やさしいHAWAI’ I

Chewing over TOP » やさしいHAWAI’ I » 「ヨコヤマさんとの出来事」一覧

第45回:「ハワイ島から姿を消したサトウキビ」
2014年01月31日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】1月13日から開幕したテニス全豪オープンにどっぷり浸かっている。 今大会は何と日本人選手が5人も参戦。もちろん一番の期待の星は錦織選手。ベスト8をかけてナダルと対戦したが、惜しくも敗戦。しかしチャンをコーチに迎えた錦織選手は一皮むけた。ガンバレ!
-----------------------------------------------------------------------------------------
前回のコラムで、以前、夫とハワイを訪れたときの話を書いた。そのとき初めて聞いた"Niuli'i"という地名は、ヒロにいる間中、私の頭を離れなかった。そして150年以上昔、日本からハワイへ移住した人たちが、常夏の日差しの下で、サトウキビを刈り入れる姿に思いを馳せた。大勢の日焼けした人々に混じり、ヨコヤマさんの仏壇に置いてあった、セピア色の写真の中にいる横山亀吉さんが鎌を振るっている・・・あたかも目の前にそんな姿が見えるほど、私には"Niuli'i"という名前が神秘的に聞こえた。

このヒロ訪問の旅の後半で、私はどうしても未知の場所Niuli'iを訪れてみたいと思った。ジョージ宅でバーベキューをご馳走になった翌日、私と夫はNiuli'iへと向かった。みんなの顔を見ると名残惜しくて涙が出そうになるからと前日のうちに別れを告げ、当日は誰にも会わず静かに出発した。

45-image001.jpgのサムネール画像ヒロのダウンタウンから国道19号線に入り、Niuli'iのある島の北部を目指す。途中、レトロな雰囲気を色濃く残す小さな町ホノムから山のほうへ入り、懐かしいアカカフォールを見た。周囲には、わずかにサトウキビが生えている。40年近い昔、私がこの島に暮らしていたころは、19号線の周囲はどこを見てもサトウキビだらけだった。風にそよぎ、サラサラと揺れるサトウキビを眺め"ああ、ハワイだな~"そう感じながら、ハワイの空気を胸いっぱいに吸い込んでドライブしたものだ。それが今、ハワイ島では全くと言っていいくらいサトウキビの姿を見ない。現在ではカウアイ島とマウイ島の2島でしか生産していないのだ。



〔アカカフォール〕

45-image003.jpg砂糖産業が減少した理由はいろいろある。かつてはプランテーションに集まったさまざまな国の移民の豊かな労働力があったが、今では人件費をはじめとする多くのコストが砂糖産業の経営を圧迫している。また刈り取ったあとのサトウキビの葉は以前なら燃やして、次の収穫の肥料にしていたが、何事につけ環境に配慮を求められる現況で焼畑は許されなくなった。


                               〔わずかに残るサトウキビ〕

しかし減りはしたものの、依然として砂糖はハワイの中心産業の1つ。最近では付加価値を高めたものが生産されるようになった。"Speciality Sugar"とよばれるマウイ産の砂糖は甘さに風味があり、私はわざわざ通販でハワイから取り寄せたりしている。

これとは別に、サトウキビの新しい可能性として最近注目されているのが、「バイオエネルギーの原料」という使い方だ。ハワイ州内でのエネルギー源として、現在は風力、水力、地熱、太陽熱などの整備運用が計画されている。サトウキビもこうした自然を利用したエネルギー・バイオエタノールの原料として、これから用途が広まっていくだろう。

45-image005.jpgこうして時代が移り変わるとともに、ハワイも姿を変えていく。そんな中、かつてと変わらない美しいハワイの海と空。私は、アカカフォールから再び国道19号に戻るときの、山の上から海を見下ろす景色が大好きだった。その景色はいつ見ても変わらない。

ここからさらに目指す島の北部には、Niuli'iのほかに、私がどうしても訪れたい場所が待っていた。
ハワイ大学のサマーセッションに参加したとき、ふと立ち寄ったホノカアの町で出会い、アロハスピリットを教えてくれたグレース(第34回参照)に、どうしても一目会いたかったのだ。

第44回:未知の扉を開く呪文 Niulii
2013年12月13日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】10月30日、右足首骨折。ハワイ旅行キャンセル。次男にふたごちゃん誕生。名古屋へギプスをはめてお祝いに。最近は1週間が束になって逃げていくのに、この1カ月はある意味、とっても充実していた。自宅療養中もじっくり手仕事をやったし。骨折で済んだことも、ラッキーだった。
-----------------------------------------------------------------------------------------
11月4日からのハワイ旅行を目前にして、私は自転車の横転事故で、右足のくるぶし剥離骨折と右足小指の付け根を骨折。転倒と同時に、あんなに楽しみにしていたハワイが突然目の前から消えていった。
44-image001.jpg久しぶりの再会を約束していたシマダさんには、なんと言おう。ケアホームに入所したシマダさんは、私がハワイを訪れるのを心待ちにしているのだ。がっかりさせたくないからといって隠しているわけにもいかず、まずジョージの奥さんエミにメールで事情を伝え、ハワイ行きが延びたことを連絡。次の日に意を決してシマダさんの携帯に電話をした。
「シマダさん、アツコです・・・」
「エミから聞いたよ。ケガしたんだって? ハワイへは来れないの?」
「右足を骨折して、ギプスをはめているの。1ヶ月は動きがとれないから、今回の旅行はキャンセルになりました。でもね、来年は必ず行くから。3月頃に必ず行くからね」
「アツコさん、じゃ私、それまでなんとか元気でいるからね。必ず来てくださいよ。今ね、ジョージとエミがとっても良くしてくれるの。昨日も私をランチに連れて行ってくれたの。私、涙が出るほどうれしいよ。ホントにうれしいよ」
気の強いシマダさんだが、情はそれ以上に強い。夫のジョーも亡くなり、息子はオアフ島に住んでいる。近くにいる甥のジョージとエミが毎週のようにシマダさんのケアホームを訪れ、買い物やランチに連れ出してくれるのが、何よりの楽しみとなっているようだ。

以前私が夫とハワイ訪問中、ジョージの一族みんなが集まり、ガレージでバーベキューをしたことがある。お腹もいっぱいになり、部屋に入ってデザートのケーキを食べていた時のことだ。シマダさんが珍しく昔の思い出話を始めた。
「ヨコヤマの兄さんは、子供の頃とってもスマート(頭がいい)だったのよ。成績もとてもよかった」 「ヨコヤマさんはコハラ(ハワイ島北部の小さな町。カメハメハ大王の故郷)の生まれだと聞いていましたけど、コハラのどの辺ですか」
「コハラのもっと先のニウリというとこよ。小学校はマカパラ」

これは私たちにとって全くの初耳だった。あれほど親しくしていたリチャード・ヨコヤマさんだったが、幼いころの話は一度も聞いたことがなかった。私は急いで紙とペンを出し、その街の名前を書いてもらった。
「確かNiulii というスペルだったと思うよ。小学校はMakapara-elementary school」

この『Niulii』という文字を目にしたとたん、私にはそれが未知の扉を開ける呪文のように思えた。ハワイ島に滞在している間にヨコヤマさんの生まれた、このNiuliiという場所に行ってみよう。そしてヨコヤマさんが子供の頃を過ごしたMakapara小学校をこの目で見てみたい。私は突然そう思い立った。

ヨコヤマさんの両親の写真は、彼の自宅の仏壇に飾ってあったのを覚えている。ヨコヤマさん宅を訪れるたびに、何度も目にしたセピア色にくすんだ古い写真だ。お父さんは名前を横山亀吉といった。お母さんは写真花嫁として同じ広島から嫁いできた。そこまでのことは知っていた(第8回、第9回参照)。そしてシマダさんの話から分かったのは、ご両親はハワイ島北部の『Niulii』というところに生活の基盤を置き、サトウキビを育てる生活を始め、リチャードさんを始めとする家族を形成したということだ。
「シマダさんやヨコヤマさんのご両親は、広島のどこに住んでいたのですか?」
シマダさんは、はっきりと答えた。「確か、安芸の中野といったよ」

これでリチャード・ヨコヤマさんのルーツがはっきりした。
広島の安芸、中野に住んでいた横山亀吉さんは、新天地を求め、1カ月以上の長い船旅の末ハワイにたどり着く。そして写真を携えてやってきたお嫁さんとともに、ハワイ島Niuliiという場所で、苦労しながらも必死に家庭を築き上げた。
よし! ヨコヤマさんのハワイでのルーツを、この目で見よう! そして、いつか広島へも行ってみよう!

見に行かなければならないところは、まだたくさんある。シマダさんとの約束も果たさねばならない。骨折よ、早く良くなれ!

第42回:ヨコヤマさんとの別れ
2013年09月13日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】つい先日、ジャカルタから帰ってきた。25年前に2年間生活した街が、どんなふうに変わったかを見るのが楽しみだった。表から見える街並みは確かに豪勢になったが、やはり貧富の差はかつてと変わりない。外国人向けの豪華なアパートメントの1本通りを隔てた側には、バラックが並んでいた。国が変貌を遂げるには長い時間がかかるようだ。
-----------------------------------------------------------------------------------------
早朝のまだ薄暗い中、突然電話が鳴った。受話器の番号表示の"表示圏外"を見て、私は胸騒ぎを覚えた。案の定、電話はヒロのシマダさんからだった。「アツコさん、兄さんが亡くなったよ」。言葉を失う私。涙がとめどもなく流れた。恐れていた予感が的中してしまったのだ。

ヒロでの滞在中、まるで本当の子供のように可愛がっていただいた、リチャード・ヨコヤマさんは、1998年9月15日に亡くなった。83歳だった。

何度かシマダさんとの電話のやり取りで、ヨコヤマさんがすでに体調を崩していることは知っていた。最悪の事態がいつでも起こり得ると予測はしていたものの、実際の悲しみは例えようがなかった。あれからもう15年も経っているのに、いまだにヨコヤマさんを失った寂しさは、心にぽっかりと大きな穴を作っている。

ヨコヤマさんとの思い出は、いくら語っても語りつくせない。私がハワイを第二の故郷と思う最大の理由は、ヨコヤマさんの大きな存在があったからだ。考えてみれば、私のヨコヤマさん一家との付き合いは、わずか1年8か月。この短い期間に、あれほど親密な人間関係が作れるものなのかと、自分でも不思議になるくらいだ。あのヒロでの生活は私の一生の宝物だ。

亡くなる半年ほど前、私は大学の仲間と共にハワイを訪れた。そしてヨコヤマ宅を訪問したが、その時すでにヨコヤマさんの意識は混濁していた。親族が大勢集まったリビングルームでいつものソファーに座ったまま、ヨコヤマさんはぼんやりと私のほうを眺めていたが、私が誰かは判別できていないようだった。そんな姿を見ると、元気だったころのヨコヤマさんが心に浮かび、胸が締め付けられる思いがした。「おおアツコ、よく来たな。Longtime no see.(久しぶりだな)」そう呼びかけてほしかった。ウクレレを弾きながら、あのしわがれ声でハワイアンを歌ってほしかった。

42-image002.gifその席でエミ(ヨコヤマさんの甥ジョージの奥さん)が、「アンクルは"早くツル(ヨコヤマさんの妻)のところへ行きたい"と、いつも言っているのよ」と私に言った。まさに夫唱婦随の二人で、2年前の1996年8月にツルヨさんが亡くなって以降、ヨコヤマさんはまるで片腕をもがれたようにがっくりと力を落とし、生きる意欲を失ったそうだ。



42-image003.jpgヨコヤマさんは亡くなる前の数カ月間、ヒロのケアセンターに入っていた。数年前に夫とヒロを訪れた時、ヨコヤマさんが最後の日々を送ったそのセンターをどうしても見たくて、車で前を通った。"ハレ・アヌエヌエ・ケアセンター"という名前の、静かなたたずまいの施設だった。




私たちが知り合った当時のヨコヤマさんは、人生でも最高の時代だったように思う。それから40年の歳月が過ぎ、ヨコヤマさん夫妻はすでにこの世にいない。しかし一家との繋がりはいまだに続いており、数年おきにヒロを訪れてはその交流が続いている。今年もまた11月にはヨコヤマさんの甥ジョージ、エミ夫妻、そしてヨコヤマ家最後の一人となったシマダさんに会うことになっている。ヒロを訪れるとき、私はヨコヤマ夫妻のお墓参りを欠かさない。ヒロでの幸せだった日々の思い出を心に抱きながら、感謝の気持ちをせめてそんな形で表せたらと思いながら・・・。

第32回:GOKUROSAMA
2012年11月09日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】久しぶりに風邪をひいてしまった。毎日の気温差が大きいこの頃、気を付けないとと思っていたのだが・・・。体調を崩して改めて、健康のありがたさを痛感。みなさんもお気を付けください。
-----------------------------------------------------------------------------------------
まだヨコヤマさんが元気だった頃、私は土曜日の朝にはよくヨコヤマさんと一緒にヒロのダウンタウンへでかけ、日系人が経営する小さなコーヒーショップで朝食を食べていた。ヨコヤマさんのお気に入りは"ポチギーソーセージ"とスクランブルエッグにパンケーキ。ポチギ―ソーセージはボルトガルのちょっとスパイシーなソーセージで、初めて口にした時から私の大のお気に入りになった。コーヒーは何杯飲んでも値段は同じ。周囲には日系二世、三世の家族連れが大勢いて、たまり場のようになっていた。顔馴染みに会うとたちまち話に花が咲く。私たちがヒロで生活をした1970年代は、40代前後の日系二世が社会の中心になって活躍している、活気溢れる時代だった。「パホアにいる○○さんのアンセリウムの商売がうまくいっていて、パパイヤも輸出用に空港に入れているそうだ」「今度○○さんの家で銀婚式があって、カルアピッグ(豚の丸焼き)をするそうだ」などと、景気の良い話が次から次へと出てくる、古き良き時代だった。豆腐屋に生まれたジョージ・アリヨシが日系人で初のハワイ州知事になったのもこのころ。彼の州知事就任は、日系二世の力がハワイの社会に認められた証だった。

時が過ぎれば、様々な変化が起きる。5年ほど前に訪れた時は、二世のたまり場はダウンタウンのコーヒーショップからバーガーキングに変わっていた。80歳をとうに過ぎた日系二世のおじいさんが、頭にヘッドフォーンをつけて音楽を聴きながらコーヒーを飲んでいる。時代はこんなところでも大きく変わっていた。

32-001.jpg






〔バーガーキングで見かけた頭にヘッドフォーンをつけた日系の年配のおじいさん〕


その頃は、シマダさんも朝食はバーガーキングがお気に入りだった。特に水曜日にはパホアに住んでいる友人のクボ夫妻が、ヒロのバーガーキングにやってくる。クボ夫妻というのは、前回ラバツリーパーク州立公園の帰りに、海苔巻ベントウを食べるために寄らせていただいた家のご夫婦だ。パホアとヒロは車でおよそ30分。すでに90歳近い高齢になった日系二世にとって、この距離を運転するのはかなりの勇気がいる。シマダさんはもう長距離の運転はできなくなっていた。しかし毎週水曜日はクボ夫妻のご主人が、目が悪いにもかかわらず、ゆっくりと車を運転してヒロの町までやって来る。これが週に1回の楽しみなのだ。私たちがシマダさんを車に乗せてバーガーキングに到着すると、すでに店内は多くの日系二世で賑わっていた。ほとんどの人が、コーヒーだけを注文してソファーに座り、話し込んでいる。その内容がつい耳に入る。「○○さんが病気で入院したそうだ・・・」「○○さんが先月亡くなってね・・・」特徴のある英語と日本語が混ざったピジンイングリッシュで語られる話のほとんどが日系人仲間のそんな動向だった。大半の日系二世はすでに高齢のため、こういう哀しい話題が多かった。

だが日系一世、二世の築いてきたハワイの社会は、三世、四世の若い世代によってしっかり受け継がれている。今のハワイ日系人社会があるのは、移民時代に始まる一世、二世の大変な苦労のおかげということを心に刻んでいる若い世代は、本当に年配者を大切にする。

ハワイでは2007年、日本では2011年にハワイ日系四世の写真家Brian Y.Satoさんが、9年にわたって日系二世を撮り続けた写真展を開いた。モノクロで撮られた写真を展示した、このイベントのタイトルは「GOKUROSAMA」。年配者に対する若い世代の感謝の気持ちがタイトルになった。できることならこの写真集の中に、ヨコヤマさんの姿も入れたかった。「ヨコヤマさん、ご苦労様でした」

32-002.jpg   32-003.png 
〔バーガーキングに集う       Brian Sato氏の写真展の
クボ夫妻とシマダさん〕      日系二世写真集「GOKUROSAMA」

(久保さんのご主人は、昨年亡くなりました。心からご冥福を祈ります。)

第31回:カミンサイ  入いんなさい
2012年10月04日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】テニス楽天ジャパンオープンが始まった。今回日本選手は4名の出場。そのうち1回戦突破は錦織と伊藤の2選手。それにしても日本選手が強くなった。世界を舞台に、ランキング17位は錦織、添田と伊藤は50位まで手が届くところにいる。テニスには目がない私にとって、胸躍る毎日が続く。
-----------------------------------------------------------------------------------------
前回取り上げた「ピジンイングリッシュ」は、私にとって懐かしさを感じる言葉だ。そして、今もなお忘れられない思い出がある。

ヨコヤマさんの妹・シマダさんと一緒に、パホアの町から近いラバツリー・パーク州立公園を訪れたときのこと。公園は工事中ということで人の気配が全くなかった。ランチ用に買ってきた"海苔巻ベントウ"を抱えながら食べる場所を探していると、駐車場にトラックが1台入ってきた。荷台にはヒッピー風の若者達が数人。何となく異様な雰囲気を感じたシマダさんが「アツコさん、ここを出ましょう」と言ってきた。

「パホアに私のグッドフレンドがいるよ。名前はクボさん。あそこに行きましょう。確か昨日、ラスベガスから帰ってきたはずだから。家がどこかはっきりしないけど、行ってみれば分かると思うよ。ポストオフィスの2軒か3軒向こうのはずだから」。昨日ラスベガスから帰ったばかりのお宅、しかも正確な場所を覚えていない家へ、見ず知らずの私たちを連れて突然の訪問・・・いくらシマダさんのグッドフレンドでも、果たして急に押しかけても良いものだろうか。

そんな気持ちを抱きつつ、パホアのポストオフィスを目指す私たち。ゆっくり車を走らせながら一軒一軒探していくと、シマダさんが「ああ、あれ、きっとあれよ。何となく覚えてるよ」と、ある家を指差した。そして車を降りると、家の奥に向かって「Hello, Mrs. Kubo. Are you there?(クボさん、いますか?)」と大声で呼びかけた。目的の家かどうかもはっきり分からないのに、だ。すると中から、「Who's there?(どなた?)」と、日系の小柄な優しい顔立ちのおばあちゃまが姿を現した。「オー、ミシズ・シマダ。どうしたの?」どうやらクボさんの家で間違いなかったらしい。

「今、私たちラバツリー・パークでランチ食べようとしたら、若いハオレたち(白人のことをハワイ語でこう言う)が来て、怖くなったからやめたのよ。そして私、パホアにグッドフレンドがいるから、そこに行こうと言ったの。この人たち日本から来た、ミスター・アンド・ミシズ・オギハラね」と私たちを紹介してくれた。するとクボさんは、全くの初対面にもかかわらず、私たちを「おー、よく来たね。カミンサイ、カミンサイ」と招き入れてくれた。「カミンサイ」は英語を母国語としている人には、おそらく通じないだろう。これもピジンイングリッシュのひとつだからだ。
かつて日系人は、英語を聞こえたとおりの言い方で使っていた。「Come inside」も、日系人の間では「カミンサイ」としてそのまま定着。私にはこの「カミンサイ」がいつも「入いんなさい」に聞こえていた。

「昨日ラスベガスから帰ってきたばかりで、ハウスはひどいことなっとるけど、遠慮はいらんから、上がんなさい」。するとシマダさんが「ほら、グッドフレンドと言ったでしょ。ミシズ・クボは、初めての人にもとっても良くしてくれるのよ。」と得意そうに話す。私たちは、昔ヨコヤマさんに「人が好意を示してくれたら遠慮しないでJust say thank you」と言われたのを思い出し、図々しくお宅に上がらせてもらった。

31-image001.jpg居間では、クボさんのご主人もニコニコしながら私たちを迎え入れてくれた。確かに部屋は大変な状態になっていて、旅の間に出た洗濯物が山のように積まれていた。それでもクボさんは私たちを食卓のテーブルへ連れて行き、「座んなさい、座んなさい、遠慮はいらんから」と席を勧めてくれる。「飲み物は何がいいかね」と尋ねられると、シマダさんが「ランチを持ってきたから、水だけでいいよ」と答えた。「海苔巻きベントウを買ってきたから」。

「おー、そうかね。このごろ、ラバツリー・パークは少し怖くなったね。人がおらん時はあまりいかんほうがええね。マイ・ハウスに来てくれてよかった」。そう言って、ニコニコしながら飲み物を用意してくれる。そのほかにもいろいろ出してくれ、テーブルはたちまち食べ物でいっぱいになった。

しばらく楽しい時間を過ごした後、シマダさんが「Now, we're leaving.. Thank you so much, Mr. and Mrs. Kubo(そろそろ帰るよ。本当にありがとう)」と言って席を立った。するとミシズ・クボは、「なら、ちょっと待ちなさい。」と、大きな袋に入れた手作りクッキーとビーフジャーキー1袋をお土産にくれた。そして私たちの手を握りながら「また来なさいね、また来なさいね」と、何度も言うのだった。

初めて会う私たちを暖かく迎え入れ、お土産まで持たせてくれたクボさん。そんなクボさんの「カミンサイ」は、いつまでも私の心に優しく響いていた。それはまるで秋田の祖母の家を訪れた時に感じた気分と同じだった。

第20回:人生で初の体験
2011年10月14日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】もうすぐナダルの母国スペインを訪れる。彼が生まれ生活している マヨルカ島はこのツアーのスケジュールにない。では何のためにスペインへ? ナダルが呼吸している国の空気を吸いに行くのです!
-----------------------------------------------------------------------------------------
ハワイで人生初めての様々な経験をし、成長していた頃、私のおなかにいる赤ちゃんも順調に大きくなっていった。「サードフロア」と呼ばれた、隣のアパートの4階へ引越してからはおなかがどんどん大きくなり、階段の上り下りも大変な状態。1階のランドリールームから大きな洗濯物のバスケットを抱えて上る途中、急におなかが張ってきて動けなくなることもたびたびだった。また、買い物から帰ってくると、我が家の駐車場のすぐ前に住む、アパートのマネージャーの奥さん、オナーが荷物を運ぶのを手伝ってくれることもあった。

私が診てもらっていた産婦人科医はドクター・A.タカセといって、ヒロでは評判の日系アメリカ人の腕利きのお医者様。ツルさんやクレさんに相談して決めたのだが、診察してもらう時の安心感はこの上ない。妊娠、出産という初めての経験を、身内がいない土地でこれから迎える不安を払拭してくれるような信頼感と暖かさのある先生だった。これからやってくる様々なステージを穏かに丁寧に説明してくれる。それでも未知のことに直面する期待と不安は私の心から溢れるようだった。"陣痛"と一言で言っても、それは一体どんな痛みなのだろう。どんなふうにやって来て、いつ頃病院へ行けばいいのだろう・・・。

日本にいる母には出産と同時に連絡をして、すぐに飛行機で飛んでくるという手はずになっていた。電話で出産のことを尋ねると「私のお産の時は、秋田のおばあちゃんが"障子の桟を数えられなくなったり、畳の目が見えなくなったりする頃生まれる"とよく言っていたものよ」と言う。ハワイの家には畳もないし障子もない。けれどそのくらいの痛さを感じた頃に生まれるのだろうと想像する。「日本人なんだから、少しぐらい痛いからと言って、声を上げたりしたら恥ずかしいのよ」と何度も諭された。

これが陣痛かと思うたびに病院へ駆けつけ、まだだから帰りなさいと何度か言われながら、ついに入院の許可が出た。ところがなかなか本格的な陣痛が起きず、結局陣痛促進剤を点滴しながらの出産となった。隣の分娩室からは「ギャー、ヘルプミー、ヘルプミー!!」と叫び声が聞こえる。そのすさまじい声を聞くと、母の「日本人なんだから・・・」という言葉が私の頭の中を行き来する。畳の目も障子の桟も見えなかったが、大声を出すこともなく何とか無事出産を終えた。

ヒロホスピタルでの出産の入院日数は2泊3日。出産直後ベッドで少し休んだあと個室に入り、トイレやシャワーはすべて自分で行う。(恥ずかしながら最初のトイレ行きで私は失神してしまった)。

長男誕生の翌日、ヨコヤマ夫妻は待ちきれないようにお見舞いに来てくれた。当時ヒロホスピタルで出産を迎えた母親に面会できるのは、母親自身の身内と夫だけだった。ところがヨコヤマさんは「私はアツコのヒロの父親じゃ」と言って強引に許可を取ったのだ。新生児室の前でずらりと並んだ赤ちゃんを見て、リチャードさんは「おお、あれがユアベイビーじゃの。やっぱり違うの。ジャパニーズベイビーは、イチバンじゃ」。そう言って目を細めた。

長男は太平洋で生まれた最初の男の子、という意味で「洋一郎」と名付けた。アメリカではミドルネームも付けるということで、ちょっと気取ってAllenとした。これは、恐れ多くもドクター・タカセのファーストネーム、Alan からいただいた名だった。


ヨコヤマさんと洋一郎.jpg
〔ヨコヤマさんにとっては、"初めての孫"のような存在だった息子の洋一郎〕













第17回:ハワイのナンバー2のママ
2011年07月15日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】今年も近所の大学で聴講している。昨年までは年間を通して映像文化論を受講していたが、今年は前期に文化人類学を取った。これが面白い!! ハワイの原稿を書くに当たっても考えさせられることが多く、得たものを原稿に少しでも反映できたらいいが・・・。
-----------------------------------------------------------------------------------------

クレさんは本当に陽気でおしゃべりで親切な人だった。クレさんとは、私がハワイで親しくしていた、リチャード・ヨコヤマさんの妹。毎週土曜日リチャードさんの一族や友人たちがつどう、ヨコヤマさんの家での集まりで知り合った。

性格がとてもオープンなクレさんとは、会ってすぐ親しくなった。「アツコさん、わたしクレよ。困ったことがあったら、なんでも言いなさいね。遠慮したらダメよ」こんな調子だった。いつも可愛いベビーフェイスに笑顔があふれていた。

「アツコさんのハワイのナンバー1のママはヨコヤマの姉さん(クレさんはリチャードさんの妻ツルさんをこう呼んでいた)、私はナンバー2のママよ」と言ってくれたクレさん。だんだんお腹が大きくなる私を労わってくれて、一緒に買い物に行ったり、診察に連れて行ってくれたり、まるで実の母親のように私の面倒を見てくれた。何だかクレさんの実の娘さんたちに申し訳ないくらいだった。

クレさんはよくご主人のお墓参りに行った。ご主人は元軍人で、緑の芝生に覆われた明るい軍人墓地に眠っていた。ハワイの日系人は昔の日本人の心を継いでいるのか、総じて祖先を大事にし、多くは週に1度お墓参りをする。そのため、市場や花屋さんには、お墓参り用の花がたくさん並んでいる。私たちもクレさんと一緒にご主人のお墓をたびたび訪れたが、そこにはいつも新しいアンセリウムの花が供えられていた。そして必ず「主人は、家の修理をしていて、屋根から落ちて亡くなったの。いい人だった」と思い出話を聞かせてくれた。真っ赤なアンセリウムが映える、青々とした芝生が広がる中で、クレさんのご主人に対する思いをしみじみ感じた。

それから数年してクレさんは乳ガンになった。結局、それが脳へ転移し、治療の甲斐なく亡くなった。私たちはすでに東京へ戻っていたので、お見舞いに行けなかったことが今でも悔やまれるが、あとで娘さんから聞いた話だと、クレさんは最後まで陽気なクレさんのままで、それがかえってとても不憫に思えたそうだ。見せてもらった写真に写っていたクレさんは、大勢に囲まれて真ん中に座っていて、頭部は治療のために布に被われていた。写真の中の、相変わらずの優しい笑顔のクレさんを見て、私は涙が止まらなかった。

今、クレさんはご主人のお墓の隣に眠っている。毎週娘さんがお墓参りに行くおかげで、2人のお墓に花が絶えることはない。私もハワイを訪れる時は、必ずクレさんご夫婦のお墓参りをするが、そのたびにあの陽気でお世話好きな彼女の笑顔を思い出し、懐かしい気持ちになる。

ヨコヤマさん一族にめぐり合わなかったら、私は初めての出産をハワイで迎えようとは決して思わなかっただろう。リチャードさん、ツルさん、そしてクレさんたちみなさんのおかげで、日本から遠く離れていながら、大勢の「ハワイの父親」や「ハワイの母親」に囲まれて過ごすことができた。私は本当に幸せものだった。


17-image001.jpg
この軍人墓地に、クレさん夫婦は眠っている。

17-image003.jpg 17-image005.jpg
最近の日系人のお墓は、このように小さなスペースが壁に並んでいる。
外には花を供えられるように小さな水入れが、そして中にはお骨が納められているが、
日本から大切に運ばれてきた、お位牌が納められているものもある。


第16回:ヨコヤマさんを囲む人びと
2011年06月17日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】東京も梅雨に入ったというが、今日は青空が広がり、爽やかな風が気持ちいい。今朝はハワイのシマダさんに電話をした。「アツコさん、私がボケる前に必ずもう一度ハワイに来なさいね」と言われた。彼女は今年米寿を迎える。
-----------------------------------------------------------------------------------------

ハワイ在住の日系二世、リチャード・ヨコヤマさんとは、とても親しいお付き合いが続き、繋がりはますます深まっていった。毎週土曜日の夜は必ずヨコヤマ家で集まりがある。私たちがそこに参加することは当然のようになっていたが、疲れていたりすると、たまには億劫なこともあった。まれに欠席したりすると翌日必ず「You, 昨日は一体どうした?」と電話で連絡があった。リチャードさんにはそんな少々強引なところがあったが、それゆえお付き合いが継続したことも事実だった。

週末ヨコヤマさん家に集まるのは、ほとんどがリチャードさんの一族か友人たちだ。奥さんのツルさんは、毎週やって来るいわば義理の妹たちに対し、「よう来なさった。さあ、お入りなさい」と、いつも変わらぬ笑顔で迎え入れる。結婚してまだ1年ちょっとしか経っていなかった当時の私など、日本にいた時は隠れてでも実家を訪れたいと思っていた時期だ。夫の妹たちといえばいわば小姑、それをあんな笑顔で受容れられるツルさんに、私は畏敬の念を抱いたものだった。

個性の強いリチャードさんは、気の合う人以外は受容れることはなかった。7人いる妹の中でも親しくしているのは数人で、友人に対しても好き嫌いがはっきりしていた。

画像580_edited.jpg
ハシモトさんが栽培していたアンセリウムの花。かつては赤と白が主だったが、今では緑、紫など、色とりどり。日系人のお墓参りには欠かせない花だ

土曜日の夜に必ずやって来たのは、腕利き大工さんのヨシオカ夫婦とその息子さん。1年に数回ラスベガスへ行き、帰りには必ず大量のピスタチオナッツをお土産に持ってきてくれた。(ハワイの熟年日系夫婦の一番の楽しみは、それまで一生懸命働いて得た小遣いを持って、ラスベガスへ行ってスロットマシンで遊ぶことだ。町のコーヒーハウスでは、「This time, ちょっと勝ったよ」「いやー、私はゼンゼンだめだった」なんていう会話がよく聞かれた)。

ヒロから車で20分ほどのパホアという町でアンセリウムの栽培で大成功したハシモトさんもメンバーの一人。夫婦で協力して輸出用のアンセリウムを大量に栽培し、それまで質素だった家を壊して大邸宅を建てた。また、ホノルルからはるばるやって来るのが教師のナガタさん。ヒロでレンタカーをするのがいやだと、来るたびに自分の豪華なキャでラックをフェリーに乗せて運んできた。白髪交じりの独身でお酒好き。夕方4時になると「さあ、時間だ」と言ってビールにウィスキーを混ぜて飲み始めるのが常だった。

また、仕事関係で親しくしていたのがイナバ3兄弟。長男のヨシオさんは、1960年のチリ地震の際にヒロが大津波に襲われた時、ダウンタウンがすべて波にのまれながら、高いヤシの木に登り必死にしがみついて九死に一生を得た。この話はまるで伝説のように語り伝えられ、ダウンタウンにあるツナミ・ミュージアムにも記されている。

ハワイ日系人社会の基盤を築いた2世の人たちも高齢化を迎え、その数がどんどん少なくなっている。ここに挙げたリチャードさんの友人たちも、もうほとんどが亡くなられた。それを思うと、私たちがヒロで出会ったこの人たちとの交流は、まるで宝物のように思える。現在は日系4世、5世が中心となって活動しているハワイの日系人社会。私たちが生活していた1970年代は、私の最も好きな"ヒロの古き良き時代"なのかもしれない。

第13回:私がモンスターに!?
2011年02月24日

ハワイの気候は本当に最高だ。毎日が抜けるような青い空と肌に気持ちよい爽やかな風。この澄んだ空気の中に、私の体を蝕む目に見えない何かが存在するなんて、全く予想だにしなかった。

ある日、どうもここ数日、頭が重っ苦しいことに気付いた。鼻水も出てきたし、「これは風邪を引いたかな。まあ鼻風邪ぐらいなら放っておいてもそのうち治るだろう・・・」
と気楽に思っていたのだが、症状は突然激しくなった。鼻水は止まることを知らず、ティッシュを突っ込んでも、すぐにズルズルになる。それに加え目の痒さも出てきた。思わず手でこすると、充血した目はさらに痒さを増し、とても我慢できるような状態ではない。たまらなくて更にこすると、まぶたの内側の粘膜が真っ赤に腫れ上がり、目からはみ出してきたのだ。私は半分パニック状態になって、夫に「目が見えなくなる!」と叫んだ。

一体何が起きているのか。鼻風邪ではないことは確かだ。滝のように流れ出る鼻水、赤く腫れてめくれ上がっている目の粘膜・・・鏡の中に写った自分の顔は、まるでモンスターだった。猛烈に不安になってハワイで初めて医者にかかった。症状を説明すると「近くにマンゴの木はありませんか」と尋ねられた。帰宅して周囲を調べると、確かにあった。アパートの真ん中に巨大なマンゴの木が・・・。

hawaii13-1.JPG
〔4階建てのアパートのL字になっている右端に、かつてはマンゴの巨木が立っていた。私のようなマンゴの花粉症が他にも出たかどうかは分からないが、
現在は木は切り倒されて、新しくアパートが増築された。〕




そう、私はマンゴ花粉症を発症していたのだ。医者は抗ヒスタミンを処方してくれた。薬は強烈な強さで、飲んで30分もしないうちに頭は朦朧とし、起きていられないくらいの猛烈な眠気に襲われた。薬を飲んでも辛い、飲まないともっと辛い・・・。そんな悲惨な日々を必死に過ごしているうちに、週末がやって来た。恒例の"土曜の夜のヨコヤマさん宅訪問"だ。夕方アパートを出て、車でくねくね曲がるカウマナ通りを上がっていくうちに、花粉症はウソのように治まってきたのだ。アレルゲンから遠ざかるごとに、私はまさに生き返ったようになった。ヨコヤマさんの庭には、黄色の実とピンクの実がなる2本のグァバの木があったが、マンゴの木はなかった。その時の私にとって、ヨコヤマさん宅でのマンゴ花粉症から解放された数時間は、まるで天国にいるかのような救いの時間だった。

マンゴはウルシ科の植物なので、果実を食べると口の周囲が真っ赤に腫れ上がるという人は結構いるようだが、私はいくらマンゴの実を食べてもアレルギーは起こらない。しかしその花粉に対して、自分にこれほど強烈なアレルギー症状が起きるとは思ってもみ見なかった。第一、当時は"花粉症"という言葉さえなかった。日本では1980年に入ってから、盛んに「スギ花粉症」という言葉が世間で取りざたされるようになったが、私がハワイへ行ったのが1973年。当時私の頭の中には「花粉症」などという言葉は存在していなかったのだ。 

日本では、2月に入ると天気予報と共に花粉情報が流れ始める。その話題を耳にしただけで、鼻がムズムズしたり目が痒くなるという人は多いだろう。昨年の夏の記録的な猛暑のために、今年は飛散するスギ花粉の量が、地方によっては例年の10倍ほどになるという予想もあるくらいだ。春が近づくのは嬉しいが、同時に「花粉」に悩まされる辛い季節の到来となる。

「私、マンゴの花粉症なの」なんて言うと、「カッコつけて」と言われそうだが、カッコつける余裕など到底ないくらい本当に辛かったあの頃。以来、私の中で目覚めた花粉症は私を苦しめ続けている。マンゴだけでなく、今やヒノキまで・・・。

hawaii13-2.JPG
〔マンゴの花〕












-----------------------------------------------------------------------------------------
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近のわたし】先日、ある番組の字幕製作レギュラーメンバーの一人でハワイ在住の方が、日本に1週間ほど一時帰国なさった。メンバー3人で美味しいランチをいただき、とても楽しいひと時を過ごした。ハワイへ無事のご帰国を。(私もついて行きたかった!!)

第12回:ふるさとの味? 巨大わらび"カクマ"
2011年01月27日

毎年のことだが、12月の半ばを過ぎると、年末年始の支度で気忙しくなる。私の生まれ故郷秋田では年越しの夜にご馳走を出す。(秋田生まれではあるが、私の体に流れている血は"ハパ・ハワイ"と思っている・・・"ハパ"はハワイ語で半分という意味)。かつて祖母の家では二の膳付きのご馳走が並んだ。それが忘れられなくて、我が家でもテーブルにいろいろと料理を並べて紅白歌合戦を見るのが毎年の恒例になっている。そして除夜の鐘が近づくと年越し蕎麦。翌日はおせち料理を並べ、お福茶をいただいて新年を迎える。もちろんお雑煮は欠かせない。

昨年末、ハワイのヒロにいるジョージ・ミツダの奥さん、エミからメールが届いた。ジョージはヨコヤマさんのすぐ下の妹、故ミツダさんの長男で、ヨコヤマさんの甥の中では最年長者。現在は70代半ばぐらいだと思う。ヨコヤマさんが高齢になり、一族の中心になるのが少し大変になった頃から、彼が代わりに一族の取りまとめ役になっていた。娘が2人、息子が1人。全員結婚をしてそれぞれに子供がいる。一族が集まるとなると、ジョージの従妹たちの家族など、総勢20人近くなる。エミはジョージのサポート役として、ことあるごとに忙しい日々を送っている。

hawaii12-1.JPG
〔中央奥にいる2人がエミとジョージ夫妻。その左手前が長女ロシェル夫妻、右手前が次女ロナ夫妻、一番左がヨコヤマさんの妹の一人シマダさん〕

エミのメールには例年のごとく、ハワイの日系人の年末年始のあわただしい様子が記されていた。20人も集まるのだから、料理だけでも大変な準備が必要になる。


"ニューイアー・イブにはソバを食べます。翌日の新年の朝はまず一家そろってゾーニを食べ、午後3時ごろからニューイヤーパーティーが始まります。持ち寄りですから、今年はジェリー(ジョージの従妹)はコーリアン風チキンマカロニサラダ、ジャン(ヨコヤマさんの三女、ジョージの従妹)はチリとソバのサラダ、ロナ(ジョージの次女)はロングライス入りのチキン、ロシェル(ジョージの長女)はオシズシを持ってくる予定です。私はモリモノ(盛り物)ホームメイドのカンテンとヨーカン、そしてカルアポーク(ハワイの豚の蒸し焼き)とハムを焼いたもの。ニシメとトーフスープ、それにダイコンナマス。例年だと尾頭付きのニザカナ(煮魚)を作りますが、昨今はサシミと共に魚の価格が上がり、今年は省略です。25年間続けたモチツキも休みました。"

hawaii12-2.JPG
hawaii12-3.JPG


〔「Hawai'I's Best Local Dishes」に載っている料理。左が"Nishime"煮しめ。日本の煮しめそのまま。右の右下は"Lomi Salmon"生鮭、トマト、タマネギを使った私の大好きなハワイ料理〕

それにしても実にインターナショナルなメニューだ。いかにも"人種のるつぼ"といわれるハワイらしい。韓国風、エスニック風、ハワイ風、そしてもちろん日本風。私がハワイにいた頃は、このほかに必ずカクマという料理が出された。これは、巨大シダの新芽を煮た物。人の顔ほどもあろうかと思われるこのシダは、ボルケーノ地帯のいたるところに群生している、タカワラビ科のハワイ特有の植物だ。ハワイ名はハプ・ウ(Hapu'u)というが、ハワイの日系人はこれを"ワラビ"と呼ぶ。葉が成長して広がると、まるでジュラシック・パークの恐竜ティラノサウルスが出てきそうな、原始を思わせる光景になる。新芽は茶色のベルベットのような柔らかい毛に覆われ、昔はこの毛を集めて枕やクッションの中に詰めたという。

hawaii12-4.JPG
まだ開かない新芽を茹でて皮をむき、その後何日もかけてあく抜きをする。そしてひと口サイズに薄く切った後、豚肉と共にしょうゆ、砂糖、酒で甘辛く煮る。カクマを料理するには、時間と手間が要るので、おそらく最近は料理する人が少なくなってきたに違いない。ハワイにいた当時私はカクマを食べるたびに、"日系人はこのお化けのような巨大なハプ・ウを見ては日本のワラビに想いを馳せ、昔ながらの味付けで料理して故郷を懐かしむのだろう"と感慨にふけったものだ。煮しめ、大根なます、巻き寿司も必ずテーブルに並ぶ料理だった。どの料理にも日本を偲ぶ想いが一味加わっていた違いない。
(手のサイズと比較すると、ハプウの大きさが分かると思う。) 

ハワイでも日本でも、新しい年が明けた。皆さんにとって、健康で楽しい1年になることを、心から願う。
-----------------------------------------------------------------------------------------
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近のわたし】毎年お正月には、近所の井草八幡へお参りに行く。源頼朝公にゆかりのある古い八幡宮だ。来年の秋祭りには5年に1度の流鏑馬が出るので、興味のある方は是非おいで下さい。