今週の1本

vol.87 『オカルト』&『(500)日のサマー』 by 石井清猛


7月のテーマ:怖い話

「悪夢のように恐ろしい」という表現をよく耳にします。
日本語にも英語にもあり、そして恐らく他の言語にも同様の言い回しがあるとするなら、"通常の恐怖ではない"ことを示すために使われるこの「悪夢」という言葉は、それを耳にする私たちに一体どんなイメージを想起させるというのでしょうか。

そもそも人類が共通して見たことのある一番恐ろしい悪夢など決められないことを考えれば、この表現のポイントは"夢"ということになります。

現実世界のものに似ていながら全く異なる論理で起きる出来事。
自らがその一部でありながら自らのコントロールが全く及ばない出来事。
現実に知っている人物とそっくりに見えて全くの別人が登場する出来事。
アンリアルそのものなのにリアル以外のなにものでもない出来事。
途中で「これは現実ではない」と気づいても自分のその感覚を最後まで信じることができない出来事。
そんな出来事が連続して、あるいは不連続に起きる場としての夢です。

例えば恐ろしい出来事を体験して、それが夢だと分かった時あなたはホッと胸をなで下ろしますか?
もちろんそうでしょう。
でもそれは夢が終わってからの話。
もしも終わらない悪夢があるとしたら...。

誰もが悪夢の1つや2つは見たことがあるとして、そのどれが一番恐ろしいかはもはや問題ではありません。悪夢はそれが"夢である"というだけで、"普通でなく恐ろしい"のです。

「悪夢のように恐ろしい映画」という謳い文句もやはりよく耳にしますが、白石晃士監督の『オカルト』に限っては「悪夢のような映画」と言った方がしっくりきます。それほどこの作品は"夢の中で体験する恐ろしい出来事"に酷似しているのです。

しかし『オカルト』は悪夢を"コピー"した類似の作品とは決定的に異なります。
2009年に発表されたこの傑作は、悪夢のイメージをなぞっただけのどんな映画にも似ていません。
『オカルト』はホラーでもスリラーでもミステリーでもサスペンスでもなく、むしろそれらすべての要素を含みながら、最終的に映像自体の"オカルティズム"に触れてしまうような、真に「悪夢そのものの映画」です。

2005年に東海地方の観光地で起きたある通り魔事件の真相を追う映像作家の白石。観光客2名を殺害し1名に重傷を負わせた犯人は崖から身を投げ行方不明となっている。白石は惨劇の一部始終が撮影されていた観光客のビデオを手がかりに、関係者インタビューなどの調査を進めていくが、彼の取材は唯一の生存者である江野と出会ったことで思わぬ展開を見せ始めるのだった...。

"フェイクドキュメンタリー(mockumentary)"という言葉を知っている皆さんであれば既にお分かりと思いますが、映像作品においてドキュメンタリーとフィクションを隔てるいかなる境界線も存在しません。
映像作家の白石が追う事件がこの世に実在しようがしまいが、『オカルト』の映像は"現実世界のものに似ていながら全く異なる論理で起きる出来事"を"アンリアルそのものなのにリアル以外のなにものでもない出来事"として描き出すばかりです。

そこで私たちが出会うのは"悪夢のような映像"と"映像のような悪夢"の一体どちらなのでしょう。
あるいは白石晃士は、本当は悪夢が映画の"コピー"であることを示そうとしていたのかもしれません。

そしてもう1本。私が近年見た中でダントツに恐ろしかった映画。
腹わたが煮えくり返るほどムカつくのに愛しくてたまらない映画。
この映画を高1の時に見たのでなくて本当によかったと思ったのはきっと私だけではないでしょう。
つまり『(500)日のサマー』です。

この世界に実在する悪夢の1つに、お互いに運命の人と信じ合っていると思っていた相手に"私はそうは思ってなかった"と告げられる瞬間というのがありますが、これほど確かな恐怖すら、年を重ねるごとにやがて薄まっていくものなのでしょうか。

ヘッドホンから漏れるザ・スミスも、イケアのシステムキッチンも、カラオケの「明日なき暴走」も、コピー室のキスも、全部なかった方がよかった。なんて頑なに思えたはずの日々は過ぎ去ったままなのでしょうか。

その答えが何であっても、私は決してベッドに横たわって天井を見上げるズーイー・デシャネルの目の色を忘れたりしないでしょう。

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『オカルト』
監督・脚本・撮影・編集:白石晃士
音楽:Hair Stylistics
出演:宇野祥平、野村たかし、栗林忍、東美伽、近藤公園、ホリケン。、
吉行由実、白石晃士、高槻彰、渡辺ペコ、黒沢清、鈴木卓爾ほか
製作年:2008年
製作国:日本

『(500)日のサマー』
監督:マーク・ウェブ
製作:マーク・ウォーターズ、ジェエシカ・タッキンスキーほか
脚本:スコット・ノイスタッター、マイケル・H・ウェバー
撮影:エリック・スティールバーグ
音楽:マイケル・ダナ、ロブ・シモンセン
出演:ジョセフ・ゴードン=レヴィット、ズーイー・デシャネル、
ジェフリー・エアンド、クロエ・グレース・モレッツほか
製作年:2009年
製作国:アメリカ
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Vol.86 『トイストーリー3』 by 藤田彩乃


7月のテーマ:怖い話

アメリカでは6月18日に公開されるやいなや、週末3日間で1億900万ドルを稼ぎ出し、大ヒットとなった「トイストーリー3」。続編の評価がオリジナルを上回ることは極めて稀だが、観賞した人がみな口を揃えて大絶賛し、映画誌などでの評価も高いので早速、見に行ってきた。

舞台は第1作目から10年後。ウッディやバズ・ライトイヤーなどのおもちゃの持ち主アンディは17歳。大学進学が決定し、おもちゃを整理することになる。悩んだあげくおもちゃを屋根裏部屋にしまおうとするアンディだが、母親の手違いでゴミに出されてしまう。間一髪でゴミ処理場行きは免れたおもちゃたちだが、アンディに捨てられたと勘違いし大激怒。保育園「サニーサイド」へ寄付するための段ボールに入り込み、サニーサイドで歓待され気を良くする。そんな中、ウッディだけがアンディを信じて、保育園から脱出し家に帰ろうとするが、バズを初めとするおもちゃたちはサニーサイドが気に入り留まることに決める。しかし、一見、天国に見えたサニーサイドは、おもちゃにとっては生き地獄。昼間は凶暴な年少組に乱暴に投げつけられて破壊され、夜は、過去に持ち主に捨てられた人間不信のくまのぬいぐるみロッツォの指揮の下、まるで囚人のように常に監視される。そんなサニーサイドでの現実を知ったウッディは、仲間の危機を救うため、果敢にも再びサニーサイドへと戻って行く。

保育園「サニーサイド」に着いた当初、おもちゃたちは大歓迎を受ける。イチゴのにおい付きのふわふわのピンクのくまのぬいぐるみロッツォはどこから見ても善人の長老。しかし、おもちゃたちが年少組のおもちゃの扱いに不満をもらした途端に一変、悪魔の顔つきへと変わる。その豹変ぶりと二面性はホラーに近い。怖すぎる。また、おもちゃたちを叩いたり、解体したりする子供たちも、おもちゃ目線で見ると、怪物以外の何者でもない。平和に見える保育園のおもちゃたちの上下関係、持ち主に捨てられたおもちゃたちのトラウマっぷりもシュールすぎて恐ろしい。
一方で、笑えるシーンも盛りだくさん。一番の見せ場はバズ。ロッツォと傲慢なおもちゃたちに捕らえられたバズは、背中部分のリセットボタンを押され、なんと情熱的なラティーノに変身。スペイン語で歯の浮くような台詞をはきまくる。意味不明だがかなり笑える。

おなじみのおもちゃも登場する。前作から出演しているバービーはもちろん、ボーイフレンドのケンも出演。キザな台詞と動きが笑える。そして日本が誇る我らがトトロも登場。ジブリとディズニー&ピクサーの長年の協力関係の賜物だ。台詞こそないが、かなりの存在感を醸し出していた。

映像のクオリティ、芸の細かさが群を抜いているのはもちろん、ストーリーの完成度も高く、さすがピクサーと言わざるを得ない。エンディングは感動的で切なくて、涙が込み上げてくる。大人になるアンディと、大人になれないおもちゃたち。いずれは別れの時が来るのだが、分かっていても泣けてくる。アンディの優しさ、おもちゃへの愛情が、最後にどーんと胸に迫ってくる。3部作のなかで、一番の出来と言っても過言ではないと思う。
日本では7月10日(土)全国ロードショー開始。笑いあり涙ありの大傑作、お見逃しなく。

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『トイストーリー3』
監督:リー・アンクリッチ
声:トム・ハンクス、ティム・アレン、ジョーン・キューザック
音楽:ランディ・ニューマン
製作国:アメリカ
製作年:2010年
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vol.85 『マトリックス』 by 桜井徹二


6月のテーマ:パソコン

『マトリックス』という映画を特徴づけているのは、例の「弾丸よけ」に代表されるような、思わずマネしたくなったりふとした時に思い出したりするような印象的なシーンが多い点だろう。

僕がよく思い出すのは、青白い顔でパソコンの前に座って日夜ハッキングに明け暮れる主人公のネオのもとに、1本の電話がかかってくるシーンだ。電話に出たネオは電話口の向こうにいる見知らぬ相手に突然、「真実を知りたいか?」と問われ、やがて彼はマトリックスの存在を知ることになる。

家にある固定電話が鳴りだすと、僕はいつもこのシーンを思い出す。いつからかうちには黒電話が置いてあって、いちおう電話線にもつながっている。ネットを引くために電話に加入していて、まあどうせ加入しているのなら、という感じで電話線につないでいるという程度の存在だ。なので、この黒電話の電話番号はほとんど誰にも教えていない。

にもかかわらず、なぜか月に1~2度くらいの割合でこの黒電話が鳴る。昼間や夜中におもむろにりんりん、りんりんと鳴り出すのだ。

そもそも電話をかけてくるような相手は数少ないので、自分の携帯電話でさえ月に数えるほどしか着信がない。それなのに、誰も番号を知らないはずの電話が月に何度も鳴るのだ。間違い電話にしても多すぎる。

そんな時、僕はいつも『マトリックス』のあのシーンを思い浮かべ、この電話がマトリックスの存在を告げる電話だったら? とつい考えてしまう。僕だって日夜パソコンの前に座ってばかりという点においてはネオと共通点がないわけではない。そんな電話が絶対にかかってこないという保証はどこにもないのだ。

もちろん下らない妄想だけれど、それにしてももし電話を取って「真実を知りたいか?」と問われたらどう答えるべきか、というのは思いのほか難しい問題だ。

なぜ真実を知る必要があるのか? そもそも真実とは何なのか? などと考えだすときりがないし、真実の世界は知りたいけど、そこで見ず知らずの人に囲まれて生活を始めるのも若干めんどくさいなと思ったりもする。といってじっくり腰を据えて考えようとしても、モーフィアスみたいな人が目の前にいて、怪しい錠剤を差し出して迫ってくるんだからそれも叶わない。なかなかにハードな状況だ。

というわけで、電話がりんりんと鳴っている間にはとても答えは出せそうにないが、それでも僕は電話が鳴るたびに繰り返し同じことを考えてしまう。映画にせよ小説にせよ、こんな風に何かしら形に見える影響を残す作品というのは稀有な存在だと思う。

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『マトリックス』
監督:アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー
出演:キアヌ・リーヴス、ローレンス・フィッシュバーンほか
製作国:アメリカ
製作年:1999年
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vol.84 『天才少年ドギー・ハウザー』 by 藤田奈緒


6月のテーマ:パソコン

大人になった今でも、自分のためだけに日記を書き続けている人はどのぐらいいるのだろうか。子どもの頃は誰でも一度ぐらいは、日記を書いてみたことがあるだろう。私の場合は、幼稚園の頃、出張で家を空けがちだった父親との交換日記に始まり、小学校の宿題、友達との交換日記...と、わりと長い間、日記をつけ続けた過去がある。その頃はほぼ毎日、当たり前のように日記を書いていたのだが、ある日を境にパタリと書くのを止めた。理由は明快、書く必要がなくなったからだ。十代も半ばに差し掛かると、宿題で日記を書くことを求められることもなくなるし、友達といつまでも仲良し交換日記を続ける気も失せてくるお年頃。"Dear Diary..."(日記さん、こんにちは)なんて出だしで秘密めいた日記を書く海外の子どもを真似てみたこともあったけれど長くは続かなかった。どうも私は、誰かに見せることを前提とした文しか書けないタイプのようだ。

私の知る限り、誰のためでもなく自分のための日記をつけ続けている人は2人。1人は私の祖父だ。分厚い十年日記を何冊も新調し続け、つい最近も新たな十年日記を購入していた。90歳近いというのに恐るべき執筆意欲である。本人の許しを得て少し読ませてもらったところ、まさに日々のメモといった感じの数行日記だったが(そうでなければ、さすがに60年も続けられないか...)、その日記のおかげで失くし物が見つかったりするのだから大したものだ。

そしてもう1人が、知る人ぞ知る天才少年、ドギー・ハウザー。教育テレビの海外ドラマを見ていた人ならご存知、わずか10歳でプリンストン大学を卒業し、14歳にして最年少の臨床医となった神童だ。エピソードは毎回、ドギーが自分の部屋で日記を書くシーンで終わる。しかも手書きではなくパソコンを使って、だ。見ている私はパソコンなんてものを実際に目にしたこともないっていうのに、ドギーはすました顔で毎日キーボードを叩いていた。今や誰もがブログやツイッターで普通に日記を書く時代だが、90年代前半に自由にパソコンを操ってみせるとは、恐ろしく進んだ子どもである。

『天才少年ドギー・ハウザー』、残念ながら日本ではDVD化されていないようなので、観たことのない人は、ぜひYouTubeでラストの日記のシーンを検索してみてください。ちなみに主演のニール・パトリック・ハリスは少し前にゲイをカミングアウト。最近ではエミー賞の司会を務めたり、人気ミュージカルドラマ『Glee』にゲスト出演するなど要注目パーソンです。

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『天才少年ドギー・ハウザー』
製作:スティーヴン・ボチコー
出演:ニール・パトリック・ハリス、ジェームズ・シッキングほか
製作国:アメリカ
製作年:1989年~1993年
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Vol.83 『グロリア』 by 藤田庸司


5月のテーマ:光

映画を見に劇場へ足を運ぶ。「一体いつの時代〜〜?」といつも感じてしまう、全く食欲をそそられない某焼肉レストランのCMが終わると、館内が暗くなり、ジーっという音と共に薄闇の中でスクリーンが横に広がる。これから入り込む作品の世界に期待し、胸が膨らむ。そして次の瞬間、横に広がったスクリーンが眩しいほどの光を放ち、近日公開予定の作品の予告編が始まり、いよいよ本編へと流れて行く。光輝くスクリーン。"銀幕"とは上手く言ったものだ。
映画にとって映像が持つ"光加減"や"明るさ"は、その作品の雰囲気を作るうえで、非常に大切な要素だと思う。製作側は描きたい世界観を最大限まで引き伸ばすために、絶妙な光の計算をしているはずだ。簡単に言えばラブコメディとホラーの光加減が同じだと困る。今日紹介する作品にも独特の光加減がある。全編を包む淡い明るさによるザラついた映像の質感は、ストーリーにリアリティを生み、光と影のコントラストが作品の持つクールで危険な雰囲気をよりいっそう盛り上げるのだ。


『グロリア』

舞台はニューヨークのサウス・ブロンクス。ジャックを主人とするプエルトリコ系一家のアパートを数人のギャングが取り囲んでいる。ギャング組織の会計係をしているジャックが、組織の資金を横領し会計をFBIに密告したことから、一家は命を狙われるはめになったのだ。物々しい事態の中、事情を聞かされ、うろたえ恐怖におびえる妻や祖母。そして事の重大さを理解できない6歳の息子フィル。武装したギャングは今まさにドアを突き破り、ジャックの部屋へ乗り込もうとしていた。そこへ偶然コーヒーを借りに、同じフロアに住むグロリア(ジーナ・ローランズ)がドアをノックする。グロリアはジャックの妻の親友であり、実はギャング組織のボスのかつての情婦でもあった。異様な空気を敏感に感じ取ったグロリアは、子供嫌いながらもジャックの「フィルを預かってくれ」という突然の願いを聞き入れる。ギャング団の狙いは一家皆殺しとジャックの持つ組織の資金詳細を記したノートの奪還だ。ジャックはノートを息子に託した。グロリアが嫌がるフィルを連れて自室に戻った瞬間、ジャックの部屋で爆発が起き、彼女は一家が惨殺されたことを確信した。ノートの行方を必死に追う組織は、やがてグロリアがかくまっている息子のフィルがノートを持っていることを知る。そして追われる身となったグロリアとフィルの必死の逃避行が始まるのだ。

物語の冒頭、薄暗く不気味なアパートのシーン。暗い昼間のアパートに差し込む光が、不安感や危険な雰囲気をよりいっそう盛り上げる。そんな中、印象的なのがグロリアの登場シーンだ。コーヒーを借りにジャックの部屋をノックするグロリア。ジャックがドアを開けると、カメラが彼女の顔のアップを捕える。「ハーイ」と、どこか気だるくクールなヒロインの登場。救世主を予感させる、まるで闇の中に差し込む一筋の光のような、印象深いカットである。ヤバイ雰囲気に臆することなくタバコをふかし、ハイヒールで拳銃を撃ちまくるグロリア。殺しもいとわない彼女が、フィルと逃げるうちに母性に目覚めていく様や、その心理描写が、本作をありがちなバイオレンス・ムービーやギャング映画とは一線を画す哀愁漂う人間ドラマに仕上げている。また、いい映画にはいい音楽が付き物だ。作中流れるスパニッシュ・ギターとサックスの調べがニューヨークの街によく映える。スカッ!といきたい時にオススメの一本。

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『グロリア』
監督:ジョン・カサヴェテス
出演:ジーナ・ローランズ
製作国:アメリカ
製作年:1980年
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Vol.82 『川の底からこんにちは』&『愛のむきだし』 by 浅川奈美


5月のテーマ:光

今、「ひかり」が気になってしょうがない。
「満島ひかり」。沖縄県出身の24歳。女優。

目がまん丸で、どことなくアナグマっぽい。
肌は浅黒く、骨格もしっかり。昨今テレビでよく見る色白で線が細いモデル系ギャルとは、ちょっと違うタイプ。
まだあどけなさの残るまなざし。佇まい。
きらびやかな大人の女性というより、まだセーラー服のほうがシックリというイメージだ。

日本映画に興味のある人であれば恐らく誰もが知っているであろう女優。
一昨年から、主演作品が次々に公開されると国内外でその演技力は高く評価され、各賞を受賞した。
まさに日本映画界の新ヒロインと呼び名も高いのである。


私が彼女を知ったのは、2005~2006年にTBSで放映された「ウルトラマンマックス」だ。最初は、おっと、とんだダイコンが出てきたものだと驚いたのだが、よくよく一緒に観ていた甥(当時、幼稚園)に説明を仰ぐと、彼女が演じるエリーはアンドロイド。しかもかなり重要な立場。要するに、表情や声の抑揚に頼ることなく、感情を表現しなければならないという難しいキャラクターだ。それを熱演。
瞬きの仕方が特に印象に残っている。
「ウルトラマンマックス」は、多くの実績あるクリエイターが参加する1話完結型のシリーズであった。彼女の芝居への向き合い方や演技力が、その後の出演作など、活躍の場に繋がっていくのであろう。

ある時は、
女に愛されてしまう自堕落な女子大生、

またある時は、
貧乏どん底から這い上がろうとするオペラ歌手の卵、

...と思ったら、
カルト宗教にはまってしまった喧嘩上等な女子高生。

なりきっている彼女の瞳は、ある意味"イッちゃってる"。
彼女はいつだって体当たりだ。
何だかひとりの少女が、自分自身を削りながら"役"を演じているかのように感じてしまう。
そして時にその姿は、観客に痛みまでも届けてしまう。

昨年、ベルリン国際映画祭フォーラム部門でのカリガリ賞と国際批評家連盟賞をダブル受賞した園子温監督『愛のむきだし』。劇中、満島ひかりがコリント書第13章を長台詞でいうシーンは、思わず震えた。園監督から指示されたのは、「言葉を詩的に読んでほしい。句読点まで読む気持ちで言ってほしい」このひとつ。あとは、テストもせず、本番だけで撮られたというエピソードを知って、さらにグッときた。
まさに私の中の全米が泣いた瞬間。

「今週の一本」は、満島ひかりを知らない人、なんか観てみてくださいよっていうお知らせだ。

本当に本当は『愛のむきだし』をオススメしたい。
実話をベースに"真実の愛"を描く237分の純愛エンタテインメント。実際、昨年、海外の映画関係者と話すと必ずといっていいほど、この作品が話題に上った。
満島ひかりもさることながら、西島隆弘、安藤サクラも素晴らしい。キワモノキャラ。それぞれの表現力が炸裂。
園監督の脚本も構成も、その長さを感じさせない。 やっぱり、すごい。

軽々しく人に「観てね」とオススメできない長さ。しかも、途中で席を立ってほしくない。カウチポテトだとしても、携帯だってもちろん電源OFFを願う。

4時間は、ちょっと...(;´Д`) という人。
満島ひかりの最新作、『川の底からこんにちは』(石井裕也監督)が公開中だ。
本作は今年のベルリン映画祭フォーラム部門で上映された。

友人のドイツ人が、早速GWに満席のユーロスペースで見てきた。彼女の叔母さんがベルリンで観たところ、面白かったそうで、オススメしてきたそうだ。
先月フランクフルトで行われたニッポンコネクションでも上映されていたが、惜しくも見逃してしまった...。ユーロに行くとするか。

民放のドラマでも、満島ひかりをちょくちょく見かけるようになった。
この春からのフジテレビ月9(『月の恋人』※主演:木村拓哉)にも、ちょっと出演している。ただ、ここで述べているような「満島ひかり」ワールドは、残念ながら期待できないだろう。

「満島ひかりって、いいよねー」と、彼女の魅力を共有できるのは、今のところ私の隣席に座るMTCディレクターI氏くらいなので、一緒に語れる人募集中。

※ ちなみに『月の恋人』の中に出てくる中国語セリフ(リン・チーリンなど)の字幕制作(ベタ訳から)に関しては、JVTAが担当している。

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『川の底からこんにちは』 (2009年/35㎜/112分)
脚本・監督:石井裕也
出演:満島ひかり 遠藤雅 相原綺羅 志賀廣太郎 岩松了
2010年GW渋谷ユーロスペースほか全国順次公開

『愛のむきだし』 (2008年/日本/237分)
原案・脚本・監督:園子温
出演:西島隆弘、満島ひかり、安藤サクラ、尾上寛之
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vol.81 『ウォレスとグルミット』 by桜井徹二


4月のテーマ:どうぶつ

クレーアニメというのは、誰もが一度は作ってみたいと思ったことがあるはずだ。いや、さすがにそれは言いすぎかもしれないけれど、少なくともクレーアニメを見て「すごい!」と思ったことくらいは誰もがあるはずだ。何より撮影にかける手間がすごいし、コマ撮りしたキャラクターがあんなに生き生きと動き回るというのもすごい。

そのクレーアニメの世界でよく知られている作品に「ウォレスとグルミット」がある。主役は、発明を得意とするウォレスと、彼が飼っているビーグル犬グルミット。グルミットは飼い犬とはいいつつも、ウォレスのお世話役的な面もある(セーターなんかも編んだりする)。そして毎回、ウォレスの突飛な発明を発端として、いろんな事件やドタバタが起こる。

クレーアニメ自体のすごさについては上述したとおりなのだが、こと「ウォレスとグルミット」に関しては上記の2つの「すごい」に加えて、ストーリーが抜群によくできているという「すごい」もある。

特に、2人の家に下宿人としてペンギンがやってきて...というストーリーの短編「ペンギンに気をつけろ!」などは、いつもながらのほのぼとのとした笑いに加え手に汗握るスリリングな展開もあって、クレーアニメという範疇にはとても収まりきらないほどの優れた作品。これがコマ撮りで撮影されているなんて、何度見ても信じがたい。ビデオ屋さんにも置いてあるので、ぜひ見てみてください。

僕は以前ビーグル犬を飼っていたのだけど、その当時はまだグルミットの存在を知らなかった。もし知っていたら、自分の犬がさらに愛らしく思えたかもしれないな、と思う。

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『ウォレスとグルミット/ペンギンに気をつけろ!』
監督:ニック・パーク
製作国:イギリス
製作年:1993年
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vol.80 『ウォーキングwithダイナソー ~恐竜時代 太古の海へ~』 by浅野一郎


4月のテーマ:どうぶつ

皆さんは、"爬虫類"と聞いて、何を想像するだろうか? 僕は、ついついウェスタン・ブーツを連想してしまうという、非常に不届きな人間だ...。

史上最も大きな爬虫類、恐竜。誰でも一度は、化石でしたか見たことがない恐竜の姿を実際に見てみたい! と考えたことがあるのではなかろうか? その想いを映画で具現化したのが、「ジュラシック・パーク」だ。
琥珀に閉じ込められた蚊から恐竜のDNAを取り出し、それを基に実際に恐竜を作り出すというのが映画の筋だ。もちろん、この映画を観たときは作り物と分かっていながら、身体に電気が走ったような衝撃を受けた。

しかし、今回ご紹介する、イギリスBBC制作の「ウォーキングwithダイナソー ~恐竜時代 太古の海へ~」は、何とドキュメンタリーだ。やはり本物の伝える迫力は映画とは比べ物にならない。
動物学者で冒険家のナイジェルが、恐竜時代にタイムスリップして、命の危険も顧みず、さまざまな恐竜の生態をカメラに収め克明に伝える。

この"太古の海"編のクライマックスは、"巨大な歯"という意味を持つメガロドンの登場だ。メガロドンとは、ムカシホオジロザメという和名をもつ史上最大のサメ。
今まで、このサメは色々なB級映画に登場し、全長20メートルとも40メートルとも言われてきたが、この映像に映っている大人のメガロドンは、体長15メートルほど。
しかし、恐怖度はむしろ作り物よりも本物のほうが数段上である。画面を通してさえ、メガロドンの歯の鋭さ、底のないかのような暗い眼には恐怖を感じる。もし自分が海の中にいて、こんな怪物に出会ってしまったら...

普通にタイムスリップしていることも驚きだが、恐竜を相手に、水陸問わず、よくぞここまできれいな映像を残すことができたということに驚きを禁じえない。

今年の7月には、恐竜ライブ!「ウォーキング・ウィズ・ダイナソー ライブアリーナツアー イン ジャパン」も日本にくるそうだ。このDVDを見て予習をしてから、約6500万年前に絶滅した恐竜の、恐ろしくも優雅な姿を見てほしい。

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『BBC ウォーキング with ダイナソー ~恐竜時代 太古の海へ』
プレゼンター:ナイジェル・マーヴェン
製作国:イギリス
製作年:2000年
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vol.79 『アイ・アム・サム』 by 藤田庸司


3月のテーマ:におい

CGを駆使した壮大なスケールの映画も楽しいが、レンタルDVDショップなどに出向くと、ともすれば"人間臭い"、"人間の臭いのする"ドラマ系作品に手が伸びてしまう。人間臭さと言っても抽象的で分かりづらいかもしれない。僕が思うところの人間臭い映画とは、人の強さや弱さ、醜さ、優しさ、うぬぼれなどを包み隠さず描いた作品である。人間は一人では生きていけない弱い生き物。だが、その弱い生き物が一生懸命に生きる姿は美しく、見る者に勇気を与えてくれる。今日はそんな1本を紹介したい。

『アイ・アム・サム』

知的障害のために7歳児程度の知能しか持たない父親サム(ショーン・ペン)は、コーヒーショップで働きながら一人娘のルーシー(ダコタ・ファニング)を育てていた。ルーシーの母親は、ルーシーを生むとすぐに蒸発してしまったが、二人はサムの友人をはじめ、理解ある人々に囲まれ幸せに暮らしていた。しかし、ルーシーが7歳になる頃、その知能が父親を超えようとする。ある日、サムは家庭訪問に来たソーシャルワーカーによって養育能力なしと判断され、ルーシーを無理やり里親の元へ出されてしまう。何としてもルーシーを取り戻したいサムは、敏腕で知られる女性弁護士リタ(ミシェル・ファイファー)の元を訪ねルーシー奪還を図るが、サムにリタを雇うお金などなく、あっさり断られてしまう。それでもあきらめないサム。やがて彼の愛娘への思いがリタの心を動かしていく。

本作の登場人物たちは、個々に様々な悩みや問題を背負って生きている。貧しいうえ障害を抱えているサム。裕福で社会的にも地位を認められていて、誰もがうらやむ暮らしをしているリタ。父の障害と自分の成長の狭間でもがき苦しむルーシー。一見、幸せであろう人が実は不幸せだったり、かわいそうに思える人が実は幸せだったり、最も無力のはずの子供が一番強かったり、「人間の幸せって、一体なんだろう?」と考えさせられる。誰も不幸になんてなりたくない。幸せになりたいし、成功したいし、認められたい。そのために努力するが、そこには絶えず挫折や劣等感が付きまとう。時として、ノックアウトされたときの絶望感や、羞恥心と戦わなければならない。弱い中にも強さが必要なのだ。かく言う僕も、自分の不十分な努力を棚に上げ"才能がない"と落ち込んでみたり、"あの人はいいな〜"と他人の人生をうらやんだりしてしまう弱い人間である。自分の存在がどうしようもなく"ちっぽけ"と感じたり、"もうダメだ"と思った時、この作品を見ると、いつも救われる気がする。"弱くていいじゃん。だって人間なんだから"と。

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『アイ・アム・サム』
監督:ジェシー・ネルソン
脚本:クリスティン・ジョンソン
製作総指揮:マイケル・デ・ルカ
撮影:エリオット・デイヴィス
出演:ショーン・ペン、ミシェル・ファイファー、
   ダコタ・ファニング
製作国:アメリカ
製作年:2001年
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vol.78 『ドリアンドリアン』 by 石井清猛


3月のテーマ:におい

一体何を思ったか、誕生日を迎えた娘フアンのために市場でドリアンを丸ごと1個購入してきた父親。強烈なにおいに堪えかね、鼻をつまみつつ「ケーキの方がよかった」と恨みがましく訴える母親をよそに、彼はフアンに向かって「アメリカ産の貴重な果物だから食べろ」と執拗に促すばかり...。

フルーツ・チャンが2000年に発表した『ドリアンドリアン』で描かれる、香港に不法滞在する家族が食卓を囲むこの場面は、この作品の中でも際立って切実かつユーモラスな一幕となっていて、見る者に深い印象を残します。

父親が家族に披露するドリアンについての知識は明らかに事実と異なり、甲高い声でたどたどしくまくし立てられる彼の言葉は否応なくガマの油売りの口上めいた怪しさを帯びていくわけですが、同時に、そこにはほとんど理不尽なまでに楽天的な響きが備わっていて、私たちはやがて画面が不思議なバランスの緊張感で満たされていくのに気づくでしょう。

果たしてフアンは父親の勧めにしたがって、ドリアンを口にするのでしょうか?
実際、『ドリアンドリアン』の中でドリアンに遭遇する人物たちは、ドリアンを食べる機会を等しく与えられていながらも、それぞれが様々な反応を示し、その言葉や動作をカメラに切り取られていきます。
つまり『ドリアンドリアン』の登場人物たちは、この"ハリネズミ"や"地雷"に似た威容を持ち"犬のフン"や"オシッコ"に似た異臭を放つ"果物の王様"を、食べたり食べなかったりすることで、あるいは喜んで食べたり恐る恐る食べたりすることで、フィルム上にその存在を刻みつけるのです。

映画の中盤で物語の舞台が、原色があふれかえる亜熱帯の香港から雪が舞いすべてが凍てついた黒龍江省牡丹江に移り、画面の背景となる町並みや光のコントラストが一変しても、フルーツ・チャンが人々に向ける視線は変わることがありません。
南国の熱を閉じ込めたドリアンは巧妙に北国に持ち込まれるやいなや人々の間に小さな混乱を引き起こし続け、フルーツ・チャンはそこに生まれる奇妙な緊張感を逃すことなくとらえ続けます。

『ドリアンドリアン』にドリアンがいくつ登場するのかは、興味のある方に調べていただきたいのですが、作品中のすべてのドリアンに共通して言えるのは、この果物が、"王様"の異名を取ることなど想像もできないほどの無遠慮な扱われ方をしているということです。

映画の冒頭から誰もが顔をしかめるその異臭に対して容赦ない言葉を浴びせられ、硬い凹凸は敵の襲撃に際して凶器として利用され、その強固な外皮は悪態をつかれながらナイフや鉈、ドライバーやハンマーをあてがわれ、テーブルから払い落とされ、郵便局で引き取り手を待つ間何日も放置され、揚句には部屋からはじき出された勢いで階段を転落するに至るといった具合で、まったく、"王様"の威厳などあったものではない。

それでもフルーツ・チャンがこのドリアンと呼ばれる果物、外見もにおいもあまりにシュールでほとんど笑うしかないほど現実離れしているフルーツ=fruitに、たまらなく魅了されていると思えるのは、単なる気のせいではないでしょう。

『ドリアンドリアン』の中でドリアンは、まさに"荒唐無稽な異物"としか言いようのない存在として描かれています。
私たちは誰でも、人生のあらゆる場面において突然、"荒唐無稽さ"に出会う可能性があることを知っているにもかかわらず、本当に荒唐無稽な何かに出会った時には、ただひたすら動揺するほかありません。そしてフルーツ・チャンにとっては、そのような動揺の瞬間こそがリアルであり、映画的だったのではないでしょうか。

思えば『ドリアンドリアン』で最初にドリアンを食べるのは、牡丹江から出稼ぎにやってきたコールガールの護衛を命じられた不良少年でした。
彼はある経緯から道端に転がっているドリアンを見つけると、ためらいなくそれを真っ二つに割り、中から取り出した実を無造作に口に運びます。

少年がドリアンをどのように食べ、どのような動揺を見せたかは、ぜひ皆さんにご自分で確かめていただきたいと思います。
このシーンで彼が画面に刻みつけた視線と動作に、きっと誰もが目を奪われるはずです。
そしてそこにはフルーツ・チャンの動揺も同時に刻みつけられているということを、誰もが納得するはずです。

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『ドリアンドリアン』
監督・脚本:フルーツ・チャン
製作:ドリス・ヤン
撮影:ラム・ワイチューン
出演:チン・ハイルー、マク・ワイファン、ウォン・ミン、ヤン・メイカム、
ユン・ワイイー、ヤン・シャオリー、バイ・シャオミンほか
製作国:香港
製作年:2000年
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