やさしいHAWAI’ I

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第20回:人生で初の体験
2011年10月14日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】もうすぐナダルの母国スペインを訪れる。彼が生まれ生活している マヨルカ島はこのツアーのスケジュールにない。では何のためにスペインへ? ナダルが呼吸している国の空気を吸いに行くのです!
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ハワイで人生初めての様々な経験をし、成長していた頃、私のおなかにいる赤ちゃんも順調に大きくなっていった。「サードフロア」と呼ばれた、隣のアパートの4階へ引越してからはおなかがどんどん大きくなり、階段の上り下りも大変な状態。1階のランドリールームから大きな洗濯物のバスケットを抱えて上る途中、急におなかが張ってきて動けなくなることもたびたびだった。また、買い物から帰ってくると、我が家の駐車場のすぐ前に住む、アパートのマネージャーの奥さん、オナーが荷物を運ぶのを手伝ってくれることもあった。

私が診てもらっていた産婦人科医はドクター・A.タカセといって、ヒロでは評判の日系アメリカ人の腕利きのお医者様。ツルさんやクレさんに相談して決めたのだが、診察してもらう時の安心感はこの上ない。妊娠、出産という初めての経験を、身内がいない土地でこれから迎える不安を払拭してくれるような信頼感と暖かさのある先生だった。これからやってくる様々なステージを穏かに丁寧に説明してくれる。それでも未知のことに直面する期待と不安は私の心から溢れるようだった。"陣痛"と一言で言っても、それは一体どんな痛みなのだろう。どんなふうにやって来て、いつ頃病院へ行けばいいのだろう・・・。

日本にいる母には出産と同時に連絡をして、すぐに飛行機で飛んでくるという手はずになっていた。電話で出産のことを尋ねると「私のお産の時は、秋田のおばあちゃんが"障子の桟を数えられなくなったり、畳の目が見えなくなったりする頃生まれる"とよく言っていたものよ」と言う。ハワイの家には畳もないし障子もない。けれどそのくらいの痛さを感じた頃に生まれるのだろうと想像する。「日本人なんだから、少しぐらい痛いからと言って、声を上げたりしたら恥ずかしいのよ」と何度も諭された。

これが陣痛かと思うたびに病院へ駆けつけ、まだだから帰りなさいと何度か言われながら、ついに入院の許可が出た。ところがなかなか本格的な陣痛が起きず、結局陣痛促進剤を点滴しながらの出産となった。隣の分娩室からは「ギャー、ヘルプミー、ヘルプミー!!」と叫び声が聞こえる。そのすさまじい声を聞くと、母の「日本人なんだから・・・」という言葉が私の頭の中を行き来する。畳の目も障子の桟も見えなかったが、大声を出すこともなく何とか無事出産を終えた。

ヒロホスピタルでの出産の入院日数は2泊3日。出産直後ベッドで少し休んだあと個室に入り、トイレやシャワーはすべて自分で行う。(恥ずかしながら最初のトイレ行きで私は失神してしまった)。

長男誕生の翌日、ヨコヤマ夫妻は待ちきれないようにお見舞いに来てくれた。当時ヒロホスピタルで出産を迎えた母親に面会できるのは、母親自身の身内と夫だけだった。ところがヨコヤマさんは「私はアツコのヒロの父親じゃ」と言って強引に許可を取ったのだ。新生児室の前でずらりと並んだ赤ちゃんを見て、リチャードさんは「おお、あれがユアベイビーじゃの。やっぱり違うの。ジャパニーズベイビーは、イチバンじゃ」。そう言って目を細めた。

長男は太平洋で生まれた最初の男の子、という意味で「洋一郎」と名付けた。アメリカではミドルネームも付けるということで、ちょっと気取ってAllenとした。これは、恐れ多くもドクター・タカセのファーストネーム、Alan からいただいた名だった。


ヨコヤマさんと洋一郎.jpg
〔ヨコヤマさんにとっては、"初めての孫"のような存在だった息子の洋一郎〕