やさしいHAWAI’ I

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第30回:ハワイのピジン・イングリッシュ
2012年09月07日

【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。
【最近の私】ついにデスクトップが壊れた!! 最近どうも立ち上がりにあまりに時間がかかりイライラしていたのだが、とうとうその時が来てしまった。使い慣れたPCを廃棄処分にするのは、なんだか片腕をもがれるようで心が痛む。
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みなさんは、"ピジン・イングリッシュ"という言葉を聞いたことがあるだろうか?

ハワイで生活をしていた当時、親しくしていた日系二世のヨコヤマさんから最初にこの言葉を聞いた時、私は"ピジン(pidgin)"を"ピジョン(pigeon鳩)"の意味で言っているのだろうと誤解していた。"ハワイの日系人の少しブロークンな英語を、鳩の鳴き声のような英語という表現をしている"と思ったのだ。

『ハワイ研究への招待』(関西学院大学出版会)によると、『ピジン"とは、"共通の言語を持たない人々の間でコミュニケーションの手段として用いられる、簡略化された補助言語』と定義されている。かつて移民としてハワイへやって来た日本人は、英語はもちろん、ハワイ語も当然分からなかった。しかし生活を続けていくためには、白人、ハワイの先住民、そしてさまざまな国から来た移民たちとの間で、お互いの意思疎通を図ることが必要となってくる。そのためのツールとして、複数の言語を取り入れた独特の言葉が自然に作られていった。この言葉を"ピジン語"というわけだ。ハワイの日系人の場合は、英語、日本語の出身地の方言、そしてハワイ語などが混在しており、現在も使われ続けている。

ヨコヤマさんも普段はピジン語を使い、「ハオレ(白人)」、「モエモエ(眠る)」、「パウ(終わり)、「プカ(穴)」、「オノ(美味しい)」、「マケ(死ぬ)」、などのハワイ語に、「イチバン」「ベントウ」「スコシ」「カライ」「イタイ」「ジョウトウ」などの日本語を混ぜ、最後は出身地・広島の方言「じゃけんのう」で終わる話し方だった。

例えば、「あとでダウンタウンに行って朝食を食べよう。あそこのポチギーソーセージ(スパイシーなポルトガルのソーセージ)は、すごく美味しいんだ。一番だよ」は、「Bumbye we go downtown and have breakfast. That Portuguese sausage, oh! Ono. Ichiban jakenno」(Bumbyeは"あとで"というピジン語。ヨコヤマさんはこの言葉を最も頻繁に使っていた。Ono はハワイ語で"美味しい")、という具合だ。

日系人Milton Murayamaによる小説『All I asking for is my body』は1930年代、第2次世界大戦を背景にハワイへ移民した日系一世、二世が、移民キャンプでの貧しい暮らしの中で必死に生きていく姿を綴った作品だ。その中に、子供のセリフとして、次のような文が出てくる。

"Go tell that kodomo taisho to go play with guys his own age. You know why he doan play with us? Because he scared, thass why. He too wahine"
kodomo taisho は "子供大将"、つまりガキ大将を指す。Doan は "don't"、Thass why は "That's why"、Wahine はハワイ語で"女性"のことだ。すなわち、この文は「あのガキ大将のところへ行って、『同じ歳の奴らと遊べ』と言えよ。なぜヤツが俺達と遊ばないか知ってるか? 怖いからだよ。ヤツは女のように意気地がないのさ」という意味になる。

短い中に、日本語、英語、ハワイ語が混在しているセリフだが、この作品に登場する子供たち(日系二世)は、話す相手によって言語を使い分けている。教師の前では"良い英語"、友人同士では"ピジン・イングリッシュ" (当時学校では、ピジン・イングリッシュは教養のない言葉とされ、話すことを禁じられていた)、日本から遠い異国の地で厳しい移民生活を送る、日本語しか話せない両親には"日本語"というように。子供たちにとってハワイは生まれ故郷だ。周囲の白人やハワイ先住民、そして中国やフィリピンなど様々な国の移民たちとの間で、子供同士の交流も始まる。ピジン語は、互いに何とか馴染もうとして生まれた。日系二世の生きるたくましさが感じられる言葉だ。

"ピジン語"は今でも、若い世代の中に根強く生き続けている。しかしそれは、かつての日系二世たちが生活をする必要性から生まれてきた"ピジン語"とは少し異なる。現在は、新しい世代としての自分達のアイデンティティを、クールに自己表現する1つの道具になっているのだ。

かつての私がそうだったように、ピジン・イングリッシュを"ブロークン・イングリッシュ"と簡単に片付ける人もいるが、それは違う。ハワイにおけるピジン語は、日系人がハワイでたどってきた生活が沁み込んだ、貴重な歴史の痕跡なのだ。