やさしいHAWAI’ I

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第45回:「ハワイ島から姿を消したサトウキビ」
2014年01月31日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】1月13日から開幕したテニス全豪オープンにどっぷり浸かっている。 今大会は何と日本人選手が5人も参戦。もちろん一番の期待の星は錦織選手。ベスト8をかけてナダルと対戦したが、惜しくも敗戦。しかしチャンをコーチに迎えた錦織選手は一皮むけた。ガンバレ!
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前回のコラムで、以前、夫とハワイを訪れたときの話を書いた。そのとき初めて聞いた"Niuli'i"という地名は、ヒロにいる間中、私の頭を離れなかった。そして150年以上昔、日本からハワイへ移住した人たちが、常夏の日差しの下で、サトウキビを刈り入れる姿に思いを馳せた。大勢の日焼けした人々に混じり、ヨコヤマさんの仏壇に置いてあった、セピア色の写真の中にいる横山亀吉さんが鎌を振るっている・・・あたかも目の前にそんな姿が見えるほど、私には"Niuli'i"という名前が神秘的に聞こえた。

このヒロ訪問の旅の後半で、私はどうしても未知の場所Niuli'iを訪れてみたいと思った。ジョージ宅でバーベキューをご馳走になった翌日、私と夫はNiuli'iへと向かった。みんなの顔を見ると名残惜しくて涙が出そうになるからと前日のうちに別れを告げ、当日は誰にも会わず静かに出発した。

45-image001.jpgのサムネール画像ヒロのダウンタウンから国道19号線に入り、Niuli'iのある島の北部を目指す。途中、レトロな雰囲気を色濃く残す小さな町ホノムから山のほうへ入り、懐かしいアカカフォールを見た。周囲には、わずかにサトウキビが生えている。40年近い昔、私がこの島に暮らしていたころは、19号線の周囲はどこを見てもサトウキビだらけだった。風にそよぎ、サラサラと揺れるサトウキビを眺め"ああ、ハワイだな~"そう感じながら、ハワイの空気を胸いっぱいに吸い込んでドライブしたものだ。それが今、ハワイ島では全くと言っていいくらいサトウキビの姿を見ない。現在ではカウアイ島とマウイ島の2島でしか生産していないのだ。



〔アカカフォール〕

45-image003.jpg砂糖産業が減少した理由はいろいろある。かつてはプランテーションに集まったさまざまな国の移民の豊かな労働力があったが、今では人件費をはじめとする多くのコストが砂糖産業の経営を圧迫している。また刈り取ったあとのサトウキビの葉は以前なら燃やして、次の収穫の肥料にしていたが、何事につけ環境に配慮を求められる現況で焼畑は許されなくなった。


                               〔わずかに残るサトウキビ〕

しかし減りはしたものの、依然として砂糖はハワイの中心産業の1つ。最近では付加価値を高めたものが生産されるようになった。"Speciality Sugar"とよばれるマウイ産の砂糖は甘さに風味があり、私はわざわざ通販でハワイから取り寄せたりしている。

これとは別に、サトウキビの新しい可能性として最近注目されているのが、「バイオエネルギーの原料」という使い方だ。ハワイ州内でのエネルギー源として、現在は風力、水力、地熱、太陽熱などの整備運用が計画されている。サトウキビもこうした自然を利用したエネルギー・バイオエタノールの原料として、これから用途が広まっていくだろう。

45-image005.jpgこうして時代が移り変わるとともに、ハワイも姿を変えていく。そんな中、かつてと変わらない美しいハワイの海と空。私は、アカカフォールから再び国道19号に戻るときの、山の上から海を見下ろす景色が大好きだった。その景色はいつ見ても変わらない。

ここからさらに目指す島の北部には、Niuli'iのほかに、私がどうしても訪れたい場所が待っていた。
ハワイ大学のサマーセッションに参加したとき、ふと立ち寄ったホノカアの町で出会い、アロハスピリットを教えてくれたグレース(第34回参照)に、どうしても一目会いたかったのだ。

第37回:ヒロの町 今昔物語
2013年04月12日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】夏が近づいてくると、日本でもあちらこちらでハワイに関するイベントが行われるが、何と言っても地元ハワイの「メリー・モナーク・フェスティバル」に勝るものはな い。今年も4月、世界中からフラダンサーがハワイ島のヒロに終結し、至高の戦いを繰り広げた。来年は必ず見に行く!!
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5年前にヒロを訪れた時のことだ。大好きなダウンタウンを散策しながら、マモ・ストリートとケアヴェ・ストリートの角にある'Ohana Café(オハナ・カフェ)に入り、サンドイッチを食べた。この店はヒロの観光案内で時々紹介されるのだが、ローカル色いっぱいの、どこか懐かしい雰囲気のあるコーヒーショップだ。
カウンターでコーヒーを飲みながらWatermark出版の『Exploring Historic Hilo』を開く。ここはかつて 「Elsie's Fountain(エルシーのファウンテン)」 という名の店だった。その歴史は古く、オープンしたのは1940年代。『Exploring Historic Hilo』では次のように説明されている。(以下モノクロ写真はすべて、『Exploring Historic Hilo』から)

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〔現在のOhana Cafe。 右は店内の様子〕

「エルシーのファウンテン:
エルシーのファウンテンは、1940年、ジェームズ・シノハラ氏がオープン。彼はいつも蝶ネクタイを締め、長袖のドレス・シャツを着、黒いズボンをはいていた。隣には日本式の銭湯と床屋があり、店の内部は、当時としてはおしゃれな高い腰掛にカウンターがあった。1997年に閉店した後、オーナーが変わり、今は'Ohana Café'として営業している。」 ( 『Historic Hilo』 より)

これを読んでいると、かつての町の様子や日系人の生活が目の前に広がり、「オハナ・カフェ」にいながらにして、「エルシーのファウンテン」の時代にタイムスリップしたような気持ちに陥ってしまった。

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〔1940年ごろのエルシーのファウンテン。店の前では、アロハウィークのパレードを見物している、当時の日系人の姿が見える。〕




実はこの町は、かなり昔からほとんど変わっていない。いろいろと調べていくと、1900年初頭のシュガーケーン・プランテーション時代の写真を見ても、さほど大きな変化がないのだ。
オハナ・カフェでひと休みした後、再びダウンタウンをぶらぶらと散策する。1915年に建設されたコロニアル風の威風堂々としたフェデラル・ビルディングは、かつて裁判所、郵便局、税務署など、行政司法の中心となった建物だ。現在、ここは郵便局の支局として使われているが、建物の姿は100年前とほぼ同じだ。

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〔右は1915年にフェデラル・ビルディングとして建てられた建物。 左は現在のポストオフィス。建物の正面に向かって左側から撮った写真〕

また、ハワイのガイドブックに必ず登場するパレスシアターは、1925年の建設当時のまま残る、ヒロを代表する歴史的な映画館。ちなみに、私が訪れた時は、日本でもヒットした『おくりびと』を上映していた。

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〔左が現在のパレスシアター。右は1933年当時の写真。建物の前に並んでいるのは"ミッキーマウスクラブ"の子供たち。10セントで映画が1本見られた時代〕

ダウンタウンにあるクレスビルは、1946年のツナミ被害を受けたが、建物自体は辛うじて残った。当時のアールデコ調のデザインはいまだに顕在だ。

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〔左が現在のクレスビル。右は1932年に建設されたクレスビル〕

ヒロの郊外にはレインボーフォールという滝がある。地元の人々に愛されるその滝は、今は周囲には緑が増えたが、その流れは今も昔も同じだ。

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〔右がおよそ100年前のレインボーフォール。左が現在の様子。〕

ヒロの町の姿は100年経ってもほとんど変わっていない。進歩進歩と日々目覚ましく変化する現代において、ヒロの町のこの"ゆっくりとした時の流れ"をどうとらえるかは、様々だろう。だが私が35年経った今も、依然としてヒロの町に惹かれる、その最大の魅力はここにある。そして人々の心の温かさも、時の流れやレインボーフォールの滝の流れと同じように、何年経っても変わらない。これもまたヒロという町の大きな魅力のひとつなのだ。

第34回:「ALOHA」に込められた意味
2013年01月11日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】今年の冬は特に寒いように感じる。昨年暮れ、少し疲れもあったのだろう、風邪をこじらせ咳が長いこと続いた。こんな時この原稿を書いていると、今すぐにでもハワイへ飛んでいきたい気持ちに駆られる。
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ハワイの言葉と言えば、一番有名なのが「ALOHA」だ。挨拶として使われることでよく知られているが、ハワイ語の辞書として、もっとも権威のある「Hawaiian Dictionary by Mary Kawena Pukui and Samuel H.Elbert」によると、「ALOHA」には次のような意味が出ている。
「love, affection, compassion, mercy, sympathy, pity, kindness, sentiment, grace ・・・(愛、慈愛、思いやり、情け深さ、憐憫の情、同情心、親切、なさけ、厚情・・・)」 しかし、実は「ALOHA」にはもっと奥深い意味が含まれているのだ。

A ハワイ語の Akahai のA "優しさと思いやり"
L ハワイ語の Lokahi のL "調和と融合"
O ハワイ語の Oluolu のO "喜びをもって柔和に"
H ハワイ語の Haahaa のH "ひたすら謙虚で"
A ハワイ語の Ahonui のA "忍耐と我慢"
   (ハワイ州観光局のメルマガと上記のHawaiian Dictionaryを参照)

つまり、人への思いやり、心の温かさを、見返りを求めず無償で与え、相手に対してはひたすら謙虚に忍び耐えること・・・それが「ALOHA」の本質だ。
ハワイ大学のサマーセッションに参加するため、約2ヵ月間ヒロに滞在した時のこと。
1ヵ月ほど授業を受けた後、私はどうしてもヒロから北へ続く大好きなハマクアコーストの海を見たくなった。右手に続く美しい海を楽しみながら、幾重にも続く谷を巡り北へ車を走らせると、ホノカアという町に着く。

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〔映画『ホノカアボーイ』の舞台となった、ホノカアの映画館〕

日本では、2009年に公開された岡田将生主演の映画『ホノカアボーイ』の舞台として知られた町。ハワイ島北東部、先住民の王族が居住していた谷・ワイピオバレーの入り口にあり、のどかな昔のハワイの町を髣髴とさせる素敵な場所だ。

そのホノカアで、私はハワイの歴史、地理などに関する古書を探そうと、1軒のアンティークの店に入った。店の主人の名前はグレース。ハワイの歴史が大好きな彼女とは、大いに話が盛り上がった。私が100ドルほど古書を買い漁ると、「これで1日の売り上げは得たから今日はもう店を閉める」と言う。そして聖なる谷・ワイピオバレーを見せたいと、車で谷を見下ろせる場所へ私を連れて行ってくれた上に、家族の皆さんと一緒に夕食のバーベキューにまで誘ってくれたのだ。たまたま店に入ったどこの馬の骨とも分からない日本人の私を、グレースは心から歓迎してくれた。ハワイの素晴らしい夕陽を浴び、赤く染まる海を眺めながらのバーベキューは、私にとって一生忘れられない思い出となった。

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〔グレースのアンティークショップ〕

夜も更けヒロに戻ろうとして、溢れる感謝の気持ちを伝えた時、彼女は私にこう言った。
「This is the Hawaiian hospitality, spirit of Aloha(これがハワイのもてなしよ。アロハの心なの) 」 

グレースは、映画『ホノカアボーイ』にもチラリと登場した。バーベキューから何年も経って、日本でその姿をスクリーンで見つけた時、私は別れ際に彼女が言った"アロハの心"という言葉を思い出した。それと同時に、あのときの光景が目に浮かび、何とも言えない懐かしさで胸が熱くなったのだった。

第30回:ハワイのピジン・イングリッシュ
2012年09月07日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】ついにデスクトップが壊れた!! 最近どうも立ち上がりにあまりに時間がかかりイライラしていたのだが、とうとうその時が来てしまった。使い慣れたPCを廃棄処分にするのは、なんだか片腕をもがれるようで心が痛む。
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みなさんは、"ピジン・イングリッシュ"という言葉を聞いたことがあるだろうか?

ハワイで生活をしていた当時、親しくしていた日系二世のヨコヤマさんから最初にこの言葉を聞いた時、私は"ピジン(pidgin)"を"ピジョン(pigeon鳩)"の意味で言っているのだろうと誤解していた。"ハワイの日系人の少しブロークンな英語を、鳩の鳴き声のような英語という表現をしている"と思ったのだ。

『ハワイ研究への招待』(関西学院大学出版会)によると、『ピジン"とは、"共通の言語を持たない人々の間でコミュニケーションの手段として用いられる、簡略化された補助言語』と定義されている。かつて移民としてハワイへやって来た日本人は、英語はもちろん、ハワイ語も当然分からなかった。しかし生活を続けていくためには、白人、ハワイの先住民、そしてさまざまな国から来た移民たちとの間で、お互いの意思疎通を図ることが必要となってくる。そのためのツールとして、複数の言語を取り入れた独特の言葉が自然に作られていった。この言葉を"ピジン語"というわけだ。ハワイの日系人の場合は、英語、日本語の出身地の方言、そしてハワイ語などが混在しており、現在も使われ続けている。

ヨコヤマさんも普段はピジン語を使い、「ハオレ(白人)」、「モエモエ(眠る)」、「パウ(終わり)、「プカ(穴)」、「オノ(美味しい)」、「マケ(死ぬ)」、などのハワイ語に、「イチバン」「ベントウ」「スコシ」「カライ」「イタイ」「ジョウトウ」などの日本語を混ぜ、最後は出身地・広島の方言「じゃけんのう」で終わる話し方だった。

例えば、「あとでダウンタウンに行って朝食を食べよう。あそこのポチギーソーセージ(スパイシーなポルトガルのソーセージ)は、すごく美味しいんだ。一番だよ」は、「Bumbye we go downtown and have breakfast. That Portuguese sausage, oh! Ono. Ichiban jakenno」(Bumbyeは"あとで"というピジン語。ヨコヤマさんはこの言葉を最も頻繁に使っていた。Ono はハワイ語で"美味しい")、という具合だ。

日系人Milton Murayamaによる小説『All I asking for is my body』は1930年代、第2次世界大戦を背景にハワイへ移民した日系一世、二世が、移民キャンプでの貧しい暮らしの中で必死に生きていく姿を綴った作品だ。その中に、子供のセリフとして、次のような文が出てくる。

"Go tell that kodomo taisho to go play with guys his own age. You know why he doan play with us? Because he scared, thass why. He too wahine"
kodomo taisho は "子供大将"、つまりガキ大将を指す。Doan は "don't"、Thass why は "That's why"、Wahine はハワイ語で"女性"のことだ。すなわち、この文は「あのガキ大将のところへ行って、『同じ歳の奴らと遊べ』と言えよ。なぜヤツが俺達と遊ばないか知ってるか? 怖いからだよ。ヤツは女のように意気地がないのさ」という意味になる。

短い中に、日本語、英語、ハワイ語が混在しているセリフだが、この作品に登場する子供たち(日系二世)は、話す相手によって言語を使い分けている。教師の前では"良い英語"、友人同士では"ピジン・イングリッシュ" (当時学校では、ピジン・イングリッシュは教養のない言葉とされ、話すことを禁じられていた)、日本から遠い異国の地で厳しい移民生活を送る、日本語しか話せない両親には"日本語"というように。子供たちにとってハワイは生まれ故郷だ。周囲の白人やハワイ先住民、そして中国やフィリピンなど様々な国の移民たちとの間で、子供同士の交流も始まる。ピジン語は、互いに何とか馴染もうとして生まれた。日系二世の生きるたくましさが感じられる言葉だ。

"ピジン語"は今でも、若い世代の中に根強く生き続けている。しかしそれは、かつての日系二世たちが生活をする必要性から生まれてきた"ピジン語"とは少し異なる。現在は、新しい世代としての自分達のアイデンティティを、クールに自己表現する1つの道具になっているのだ。

かつての私がそうだったように、ピジン・イングリッシュを"ブロークン・イングリッシュ"と簡単に片付ける人もいるが、それは違う。ハワイにおけるピジン語は、日系人がハワイでたどってきた生活が沁み込んだ、貴重な歴史の痕跡なのだ。

第29回:真のカメハメハ大王の姿
2012年07月05日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】テニスは、全仏大会に続き、現在ウィンブルドンが開催されている。 トップ選手たちの、しのぎを削る日々の戦いを観ていると、世界を舞台にすることの困難さを痛感する。今年はオリンピックの年。スポーツの素晴らしい興奮に浸りたい。
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皆さんは、1976年4月にNHKの"みんなのうた"で登場した、『南の島のハメハメハ大王』をご存知だろうか。

南の島の大王(だいおう)は  その名も偉大(いだい)なハメハメハ
ロマンチックな王様で
風のすべてが彼の歌  星のすべてが彼の夢
ハメハメハ ハメハメハ ハメハメハメハメハ

29-image001.jpgのサムネール画像この歌の"ハメハメハ"という名が、ハワイ諸島を初めて統一したカメハメハ大王の名から導かれたかどうかは定かではない。しかし歌詞の内容は、一般的に良く知られたカメハメハのイメージとはかなりかけ離れている。また、右にあるのは、ハワイの歴史資料館として有名なビショップ博物館に展示されている、カメハメハ大王の肖像画だが、シャツに蝶ネクタイというスタイルのカメハメハは、あの有名な金色のマントの大王像とはまるで別人のように見える。




では実際のカメハメハとは、一体どんな人物だったのだろう。
カメハメハがいつ生まれたのか正確には分かっていないが、1758年あたりだと言われている。キャプテンクックがハワイ諸島を発見したのが1778年。カメハメハが20歳前後のころだ。当時はまだ多くの族長が各島々を治めていたが、この先10余年をかけてカメハメハがハワイ王国成立に成功するに至った理由は、いくつか考えられる。

元来ハワイの社会には、強い忠誠心が存在しなかった。部族間での婚姻が頻繁に行われ、族長が変わる度に平民は新しい族長の下で生活をした。自分の地域で戦いが起こり、トップが替わったからと言って、生活自体が大きく変わるという感覚はなかったのだろう。人々は物に対する所有欲がほとんどなく、日々生きていくために必要な物を地域で共有できれば、それで充足していた。

そんなハワイの社会で、人々にとって強烈なカリスマ性あふれる存在だったのがカメハメハだ。キャプテンクックがハワイ諸島を発見して以降、ハワイには西欧文化の大きな波が押し寄せてきた。彼らは銃を使い、それまでハワイには存在しなかった様々な鉄の武器や大砲、そして新しい戦略の知識も持っていた。カメハメハは、巧みな外交手腕と明晰な頭脳でそれらの白人の知恵や道具をうまく利用し、自分の勢力を徐々に他の島々に広げていった。実際のカメハメハはNHKの"みんなの歌"に登場した「ハメハメハ」のような人物ではなく、ハワイ統一の野心に激しく燃える男だったのだ。

また、ルックスに関して言えば、 "カメハメハは、大王像のような男前ではなかった"というのが通説だ。しかし体つきは頑強で力が強く、運動能力に優れており、族長としては魅力溢れる人物だったに違いない。私がよく通ったハワイ島のヒロ図書館の前には、カメハメハが持ち上げたと言われている「ナハ・ストーン」と呼ばれる石が横たわっている。しかしこの石の重さは、なんと3トン。人間がそんな石を持ち上げることなど不可能だ。カメハメハは半ば神格化されるほどの人物だったのだろう。

  29-image005.jpg        29-image003.jpg

〔ヒロ図書館に前にある、カメハメハが持ち上げた   〔カメハメハお気に入りのお后
言われる「ナハ・ストーン」〕                 カアフマヌ〕

だが、そんな彼にもたったひとつ弱点があった。それが、お気に入りのお后、カアフマヌの存在だった。かつてのハワイで、美の条件の1つとされていたのが、ふくよかであること。肌の色もひときわ白く、その腕は"皮をむいたバナナのよう"と称されており、多くの恋人がいたらしい。カメハメハは彼女の浮気にやきもきしていたそうだが、そんな記述を読むと、大王像から感じるスーパーマン的な印象の中に、血の通った普通の男の姿が垣間見えた気がした。

カメハメハは西欧文化を利用はしたものの、その統治下に置かれることを拒否し、ハワイの独立を守ろうとした。そんなカメハメハに対し、白人たちは強引な態度に出ることができなかった。しかし当時、まだ文字を持たなかったハワイの社会で、その強い姿勢を維持するのはたやすいことではなかったのだ。

カメハメハ亡き後、お后のカアフマヌは摂政として政治にかかわった。それまでのハワイには、生活すべてに関し事細かなカプ(タブー)制度があり、男女が同席して食事をすることや、女性がブタやバナナを食べることなど、多くのことが禁じられていた。カアフマヌはこれらのカプを廃止し、それまで力を持っていたカフナ(神官)たちの力を弱めるために、従来のハワイの宗教も禁止した。1820年、最初のキリスト教伝道師がハワイにやって来た後は、自らも洗礼を受けてエリザベスと名乗った。

その結果、カメハメハが堅守していた白人との壁が崩れ、世界のどの大陸からも最も遠く隔離された環境にあったハワイに、西欧文化がどっと押し寄せてくることになる。それがハワイにとって本当に良かったのかは、簡単に結論をくだすことができない。しかし、確実に言えることは、歴史の大波の力に逆らうことは、到底不可能だったということだ。

参考資料:THE HAWAIIAN KINGDOM (BY KUYKENDALL)
KAAHUMANU- MOLDER OF CHANGE (BY JANE.L. SILVERMAN)
MONARCHY IN HAWAII (BY JOHN DOMINIS HOLT)
THE POLYNESIAN FAMILY SYSTEM IN KA'U, HAWAI'I (BY E.S.CRAIGHILL HANDY AND MARY KAWENA PUKUI) 

第28回:カメハメハ大王像は全部で何体?
2012年06月08日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】先日、ハワイのシマダさんを通して知り合いになった友人のフラダンスを見に行った。基本的に"フラはハワイの人が踊るべき"と信じていた私は、心から楽しそうに踊る皆さんを見て、そんなこだわりはあっさりと捨ててしまった。楽しいひと時だった。
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ハワイでの歴史的人物として最初に挙がる名前と言えば、カメハメハ大王だ。ハワイ諸島を初めて統一した彼は銅像にもなっており、本物はもちろん、テレビや雑誌で見たことがある人も多いだろう。

28-image001.jpg最も有名なカメハメハ大王像は、オアフ島・ホノルルの最高裁判所の前に立っている。筋骨隆々とし、金色のヘルメットとマントを身につけて颯爽とポーズを取っているが、実はこれがオリジナルの像ではないのをご存知だろうか。

今からおよそ130年前、ハワイ王国7代目となるカラカウア王は、戴冠式に合わせてイタリアのフィレンツェでカメハメハ大王像を造らせた。ところが、完成した像を乗せた輸送船はハワイへ向かう途中で沈没。これにより、大王像は行方不明になってしまった。やむなく再び造らせたものが、現在ホノルルに建っているこの像である。

28-image003.jpgそしてその2年後、行方不明だったオリジナル像が発見される。州議会はカメハメハ生誕の地、ハワイ島のノースコハラに設置することを決定。現在は旧コハラ裁判所の前に立っている。私がハワイで親しくしていたリチャード・ヨコヤマさんはコハラ出身で、この像をとても誇りに思い、「オリジナルはホノルルのではなく、コハラの像だ」とよく話していたのを思い出す。

そんなこともあって、私は「ハワイ島のカメハメハ大王像」と言えば、このコハラのものだけだと思っていた。ところが15年ほど前、再びヒロを訪れた時のことだ。懐かしいヒロ湾の近くを車で通りかかった時、車窓から見たヤシの木々の間に、カメハメハ大王像の姿がちらりと目に入った。「えっ! こんなところにカメハメハ?」

28-image005.jpgヒロ湾に面した州立公園に立っていたその像は、ある企業がカウアイ島のリゾート地の入り口に立てようとしたものだそうだ。ところが、カウアイ島はハワイ諸島統一の際、カメハメハの武力制圧に屈しなかった島。この像についても、島民から抗議が噴出した。そこでこれもまた、ハワイ島に運ばれることになった。カメハメハがハワイ諸島統一を図ったのが1790年代。それから長い時を経た今もなお、カウアイ島民の誇りが息づいていることを表すエピソードで、何とも興味深い。


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そして、アメリカにはもう1体カメハメハ像が存在する。ワシントンDCにある、合衆国議会議事堂の中の「National Statuary Hall」にコレクションとして納められているのがそれだ。このホールには各州における歴史的人物の像が2体ずつ寄贈されている。合計100体ある像の中で、これは重さ6トン以上と最も重いため、床には特別な補強がされているそうだ。



有名な人物が銅像となるケースは多々ある。日本で考えても、西郷隆盛像は上野にあるだけでなく、生誕地の鹿児島には少なくとも3体はあるという。もしかすると、銅像の数は人気を表しているのかもしれないが、あまりあちこちにあるとありがたみがなくなるような気もする。 "カメハメハ大王像"はアメリカ国内に全部で4体存在するが、これ以上はもういらないと思っている。

第24回:「ペレの警告」
2012年02月10日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】アイルトン・セナが生前こう言ったそうだ。
『限界までは誰でも行ける。それを超えたところから、本当の勝負は始まるのだ』
テニス全豪オープン決勝戦はジョコビッチ対ナダルの6時間にわたる死闘。
まさに限界を超えた戦いを制したのはジョコビッチ。ナダルに勝たせたかった・・・。
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「ああ、またペレが怒っている」
キラウエア火山が噴火するたびに、ハワイの人々は必ずペレの名を口にする。嫉妬心が強く、激しい気性のペレは、自分の意にそぐわないことが起きると激怒し、火山を噴火させ溶岩を流す。人はそれに何の抵抗もできず、ただ呆然と眺めているだけだ。だが、そんな大自然の力に対し無力だと思われている人間も、時に信じられないようなドラマを作り出すことがある。

ハワイ島南東部に、カラパナという静かな村があった。1990年の噴火の際、ペレの怒りはこの村に向かった。溶岩はヤシの木であろうと人家であろうと、周囲にあるものすべてを炎の中に包み込む。村の人々は自分達の家が目の前で燃え上がるのを、ただ泣きながら見つめるしかなかった。

迫り来る溶岩と2つの教会_edited.jpg〔左上方から溶岩が近づいている。右のページの右下にある白い教会が移動したペインテッドチャーチ。もう1つの教会(右のページの中ほどにある)は溶岩にのまれた。 『Aloha Okalapana』より〕

溶岩の流れの先には村の2つの教会があった。そのうち1つの教会の信者達は、これは神から与えられた運命として、溶岩にのまれるという現実をやむなく受け入れることにした。しかし、「ペインテッドチャーチ」として知られるもう1つの教会だけは、何とか救いたいという声が上がった。そこで村人達は、溶岩の流域から外れた場所に教会を移動することを決めるが、溶岩は目前に迫っている。もし道路に流れ込んでしまえば、道は塞がれ万事休すだ。徹夜の作業で教会を部分的に解体し、建物本体を大きな台車に乗せて安全な場所へと引いていく。こうして溶岩から逃れるようにして、教会は辛うじて救われたのだ。そして移動が終了した直後、道路は溶岩に覆われた。

教会の移動edited.jpg〔左:村人が協力して、ペインテッドチャーチを台車に乗せて移動しているところ。(Aloha OKalapanaより〕








ペインテッドチャーチ内部.JPG    ペインテッドチャーチ.JPG
〔現在のペインテッドチャーチ。私が訪れた時は、真っ青な空に白く浮かび上がり、本当に美しい教会だった。内部は名の通り、カラフルな絵に囲まれている。〕

これはペレの力に対し、何らかの抵抗をして成功を収めたごく稀なケースだが、通常はそう簡単に見逃してはくれない。

日本でもCSチャンネルで放送されているドラマ『Hawaii Five-O』。オリジナルは1968年から80年にかけて大ヒットした番組で、舞台がハワイだったこともあり、当時、私も楽しみに観ていた。しかし、エピソードの1つに出てきた、ある男が金を目当てにハワイ州知事を脅迫するセリフは、大いに物議をかもすものだった。
"ハワイ島の火山の火口に爆弾を仕掛けて溶岩の流れを変え、
ヒロの町を火の海にしてやる。それがイヤなら5億ドル用意しろ"
ペレの本当の怖さを忘れてしまったような内容に、撮影現場を目撃した地元の人たちは嫌な予感がした。案の定火口付近では、雨には慣れているはずの地元の人々が驚くほどの豪雨が続き、撮影予定が大幅に遅れた。きっとペレの怒りに触れたに違いない。

『ペレの棲家に爆弾を仕掛けるなんて、ペレが怒るのは当たり前だ。結局、撮影スタッフはみんな、火口でペレに祈って怒りを静めた。それで何とか無事に撮影は終わったらしいがね』。とヨコヤマさんが言っていたことが記憶に残る。

ペレは神話に登場する女神である。しかしハワイの人々にとっては涙や髪の毛とされる物まで実際に目にすることができる、とてもリアルな存在だ。そのためペレに関わる話の多くは、どれも事実とフィクションの境目がはっきりせず、そこがまた興味深い。ともあれ、私にはペレの話はどれも"自然に対する畏怖の念を忘れてはいけない、人は自然の中で生かされているのだ"ということを示唆しているように思える。科学の進歩に依存しすぎている私たち現代人に向けた、ペレの警告のような気がしてならないのだ。

第23回:「犬を連れた老女の正体は?」
2012年01月13日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】昨年は日本がかつてない大きな問題を抱えた年だった。その1年を 表す文字として選ばれた『絆』。改めて人と人との繋がりを考えたい。
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ハワイ島にある活火山キラウエアには、火の女神ペレが住むという。ある時は白髪の老婆に、またある時は黒髪の魅惑的な美女に姿を変える。そんな女神ペレにまつわる話は数多くあり、本当に会ったと言う人も少なくない。実はヨコヤマさんの妹、シマダさんもその一人だった。ある時、シマダさんから当時の体験談を聞く機会があった。

『あれはもう随分昔のことだね。庭のマンゴがたくさん実ったので、カウマナドライブの上の方に住んでいるヨコヤマの兄さんの家に届けようと、夜8時ごろに車で出かけたんだ。

用事を済ませ、急いで帰ろうとカウマナドライブを下っていった。くねくねと曲がったあの通りには灯りが全くないから、車のライトを頼りに注意深く運転していたよ。そして、いくつ目かの大きなカーブを曲がったその瞬間、犬を連れた真っ白な長い髪をした老女の姿がライトの中に浮かび上がったんだ。それでビックリして急ブレーキをかけ、ハンドルを切ったよ。

あまりの出来事にしばらく呆然としていたけど、我に帰って振り返った時には老女の姿は消えていた。とにかく怖くて、その後どうやって自宅にたどり着いたか覚えていない。だけど白髪の老女を見た瞬間、私にはそれが誰だか分かったんだ。あれはペレ。火の女神ペレに違いない。あの辺りにはカウマナケイブという溶岩洞窟があり、その中にペレが住んでいて時々姿を現すとは聞いていた。でも、実際に見たのはあの時が初めて。以来、暗くなった後、あの辺は二度と通らないようにしている。またペレに出くわすかもしれないからね』。

昔からハワイではこう言われている。"もしどこかで犬を連れた白髪の老女に出会ったら、親切にしてあげなくてはいけない。お腹がすいていると言われたら、何か美味しいものをご馳走してあげなさい。寝る場所がないと言われたら、家に連れてきて休ませてあげなさい。その老女はペレかもしれないから。もし邪険に扱ったら、ペレは怒って必ず仕返しをする。火山を噴火させてその人の家に向かって溶岩を流すのだ"、と。シマダさんはこれまでに何度もそうしたことが起こっていると、こんなエピソードを話してくれた。

『ハワイ島東部、プナ地区の海に突き出した岬にクムカヒという灯台があってね、その昔、白髪の老女が一晩の宿を求めてやってきた。灯台守は親切に食事と暖かい寝床を用意したけど、別の住人は"薄汚い老女だ"と彼女を追い払った。それから間もなく、プナで噴火があり、老女を追い払った人の家は溶岩にのみ込まれ、瞬く間に炎の中に消えていった。でも、溶岩はクムカヒ灯台のすぐそばまでくると、まるでそれをよけるように海へ流れ、灯台は何の被害も受けず無事だったんだよ。今度、クムカヒ灯台へ行って、実際に溶岩を見てみるといい』。

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〔左が灯台の全景。右は灯台の周囲のフェンスをよけて流れた溶岩〕

上の2枚は、私がクムカヒ灯台へ行って撮った写真だ。あまりにも見事に灯台をよけた溶岩を目の前にすると、ペレの話をただの迷信とは片付けられないと認めざるをえなかった。

キラウエア火口にあるジャガーミュージアムには、ペレの涙と髪の毛が展示されている。これらは火山活動によって出現した物にすぎない。しかし、じっと見ていると、今でもペレはハワイの人々の心の中にリアリティを持って力強く生き続けている、と実感させられるのだ。

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〔ペレの涙と髪の毛とされる、火山からの噴出物〕

第22回:「お宮参りに聖水?」
2011年12月09日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】今朝、ハワイの島田さんから久しぶりに電話をもらった。ご主人のジョーが亡くなって1年3ヶ月が経った。12月8日の開戦の日がジョーの誕生日で、生きていれば90歳になっていたという。ハワイの昔を知っている人々が徐々に姿を消していく。
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ヨコヤマさんに「昼と夜を間違えて生まれてきた」と言われていた息子の夜泣きも徐々に落ち着き、そろそろお宮参りをしなくてはということになった。新米ママとしては、首がしっかり座る前に連れ出すのが不安だったこともあり、お宮参りの日は生後100日目とすることにした。場所は地元で唯一の神社、ヒロ大神宮である。

22-001.jpg当日、夫はアロハシャツ、私はムームー、長男は暑い中、日本から送られてきたお宮参り用の産着を掛けてという、日本とハワイが入り混じったようないでたちだった。やることなすこと、全てが初めての経験。産着をどうやって掛けるのか、教えてくれる親もそばにはおらず、かつて何となく日本のテレビや雑誌などで見たおぼろげな記憶を探り、汗だくになりながら必死に準備をしてヒロ大神宮の鳥居をくぐった。

宮司は宮崎さんという方だった。始めに儀式の簡単な説明があり、長男がこれからすくすくと育つようにと、厳かに祝詞が挙げられお祓いをした後、あっと驚くことが起きた。なんと宮崎さんは水の入った器を手に取り、それをすくって長男の額と口にたらしたのだ。これではまるで、かつて映画で見た外国の赤ちゃんが教会で受ける洗礼式のようではないか! あれから35年以上経った今でも、あの時の驚きは鮮明によみがえってくる。あれは一体なんだったのだろう...。

そこで今回、この原稿を書くにあたり、ハワイにおける日本宗教、中でも神道に関していろいろと調べてみた。

最初にハワイの日系移民に広められた宗教は、意外にもキリスト教だった。先の見えない不安や労働の辛さから移民たちの生活が荒れ、日本から牧師の岡部次郎がハワイへおもむき、伝道を始めたのだ。その後、布教された宗教は仏教、神道と続き、1898年、ハワイで最初の神社がハワイ島に創立された。天照大神を祀り、当初は大和神社と呼ばれていたのだが、実はこの神社こそが長男のお宮参りに行ったヒロ大神宮である。ヒロのダウンタウンに建てられ、1903年にヒロ大神宮と改称されたが、社殿は1946年、1960年の2度のツナミに襲われたため、現在はハワイ大学ヒロ校に近い高台に再建されている。

神道は1941年の太平洋戦争の開戦と共に危険な宗教とみなされ、ハワイの宮司の多くが逮捕収監された。日系人はFBIなどの捜査を恐れて神社に近寄ることを避け、戦後も神社に参拝する日系人の数は減少。また日本語学校が廃止されたことから、日系2世3世の日本語離れが進み、神道はますます遠い存在となった。太平洋戦争を経験した日系1世と2世、そして若い世代の間に微妙なずれが生じ始めた。

戦後、ハワイの神社は、日本語をほとんど話せない若い日系人の世代に神道を広めるため、日本とは異なるスタイルで運営をするようになった。マウイ神社では宗教的な行事が終わった後、キリスト教会でよく行われるビンゴに興じる。またハワイ出雲大社の宮司は、建造物の地鎮祭やお祓いに出かける際に、ハワイ人のキリスト教の牧師とペアになって行くそうだ。キリスト教式の祈りと神道式の祈りとでタッグを組むというわけだ。

となると、あのお宮参りで行われた洗礼式のような儀式は、神道がハワイという土地に適応しようするひとつの姿だったのではないだろうか。大げさに言えば、ハワイにおける宗教変遷の歴史の1ページを目撃したということになるのかもしれない。私は勝手にそんなことを考えて、あの聖水の儀式を納得することにした。

参考資料:「海を渡った日本宗教」 井上順孝著  弘文堂
     「ハワイの神社史」 前田孝和著  大明堂
     「ハワイ日系人社会と日本宗教」 柳川啓一 森岡清美篇
                           東京大学宗教学研究室
     「ハワイ島日本人移民史」 ヒロタイムス

第19回:CAFE100
2011年09月16日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】筋書きのないドラマ、スポーツにおいて、「この瞬間をリアルタイムで目撃することができた」という大きな幸せを感じる機会が続いている。サッカーのなでしこジャパンワールドカップ優勝や、テニスでは今年の全米オープン準決勝、決勝でのジョコビッチのふんばり。「人間って、ここまでやれるんだ」そんな感動を与えてくれた。
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私たちが住んでいたヒロのアパートのすぐ隣に「CAFE100」というドライブインがあった。ハワイ通の方はご存知かもしれないが、この店は、今や日本でもお馴染みのハワイのローカルフード「ロコモコ」発祥の地で、ガイドブックなどにも登場している。ロコモコ以外にもさまざまなメニューがあり、特に昼どきは駐車場が車で一杯になる人気の店だ。

ヒロに住んでいた頃はよくここでランチを食べていたが、このドライブインの名前の「100」が何を意味するのか、いつも疑問に思っていた。しかし調べてみると、これにはハワイに住む日系二世の人々が歩んできた歴史にまつわる由来が存在していたのだった。

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〔アパートの隣のCAFE100〕 


1941年、太平洋戦争が始まり、アメリカ国内の日系人社会は大きく変わった。アメリカに生まれ、アメリカの教育を受けている日系二世にとっては、日本は両親の母国とはいえ、遠い外国だった。一方、多くの一世は、「自分たちの母国は"日本"だ」という強い信念が邪魔をしてか、なかなか英語がうまくならず、アメリカの生活にも馴染めずにいた。国内では、そんな日系人に対する警戒が強まり、特に教育や宗教に携わっていた知識層の人々の中には強制収容所へ送られる人も大勢いた。

そこで、日系二世は自分達のアメリカに対する忠誠心を示すためだけでなく、両親である日系一世のハワイでの立場が少しでも良くなるようにと、ハワイ日系人の志願兵のみで「第100歩兵大隊」を編成した。ハワイ語で穴を意味する"プカ"という言葉があるが、「0」は真ん中に穴が開いているということで、この大隊の名前を日系人は「ワン・プカ・プカ」と呼び、勇気と誇りを表す代名詞のようになった。

一方、日系一世の心境は複雑だった。息子が自分達の母国である日本を敵に回し、アメリカ兵に志願すること自体許せない親も多かった。しかし、そんな思いとは逆に、「ワン・プカ・プカ」はアメリカ本土での訓練で優秀な成績を上げ、精鋭部隊に成長してイタリアへ派兵される。さらにアメリカ本土の日系人も参加した日系人部隊・442部隊と合流し、211名のテキサス州兵第一大隊の救出を行う活躍をした(これについては、すずきじゅんいち監督の映画「442日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍」に詳しい)。

その第100歩兵大隊に所属していたのが、「CAFE100」の創業者、リチャード・ミヤシロさんだ。第100歩兵大隊にいたことを誇りに思っていたリチャードさんは、帰還後に開いたこのドライブインに「100」という名前をつけたのだった。

「CAFE100」は1946年ダウンタウンのカメハメハ・アベニューで開業。それからわずか3ヵ月後大津波に襲われたが辛うじて全壊を免れ、建物の修理をしながら営業を続けた。その後1960年、1号店からさほど遠くない場所に「CAFE100」2号店を開く。ところが23日後、2号店までもが再び大津波に襲われ店が全壊してしまった。

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〔2008年 のStar Bulletinから  この写真は2号店〕

しかし、そこで諦めないのが「ワン・プカ・プカ」魂だ。ミヤシロさんは1962年、今度はダウンタウンから少し離れたキラウエア・ストリートに「CAFE100」3号店をオープンした。これが、私たちの住んでいたアパートのすぐ隣にあり、人気店となった「CAFE100」だったのだ。

ヒロにいた当時は、ノンキにブラブラと散歩しながらロコモコを食べに行っていた「CAFE100」は、実は日系人の不屈の魂に支えられた店だった。私たちが通っていた当時の様相から比べると、店のたたずまいが随分変わったが、娘のゲイル・ミヤシロさんは今は亡き父親の遺志を立派に継ぎ、現在もなお「CAFE100」はヒロの町にとって大切な日系人の心のふるさとのような存在になっている