに宿泊する。ロビーに飾ってあるカイウラニ王女の大きな肖像画を見るたびに、彼女の持つ美しさ、哀しさに強く惹きつけられるのだ。彼女の一生は、ハワイ王国の美しさとはかなさ、そして滅亡への運命を象徴しているかのように思えてならない。

15-image005.jpg



〔これがカイウラニ王女の写真としては、最も良く知られているもの。〕