やさしいHAWAI’ I

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第42回:ヨコヤマさんとの別れ
2013年09月13日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】つい先日、ジャカルタから帰ってきた。25年前に2年間生活した街が、どんなふうに変わったかを見るのが楽しみだった。表から見える街並みは確かに豪勢になったが、やはり貧富の差はかつてと変わりない。外国人向けの豪華なアパートメントの1本通りを隔てた側には、バラックが並んでいた。国が変貌を遂げるには長い時間がかかるようだ。
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早朝のまだ薄暗い中、突然電話が鳴った。受話器の番号表示の"表示圏外"を見て、私は胸騒ぎを覚えた。案の定、電話はヒロのシマダさんからだった。「アツコさん、兄さんが亡くなったよ」。言葉を失う私。涙がとめどもなく流れた。恐れていた予感が的中してしまったのだ。

ヒロでの滞在中、まるで本当の子供のように可愛がっていただいた、リチャード・ヨコヤマさんは、1998年9月15日に亡くなった。83歳だった。

何度かシマダさんとの電話のやり取りで、ヨコヤマさんがすでに体調を崩していることは知っていた。最悪の事態がいつでも起こり得ると予測はしていたものの、実際の悲しみは例えようがなかった。あれからもう15年も経っているのに、いまだにヨコヤマさんを失った寂しさは、心にぽっかりと大きな穴を作っている。

ヨコヤマさんとの思い出は、いくら語っても語りつくせない。私がハワイを第二の故郷と思う最大の理由は、ヨコヤマさんの大きな存在があったからだ。考えてみれば、私のヨコヤマさん一家との付き合いは、わずか1年8か月。この短い期間に、あれほど親密な人間関係が作れるものなのかと、自分でも不思議になるくらいだ。あのヒロでの生活は私の一生の宝物だ。

亡くなる半年ほど前、私は大学の仲間と共にハワイを訪れた。そしてヨコヤマ宅を訪問したが、その時すでにヨコヤマさんの意識は混濁していた。親族が大勢集まったリビングルームでいつものソファーに座ったまま、ヨコヤマさんはぼんやりと私のほうを眺めていたが、私が誰かは判別できていないようだった。そんな姿を見ると、元気だったころのヨコヤマさんが心に浮かび、胸が締め付けられる思いがした。「おおアツコ、よく来たな。Longtime no see.(久しぶりだな)」そう呼びかけてほしかった。ウクレレを弾きながら、あのしわがれ声でハワイアンを歌ってほしかった。

42-image002.gifその席でエミ(ヨコヤマさんの甥ジョージの奥さん)が、「アンクルは"早くツル(ヨコヤマさんの妻)のところへ行きたい"と、いつも言っているのよ」と私に言った。まさに夫唱婦随の二人で、2年前の1996年8月にツルヨさんが亡くなって以降、ヨコヤマさんはまるで片腕をもがれたようにがっくりと力を落とし、生きる意欲を失ったそうだ。



42-image003.jpgヨコヤマさんは亡くなる前の数カ月間、ヒロのケアセンターに入っていた。数年前に夫とヒロを訪れた時、ヨコヤマさんが最後の日々を送ったそのセンターをどうしても見たくて、車で前を通った。"ハレ・アヌエヌエ・ケアセンター"という名前の、静かなたたずまいの施設だった。




私たちが知り合った当時のヨコヤマさんは、人生でも最高の時代だったように思う。それから40年の歳月が過ぎ、ヨコヤマさん夫妻はすでにこの世にいない。しかし一家との繋がりはいまだに続いており、数年おきにヒロを訪れてはその交流が続いている。今年もまた11月にはヨコヤマさんの甥ジョージ、エミ夫妻、そしてヨコヤマ家最後の一人となったシマダさんに会うことになっている。ヒロを訪れるとき、私はヨコヤマ夫妻のお墓参りを欠かさない。ヒロでの幸せだった日々の思い出を心に抱きながら、感謝の気持ちをせめてそんな形で表せたらと思いながら・・・。