今週の1本

vol.97 『潮風のいたずら』 by 石井清猛


12月のテーマ:息抜き

大抵の場合"息抜き"と呼ばれる行為が私たちにもたらすものは、それが身体的な観点からであれ精神的な観点からであれ、概ねポジティブなものだと考えられていますが、どうも映画の中の"息抜き"となると、話はそれほど単純でもないようです。

例えば休暇中に友人たちと訪れた山小屋で悪霊に取り付かれたり、小川のほとりで馬を休めているところをお尋ね者のガンマンに襲撃されたり、パーティーの席で豪勢な料理に舌鼓を打っている時に抗争相手のギャングにマシンガンを掃射されたりといった、およそ望ましい息抜きとは似ても似つかない災厄に見舞われる一方で、のどかなピクニックの最中にパラレルワールドに迷い込んだり、リビングで何気なく見ていたテレビ番組の世界に閉じ込められたり、早朝のカフェでくつろいでいる時に運命の人に出会ったりといった、必ずしも災厄とは限らないものの、一概に望ましい息抜きとも呼べない出来事が起きたりするのを目の当たりにすれば、誰でも一旦は「どうやら映画の中の息抜きというのは一筋縄ではいかないらしい」と納得する以外にないでしょう。

果たしてゴールディ・ホーン主演のロマンティック・コメディ『潮風のいたずら』で私たちが目撃するのも、そのような"一筋縄ではいかない息抜き"の顛末といえます。
のちに『プリティ・ウーマン』や『プリティ・プリンセス』を撮ることになるゲイリー・マーシャルがこの作品で描いたのは、それはもう、あきれるほど突拍子もなく、あり得ないほど楽天性に満ちた、実に映画的な息抜きでした。

大富豪のジョアナとその夫グラントは豪華ヨットでの気ままな船旅の途中小さな港町エルク・コーブに立ち寄る。そこで船室のクローゼット改装のためジョアナに呼ばれた地元の大工ディーン。どケチで性格ブスのジョアナは報酬も払わず悪態をつきまくり、挙句にディーンを海に突き落とす。クルーザーが港を離れたその晩、ジョアナは足を踏み外して落水。彼女はエルク・コーブに流れ着いて救出されたもののショックで記憶をなくしていた。ニュースを見たディーンは復讐のため夫と名乗り出てジョアナを引き取ることを思いつく...。

巨大なクルーズ船での贅の限りを尽くした船旅という常識をはるかに超えたスケールの息抜きは、それでも他の息抜きと同じく映画の法則に従って無慈悲にも中断され、やがてジョアナは"4人の息子を持つ妻(と見せかけたメイド)"としての生活を強いられることになります。

映画の前半で描かれるその生活の過酷なディテールはほとんどブラックユーモアに近く、「何かがおかしい」と感じながらもディーンに言いくるめられ、渋々家事を続けるジョアナの徹底的な不適合ぶりに、恐らくフェミニストもアンチフェミニストも、女性も男性も、笑うのを忘れて静かに胸を痛めるほかありません。
ディーン役のカート・ラッセルはこの前半において男性原理の非道な暴走ぶりを見事に演じ切り、見る者に軽い戦慄を与えます。彼が『デス・プルーフ』でタフな女子に袋叩きにされなければならなかった理由はこの映画にあった、と確信する人が出てきてもさほど不思議ではないでしょう。

いずれにしても、ディーンはこのように容赦なくジョアナを利用することで格好の息抜きの機会を得るわけです。
ただそれが決して一筋縄ではいかないのは、皆さんご承知のとおり。
慣れない家事をロボットのようにこなす毎日にあやうく心神を喪失しかけながらも、ジョアナは持ち前のタフでスマートでキュートな性格を発揮し、徐々に4人の息子と夫の心をつかんでいくのです。

アイデンティティ・クライシスの只中で魂を抜き取られたかのように終始虚ろな目をしていたジョアナが、ある瞬間についに生き生きと輝き始める場面はまさに霧が一気に晴れるような爽快さで、(当時の)"ロマコメの女王"ゴールディ・ホーンの面目躍如といえます。

それがでっち上げられたものとも知らず、新たに与えられたアイデンティティをすっかりその気で受け入れて"わが道"を進み始めるジョアナ=ゴールディ・ホーンの姿は、一挙手一投足がいちいち笑えてかつ最高に魅力的です。
やがて自分の息抜きが一筋縄でいかないことに気づくディーン=カート・ラッセルでなくても、きっと彼女から片時も目が離せなくなってしまうことでしょう。

さて映画の終盤近く、ディーンの息抜きが突如として中断されたあと、2人(+4人)に何が起こるのでしょうか?
その『プリティ・ウーマン』も色あせるほど楽天的で突拍子もないエンディングは、皆さんどうかご自分で確かめてみてください。

最後におまけ情報を1つ。
『潮風のいたずら』を緩やかな原作として変則リメイクされたのが韓国ドラマの『ファンタスティック・カップル』です。
私はまだDVDのDisc1しか見ていませんが、主演のハン・イェスルの性格ブスっぷりは本家ゴールディ・ホーンを上回っていたかもしれず...。

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『潮風のいたずら』
監督:ゲイリー・マーシャル
製作:アレクサンドラ・ローズ、アンシア・シルバート
脚本:レスリー・ディクソン
撮影:ジョン・A・アロンゾ
音楽:アラン・シルヴェストリ
出演:ゴールディ・ホーン、カート・ラッセル、マイケル・ハガティ、
エドワード・ハーマン、キャサリン・ヘルモンドほか
製作年:1987年
製作国:アメリカ
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vol.96 『サイドウェイ』 by 相原拓


12月のテーマ:息抜き

仕事のできる先輩たちをみていて最近気づいたことがある。どんなに忙しくても息抜きは必要。映像翻訳をやっている皆さんならお分かりだろうが、ひたすら原稿とにらみ合っているだけではいい翻訳はできない。行き詰まった時は好きなことをして頭を切り替えることも大事だ。友達と話したり、一服したり、あるいはちょっとした一人旅をしたりと、息抜きの仕方は人それぞれだが、いずれにせよ、リセットした状態で作業に臨めばきっと見えてくるものがあるはず。というわけで、今週の一本は、息抜きにぴったりのロードムービー『サイドウェイ』を紹介しよう。

主人公は小説家志望のさえない中年男マイルス(ポール・ジアマッティ)。2年前の離婚からいまだに立ち直れず充実しない日々を送っている。一方、親友のジャック(トーマス・ヘイデン・チャーチ)は元人気俳優で自由奔放に生きてきたプレイボーイ。そんなジャックがようやく身を固めることになり、マイルスはジャックを結婚祝いの旅に誘った。1週間かけてのんびりとカリフォルニア州のワイナリーを巡ったりゴルフを楽しんだりするという計画だったが、ジャックはどうも乗り気じゃない。それもそのはず、ジャックはワインにもゴルフにも全く興味がなく、どうせなら結婚式の1週間前ぐらい思いっきり羽目を外したいと考えていた。

性格もライフスタイルも正反対のこの二人、趣味が合わないのも当然だろう。人生に行き詰まりを感じているマイルスにとってワインとゴルフ三昧の旅は理想的だが、ジャックにとっては物足りなかった。そこで軽い気持ちでワイナリーのバーテンダーを口説いてみたところ彼は本気で恋に落ちてしまう......結局、ワイナリー巡りの息抜き旅行は思わぬ展開になっていくわけだが、少し大げさな言い方をすると、二人はそれぞれのやり方で人生をリセットすることができたのだ。

皆さんは課題やトライアルと格闘しながら行き詰まることはないだろうか? そんな時は「忙しすぎて息抜きする時間もない」なんて言わずに是非この映画を見てほしい。

※ちなみに本作品は昨年、『サイドウェイズ』というタイトルで邦画としてリメイクされている。

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『サイドウェイ』
監督:アレクサンダー・ペイン
出演:ポール・ジアマッティ、トーマス・ヘイデン・チャーチ ほか
製作年:2004年
製作国:アメリカ
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vol.95 『ロスト・イン・トランスレーション』 by 野口博美


11月のテーマ:壁

自分のしゃべる言語が全く通じない国に行くのは恐ろしいものだ。
そこには言葉の壁がたちはだかっている。
それでも、かけがえのない出会いや、思いがけない経験が待ち受けていることがあるのも確かだ。

ハリウッドスターのボブ(ビル・マーレイ)は、コマーシャル撮影のため日本を訪れた。
優秀とはいえない通訳は撮影スタッフの指示を半分も伝えてくれないし、珍妙な番組に出演させられたり、歓迎の印としてホテルの部屋に娼婦をあてがわれたり(実際にあることなのだろうか?)慣れない文化にボブはとまどいを隠せない。
そんな中、彼はカメラマンの夫について日本に来ていたシャーロット(スカーレット・ヨハンソン)と出会い、お互いに異国で孤独を感じていた2人は次第に心を通わせていく。

でたらめな英語で話しかけてくる日本人を相手に何とか意思の疎通を図ろうとするボブの姿は何だか可愛らしく見える。
LとRの発音をごちゃまぜにして"Lip my stocking!"とボブにつめよる娼婦にはちょっと笑えたが、同じ日本人として何だか恥ずかしくもなる。

ボブたちの目から見ると、見慣れた東京の街並みも新鮮に見えるから不思議だ。
しゃぶしゃぶを食べに行き、「客に料理を作らせるレストランなんてひどい」とつぶやく彼には、確かにそうだよね、と共感したくなるし、神前式の結婚式はいつもより神聖なものに見える。

本作はフランシス・フォード・コッポラの娘、ソフィア・コッポラが「ヴァージン・スーサイズ」に次いで監督を務めた作品だ。ユーモアにあふれていて、とてもおしゃれで美しい作品だと思う。
ご覧になっていない方には、ぜひおすすめしたい1本だ。
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『ロスト・イン・トランスレーション』
監督:ソフィア・コッポラ
出演:ビル・マーレイ、スカーレット・ヨハンソン ほか
製作年:2003年
製作国:アメリカ/日本
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vol.94 『ライフ・イズ・ビューティフル』 by 藤田彩乃


11月のテーマ:壁

言葉の壁は大きい。映像翻訳者として認めたくないが事実だ。特に笑いのツボは文化によって激しく異なるため、その壁を越えることは容易ではなく、コメディ映画で世界的なセールスは期待できないとさえ言われる。確かにコメディには、翻訳者泣かせの台詞や翻訳不可能なネタも多い。しかし外国語作品でありながら、アカデミー賞を総なめにし、言葉の壁を越えた作品がある。チャップリンの再来と賞されたロベルト・ベニーニ主演の「ライフ・イズ・ビューティフル」。大好きな作品だ。

舞台は、第二次世界大戦前の1939年。ユダヤ系イタリア人のグイドは北イタリアの田舎町で小学校教師のドーラと恋に落ち、結婚。かわいい男の子を授かり、幸せな暮らしを送っていた。しかし次第に戦争の色が濃くなり、3人はナチス・ドイツによって強制収容所へ送られる。恐怖と絶望の中、母親と離れて不安な息子にグイドはある嘘をつく。「これはゲームなんだ。泣いたりママに会いたがったりしたら減点。いい子にしていれば点数がもらえて、1000点たまったら勝ち。勝ったら、本物の戦車に乗っておうちに帰れるんだ」と・・・。

本作は、カンヌ映画祭で審査員グランプリを受賞。アカデミー賞では、外国語映画でありながら、作品賞を含む主要7部門にノミネートされ、主演男優賞、外国語映画賞、作曲賞(ドラマ部門)の3部門で受賞を果たした名作だ。監督・脚本・主演の3役を兼ねたロベルト・ベニーニがアカデミー賞の授賞式で、嬉しさのあまり、椅子の上を飛びはねまくって転げ落ちそうになっていたのは、今でも鮮明に記憶に残っている。

映画館で何の期待もせずに見た作品だったが、圧倒された。世界大戦、ユダヤ人迫害を題材にした話でありながら悲壮感がなく、随所にユーモアが散りばめられている。グイドがナチス兵のドイツ語を、デタラメにイタリア語に通訳するシーンは腹を抱えて笑った。しかしエンディングでは号泣。息子の前に戦車が現れた時は、これまでに張られてきた伏線がつながり、その計算された脚本に爽快感さえ覚えた。

どんな悲惨な状況でも希望を忘れず、命がけで子供を守る父の姿に心打たれない人はいないだろう。守るべき存在を持つ者の強さ、人間の愚かさと素晴らしさ、そしてタイトルが語るように「人生は美しい」ということを実感させてくれる愛に満ちあふれた映画だ。

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『ライフ・イズ・ビューティフル』
監督・脚本:ロベルト・ベニーニ
出演:ロベルト・ベニーニ 、ニコレッタ・ブラスキ
製作年:1998年
製作国:イタリア
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vol.93 『天才マックスの世界』 by 桜井徹二


10月のテーマ:先生

この映画の主人公であるマックスの高校生活はとても濃密だ。名門私立校に通うマックスは数々の課外活動に打ち込んでいて、学校新聞発行人に始まり、フェンシングクラブ部主将、ディベートクラブ部長、養蜂クラブ部長、模擬国連ロシア代表、演劇部の演出家、ラクロスチームマネージャーなど19もの肩書きを掛け持ちしている(ただし学業はそっちのけなのだが)。

さらにマックスは、小学部の女性教師に恋をしてしまい、それまでクラブ活動に向けていた情熱を彼女に注ぎ込む。それがちょっとした騒動を引き起こし、やがてマックスは大きな挫折を味わうことになる。

一言でいえばマックスは変わり者、もしかしたら落ちこぼれと言えるかもしれない。でも彼の毎日はとても充実しているように見える。無二の親友もいるし、教師への恋心は結局報われることはないものの、傷心は彼を大きく成長させることになる。

翻って僕の場合はといえば、高校3年間のうち記憶にある思い出をかき集めて時間に直しても、おそらく2時間ぶんくらいにしかならないような気がする。何か目立った事件があったわけでもクラブ活動に熱心だったわけでもなければ、もちろん先生に恋をした記憶もない。たんに記憶力の問題もあるとは思うけれど、それ以前に、まあ何というか、相当に色彩を欠いた青春時代だったのだろう(ただそれを言うなら、中学や高校の頃、毎日何をして過ごしていたのかと聞かれてすらすらと思い出せる人がどのくらいいるのだろうか)。

でも、この映画のいいところは、そんな僕でもマックスの気持ちが手に取るように(そして時には痛いほど)わかるところだ。僕とマックスはまったく違う人生を生きていて性格も何もかも大違いなのに、この映画を見ている間、僕は彼の人生を生きられる。名門校に通い、演出家として活躍し、美しい教師に熱をあげられる。

監督のウェス・アンダーソンはそういう魅力的な変わり者を描くのが抜群に上手で、『ロイヤル・テネンバウムス』も登場人物はことごとく変人ばかりなのに、僕はそのことごとく全員に自分を見てしまう。だからこそ、僕は「こうであったかもしれない人生」を追体験するために、この2本の映画を繰り返し見返してしまうのだ。

ちなみに、劇中でマックスは演出家として『セルピコ』と『地獄の黙示録』らしき作品を上演する(高校の演劇で、ですよ)。そのシーンがとびきり最高なので、ぜひ見てみてください。

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『天才マックスの世界』
監督:ウェス・アンダーソン
出演:ジェイソン・シュワルツマン、ビル・マーレイ ほか
製作年:1998年
製作国:アメリカ
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vol.92 『いまを生きる』 by 浅川奈美


10月のテーマ:先生

いかなる場所にいようとも、周囲のものこれ皆、師なり。

周りから常に学ぶことができると私は思っている。だからといって私が、生きている環境が恵まれていて、尊敬に値する人たちにいつもいつも囲まれているというわけではない。好ましくない事柄や、思いもかけない不運に遭遇することだって多々ある。そりゃショックだし、落ち込みもする。
でもそんなときは、むしろ学ぶチャンス。起きてしまった事からいかに学ぶか。
要は心のあり方いかんなのだ。
「はいはい、反面教師」とか、「どうしてこんなこと言っちゃうんだろう、この人は」と、相手の思考や根拠を推測したり、「むしろ軽く済んだほう。感謝、感謝。いい勉強ができた」と楽観的に考えるようにしている。
これらの原動力は、そう、好奇心。
メディアに関わっているものとして、好奇心がなければ死んだも同然だと思うのだ。大事なのは脳内をとめないこと。人間は刺激なくては生きていけないのだから。

『いまを生きる』。ご存知ロビン・ウィリアムズ主演の人間ドラマである。
1959年、アメリカの名門全寮制高校。伝統と規律や親の期待に縛られながら、退屈に過ごしていた生徒たちの前に現れたのは、同校OBの教師キーティング(ロビン・ウィリアムズ)。教科書を破り捨てさせ、彼は言う。

「何かを読んだら、作者の考えでなく自分の考えもまとめてみろ。
そして自分だけの答えを見つけるんだ。」

先人たちが残していった詩。文字だけでは決して知りえないその情熱に触れ、込められた思いを読み解き、自分が感じたものと対峙する。なんと素晴らしいことか。規律や、体裁に縛られた彼らにとってそれは刺激的であり、時に危険でさえもある。

Carpe diem!
Seize the day


映像の業界においても、様々な先人がいる。翻訳をしていく上でも、いろんな境遇に遭遇したり、いろんな先生に出会っていくだろう。思うように自分の力が発揮できない、とか、周囲と比べて劣等感を感じたり、身の丈を思い知らされるような苦しい状況に直面することなんてこと、多々ある。そんな折、『いまを生きる』のキーティング先生に会いに行くのはどうだろう。彼のメッセージがきっとあなたに届く。

新しい物事や思想に触れたい、学びたいという心さえあればよいのである。

この作品とともに、記憶に留めていただきたい言葉がある。

師の跡を求めず、
師の求めたるところを求めよ。
(孔子)

大切なのは、「師が残していったもの」ではなく、「師が求めている姿勢」なのではないだろうか。
師の業績を踏襲しているのみでは、己の目指すところはそれ以下になってしまうと思う。

10月期がスタートした。
今一度、己にも言い聞かせたい言葉である。

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『いまを生きる』
監督:ピーター・ウィアー
出演:ロビン・ウィリアムズ、イーサン・ホーク ほか
制作年:1989
製作国:アメリカ
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vol.91 『リンダリンダリンダ』 by 藤田奈緒


9月のテーマ:音楽

♪僕の右手を知りませんか?
行方不明になりました
指名手配のモンタージュ 街中に配るよ
今すぐ捜しに行かないと
さあ 早く見つけないと
夢に飢えた野良犬 今夜 吠えている♪

真っ直ぐ前を見て、おっきな声でブルーハーツの歌を歌う韓国人留学生のソンちゃん。
その歌はお世辞にも上手とは言えないけど、何でだろう、やっぱりブルーハーツにはそんな調子っぱずれなひたむきさが似合ってしまう。

ひょんなことからバンドを組むことを決意した4人の女子高生たち。高校最後の文化祭までに残された時間はたったの2日間。大好きなブルーハーツの歌を発表するため、それこそ寝る暇も惜しむ猛練習が始まる・・・と書くと、いかにも熱い青春物語が繰り広げられそうだけど、うーん、実際にはそうでもない。どちらかというと普通の女子高生たちのありふれた日常の一部を切り取った感じで、好きな男の子との時間を優先してスタジオでの練習に遅刻してしまったりと、少々危なっかしい感じで話は進んでいく。

誰しも振り返れば、ちょっとぐらい何かに真剣になった時間があるはずで、文化祭最終日の彼女たちのステージを見たら、きっと、その時の熱い感じを思い出さずにはいられないだろう。時にはカッコ悪くたっていい、やりたいことに思い切って向かってみるのも悪くないかも。そんな風に思わせてくれる素敵な青春映画です。

1つ打ち明けると、かくいう私もかつてバンドブームの流れに乗っていた時代がありました。似合わないと言われるかもしれないけど、お恥ずかしながら本当の話。

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『リンダリンダリンダ』
監督:山下敦弘
出演:ペ・ドゥナ、前田亜季、香椎由宇、関根史織ほか
製作国:日本
製作年:2005年
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vol.90 『男と女』 by 藤田庸司


9月のテーマ:音楽

名作と言われる映画には、必ずといっていいほど素晴らしいテーマ曲が存在する。「映像は素晴らしいのにテーマ曲はイマイチ...」といった名作などあまり聞かない。時にはテーマ曲が映画そのものよりも有名になるケースもあるくらいだ。今回コラムを書くにあたって、頭に浮かんだ作品タイトルのテーマ曲を口ずさめるかどうか試みた。『ゴッドファーザー』、『ロッキー』、『スター・ウォーズ』...。タイトルを思いつくや瞬時にテーマ曲が頭の中に鳴り響く。今日紹介する名作にも、例外なく素晴らしいテーマ曲が存在する。有名な曲なので、映画は見たことがなくともテーマ曲は聞いたことがある方もいるのではないだろうか。僕の場合も、テレビCMか何かで子供の時分より知っていて、「あ、この映画のテーマ曲だったんだ!」と発見したのは大人になってからだった。ただそれは自然な成り行きで、大人の恋愛を綴った本作品を観賞し、「最高!」などと絶賛する子供がいたとすれば末恐ろしい。

『男と女』
過去にスタントマンである最愛の夫を事故で失ったアンヌ(アヌーク・エーメ)は娘をドーヴィルの寄宿学校に預け、パリで一人暮らしをしていた。ある日アンヌは娘の面会に出かけるが、帰りの列車に乗り遅れてしまう。そんな彼女に、ジャン・ルイ(ジャン=ルイ・トランティニャン)という男性がパリまで車で送ると申し出てくる。レーサーを職業とするジャンもまた不幸な事件で妻を亡くし、息子を寄宿学校に預けていたのだった。お互いの過去を知った二人は次第に引かれていく。そして命がけのレースから生還したジャンに、アンヌは愛を告白するのだが...。

テーマ曲をはじめ、全編通して流れるフランシス・レイの曲の数々や、主人公の夫役で出演もしているミュージシャン、ピエール・バルーが歌うフレンチ・ボッサが、まるで写真を見るかのようなセピア色の映像と相まって、どことなくもの悲しい男と女の物語を盛り上げる。元々ブラジルの音楽であるボサノヴァだが、例のラテンビートにフランス語の鼻にかかるような発音が絡むと、コケティッシュで、アンニュイな音楽に生まれ変わるから不思議だ。また音楽に負けず劣らず素晴らしいのがアヌーク・エーメの演技である。"目は口ほどに物を言う"と言いうが、時に冷たく、時に優しい、アヌーク・エーメの瞳は揺れ動く女性の心を見事に映し出している。

虫の声が心地いい秋の夜は、大好きなサム・ペキンパーよりも、
こうしたしっとりした映画が見たくなる。

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『男と女』
監督:クロード・ルルーシュ
音楽:フランシス・レイ
出演:アヌーク・エーメ、ジャン=ルイ・トランティニャン、ピエール・バルー
制作年:1966
製作国:フランス
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vol.89 『バッタ君町に行く』 by 杉田洋子


8月のテーマ:虫

前回の浅野に負けず劣らず、私も虫は苦手である。爬虫類は大好きだが、虫は嫌
いだ。蚊に至ってはこの世から消えればいいと小学生のころから思い続けている。
血を分けてやってるのに恩を仇で返すとはこのことだ。ついでに脂肪吸引なり、
コラーゲン注入なりして飛び去るのが礼儀というものではないか。そして残暑の
今、四方八方で突発的に爆発する"セミ爆弾"にビクビクする日々を送っている。

...などという私情はさておき、2回とも虫を敵視した映画ではちょっとフェアじゃ
ない気もするので、できるだけ虫が好きになれそうな作品を選んでみた。
クラシックなディズニーアニメ風のこの作品。スタジオジブリが配給している。制
作は1930年代を通じてディズニー最大のライバルだったというフライシャー・スタジ
オ。なるほど、どおりで。私たちにもなじみの深い『ベティ・ブープ』や『ポパイ』
などを世に送りだしたスタジオである。

公式サイトによると、"1937年にディズニーがカラー長編『白雪姫』を手がけた
のをきっかけに、フライシャーも長編制作に乗り出し......1941年暮れの真珠湾攻
撃の直後に長編第2作『バッタ君 町に行く』を公開する。しかし興行がふるわず、
経済的な理由によりフライシャー兄弟はスタジオを去り..."とある。

時代の荒波に飲まれてしまった良作に、今ジブリが再びスポットを当てたのだ。

さて、主人公は正義感が強くおっちょこちょいのバッタ、ホビティ(♂)。可愛い
ミツバチのハニーとは恋人同士。ホビティらの集落は都会の草むらにある。しかし
囲いが壊れたために人間たちが侵入し、平和な生活が脅かされることに。一方で、
安全な高台を独占し、ハニーを狙う悪役ビートルが、何かとホビティを陥れようと
する。数々の試練を乗り越え、ホビティは無事集落を守れるのか、そしてハニーと
の恋の行方は...!?

という、大枠はいわばお決まりの構図だが...
良かれと思ってしたことがうまくいかなかったり、仲間の信頼を失ったり、絶望の
淵に立たされた時の苦悩や奮起のプロセスは、バッタごととは思えぬほど共感して
しまうのである。

さらに『トムとジェリー』を彷彿とさせる、スリリングな音と画の競演が楽しい。
気になって調べてみると、『トムとジェリー』を制作したヴァン・ビューレン・スタ
ジオは、フライシャー・スタジオの向かいにあり、スタッフがヘルプに行ったりして
るうちに、2社の作品に類似点が見られるようになったそうだ。

私たちが小さな虫を恐れるよりずっと深刻に、人間たちの脅威にさらされる虫た
ち。こうして立場が逆転してみると、しかもこんなにかわいく描かれてしまうと、
なんだか虫にすまなさや愛しさすら覚える。

"頑張れ、虫!"、"危ない、よけるんだ!"

なんて、手のひら返したように虫を応援してしまうのだ。メディア操作に踊らされ
ているような気持ちになりながらも、今一度虫との付き合いを見つめ直せそうな...。

だが何よりも心に残ったのは、最後の方で虫たちがムスカじみたセリフ(「天空の
城ラピュタ」より)を吐いた瞬間であった。気になる方は、ぜひご覧ください。

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『バッタ君町に行く』
監督:デイヴ・フライシャー
製作年:1941年
製作国:アメリカ
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vol.88 『世界が燃えつきる日』 by 浅野 一郎


8月のテーマ:虫

世の中は、すっかり"夏休み"モード。今年の夏は異例の猛暑とのことで、いつもよりも、夏を強く感じる今日この頃である。

さて、今月のテーマは「虫」 いきなりで恐縮だが、僕は「虫」があまり好きではない。あまり好きでないどころではない筆頭に上がるのが"ゴキ●リ"好きでない、あるいは嫌いを通り越して、もはやフォビアに近く、文字で書くのも嫌なので、これより先、"ゴキ●リ"のことは"ゴ"と表記することにする... (正直言って、"ゴ"と"キ"と"リ"の文字列が並んでいるだけでも、少々、気分が良くない)

話は"夏"に戻るが、僕の夏休みの生活で一番の楽しみだったのが、月曜日から金曜日・午後2時からの枠で放送されていた映画の時間。そこで放映される映画を毎日のように観ていたのだが、その後の人生に強烈なインパクトを与えることになる映画が、『世界が燃えつきる日』だ。

ストーリーは、70年代~80年代にかけて流行った、"核戦争後の世界"モノ。少数の生き残った人たちが生存をかけて奮闘するというものである。ストーリーはさておき、この映画の何が今月のテーマに合致するのかというと、サソリなどの虫が登場することだ。言うまでもないが、核戦争後の世界を描いた映画につきもので、サソリはなぜか巨大化している。

そして、サソリの他に登場するのが、人喰い"ゴ"。巨大化こそしていないものの、数が尋常ではない... 明らかな意図を持って、生存者たちを襲う"ゴ"の大集団... 大量の人喰い"ゴ"が人に襲い掛かり、皮膚を食い破り、体の中に入って内臓を食い破る。僕の"ゴ"フォビアは、この映画に起因しているようだ。このシーンがトラウマになっているらしく、今でも"ゴ"が家に出たりすると、少なくとも同じ建物からは退避して、誰かが退治してくれるのを待つ。そして、数週間は、かすかな物音にも怯えて暮らす日々が始まるのだ。僕は比較的怖いと思うものが少ないほうだと思う。だが"ゴ"だけは、何があろうとも克服できそうもない...

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『世界が燃えつきる日』
監督:ジャック・スマイト
原作:ロジャー・ゼラズニイ
出演:ジョージ・ペパード、ジャン=マイケル・ヴィンセント、ほか
製作国 アメリカ
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vol.87 『オカルト』&『(500)日のサマー』 by 石井清猛


7月のテーマ:怖い話

「悪夢のように恐ろしい」という表現をよく耳にします。
日本語にも英語にもあり、そして恐らく他の言語にも同様の言い回しがあるとするなら、"通常の恐怖ではない"ことを示すために使われるこの「悪夢」という言葉は、それを耳にする私たちに一体どんなイメージを想起させるというのでしょうか。

そもそも人類が共通して見たことのある一番恐ろしい悪夢など決められないことを考えれば、この表現のポイントは"夢"ということになります。

現実世界のものに似ていながら全く異なる論理で起きる出来事。
自らがその一部でありながら自らのコントロールが全く及ばない出来事。
現実に知っている人物とそっくりに見えて全くの別人が登場する出来事。
アンリアルそのものなのにリアル以外のなにものでもない出来事。
途中で「これは現実ではない」と気づいても自分のその感覚を最後まで信じることができない出来事。
そんな出来事が連続して、あるいは不連続に起きる場としての夢です。

例えば恐ろしい出来事を体験して、それが夢だと分かった時あなたはホッと胸をなで下ろしますか?
もちろんそうでしょう。
でもそれは夢が終わってからの話。
もしも終わらない悪夢があるとしたら...。

誰もが悪夢の1つや2つは見たことがあるとして、そのどれが一番恐ろしいかはもはや問題ではありません。悪夢はそれが"夢である"というだけで、"普通でなく恐ろしい"のです。

「悪夢のように恐ろしい映画」という謳い文句もやはりよく耳にしますが、白石晃士監督の『オカルト』に限っては「悪夢のような映画」と言った方がしっくりきます。それほどこの作品は"夢の中で体験する恐ろしい出来事"に酷似しているのです。

しかし『オカルト』は悪夢を"コピー"した類似の作品とは決定的に異なります。
2009年に発表されたこの傑作は、悪夢のイメージをなぞっただけのどんな映画にも似ていません。
『オカルト』はホラーでもスリラーでもミステリーでもサスペンスでもなく、むしろそれらすべての要素を含みながら、最終的に映像自体の"オカルティズム"に触れてしまうような、真に「悪夢そのものの映画」です。

2005年に東海地方の観光地で起きたある通り魔事件の真相を追う映像作家の白石。観光客2名を殺害し1名に重傷を負わせた犯人は崖から身を投げ行方不明となっている。白石は惨劇の一部始終が撮影されていた観光客のビデオを手がかりに、関係者インタビューなどの調査を進めていくが、彼の取材は唯一の生存者である江野と出会ったことで思わぬ展開を見せ始めるのだった...。

"フェイクドキュメンタリー(mockumentary)"という言葉を知っている皆さんであれば既にお分かりと思いますが、映像作品においてドキュメンタリーとフィクションを隔てるいかなる境界線も存在しません。
映像作家の白石が追う事件がこの世に実在しようがしまいが、『オカルト』の映像は"現実世界のものに似ていながら全く異なる論理で起きる出来事"を"アンリアルそのものなのにリアル以外のなにものでもない出来事"として描き出すばかりです。

そこで私たちが出会うのは"悪夢のような映像"と"映像のような悪夢"の一体どちらなのでしょう。
あるいは白石晃士は、本当は悪夢が映画の"コピー"であることを示そうとしていたのかもしれません。

そしてもう1本。私が近年見た中でダントツに恐ろしかった映画。
腹わたが煮えくり返るほどムカつくのに愛しくてたまらない映画。
この映画を高1の時に見たのでなくて本当によかったと思ったのはきっと私だけではないでしょう。
つまり『(500)日のサマー』です。

この世界に実在する悪夢の1つに、お互いに運命の人と信じ合っていると思っていた相手に"私はそうは思ってなかった"と告げられる瞬間というのがありますが、これほど確かな恐怖すら、年を重ねるごとにやがて薄まっていくものなのでしょうか。

ヘッドホンから漏れるザ・スミスも、イケアのシステムキッチンも、カラオケの「明日なき暴走」も、コピー室のキスも、全部なかった方がよかった。なんて頑なに思えたはずの日々は過ぎ去ったままなのでしょうか。

その答えが何であっても、私は決してベッドに横たわって天井を見上げるズーイー・デシャネルの目の色を忘れたりしないでしょう。

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『オカルト』
監督・脚本・撮影・編集:白石晃士
音楽:Hair Stylistics
出演:宇野祥平、野村たかし、栗林忍、東美伽、近藤公園、ホリケン。、
吉行由実、白石晃士、高槻彰、渡辺ペコ、黒沢清、鈴木卓爾ほか
製作年:2008年
製作国:日本

『(500)日のサマー』
監督:マーク・ウェブ
製作:マーク・ウォーターズ、ジェエシカ・タッキンスキーほか
脚本:スコット・ノイスタッター、マイケル・H・ウェバー
撮影:エリック・スティールバーグ
音楽:マイケル・ダナ、ロブ・シモンセン
出演:ジョセフ・ゴードン=レヴィット、ズーイー・デシャネル、
ジェフリー・エアンド、クロエ・グレース・モレッツほか
製作年:2009年
製作国:アメリカ
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Vol.86 『トイストーリー3』 by 藤田彩乃


7月のテーマ:怖い話

アメリカでは6月18日に公開されるやいなや、週末3日間で1億900万ドルを稼ぎ出し、大ヒットとなった「トイストーリー3」。続編の評価がオリジナルを上回ることは極めて稀だが、観賞した人がみな口を揃えて大絶賛し、映画誌などでの評価も高いので早速、見に行ってきた。

舞台は第1作目から10年後。ウッディやバズ・ライトイヤーなどのおもちゃの持ち主アンディは17歳。大学進学が決定し、おもちゃを整理することになる。悩んだあげくおもちゃを屋根裏部屋にしまおうとするアンディだが、母親の手違いでゴミに出されてしまう。間一髪でゴミ処理場行きは免れたおもちゃたちだが、アンディに捨てられたと勘違いし大激怒。保育園「サニーサイド」へ寄付するための段ボールに入り込み、サニーサイドで歓待され気を良くする。そんな中、ウッディだけがアンディを信じて、保育園から脱出し家に帰ろうとするが、バズを初めとするおもちゃたちはサニーサイドが気に入り留まることに決める。しかし、一見、天国に見えたサニーサイドは、おもちゃにとっては生き地獄。昼間は凶暴な年少組に乱暴に投げつけられて破壊され、夜は、過去に持ち主に捨てられた人間不信のくまのぬいぐるみロッツォの指揮の下、まるで囚人のように常に監視される。そんなサニーサイドでの現実を知ったウッディは、仲間の危機を救うため、果敢にも再びサニーサイドへと戻って行く。

保育園「サニーサイド」に着いた当初、おもちゃたちは大歓迎を受ける。イチゴのにおい付きのふわふわのピンクのくまのぬいぐるみロッツォはどこから見ても善人の長老。しかし、おもちゃたちが年少組のおもちゃの扱いに不満をもらした途端に一変、悪魔の顔つきへと変わる。その豹変ぶりと二面性はホラーに近い。怖すぎる。また、おもちゃたちを叩いたり、解体したりする子供たちも、おもちゃ目線で見ると、怪物以外の何者でもない。平和に見える保育園のおもちゃたちの上下関係、持ち主に捨てられたおもちゃたちのトラウマっぷりもシュールすぎて恐ろしい。
一方で、笑えるシーンも盛りだくさん。一番の見せ場はバズ。ロッツォと傲慢なおもちゃたちに捕らえられたバズは、背中部分のリセットボタンを押され、なんと情熱的なラティーノに変身。スペイン語で歯の浮くような台詞をはきまくる。意味不明だがかなり笑える。

おなじみのおもちゃも登場する。前作から出演しているバービーはもちろん、ボーイフレンドのケンも出演。キザな台詞と動きが笑える。そして日本が誇る我らがトトロも登場。ジブリとディズニー&ピクサーの長年の協力関係の賜物だ。台詞こそないが、かなりの存在感を醸し出していた。

映像のクオリティ、芸の細かさが群を抜いているのはもちろん、ストーリーの完成度も高く、さすがピクサーと言わざるを得ない。エンディングは感動的で切なくて、涙が込み上げてくる。大人になるアンディと、大人になれないおもちゃたち。いずれは別れの時が来るのだが、分かっていても泣けてくる。アンディの優しさ、おもちゃへの愛情が、最後にどーんと胸に迫ってくる。3部作のなかで、一番の出来と言っても過言ではないと思う。
日本では7月10日(土)全国ロードショー開始。笑いあり涙ありの大傑作、お見逃しなく。

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『トイストーリー3』
監督:リー・アンクリッチ
声:トム・ハンクス、ティム・アレン、ジョーン・キューザック
音楽:ランディ・ニューマン
製作国:アメリカ
製作年:2010年
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vol.85 『マトリックス』 by 桜井徹二


6月のテーマ:パソコン

『マトリックス』という映画を特徴づけているのは、例の「弾丸よけ」に代表されるような、思わずマネしたくなったりふとした時に思い出したりするような印象的なシーンが多い点だろう。

僕がよく思い出すのは、青白い顔でパソコンの前に座って日夜ハッキングに明け暮れる主人公のネオのもとに、1本の電話がかかってくるシーンだ。電話に出たネオは電話口の向こうにいる見知らぬ相手に突然、「真実を知りたいか?」と問われ、やがて彼はマトリックスの存在を知ることになる。

家にある固定電話が鳴りだすと、僕はいつもこのシーンを思い出す。いつからかうちには黒電話が置いてあって、いちおう電話線にもつながっている。ネットを引くために電話に加入していて、まあどうせ加入しているのなら、という感じで電話線につないでいるという程度の存在だ。なので、この黒電話の電話番号はほとんど誰にも教えていない。

にもかかわらず、なぜか月に1~2度くらいの割合でこの黒電話が鳴る。昼間や夜中におもむろにりんりん、りんりんと鳴り出すのだ。

そもそも電話をかけてくるような相手は数少ないので、自分の携帯電話でさえ月に数えるほどしか着信がない。それなのに、誰も番号を知らないはずの電話が月に何度も鳴るのだ。間違い電話にしても多すぎる。

そんな時、僕はいつも『マトリックス』のあのシーンを思い浮かべ、この電話がマトリックスの存在を告げる電話だったら? とつい考えてしまう。僕だって日夜パソコンの前に座ってばかりという点においてはネオと共通点がないわけではない。そんな電話が絶対にかかってこないという保証はどこにもないのだ。

もちろん下らない妄想だけれど、それにしてももし電話を取って「真実を知りたいか?」と問われたらどう答えるべきか、というのは思いのほか難しい問題だ。

なぜ真実を知る必要があるのか? そもそも真実とは何なのか? などと考えだすときりがないし、真実の世界は知りたいけど、そこで見ず知らずの人に囲まれて生活を始めるのも若干めんどくさいなと思ったりもする。といってじっくり腰を据えて考えようとしても、モーフィアスみたいな人が目の前にいて、怪しい錠剤を差し出して迫ってくるんだからそれも叶わない。なかなかにハードな状況だ。

というわけで、電話がりんりんと鳴っている間にはとても答えは出せそうにないが、それでも僕は電話が鳴るたびに繰り返し同じことを考えてしまう。映画にせよ小説にせよ、こんな風に何かしら形に見える影響を残す作品というのは稀有な存在だと思う。

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『マトリックス』
監督:アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー
出演:キアヌ・リーヴス、ローレンス・フィッシュバーンほか
製作国:アメリカ
製作年:1999年
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vol.84 『天才少年ドギー・ハウザー』 by 藤田奈緒


6月のテーマ:パソコン

大人になった今でも、自分のためだけに日記を書き続けている人はどのぐらいいるのだろうか。子どもの頃は誰でも一度ぐらいは、日記を書いてみたことがあるだろう。私の場合は、幼稚園の頃、出張で家を空けがちだった父親との交換日記に始まり、小学校の宿題、友達との交換日記...と、わりと長い間、日記をつけ続けた過去がある。その頃はほぼ毎日、当たり前のように日記を書いていたのだが、ある日を境にパタリと書くのを止めた。理由は明快、書く必要がなくなったからだ。十代も半ばに差し掛かると、宿題で日記を書くことを求められることもなくなるし、友達といつまでも仲良し交換日記を続ける気も失せてくるお年頃。"Dear Diary..."(日記さん、こんにちは)なんて出だしで秘密めいた日記を書く海外の子どもを真似てみたこともあったけれど長くは続かなかった。どうも私は、誰かに見せることを前提とした文しか書けないタイプのようだ。

私の知る限り、誰のためでもなく自分のための日記をつけ続けている人は2人。1人は私の祖父だ。分厚い十年日記を何冊も新調し続け、つい最近も新たな十年日記を購入していた。90歳近いというのに恐るべき執筆意欲である。本人の許しを得て少し読ませてもらったところ、まさに日々のメモといった感じの数行日記だったが(そうでなければ、さすがに60年も続けられないか...)、その日記のおかげで失くし物が見つかったりするのだから大したものだ。

そしてもう1人が、知る人ぞ知る天才少年、ドギー・ハウザー。教育テレビの海外ドラマを見ていた人ならご存知、わずか10歳でプリンストン大学を卒業し、14歳にして最年少の臨床医となった神童だ。エピソードは毎回、ドギーが自分の部屋で日記を書くシーンで終わる。しかも手書きではなくパソコンを使って、だ。見ている私はパソコンなんてものを実際に目にしたこともないっていうのに、ドギーはすました顔で毎日キーボードを叩いていた。今や誰もがブログやツイッターで普通に日記を書く時代だが、90年代前半に自由にパソコンを操ってみせるとは、恐ろしく進んだ子どもである。

『天才少年ドギー・ハウザー』、残念ながら日本ではDVD化されていないようなので、観たことのない人は、ぜひYouTubeでラストの日記のシーンを検索してみてください。ちなみに主演のニール・パトリック・ハリスは少し前にゲイをカミングアウト。最近ではエミー賞の司会を務めたり、人気ミュージカルドラマ『Glee』にゲスト出演するなど要注目パーソンです。

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『天才少年ドギー・ハウザー』
製作:スティーヴン・ボチコー
出演:ニール・パトリック・ハリス、ジェームズ・シッキングほか
製作国:アメリカ
製作年:1989年~1993年
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Vol.83 『グロリア』 by 藤田庸司


5月のテーマ:光

映画を見に劇場へ足を運ぶ。「一体いつの時代〜〜?」といつも感じてしまう、全く食欲をそそられない某焼肉レストランのCMが終わると、館内が暗くなり、ジーっという音と共に薄闇の中でスクリーンが横に広がる。これから入り込む作品の世界に期待し、胸が膨らむ。そして次の瞬間、横に広がったスクリーンが眩しいほどの光を放ち、近日公開予定の作品の予告編が始まり、いよいよ本編へと流れて行く。光輝くスクリーン。"銀幕"とは上手く言ったものだ。
映画にとって映像が持つ"光加減"や"明るさ"は、その作品の雰囲気を作るうえで、非常に大切な要素だと思う。製作側は描きたい世界観を最大限まで引き伸ばすために、絶妙な光の計算をしているはずだ。簡単に言えばラブコメディとホラーの光加減が同じだと困る。今日紹介する作品にも独特の光加減がある。全編を包む淡い明るさによるザラついた映像の質感は、ストーリーにリアリティを生み、光と影のコントラストが作品の持つクールで危険な雰囲気をよりいっそう盛り上げるのだ。


『グロリア』

舞台はニューヨークのサウス・ブロンクス。ジャックを主人とするプエルトリコ系一家のアパートを数人のギャングが取り囲んでいる。ギャング組織の会計係をしているジャックが、組織の資金を横領し会計をFBIに密告したことから、一家は命を狙われるはめになったのだ。物々しい事態の中、事情を聞かされ、うろたえ恐怖におびえる妻や祖母。そして事の重大さを理解できない6歳の息子フィル。武装したギャングは今まさにドアを突き破り、ジャックの部屋へ乗り込もうとしていた。そこへ偶然コーヒーを借りに、同じフロアに住むグロリア(ジーナ・ローランズ)がドアをノックする。グロリアはジャックの妻の親友であり、実はギャング組織のボスのかつての情婦でもあった。異様な空気を敏感に感じ取ったグロリアは、子供嫌いながらもジャックの「フィルを預かってくれ」という突然の願いを聞き入れる。ギャング団の狙いは一家皆殺しとジャックの持つ組織の資金詳細を記したノートの奪還だ。ジャックはノートを息子に託した。グロリアが嫌がるフィルを連れて自室に戻った瞬間、ジャックの部屋で爆発が起き、彼女は一家が惨殺されたことを確信した。ノートの行方を必死に追う組織は、やがてグロリアがかくまっている息子のフィルがノートを持っていることを知る。そして追われる身となったグロリアとフィルの必死の逃避行が始まるのだ。

物語の冒頭、薄暗く不気味なアパートのシーン。暗い昼間のアパートに差し込む光が、不安感や危険な雰囲気をよりいっそう盛り上げる。そんな中、印象的なのがグロリアの登場シーンだ。コーヒーを借りにジャックの部屋をノックするグロリア。ジャックがドアを開けると、カメラが彼女の顔のアップを捕える。「ハーイ」と、どこか気だるくクールなヒロインの登場。救世主を予感させる、まるで闇の中に差し込む一筋の光のような、印象深いカットである。ヤバイ雰囲気に臆することなくタバコをふかし、ハイヒールで拳銃を撃ちまくるグロリア。殺しもいとわない彼女が、フィルと逃げるうちに母性に目覚めていく様や、その心理描写が、本作をありがちなバイオレンス・ムービーやギャング映画とは一線を画す哀愁漂う人間ドラマに仕上げている。また、いい映画にはいい音楽が付き物だ。作中流れるスパニッシュ・ギターとサックスの調べがニューヨークの街によく映える。スカッ!といきたい時にオススメの一本。

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『グロリア』
監督:ジョン・カサヴェテス
出演:ジーナ・ローランズ
製作国:アメリカ
製作年:1980年
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Vol.82 『川の底からこんにちは』&『愛のむきだし』 by 浅川奈美


5月のテーマ:光

今、「ひかり」が気になってしょうがない。
「満島ひかり」。沖縄県出身の24歳。女優。

目がまん丸で、どことなくアナグマっぽい。
肌は浅黒く、骨格もしっかり。昨今テレビでよく見る色白で線が細いモデル系ギャルとは、ちょっと違うタイプ。
まだあどけなさの残るまなざし。佇まい。
きらびやかな大人の女性というより、まだセーラー服のほうがシックリというイメージだ。

日本映画に興味のある人であれば恐らく誰もが知っているであろう女優。
一昨年から、主演作品が次々に公開されると国内外でその演技力は高く評価され、各賞を受賞した。
まさに日本映画界の新ヒロインと呼び名も高いのである。


私が彼女を知ったのは、2005~2006年にTBSで放映された「ウルトラマンマックス」だ。最初は、おっと、とんだダイコンが出てきたものだと驚いたのだが、よくよく一緒に観ていた甥(当時、幼稚園)に説明を仰ぐと、彼女が演じるエリーはアンドロイド。しかもかなり重要な立場。要するに、表情や声の抑揚に頼ることなく、感情を表現しなければならないという難しいキャラクターだ。それを熱演。
瞬きの仕方が特に印象に残っている。
「ウルトラマンマックス」は、多くの実績あるクリエイターが参加する1話完結型のシリーズであった。彼女の芝居への向き合い方や演技力が、その後の出演作など、活躍の場に繋がっていくのであろう。

ある時は、
女に愛されてしまう自堕落な女子大生、

またある時は、
貧乏どん底から這い上がろうとするオペラ歌手の卵、

...と思ったら、
カルト宗教にはまってしまった喧嘩上等な女子高生。

なりきっている彼女の瞳は、ある意味"イッちゃってる"。
彼女はいつだって体当たりだ。
何だかひとりの少女が、自分自身を削りながら"役"を演じているかのように感じてしまう。
そして時にその姿は、観客に痛みまでも届けてしまう。

昨年、ベルリン国際映画祭フォーラム部門でのカリガリ賞と国際批評家連盟賞をダブル受賞した園子温監督『愛のむきだし』。劇中、満島ひかりがコリント書第13章を長台詞でいうシーンは、思わず震えた。園監督から指示されたのは、「言葉を詩的に読んでほしい。句読点まで読む気持ちで言ってほしい」このひとつ。あとは、テストもせず、本番だけで撮られたというエピソードを知って、さらにグッときた。
まさに私の中の全米が泣いた瞬間。

「今週の一本」は、満島ひかりを知らない人、なんか観てみてくださいよっていうお知らせだ。

本当に本当は『愛のむきだし』をオススメしたい。
実話をベースに"真実の愛"を描く237分の純愛エンタテインメント。実際、昨年、海外の映画関係者と話すと必ずといっていいほど、この作品が話題に上った。
満島ひかりもさることながら、西島隆弘、安藤サクラも素晴らしい。キワモノキャラ。それぞれの表現力が炸裂。
園監督の脚本も構成も、その長さを感じさせない。 やっぱり、すごい。

軽々しく人に「観てね」とオススメできない長さ。しかも、途中で席を立ってほしくない。カウチポテトだとしても、携帯だってもちろん電源OFFを願う。

4時間は、ちょっと...(;´Д`) という人。
満島ひかりの最新作、『川の底からこんにちは』(石井裕也監督)が公開中だ。
本作は今年のベルリン映画祭フォーラム部門で上映された。

友人のドイツ人が、早速GWに満席のユーロスペースで見てきた。彼女の叔母さんがベルリンで観たところ、面白かったそうで、オススメしてきたそうだ。
先月フランクフルトで行われたニッポンコネクションでも上映されていたが、惜しくも見逃してしまった...。ユーロに行くとするか。

民放のドラマでも、満島ひかりをちょくちょく見かけるようになった。
この春からのフジテレビ月9(『月の恋人』※主演:木村拓哉)にも、ちょっと出演している。ただ、ここで述べているような「満島ひかり」ワールドは、残念ながら期待できないだろう。

「満島ひかりって、いいよねー」と、彼女の魅力を共有できるのは、今のところ私の隣席に座るMTCディレクターI氏くらいなので、一緒に語れる人募集中。

※ ちなみに『月の恋人』の中に出てくる中国語セリフ(リン・チーリンなど)の字幕制作(ベタ訳から)に関しては、JVTAが担当している。

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『川の底からこんにちは』 (2009年/35㎜/112分)
脚本・監督:石井裕也
出演:満島ひかり 遠藤雅 相原綺羅 志賀廣太郎 岩松了
2010年GW渋谷ユーロスペースほか全国順次公開

『愛のむきだし』 (2008年/日本/237分)
原案・脚本・監督:園子温
出演:西島隆弘、満島ひかり、安藤サクラ、尾上寛之
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vol.81 『ウォレスとグルミット』 by桜井徹二


4月のテーマ:どうぶつ

クレーアニメというのは、誰もが一度は作ってみたいと思ったことがあるはずだ。いや、さすがにそれは言いすぎかもしれないけれど、少なくともクレーアニメを見て「すごい!」と思ったことくらいは誰もがあるはずだ。何より撮影にかける手間がすごいし、コマ撮りしたキャラクターがあんなに生き生きと動き回るというのもすごい。

そのクレーアニメの世界でよく知られている作品に「ウォレスとグルミット」がある。主役は、発明を得意とするウォレスと、彼が飼っているビーグル犬グルミット。グルミットは飼い犬とはいいつつも、ウォレスのお世話役的な面もある(セーターなんかも編んだりする)。そして毎回、ウォレスの突飛な発明を発端として、いろんな事件やドタバタが起こる。

クレーアニメ自体のすごさについては上述したとおりなのだが、こと「ウォレスとグルミット」に関しては上記の2つの「すごい」に加えて、ストーリーが抜群によくできているという「すごい」もある。

特に、2人の家に下宿人としてペンギンがやってきて...というストーリーの短編「ペンギンに気をつけろ!」などは、いつもながらのほのぼとのとした笑いに加え手に汗握るスリリングな展開もあって、クレーアニメという範疇にはとても収まりきらないほどの優れた作品。これがコマ撮りで撮影されているなんて、何度見ても信じがたい。ビデオ屋さんにも置いてあるので、ぜひ見てみてください。

僕は以前ビーグル犬を飼っていたのだけど、その当時はまだグルミットの存在を知らなかった。もし知っていたら、自分の犬がさらに愛らしく思えたかもしれないな、と思う。

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『ウォレスとグルミット/ペンギンに気をつけろ!』
監督:ニック・パーク
製作国:イギリス
製作年:1993年
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vol.80 『ウォーキングwithダイナソー ~恐竜時代 太古の海へ~』 by浅野一郎


4月のテーマ:どうぶつ

皆さんは、"爬虫類"と聞いて、何を想像するだろうか? 僕は、ついついウェスタン・ブーツを連想してしまうという、非常に不届きな人間だ...。

史上最も大きな爬虫類、恐竜。誰でも一度は、化石でしたか見たことがない恐竜の姿を実際に見てみたい! と考えたことがあるのではなかろうか? その想いを映画で具現化したのが、「ジュラシック・パーク」だ。
琥珀に閉じ込められた蚊から恐竜のDNAを取り出し、それを基に実際に恐竜を作り出すというのが映画の筋だ。もちろん、この映画を観たときは作り物と分かっていながら、身体に電気が走ったような衝撃を受けた。

しかし、今回ご紹介する、イギリスBBC制作の「ウォーキングwithダイナソー ~恐竜時代 太古の海へ~」は、何とドキュメンタリーだ。やはり本物の伝える迫力は映画とは比べ物にならない。
動物学者で冒険家のナイジェルが、恐竜時代にタイムスリップして、命の危険も顧みず、さまざまな恐竜の生態をカメラに収め克明に伝える。

この"太古の海"編のクライマックスは、"巨大な歯"という意味を持つメガロドンの登場だ。メガロドンとは、ムカシホオジロザメという和名をもつ史上最大のサメ。
今まで、このサメは色々なB級映画に登場し、全長20メートルとも40メートルとも言われてきたが、この映像に映っている大人のメガロドンは、体長15メートルほど。
しかし、恐怖度はむしろ作り物よりも本物のほうが数段上である。画面を通してさえ、メガロドンの歯の鋭さ、底のないかのような暗い眼には恐怖を感じる。もし自分が海の中にいて、こんな怪物に出会ってしまったら...

普通にタイムスリップしていることも驚きだが、恐竜を相手に、水陸問わず、よくぞここまできれいな映像を残すことができたということに驚きを禁じえない。

今年の7月には、恐竜ライブ!「ウォーキング・ウィズ・ダイナソー ライブアリーナツアー イン ジャパン」も日本にくるそうだ。このDVDを見て予習をしてから、約6500万年前に絶滅した恐竜の、恐ろしくも優雅な姿を見てほしい。

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『BBC ウォーキング with ダイナソー ~恐竜時代 太古の海へ』
プレゼンター:ナイジェル・マーヴェン
製作国:イギリス
製作年:2000年
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vol.79 『アイ・アム・サム』 by 藤田庸司


3月のテーマ:におい

CGを駆使した壮大なスケールの映画も楽しいが、レンタルDVDショップなどに出向くと、ともすれば"人間臭い"、"人間の臭いのする"ドラマ系作品に手が伸びてしまう。人間臭さと言っても抽象的で分かりづらいかもしれない。僕が思うところの人間臭い映画とは、人の強さや弱さ、醜さ、優しさ、うぬぼれなどを包み隠さず描いた作品である。人間は一人では生きていけない弱い生き物。だが、その弱い生き物が一生懸命に生きる姿は美しく、見る者に勇気を与えてくれる。今日はそんな1本を紹介したい。

『アイ・アム・サム』

知的障害のために7歳児程度の知能しか持たない父親サム(ショーン・ペン)は、コーヒーショップで働きながら一人娘のルーシー(ダコタ・ファニング)を育てていた。ルーシーの母親は、ルーシーを生むとすぐに蒸発してしまったが、二人はサムの友人をはじめ、理解ある人々に囲まれ幸せに暮らしていた。しかし、ルーシーが7歳になる頃、その知能が父親を超えようとする。ある日、サムは家庭訪問に来たソーシャルワーカーによって養育能力なしと判断され、ルーシーを無理やり里親の元へ出されてしまう。何としてもルーシーを取り戻したいサムは、敏腕で知られる女性弁護士リタ(ミシェル・ファイファー)の元を訪ねルーシー奪還を図るが、サムにリタを雇うお金などなく、あっさり断られてしまう。それでもあきらめないサム。やがて彼の愛娘への思いがリタの心を動かしていく。

本作の登場人物たちは、個々に様々な悩みや問題を背負って生きている。貧しいうえ障害を抱えているサム。裕福で社会的にも地位を認められていて、誰もがうらやむ暮らしをしているリタ。父の障害と自分の成長の狭間でもがき苦しむルーシー。一見、幸せであろう人が実は不幸せだったり、かわいそうに思える人が実は幸せだったり、最も無力のはずの子供が一番強かったり、「人間の幸せって、一体なんだろう?」と考えさせられる。誰も不幸になんてなりたくない。幸せになりたいし、成功したいし、認められたい。そのために努力するが、そこには絶えず挫折や劣等感が付きまとう。時として、ノックアウトされたときの絶望感や、羞恥心と戦わなければならない。弱い中にも強さが必要なのだ。かく言う僕も、自分の不十分な努力を棚に上げ"才能がない"と落ち込んでみたり、"あの人はいいな〜"と他人の人生をうらやんだりしてしまう弱い人間である。自分の存在がどうしようもなく"ちっぽけ"と感じたり、"もうダメだ"と思った時、この作品を見ると、いつも救われる気がする。"弱くていいじゃん。だって人間なんだから"と。

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『アイ・アム・サム』
監督:ジェシー・ネルソン
脚本:クリスティン・ジョンソン
製作総指揮:マイケル・デ・ルカ
撮影:エリオット・デイヴィス
出演:ショーン・ペン、ミシェル・ファイファー、
   ダコタ・ファニング
製作国:アメリカ
製作年:2001年
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vol.78 『ドリアンドリアン』 by 石井清猛


3月のテーマ:におい

一体何を思ったか、誕生日を迎えた娘フアンのために市場でドリアンを丸ごと1個購入してきた父親。強烈なにおいに堪えかね、鼻をつまみつつ「ケーキの方がよかった」と恨みがましく訴える母親をよそに、彼はフアンに向かって「アメリカ産の貴重な果物だから食べろ」と執拗に促すばかり...。

フルーツ・チャンが2000年に発表した『ドリアンドリアン』で描かれる、香港に不法滞在する家族が食卓を囲むこの場面は、この作品の中でも際立って切実かつユーモラスな一幕となっていて、見る者に深い印象を残します。

父親が家族に披露するドリアンについての知識は明らかに事実と異なり、甲高い声でたどたどしくまくし立てられる彼の言葉は否応なくガマの油売りの口上めいた怪しさを帯びていくわけですが、同時に、そこにはほとんど理不尽なまでに楽天的な響きが備わっていて、私たちはやがて画面が不思議なバランスの緊張感で満たされていくのに気づくでしょう。

果たしてフアンは父親の勧めにしたがって、ドリアンを口にするのでしょうか?
実際、『ドリアンドリアン』の中でドリアンに遭遇する人物たちは、ドリアンを食べる機会を等しく与えられていながらも、それぞれが様々な反応を示し、その言葉や動作をカメラに切り取られていきます。
つまり『ドリアンドリアン』の登場人物たちは、この"ハリネズミ"や"地雷"に似た威容を持ち"犬のフン"や"オシッコ"に似た異臭を放つ"果物の王様"を、食べたり食べなかったりすることで、あるいは喜んで食べたり恐る恐る食べたりすることで、フィルム上にその存在を刻みつけるのです。

映画の中盤で物語の舞台が、原色があふれかえる亜熱帯の香港から雪が舞いすべてが凍てついた黒龍江省牡丹江に移り、画面の背景となる町並みや光のコントラストが一変しても、フルーツ・チャンが人々に向ける視線は変わることがありません。
南国の熱を閉じ込めたドリアンは巧妙に北国に持ち込まれるやいなや人々の間に小さな混乱を引き起こし続け、フルーツ・チャンはそこに生まれる奇妙な緊張感を逃すことなくとらえ続けます。

『ドリアンドリアン』にドリアンがいくつ登場するのかは、興味のある方に調べていただきたいのですが、作品中のすべてのドリアンに共通して言えるのは、この果物が、"王様"の異名を取ることなど想像もできないほどの無遠慮な扱われ方をしているということです。

映画の冒頭から誰もが顔をしかめるその異臭に対して容赦ない言葉を浴びせられ、硬い凹凸は敵の襲撃に際して凶器として利用され、その強固な外皮は悪態をつかれながらナイフや鉈、ドライバーやハンマーをあてがわれ、テーブルから払い落とされ、郵便局で引き取り手を待つ間何日も放置され、揚句には部屋からはじき出された勢いで階段を転落するに至るといった具合で、まったく、"王様"の威厳などあったものではない。

それでもフルーツ・チャンがこのドリアンと呼ばれる果物、外見もにおいもあまりにシュールでほとんど笑うしかないほど現実離れしているフルーツ=fruitに、たまらなく魅了されていると思えるのは、単なる気のせいではないでしょう。

『ドリアンドリアン』の中でドリアンは、まさに"荒唐無稽な異物"としか言いようのない存在として描かれています。
私たちは誰でも、人生のあらゆる場面において突然、"荒唐無稽さ"に出会う可能性があることを知っているにもかかわらず、本当に荒唐無稽な何かに出会った時には、ただひたすら動揺するほかありません。そしてフルーツ・チャンにとっては、そのような動揺の瞬間こそがリアルであり、映画的だったのではないでしょうか。

思えば『ドリアンドリアン』で最初にドリアンを食べるのは、牡丹江から出稼ぎにやってきたコールガールの護衛を命じられた不良少年でした。
彼はある経緯から道端に転がっているドリアンを見つけると、ためらいなくそれを真っ二つに割り、中から取り出した実を無造作に口に運びます。

少年がドリアンをどのように食べ、どのような動揺を見せたかは、ぜひ皆さんにご自分で確かめていただきたいと思います。
このシーンで彼が画面に刻みつけた視線と動作に、きっと誰もが目を奪われるはずです。
そしてそこにはフルーツ・チャンの動揺も同時に刻みつけられているということを、誰もが納得するはずです。

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『ドリアンドリアン』
監督・脚本:フルーツ・チャン
製作:ドリス・ヤン
撮影:ラム・ワイチューン
出演:チン・ハイルー、マク・ワイファン、ウォン・ミン、ヤン・メイカム、
ユン・ワイイー、ヤン・シャオリー、バイ・シャオミンほか
製作国:香港
製作年:2000年
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vol.77 『マイレージ、マイライフ』  by 藤田彩乃


2月のテーマ:夜

アメリカで娯楽といえばもちろん映画。映画館に行くなり、家でDVDを見るなり、とにかく一般人でもかなり映画を見ている。夜はディナーと映画がお決まりのパターンだ。定時で仕事を終わる人も多く、ケーブルテレビ、オンデマンドTV、ネットフリックスなどの普及率も高い。事実、映画スタジオは劇場の売り上げではなく、ホームエンターテインメントで大部分の利益を得ているようだ。

アカデミー賞もついに来週に迫り、下馬評も出揃ってきた。日本での公開はアカデミー賞発表の後になる作品も多いが、今シーズンは見たい作品が目白押しだ。私もいつになくノミネート作品をたくさん鑑賞したが、今回はその中でもひときわ目を引いた「マイレージ、マイライフ」を紹介したい。

主人公ライアンの仕事は企業の指示に従い従業員にリストラを宣告すること。年間322日も出張するためマイルを貯めることを生きがいとしている。人生のモットーは「バックパックに入らない荷物はいっさい背負わない」。そんな身軽な男ライアンは、出張先のバーでアレックスと出会い、意気投合。彼女への思いを募らせる。また合理的で頭の切れる新入社員ナタリーとのやり取りを通して、自分の姿を見つめ直していく。そんな女性たちとの交流を通して、人とのつながりを避けてきた彼の心に変化が訪れる。

華の独身生活を謳歌し、人生をスマートに生きるライアンはまさに現代人の典型だろう。面倒なことを避け、目に見えるマイルというステータスを築きあげることに没頭している。1分1秒でも無駄にしない効率のよいライフスタイルを徹底し、待ち時間は一切作らない。人間関係においても同様である。しかし無駄を省き続けて行き着く先はどこなのか。結局、幸せはつかめないままさまよい続けるだけなのかもしれない。先日アメリカの老舗雑誌で、「現代のアメリカンドリームとは大金持ちになることではなく、家族団らんの時間を持つことだ」という興味深い記事を読んだ。それほど現代では、人との深い関わり、信頼関係、愛情を保つことが難しくなっているのだろう。心が空っぽな人が多くなっているのだと思う。

世界的不況に見舞われた2009年。現代の社会情勢や現代人の抱える不安や孤独をここまでリアルに描いた映画は初めてではないだろうか。映画の冒頭でリストラされた従業員が今後の不安と悲しみを涙ながらに話すシーンがあるが、まるでドキュメンタリーのインタビュー映像のようだ。

特に本作は役者が素晴らしい。独身貴族ライアン役は、ジョージ・クルーニーがぴったりだ。話によると脚本の制作段階から想定していたそう。アレックス役のヴェラ・ファーミガが美しい大人の女を好演。こんな風に年を取れたら素敵だなあと見とれてしまった。ナタリー役のアナ・ケンドリックも賢くて小生意気な新入社員を熱演している。期待通り、アカデミー賞ではジョージ・クルーニーは主演男優賞、ヴェラ・ファーミガとアナ・ケンドリックも助演女優賞にノミネートされた。

すでにアメリカ脚本家組合(WGA)賞、ゴールデングローブ賞脚本賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞脚本賞など数々の賞を受賞している本作。現代世界をリアルかつコミカルに見事に描いた秀作なので、ぜひご覧いただきたい。
日本公開は2010年3月20日。


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『マイレージ、マイライフ』
原題: UP IN THE AIR
監督: ジェイソン レイトマン
キャスト:ジョージ・クルーニー、ヴェラ・ファーミガ
     アナ・ケンドリック
製作年: 2009年
製作国: アメリカ
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vol.76 『ガス燈』 by 杉田洋子


2月のテーマ:夜

『ガス燈』は、私が初めてキューバの映画館で観たハリウッド映画だ。留学当時
に滞在していた家から最寄りの映画館"チャールズ・チャップリン"では、古い
ハリウッド映画にスペイン語の字幕を載せたものがよく上映されていた。
日本映画の週やトルコ映画の週など、小規模な映画祭のようなものもよく行われ
る映画館で、適度にすいていて居心地がよい。チケット代は日本円に換算して約
10円。途中キオスクに寄って、やはり10円相当のフルーツジュースを飲み干し、
窓口に並びながら5円相当のピーナッツを買う。部屋にテレビがなかった私は、
これを"20円の娯楽コース"と名付け、暇つぶしとスペイン語の勉強がてら、週
に3日は通っていた。

かの有名な字幕"君の瞳に乾杯"で有名な『カサブランカ』の主演女優、イング
リッド・バーグマンと出会ったのも、恐らくこの時だったと思う。白黒の画面に
映る不安げな表情があまりに美しくて、すっかり見とれてしまった。もちろんあ
とで『カサブランカ』も観たけれど、個人的には『ガス燈』の方が強く印象に残っ
ている。当時29歳のイングリッド・バーグマンが初のアカデミー主演女優賞に輝
いたサスペンス映画だ。


舞台は19世紀のロンドン。母親を亡くした主人公の少女ポーラは、叔母であり大
歌手であるアリス・アルキストとともに暮らしていた。しかし不幸にも自宅で叔
母が何者かに殺されてしまう。傷心をいやすために思い出の家を離れ、叔母のよ
うな歌手になろうと歌のレッスンに励むポーラだったが、レッスンの伴奏を務め
るピアニストのグレゴリー・アントンと急速に恋に落ち結婚することに。ポーラ
の複雑な思いをよそに、2人は悲しい記憶が残る叔母の家で暮らすことになった。

ところが叔母の家に越してからというもの、ポーラの周りに不思議なことが起こ
り始める。夜、夫が作曲のために出かけたあと、室内のガス燈の光がぼうっとか
げり、閉鎖されているはずの天井の物置から物音が聞こえるのだ。さらに夫にプ
レゼントされた首飾りを紛失して以来、"君は忘れっぽくなった、心を病んでい
るんだ"と夫に責められるようになる。かげってゆくガス燈の光と物音に怯える
夜は続き、ポーラの心は次第に衰弱してゆく...。


物語自体の展開はなんとなく読めるけれども、破たんなきストーリーは純粋に面
白く、当時の脚本の完成度の高さを思い知らされる作品の1つだ。
夜毎にかげるガス燈と、不安気にゆがむバーグマンの表情が絡み合い、グっと引
き込まれてしまう。ガス燈の画は、いつまでもいつまでも鮮烈に脳裏にこびりつ
いている。とても個人的で感覚的な感想を言えば、ささいな物音や天井のしみを
見ておびえていた子供の頃の"夜のイメージ"がそこにはある。今の自分の中で
は、夜といえばお酒やライブといった快楽のイメージが圧倒的に優勢だが、夜の
原点はやはり神秘や恐怖だった。だから何となく、私にとってこの作品は、夜を
象徴する映画として胸に刻まれているのだ。

まだ見ていない方は、ぜひこの物語の結末と、儚く美しい人妻を演じるイングリッ
ド・バーグマンの姿を見届けてみてください。


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『ガス燈』
監督:ジョージ・キューカー
出演:シャルル・ボワイエ、イングリッド・バーグマン他
製作年:1944年(※1940年版もあるので注意)
製作国:アメリカ
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vol.75 『やわらかい手』 by 藤田奈緒


1月のテーマ:未知

壁に開いた穴をじっと見つめる1人の中年主婦。
しばらくすると意を決したのか、少し困った表情を浮かべながらも、彼女は目の前の小さな穴にぐっと手を差し込んだ。その先に待ち受ける"未知"の何かをつかむために。

言ってみれば人生なんて未知の連続だ。毎日同じことの繰り返しでつまらないだなんて、ともすると口にしがちだけど、実際のところ、まったく同じ毎日なんてないのだろうと思う。大抵は知らず知らずのうちに経験している"未知"なことに気づいていないだけ、もしくは知らない世界に飛び込むのが億劫で敢えて避けて回っているだけか。
いずれにせよ、選択することが許される立場にある人はラッキーだ。タリーズでいつも決まって頼むカフェラテの代わりに、たまたま目についた新発売のスワークルを注文してもよし、悩んだあげくやっぱりいつものカフェラテに落ち着いてもよし。何をするのだって自由、選ぶのは自分なのだ。

でも、もしその自由がなかったらどうだろう? あるいは引き返す道がなかったら?

ロンドン郊外で独り暮らす未亡人マギーには難病に苦しむ孫がいた。孫オリーの手術費用を工面するため奔走する日々を送るマギー。もはや自宅も手放し借金もできず、途方に暮れていたある日、彼女の目に「接客係募集・高給」の求人広告が飛び込んでくる。もちろん悩む間もなく面接に向かう。しかしただのウェイトレスの仕事だと思い込んでいた"接客"の内容は予想外のものだった。なんと壁に開いた穴ごしに手を使って男性客のお相手をする仕事だったのだ。

田舎育ちのマギーにとって文字どおり"未知"の世界である。さて、マギーはどうしたのか?

一度は怖気づいて逃げ帰ったマギーだったが、彼女に戻る場所はなかった。覚悟を決めて見知らぬ世界に飛び込んでみると、彼女自身も気づいていなかったその道の才能が花開き、瞬く間にマギーは店一番の売れっ子になっていく。もちろんその過程では、同僚とのいざこざやら、地元の友人たちとの友情がこじれるなど、さまざまな試練が降りかかってくるのだが、マギーは強靭な精神力をもってすべてを乗り越えていく。自分を犠牲にしてでも孫を救いたい一心で。

マギーには選択の自由はなかった。愛する孫のため、勇気を振り絞って"未知"の世界へ足を踏み入れた。その結果、彼女は何を手にしたのか。もちろんお金、他人に必要とされることによって生まれた自信、そして予想外にも新しい愛。母は強しとはよく言うが、祖母も相当強い。大切な誰かのために犠牲を払ってまでも愛を与えることのできる人は、当然誰かから同じだけの愛を注がれるのだ。

「手相には、あなたが過去にしてきた悪事がすべて浮き彫りになっている。過去に誰かを傷つけたら、必ずそれは巡り巡ってあなたに返ってくる」
ほろ酔い気分のある夜、神楽坂にいた黄色い服を着た占い師が私と友人に向かって放った言葉が、なぜか急に思い出された。

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『やわらかい手』
出演:マリアンヌ・フェイスフル、ミキ・マノイロヴィッチ
監督:サム・ガルバルスキ
製作年:2007年
製作国:ベルギー/ルクセンブルク/イギリス/ドイツ/フランス
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vol.74  『天空の城ラピュタ』 by 潮地 愛子


1月のテーマ:「未知」

先日、「未知」をテーマに原稿を書かなければならないが、まったく作品が思い浮かばないと話したところから映画の話になり、流れで『天空の城 ラピュタ』を見たことがないと告白したら、ある人に「あれ見てないなんて、信じられへん」と言われた。確かに、宮崎作品の中で一番好きという人も多いのは知っているのだが、『耳をすませば』(宮崎作品ではないけど)を大絶賛する友人から借りて見始めたものの、「雫、恋してるのね!」というセリフのところで恥ずかしくなってしまい見続けることができなかったという経験があるので、それ以来この手の作品はちょっと避けていたのだ。予備知識はほとんどなく、城が飛ぶんだろうぐらいの想像しかつかない。だが考えてみれば、そんな『天空の城ラピュタ』は私にとっての未知なる名作とも言えるではないか!ということで、早速、帰り道にレンタルして見たのが、この作品との出会いになった。

舞台は、19世紀後半の産業革命期のヨーロッパをモチーフにした架空の世界。両親をなくしてひとりぼっちの少年バズーは、ある日、空から落ちてきた少女シータを助ける。彼女は「飛行石」という不思議な石を持っていることから国防軍や海賊に追われていた。彼女を放っておけないバズーは戦いと冒険に巻き込まれていく。
海賊のドーラ一家から逃れようとするシーンはコミカルさとスピード感があり、機関車もいい味を出していて冒頭から楽しめた。でも、まだちょっとナナメにかまえている自分がいて、「こういうタイプの女に引かれるわけよね、男は」なんて思いながら見ていた。シータは出来るオンナだ。まず、謎めいている。そして、廃坑のシーンで本領発揮。目玉焼きののったパンを渡されると、「うれしい、おなかペコペコだったの!」と素直に喜んでみせる。そして、あとりんごが1個にあめ玉が2つあるよ、とバズーが言うと「わあ~、バズーのカバンて魔法のカバンみたいね。何でも出てくるもの」と、ほめる。これ大事である。そして、「私、父も母も死んじゃったけど、家と畑は残してくれたので、何とか一人でやっていたの」と健気で自立したオンナをアピール。そのへんの女性向け雑誌やマニュアル本に書いてありそうな「男心をつかむ」ポイントをしっかり押さえている。はい完敗です、さすがヒロインだねえなんて余裕をかましていたのに、このすぐあとのバズーのセリフにやられてしまった。自分のせいでひどい目にあわせてごめんねと謝るシータに彼が言うのだ。「ううん、君が空から降りてきたとき、ドキドキしたんだ。きっと、素敵なことが始まったんだって。」
親もなくひとりぼっちの日々にあんな出来事が起こるなんて、予測もしなかっただろう。だけどその出来事に直面して、素直に、これからのこと期待に胸をふくらませている彼に感動してしまった。彼はいわば「未知」のことに希望を持っている。そう考えたら「未知」がとてもステキなことに思えてきた。いつ何が起こるかわからない。でもそこに、不安や恐れではなく希望を持てたら、この瞬間でさえも楽しく思えてくるような気がしたのだ。

バズーのセリフにナナメの姿勢を正されてから90分、この作品を堪能した。燃え盛る塔からバズーがシータを救い出すシーンは、『タイタニック』の誰もが真似したあのシーンよりもある意味ロマンチックで心を持っていかれた。この作品の中で一番好きなシーンだ。そして、気に入ったセリフがもう1つ。ラストでシータが言うのだ。「土に根をおろし、風と共に生きよう。種と共に冬を越え、鳥と共に春をうたおう。」自然との共存というのは、私が見たいくつかの宮崎作品の中でも1つのテーマとなっているように思えるが、2009年の私のテーマが「アウトドア」で、海に行ったり山に行ったりして自然を感じることが多かったからか心に響いた。うまく言えないのだが、なんていうか「わかる。結局さ、それって人間が生きるうえでの基本だよね」みたいな気持ちになった。
そして、その気持ちのまま、「未知」に期待を膨らませて私は旅立とうと思う。この原稿がアップされる頃、私は沖縄にいる予定だ。なぜって?フッ、風を感じるためさ。
そんなわけで、ハワイのホノルルセンチュリーライドに続いて美ら島オキナワセンチュリーランに行ってきます。そのお話はまたどこかで...。

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『天空の城ラピュタ』

監督:宮崎駿
制作年:1986年
制作国:日本
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vol.73 『ブロークバック・マウンテン』 by 桜井徹二


12月のテーマ:「雪」

雪をテーマに映画を紹介するとなると、2種類の映画が思い浮かぶ。1つは『シザーハンズ』『ホームアローン』といった心温まる作品。もう1つは『シャイニング』『ミザリー』など、雪で閉ざされた場所を舞台に展開する、身も心も凍る作品だ。

だが今回取り上げる『ブロークバック・マウンテン』は、そのどちらともまた違う作品だ。主人公はイニスとジャック。2人は雪を頂いた雄大な山々の中の1つ、ブロークバック・マウンテンで雇われカウボーイとして働く。やがて仕事を通じて友情を結んだ彼らだったが、ふとしたきっかけで一線を越えてしまう。そしてひと夏の間、ブロークバック・マウンテンでかけがえのない時を過ごす。

それから20年という長い年月の間に、2人はそれぞれ結婚し、家庭を築く。だがお互いを忘れることのできない彼らは、人目を忍んで思い出の地であるブロークバック・マウンテンで逢瀬を重ねる。そして人には明かせない過去、他人の人生を生きているような現在、想像すら困難な未来について思いをはせ、時には思うようにならない状況にフラストレーションを爆発させて衝突する。

だが雪を抱くブロークバック・マウンテンがいつまでもそこにそびえ続けるように、2人の状況がどれだけ変わろうとも、20年前にお互いに抱いた思いが変わることはない。彼らにとってあの夏こそが最良の瞬間であり、その思い出が心の中でもっとも大きな場所を占め続ける――そのことを示しながら映画は終わる。

もちろん、2人の関係が同性愛であるという点がこの作品の大きなポイントであることは確かだ。だがそんなちょっとセンセーショナルともいえるテーマも、作品を通しての舞台となる雄大な自然の前ではささいなことにも思える。突き抜けるような青空、崇高なまでの美しさを誇る山々。ただそれを映し出すことで示唆される2人の純粋な感情と癒されぬ孤独に、思わず胸を締め付けられるだろう。


ところで、冒頭で「雪といえば心温まる映画、身も心も凍る映画、いずれかが思い浮かぶものだ」と書いた。真逆の発想だけに、もしかするとどちらのタイプの映画を頭に浮かべるかでその人の人間性が分かるかもしれない。では、男性同士の切ない恋愛を描いた『ブロークバック・マウンテン』を思い浮かべた僕はどんなタイプなのだろうか? という話をするといろいろとややこしい話になりそうだが、いずれにせよ、この作品が観た人の心に音もなく、しかし確かなしるしを残していくのは間違いない。それこそ、夜中に降り積もる雪のように。

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『ブロークバック・マウンテン』
出演:ヒース・レジャー、ジェイク・ギレンホール ほか
監督:アン・リー
製作年:2006年
製作国:アメリカ
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vol.72 『遊星からの物体X』 by 浅野一郎


12月のテーマ:雪

皆さんが"雪"と聞いてイメージするものは何だろうか?雪国出身の方からは"雪かき"や"雪害"など、あまりいい印象はないと聞くが、多くの方は"ロマンチック、幻想的..."など、ポジティブなイメージを持っているのではないだろうか? 映画もやはり、「シザーハンズ」に代表されるような、ファンタジックな作品で雪を効果的に使っているものが多い。

僕が"雪"と聞いて真っ先に頭に思い浮かぶのは『遊星からの物体X』だ。タイトルからもお分かりになると思うが、ロマンチックなどとは程遠い...。舞台は南極。雪と氷に閉ざされた南極探検隊基地で起こる、エイリアンと隊員たちとの死闘を描いた、エイリアン映画の金字塔的な作品だ。
はらわたは飛び散るわ、首はもげるわ、頭は爆発するわの、当時はゲテモノ映画と評された映画である。


ノルウェーの探検隊によって発見されたエイリアンを掘り起こしてしまったアメリカ探検隊。凍り付いていたエイリアンは息を吹き返し、あらゆる生命体を媒介としながら、形態を変えて次々に隊員を襲っていく。仲間の中にも媒介とされ体を乗っ取られた者が出始め、次第にお互いに疑心暗鬼に陥っていく隊員たち。エイリアンのおぞましい姿が明らかになり、やがて、物語は最終決戦へとなだれ込む。死闘の末、最後のエイリアンを始末するも、生き残った2人の隊員は、相手がエイリアンに体を乗っ取られているかもしれないという不安に駆られる。そこで"ゾンゾン..."という曲が流れ、映画はそのまま不穏な終わり方をする。映画公開時、どちらがエイリアンなのか?という疑問を解き明かすヒントが映像に隠されているというウワサがあった。片方の登場人物の息が白くない...ということはあちらがエイリアンなのだ、という話もあったが、監督曰く、単純な編集ミスという話もあり、真偽のほどは定かではないようだ。

さて、この映画の特長はなんと言ってもクリーチャー造形だ。現在のようにバンバンCGを使える時代でもないのに、クリーチャーの完成度は、今見てもまったく見劣りがせず、思わず息を呑むほど。隊員のちぎれた頭部から足が生えてシャカシャカと歩き出す"蟹エイリアン"など、思わず笑
ってしまうようなクリーチャーもいるが、そんなヤツでさえ、「アバター」の100倍リアルだ。

リメイクの話もあるようだが、当時のような完成度は到底出せまい。もちろん、技術的には今のほうが数段上だろうが、82年に作られた本作には、そんな高度な技術を嘲笑うかのような緊張感がある。もちろん、僕が小さかったということもあるだろうが、やはり、小手先の技術を使って作る現在の環境では出せない"迫力"や、スタッフの"気迫"のようなものがあるのだと思う。

クリーチャーのことを書いていたら、『アルゴ探検隊の大冒険』のギシギシ動くタロスや骸骨剣士など、ストップモーションで撮ったことがバレバレのクリーチャーが出てくる映画を観たくなってきた。久しぶりにビデオを掘り起こしてみよう。

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『遊星からの物体X』
出演:カート・ラッセル、A・ウィルフォード・ブリムリー ほか
監督:ジョン・カーペンター
製作年:1982年
製作国:アメリカ
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vol.71 『ブルークラッシュ』 by 潮地愛子


11月のテーマ:スポーツ

サーフィンをすることなんて一生ないと思っていたのに、2009年夏、私はサーフィンデビューを果たした。と言っても、初めてスクールに参加した日、まったく自覚がないのに「あの溺れそうになっていた子」と称されたくらいなので、華々しいデビューとはいいがたいのだけれど。サーフィンほど事前に思い描くイメージと実態がかけ離れているスポーツもないかもしれない。とにかく難しいし、上達するのに時間がかかる。それを実感したので、今や海と闘いながら腕を磨いたのであろうサーファーをリスペクトしている。そして、彼らのカルチャーに、ちょっと憧れている今日この頃である。

『ブルークラッシュ』は、ハワイのオアフ島に住むサーファーガールの生活を描いた青春映画だ。ライフスタイルもリアルに描かれていて、お金はないけど一生懸命働いてサーフィンに打ち込むガールズたちには共感が持てる。そして彼女たちがオアフ島のローカルで、ノースショアでサーフィンしちゃったりするところが、サーフィンをちょっぴりかじった私にはぐっとくる。ガールズムービーには欠かせないでしょう恋愛ももちろんからんでくる。主人公はNFLの選手と恋に落ちちゃうのだが、当然、彼のポジションはクウォーターバック。こういうベタさ、私は嫌いじゃない。
そして何より、この作品で特筆すべきは水中撮影のすごさだ。超危険なガールズサーファーの大会パイプ・ライン・マスターズのシーンでのライディング映像は必見だ。臨場感があって、まるで自分が乗っているような気分になる。海に入ったあとのような爽快感を味わいたい人にもおススメだ。

20年ぶりに海に入って、海の水ってしょっぱいんだ、と思い出した。そして、波にもまれて初めて、サーフィンを、そして海をなめていたことを思い知らされた。それでも海に魅了されたようだ。時々、海に入りたいなあと思うようになった。でも秋も深まり、季節は冬へと移り変わりつつある。この間も海が恋しくなったが、寒いのは苦手なので、とりあえず暖房が効いた部屋で『ブルークラッシュ』を見た。そして、ぬくぬくした部屋で一流サーファー気分を味わった。2009年冬、私は乙な寒い日の過ごし方を見つけてしまったようだ。

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『ブルークラッシュ』
出演:ケイト・ボスワース、ミシェル・ロドリゲス、サノー・レイク
監督・脚本:ジョン・ストックウェル
製作:ブライアン・グライザー
製作年:2002年
製作国:アメリカ
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vol.70 『燃えよ!ピンポン』 by 杉田洋子


11月のテーマ:スポーツ

うちの近所には小さなGEOがある。小さな店舗だから種類も少ないし、たとえ
目当てのものが見つかっても、"旧作100円セール"の追い風もありほとんどが
貸し出し中。そもそも私は『ピンポン』が観たかったのだ。

"あった、あった!"と手を伸ばすと、やはりカラ。やはりな。
"あーあ、どうしよ、困ったな、人気作品なんだから2~3本は在庫置いといて
よね。あ、『ナチョ・リブレ』はどうかな。やっぱカラだよ、もう!"
...なんて思ってると、小さな店舗の貴重な棚の片隅に、スポーツという札を掲げ
た光り輝く一角があるではないか。
"よかったー、これで店内で闇雲にスポーツ映画探さずに済むよ、どれどれ..."
と覗いてみると、いかにも感動しそうなドラマ系の作品や有名選手のドキュメン
タリー風のにまじって、明らかにふざけたジャケの作品が鎮座していたのです。

『燃えよ、ピンポン!』

どっかで何度か聞いたような名前ですが、なにせピンポンです。しかもジャック
・ブラック風のふとっちょな主人公...。いっちょ借りてみようではありませんか。

ま、こんな前置きが長くなってしまったのも、私がやはりスポーツものが苦手だ
からに他なりません。そしてこの作品を選んだ所以もまた然りです。コメディな
らイケるべ!、と(すみません)。

それで、観てみました。

主人公は、かつて天才卓球少年として持てはやされたランディ・デイトナ。しか
しオリンピックで無様な負け方をしてからというもの人生は一転してしまう。メ
タボ中年となった今では、卓球曲芸で生計を立てる日々。あるとき、FBIの諜
報員ロドリゲスにその腕を買われ、裏社会で極秘に行われる卓球世界大会への潜
入捜査を委託されることに。目の見えない中国人師匠に特訓を受け、無事出場権
を獲得したランディ。しかし大会の実態は、敗者殺害のデスマッチ・トーナメン
ト。しかもその主催者は、父を殺した宿敵フェンだった...。

という、まあ、基軸は『燃えよドラゴン』のパロディなわけですね、やはり。
出てくる人物とふざけた会話はコメディなのですが、卓球のアクションはちゃん
と素晴らしかったりします。登場人物にもそれぞれに愛着が持てて、パァ~っと
楽しく鑑賞できました。何も考えずに楽しく観られるこんな映画も、いいなと思
うわけです。しかも吹き替えで。家族で安心して観られる、黒すぎずエロすぎな
いマイルド目のコメディといいますか。決して煮え切らないと言いたいわけでは
ありません。私は結構好きです。

クリストファー・ウォーケンのおバカなボスキャラと、マギー・Qの美貌も見も
のです。彼女は卓球もそうだけど、どちらかというとカンフーで魅せるシーンが
多いかなという感じ。強いヒロインっていいですよね。とりあえず、裏取りして
たら『燃えよドラゴン』を観たくなりました(実は未鑑賞)。

純粋にスポーツ観たい!!って人には、向かないかもしれませんが、普段観ない
けど、ちょっとスポーツ要素欲しいな、って人にはオススメの1本です。


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『燃えよ!ピンポン』
監督:ロバート・ベン・ガラント
脚本:ロバート・ベン・ガラント
音楽:モーリス・ジョーベール
出演:ダン・フォグラー、クリストファー・ウォーケン、マギー・Q、マシ・オカほか
製作国:アメリカ
製作年:2007年
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vol.69 『恋愛日記』 by 石井清猛


10月のテーマ:クセ

いつの間にやらそれなりの大人になってからというもの、事あるごとに思い出し、こいつはよく言ったものだね、と感心するようになったのが「三つ子の魂百まで」ということわざです。
幼児教育に臨床心理学に性格判断、果ては宗教理論まで、様々な文脈において、こう言ってよければ実に好き勝手な解釈で援用されてきたこのことわざの、誰が言い出したのかはさておくとして、三つ子に魂があることをさらりと前提としている慧眼には、ひとまず感服しないわけにはいきません。

考えてみると、私たちは自分よりむしろ他人について「三つ子の魂百まで」という感慨を抱く機会が多いのではないでしょうか。
相手が子供にしろ大人にしろ、なぜか変わらない好みや、いつ始まったのか分からない性癖、自然に選んでしまう特定の行動パターンや思考パターンといった、その人らしさを示すある種の"印"に触れた時、私たちは「百まで」消えることなく続くであろう何かの存在をぼんやりと感じるわけです。

その時に私が思い浮かべる魂は、それこそ個人的な趣味(癖?)に過ぎないのでしょうが、必ずしもスピリチュアル的な、輪廻転生する魂ではありません。
どちらかというと後にも先にもなく1回完結で、その人を他の人と最終的に隔てる、似通って見えても実は交換不可能な何かのような気がします。

ただ、もちろん私はそんな魂の姿を見たことなどなく、実際には、幼稚園に通う2人の甥がじゃれ合ったりケンカしたりしている様子や『恋愛日記』でシャルル・デネールがモンペリエのデパートを歩く女性の後をつける場面を見て、「三つ子の魂百までか...」とひとりごちているばかりなのですが。

フランソワ・トリュフォーが女性の脚の魅力に取り憑かれた中年男の数奇な生涯を描いた『恋愛日記』において、シャルル・デネール演じるベルトランが女性の脚になぜそれほど執着するに至ったのかは、ついに説明されることはありません。
多くの女性を愛し、多くの女性から愛されたベルトランの人生を、映画は彼の性癖に基づく行動だけに焦点を当てて映し出していくのです。

モーリス・ジョーベールによる優雅で軽やかな室内楽をバックに、『恋愛日記』はベルトランの葬儀のシーンから始まります。
参列者がすべて女性のみという、異様であり、楽園的でもあるこの場面のムードは、作品の主旋律となってラストシーンまで途切れることなく流れ続けるのですが、見る者はやがて、おとぎ話と悪夢の区別がつかなくなるかのような、奇妙な時間に出会うことになるでしょう。

個性豊かな曲線を描いて大地に立つ2本の脚。そんな脚を持った生き物としてしか女性を愛せないベルトランの生活を、トリュフォーは嘲笑することなく、生真面目な解剖医のような手つきで画面に収めていきます。
それは自らの性癖に振り回されて生きるしかなかったベルトランの、ユーモラスに思えるほど真剣で矛盾に満ちた"魂"に触れる、唯一の方法だったのかもしれません。

当時学生だった私がこの作品を初めて見た時に強烈に印象に残ったのは、無邪気に微笑むブリジット・フォッセーのえくぼと、スローモーションで描かれたある1シーンでした。

ベルトランの回想とも白昼夢ともつかないその場面では、春服を着た何十人もの女性が地下鉄の出口の階段を一斉に駆け上がる姿が映し出されていました。
どこか『トリュフォーの思春期』の冒頭の、子供たちがティエールの町の坂道を一斉に駆け下りる場面をほうふつとさせるシーンです。

その陽射しと躍動感と歓喜があふれかえるような画面は、きっとトリュフォーが映画に残した"印"なのだと思います。

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『恋愛日記』
監督:フランソワ・トリュフォー
脚本:フランソワ・トリュフォーほか
音楽:モーリス・ジョーベール
出演:シャルル・デネール、ブリジット・フォッセー、ナタリー・バイ、
レスリー・キャロン、ネリー・ボルジョーほか
製作国:フランス
製作年:1977年
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vol.68 『扉をたたく人』 by 浅川奈美


10月のテーマ:クセ

ひさしぶりに音楽モノをスクリーンで観た。
『扉をたたく人』
第4回UNHCR難民映画祭のクロージングを飾った作品だ。よかった。いい意味でばっさり裏切られて、これがまた実に感動した。

私は音楽モノ作品には、無条件に感動してしまうクセ(?)がある。
ぱっと思いつくものでも、『4分間のピアニスト』『戦場のピアニスト』『海の上のピアニスト』(やっぱり、ピアノ系の邦題って「ほにゃららのピアニスト」ってなってしまうことについて【余談】)...ほらね、感動してたでしょ。
ラフマニノフの3番がなんたるかも知らないくせに、思わず『シャイン』のサントラ買っちゃうし、ゴスペル初心者のくせに、やっぱりソウルに響くんだよ、これ、と、『天使にラブ・ソングを』のOH!HAPPY DAYを練習しちゃうし、『スウィングガールズ』だって、(今ではカワイイけど)上野樹里含む微妙な女子高生で十分感動してたし。そういう感じ。

繰り返される単調な日常において、ひょんなことから主人公が音楽や楽器に出会い、のめりこんでいく。今まで周囲のことに無感動だったような人間も、音楽によって人生が大いに彩られたり、ちょっとやそっとの困難だって、奇跡のガッツで乗り越えちゃったり。NO MUSIC, NO LIFE精神。人が何かに夢中になり、我を忘れてのめりこんでいく姿って単純に引きつけられてしまう。
専門家が聞けば、その演奏はそれほどミラクルでないかもしれないし、「このシーンは、替え玉か?」などと考えてしまうこともしばしばあるけど。それでも、音楽モノ、楽器モノは奏でられる音楽と、主人公の感情の昂ぶりとでグルーブしまくっちゃって。これまたどんなダイアログを並べられるより、心打つものがあったりするわけで。なんとも分かりやすくて、好きだ。

さて。
『扉をたたく人』は音楽モノでありながら、中盤から殆ど演奏シーンがでてこない。それがまた、音楽が人生にとって、どれほど価値あるものとなりうるかをみせている素晴らしい構成だ。

主人公の大学教授ウォルターがシリアからの移民少年タリクと出会うまでは物語は実に単調。その後、ジャンベ(アフリカン・ドラム)が奏でるアフリカンビート(3拍子)にのって、ストーリーは一気に盛り上がる。しかし二人の心が通い合うがいなや、不法滞在を理由にタリクは拘束されてしまう。そこからはジャンベの音色どころか、劇中音楽すら、殆ど出てこない。

タレクは、ガラス越しに訴える。
「自由に生きて、自由に自分の音楽を奏でたい」

生きることを奪われた青年に、本当に生きるとは何かを教えられる、ウォルター。そして音楽を奪われたことの、苦しさがそれこそ痛いくらいに伝わる。さっきまで心地よく響き渡っていた、あのジャンベの音色に対する枯渇感を観客は感じずにいられない。

自由の国、アメリカ。拘置所の近くにはその自由を謳歌するようなグラフィティアート。壁をへだてた向こうでは、人を番号で管理する自由とはかけ離れた世界がある。明日の居所さえ保証されない。家族さえ事前に知ることが出来ない。その扱いは宅配便の管理以下だ。ウォルターがタリクを救うため依頼したのはアラブ系弁護士。叔父も強制送還された経験を持つというアラブ系の彼も、高価なスーツを身にまとったニューヨーク出身、完全なアメリカ人だ。ベストは尽くすと一蹴された依頼人は、もはやなす術もない。だが現在のアメリカでは、その言葉にすがるしかないのだ。
不法滞在を擁護するつもりはさらさらない。ただ、9.11を経験したアメリカは、明らかになにか大事なものを失ったと思わざるをえない。

Broadway Lafayette ST.のプラットホームでジャンベを打ちならすラストシーン。次第に近づき重なるもうひとつの3拍子。ジャンベの音までも飲み込むそれは、ホームに滑り込む地下鉄の音。
ノーベル平和賞を受賞した大統領を擁すこの国は、この先、この国に生きる人全てに、自由と平和を保証してくれるのだろうか。

上野樹里といえば、『のだめカンタービレ』。原作は、いよいよ連載最終回!一大クラシックブームを巻き起こしたこの作品も、終わってしまうのか... ( ̄д ̄)エー。単行本出るまでほんとに待ちきれない...。

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『扉をたたく人』
製作年:2007年
製作国:アメリカ
監督:トム・マッカーシー
出演:リチャード・ジェンキンス
(2009年アカデミー賞主演男優賞ノミネート)
ハーズ・スレイマン、ヒアム・アッバス
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vol.67 『キャピタリズム~マネーは踊る~』 by 藤田彩乃


9月のテーマ:クセ

原題「Capitalism: A Love Story」。癖の強い、でも一度観たら癖になる作品を撮り続けるマイケル・ムーア監督の待望の最新作だ。「世の中の悪事と不条理のすべては、元をたどればすべて資本主義が原因である」という偏った意見を持っている私は、10月2日の全米公開が待ちきれず先行公開に出かけた。

「華氏911」ではブッシュ前大統領を痛烈に批判。前作「シッコ」ではアメリカの医療制度とアメリカ国民の現状を悲劇的に描いたムーア監督。そんな彼が今回テーマとして選んだのは、なんと資本主義。とてつもなく大きな敵と戦う気らしい。

サブプライムローンを組まされ支払が滞った家族が、担保である家を取り上げられるシーンから始まり、昨年から続く金融危機と世界不況の原因を分かりやすく解説。アメリカ型の市場主義経済の崩壊と資本主義の弊害を映し出す。

他の国では当たり前に存在する国民健康保険制度すら存在しない、超自由資本主義経済のアメリカ。教育も健康も、すべてがビジネス。他人がどうなろうがおかまいなし。そんな弱肉強食・利益至上主義の現状と、古きよきアメリカを比べ、その変遷を追っていく。

大統領選挙の2ヶ月前に突如発生した今回の金融危機。偶然にしては出来すぎていると眉をひそめる有識者たちは、すべては巧妙に仕組まれた詐欺だと言い放つ。事実、ウォール街のCEOたちはこの金融危機で大儲けしている。

たくさんの興味深い映像の中に、印象的なシーンがあった。テーブルの上においてあるパイを、子犬が必死にジャンプして取ろうとするのだ。ジャンプすればパイは見えるけど、手は届かない。どんなに力いっぱいジャンプしてもパイにはありつけず、椅子に座った人間が笑いながらパイを食べている。

周知の事実だが、世界の99%の富は、1%の金持ちによって所有されている。富める者がさらに富むように作られた資本主義システムでは、どんなに頑張ってもその1%にはなれない。しかし「アメリカン・ドリーム」というありもしない幻想を夢見せられて、貧しい者は苦しい生活に耐え続ける。

それはすべて、富裕層が描いたシナリオ通り。無慈悲にそしてスマートに欲しい物を奪っていくウォール街のエリートたちにはある意味、感嘆するが、改めて彼らの論理を説明されると、その強欲で利己的な言動にはヘドが出る。本来システムというものは、人々のために存在するべきものだ。しかし今は、「経済」というシステム自体が大きく育ちすぎて、それを維持するために、人々が犠牲になっている。

そして最後にムーア監督は観客に、この現状を変える力を貸してほしいと訴える。民主主義では誰もが平等に1票の投票権を持っている。資本主義のひずみが表面化し、人々が不平等に気づき初めた今こそ、民主主義の本当の力を見せ、我々の権利を叫ぶのだと。

日本では今年12月から限定公開、10年1月から全国拡大公開される。

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『キャピタリズム~マネーは踊る~』
監督:マイケル・ムーア
製作年:2009年
製作国:アメリカ
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vol.66 『マルホランド・ドライブ』 by 藤田庸司


9月のテーマ:妄想

ドキュメンタリー作品を除けば、そもそも映画というものは、その監督の頭の中、極端に言えば"妄想"を映像化したものではないだろうか。視聴者は、その監督の妄想をスクリーンを通して体感し、共感できたり興味を抱けば、それを面白い作品、理解できなければ退屈な作品と判断する。そう考えると、世間で名作と呼ばれる映画は、監督の妄想に多くの人が共感できたというだけで、名作=いい作品、駄作=つまらない作品とは言い切れないと思う。駄作と言われる映画は多くの人が、その監督の妄想に共感できなかったというだけで、共感できるマイノリティーにとっては"素晴らしい作品"であるはずだ。今日は、語られる時"面白い""不気味""理解できない""切ない"などといった様々な感想が飛び交うユニークな1本を紹介したい。

『マルホランド・ドライブ』

実在する、ハリウッドを一望できる通り"マルホランド・ドライブ"で、深夜、車の衝突事故が発生する。ただ1人助かった黒髪の女性はハリウッドの街までなんとか辿り着き、留守宅へ忍び込む。そこは有名女優ルースの家で、忍び込んだ黒髪の女性は、直後に家を訪れるルースの姪ベティに見つかってしまう。とっさにリタと名乗ったこの黒髪の女性を、ベティは叔母の友人と思い込むが、すぐに見知らぬ他人であることを知る。事故の後遺症で何も思い出せないと打ち明けるリタ。手掛かりはリタのバックの中の大金と謎の青い鍵。ベティは同情と好奇心から、リタの記憶を取り戻すために大胆な行動に出るのだが...。

僕の乏しい表現力で書いたあらすじでは、安っぽいミステリー映画に聞こえるかもしれない。しかし、監督は巨匠デヴィッド・リンチ。奇妙な世界観や、不気味なポップセンスが爆発している。最初に本作を鑑賞したときは、"摩訶不思議"なストーリー展開に頭を抱えたが、何度か見るうちに、本作には一種の謎解きのようなプロットが用いられていることに気づき、自分の中でストーリーの辻褄が合い始めると、すべての摩訶不思議がチェーンのようにつながり、壮大なテーマが浮かび上がった。さらにそのテーマを確認しようと何度か見ていくと、今度はさり気なく見過ごしていたディテールが、凄まじい存在感を発揮し始める。かれこれDVDで何十回も見ているが、見る度に底なし沼にでも引きずり込まれるような感覚に陥り、今尚、飽きることなく見続けている。デヴィッド・リンチはインタビューの中で、「映画は音楽だ。私の思いや、主張を感じるままに鑑賞してほしい」とアーティスティックに解説しているが、僕には「私がどう妄想しようと私の勝手だ」と聞こえてならない。ナオミ・ワッツの体当たりの演技が◎。

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『マルホランド・ドライブ』
出演:ナオミ・ワッツ、ローラ・エレナ・ハリング ほか
監督:デヴィッド・リンチ
製作年:2001年
製作国:アメリカ
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vol.65 『ラースと、その彼女』 by 藤田奈緒


9月のテーマ:妄想

究極のひとり遊び、妄想。
持て余すほど時間が有り余っている子供だけの特権かなとも思うけど、
むしろ大人向けの遊びと言えるかもしれない。

誰かと待ち合わせていて急に空いた1人の時間、カフェに入って注文した
コーヒーを待つ時間、なかなか寝つけない夏の夜。
タバコを吸う習慣のある人だったら、ちょっと一服して時間を潰すことも
できるだろうけど、生憎私はタバコを吸わないので、そんな時はここぞと
ばかりにあれこれ思いをめぐらせ、想像を膨らませては妄想にふける。
頭の中の世界では何だってあり。口に出しさえしなければ、誰にも知られ
ることもないのだから、これ以上ない有意義な1人の時間の過ごし方では
ないだろうか。ただしそれは、誰にも迷惑をかけなければの話。

アメリカの田舎町に住む青年ラースは、町中の人々から愛される心優しい
青年だが、1つだけ大きな欠点があった。それは極度にシャイであること。
これは彼の生い立ちが要因だったりもするのだが、その性格が災いして、
自分に好意を持ってくれてる女の子からも逃げてしまう始末。
しかし、そんなラースにある日突然、ガールフレンドができた。

待望のガールフレンド誕生に兄夫婦は大喜びするが、ネットで知り合った
という彼女ビアンカの正体はなんと等身大のリアルドールだった...。
呆然とする2人の前で、ラースはビアンカの生い立ちから職業、悩み事など
をいつになく楽しげに話すのだった。

普通だったら、「あーあ、ラースったら本当におかしくなっちゃったのね」
なんていう冷たい反応が当然だろうけど、この町の人々は違った。愛すべき
青年ラースのために、暴走しまくる彼の妄想にとことん付き合うことにしたのだ。
リアルドール、ビアンカは驚くべきスピードでコミュニティに受け入れられていく。
しかしすべてが幸せにうまくいっていると思えた時、突如ビアンカが病に倒れ
てしまう。そして訪れるビアンカの死。
周囲の励ましに支えられたラースは、自力でその死を乗り越え、同時に幼い頃
からのトラウマである母親の死を受け入れるのだった。

冷静に考えれば、そもそもリアルドールが病気になるわけもなく、死ぬわけもない。
旅をするはずもないし、洋服店でモデルのバイトをするわけもない。
それでもラースの妄想を跳ね除けることなく受け入れ、温かく見守り続けた町の
人々の泣きたくなるほどの愛情深さ。

これはただの妄想映画ではなく、1人の心優しい青年の心の成長物語であり、
現代における究極のファンタジー映画だ。

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『ラースと、その彼女』
出演:ライアン・ゴスリング、エミリー・モーティマー、ポール・シュナイダー
監督:クレイグ・ギレスピー
製作年:2007年
製作国:アメリカ
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vol.64 『太陽がいっぱい』 by 桜井徹二


8月のテーマ:海

海というのは、ある程度深いところまで行くと海面の下のことはまったくわからなくなる。どれだけの深さがあるのか、そこに何が住んでいるのか、ヒントさえ与えてくれない。だから海に行ったり船に乗ったりすると、僕はそのあまりの底知れなさにじわじわと恐怖を感じてしまう。

それは海を舞台にした映画を見ている時も一緒で、『ジョーズ』や『タイタニック』を見るたびに「海は怖い」という思いを新たにする。『ポセイドン・アドベンチャー』や『Uボート』にしても鑑賞後にいろいろ思うところはあっても、結局は「海ってすごく怖いんだ」という感慨にも近いような感覚に行き着いてしまう。『ウォーターワールド』もまた違った意味でケビン・コスナーに海は恐ろしいと思わせたはずだ。

もちろんその一方で、海の美しさ、雄大さを感じる作品もある。『グラン・ブルー』や『あの夏、いちばん静かな海。』、『ブルー・クラッシュ』などのサーフィン映画などもそれにあたるだろう。

そして中には海の美しさと怖さ、その両方を感じさせる作品もある。ルネ・クレマン監督作『太陽がいっぱい』もその1つだ。この作品はアラン・ドロン演じる主人公の青年リプリーが、富豪の息子フィリップを殺害して彼に成りすますというストーリーで、マット・デイモン主演の『リプリー』と同じ小説が原作になっている。

映画の序盤は、地中海に浮かぶヨットが物語の舞台となる。照りつける太陽と真っ白な帆、そして青い海のコントラストがとても美しいシーンが続く。

しかしフィリップの手ひどいいたずらや屈辱的な発言をきっかけに、リプリー青年の中でかねてからくすぶっていた暗い計画がむくむくと頭をもたげ始める。そしてやがてフィリップと二人きりになると、リプリーはその計画を実行に移すのだ。

どこか不穏な空気を漂わせるアラン・ドロンや、リプリー青年の見事な"成りすまし"計画、スリリングな逃走劇など見どころの多い作品だが、物語のオチもじつに鮮やかだ。最後の最後、完璧と思われた計画を一瞬にしてくつがえすショッキングな出来事が起こる。その時リプリー青年の頭に浮かんだのもやはり、「海は怖い」という感想だったに違いない。海の底に何が隠されているのかは、誰にもわからないのだ。

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『太陽がいっぱい』
出演:アラン・ドロン、モーリス・ロネ ほか
監督:ルネ・クレマン
製作年:1960年
製作国:フランス/イタリア
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vol.63 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』 by 浅野一郎


7月のテーマ:酒

禁酒法が敷かれていた1920年代のアメリカ・ニューヨークを舞台としたギャング映画である。僕がこの映画を観たのは、中学生になりたての時だったと思う。夜、父親に銀座に連れていかれ、あまり人気のない映画館で観た記憶がある。どう考えても、中学生が観ていい映画ではないのだが、当時はR指定などない時代。3時間以上のこのギャング映画を観た後、色々な意味で大人になった気分を味わったものだ。

出演はロバート・デ・ニーロ、ジェームズ・ウッズ、ジョー・ペシ、バート・ヤング、そしてまだ幼さの残るジェニファー・コネリー等々。物語は、若いユダヤ系移民の少年が裏の世界で成り上がり、そして転落していく様を描いた一大サーガだ。

ヌードルス(デ・ニーロ)、マックス(ウッズ)、パッツィー、コックアイ、ドミニク、モーの6人組は禁酒法の施工を逆手にとって、ヤミ酒で大いに稼ぐが、禁酒法時代がついに終焉を迎えたことによって、彼らもビジネスのやり方を変えざるを得なくなる。
大ボスの下について立場を固めようとするマックスと、小金があれば、それで満足というヌードルスの対立は次第に深まり、遂に悲劇的な最期を迎える...。

この映画で胸に残った場面が2つある。

1つ目はもっとも有名なシーンかもしれないが、仕事の成功に浮き足立つヌードルスたちがマンハッタン橋を背景にして闊歩するシーン。コックアイの吹くバンパイプの音がとても印象的なのだが、その直後に地元のギャングに襲われ、一番年少のドミニクが刺殺されてしまうシーンの「Noodles, I slipped...」というセリフが今でも耳から離れない。
ちなみに、このマンハッタン橋のシーンは、『インデペンデンス・デイ』での、ビル・プルマン扮する大統領のスピーチシーンに次ぐ映画史に残る名シーンではないかと思う。

2つ目は、ケーキ1つで体を許してしまうマギーの家に、パッツィーがケーキを持っていくところ。パッツィーは、そわそわしながらマギーが出てくるのを待っているのだが、チンピラといえども子供は子供。"色気より食い気"とばかりに、マギーが出てくるのを待てずケーキを平らげてしまう。ここのバックで流れているエンニオ・モリコーネの切ない曲がシーンを盛り上げている。

僕はふた月に1度くらいのペースでこの映画を観るのだが、この2シーンだけはチャプターを戻してもう一度観てしまう。映像と音楽の相乗効果が抜群で、何度観ても涙がこぼれるシーンだ。この歴史的名作をまだ観ていないという方は、今週末にでも早速観てほしい。

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『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』
出演:ロバート・デ・ニーロ、ジェームズ・ウッズ ほか
監督:セルジオ・レオーネ
製作年:1984年
製作国:アメリカ
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vol.62 『恋はデジャ・ブ』 by 潮地愛子


7月のテーマ:酒

『恋はデジャ・ブ』という作品をご存知だろうか。興行収入はふるわなかったようだが、隠れた名作と言われるビル・マーレイ主演のロマンティックコメディだ。
テレビの気象予報士フィルは、毎年2月2日に行われる春の訪れを占う聖燭節を取材するため、ある町を訪れる。彼はその晩を取材で訪れた町で過ごすことになるのだが、朝目覚めると、その日もなんと2月2日だった。時間のラビリンスに入りこんでしまったフィルは、何度も何度も同じ日を繰り返すことになる。

そもそもフィルは高慢ちきでイヤな男なのだが、何度も何度も同じ日を繰り返しているうちに善良な人間へと変わっていく。もちろん、その間には自暴自棄になってハチャメチャなことをしてみたり、ハデな自殺を試みたりする。だが、どうにもならないと人はそういう境地に達するものなのか分からないが、フィルは次第に丸くなり、人に優しくなっていく・・・。

で、どうしてこの作品を「酒」がテーマの今回に選んだのか。
初めて『恋はデジャ・ブ』を見たのは大学生の時だったのだが、ある酒場のシーンがとても印象深かったからだ。

フィルのとなりで酒を飲んでいる2人の男の片方が言う。
「人の幸せは考え方で決まる。ビールを飲んでいてふと気づいたとき、まだ半分も残っていると思うか、もうこれしか残ってないと思うか。」
胸がズキュンと痛んだ。確実に私も、「もう、これしか残ってない」と考えるタイプだったからだ。以来、『恋はデジャ・ブ』のこのシーンは、私の心の中に刻まれた。

だが、人の記憶とはいい加減なもので、今回久々にこの映画を観たら、「人の幸せは考え方で決まる」なんていうセリフはなかったし、たぶん今の私が初めて見たとしたらスルーしてしまうようななんてことのない場面だった。映画は出会いだとはよくいうが、その時の状況や心情といったものに感じ方が大きく左右されるんだなと改めて感じた。「人の幸せは、考え方で決まる」なんて勝手なセリフをつくりあげていた二十歳の頃の自分が、なんだかかわいく思えて笑ってしまった。あの頃はあの頃で、私なりにがんばっていたなあと。

年月を経ても「まだ、半分も残ってる!」的発想を確実にモノにはできていないが、「ビールがなくなっちゃったら、もう一杯頼めばいいや」ぐらいの気楽さはでてきたかもしれない。皆さん、くれぐれも飲みすぎには注意しましょう。

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『恋はデジャ・ブ』
出演:ビル・マーレイ、アンディ・マクダウェル ほか
監督:ハロルド・ライミス
製作年:1993年
製作国:アメリカ
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vol.61 『ウィスキー』 by 杉田洋子


7月のテーマ:酒

恐らく私が最初に口にしたアルコールは、父の飲み挿しのバーボンである。グラスに注がれるたびに氷をきしませる琥珀色の液体...。冷たい氷と、そこへ浸透するアツいウィスキーの調べに、幼い舌もついうっとりしたことを覚えている。二十年の時を経た今、おいしいスコッチとの出会いからこの原体験が蘇り、個人的にウィスキーブームが到来している。

今回ご紹介したい映画のタイトルは、その名もまさしく「ウィスキー」。2005年の東京国際映画祭でグランプリを受賞した、日本で見られる数少ない南米ウルグアイの作品である。

主人公は、ウルグアイでしがない靴下工場を営む老年のハコボ。古い機械と壊れたブラインドに囲まれた、従業員3人のつつましい工場だ。
ハコボは毎朝、カフェテリア(といっても洒落たものではなく、庶民派の軽食処)に寄って簡単な朝食を済ませ、工場に向かう。工場の前では毎朝、年配の女性従業員マルタが待っている。

"おはよう"

"おはようございます"

無口な2人は、仕事以外にほとんど会話を交わすこともない。マルタはときどきタバコをふかして一服し、ハコボはなかなかエンジンのかからないポンコツ車に乗って帰る。そうやって、毎日同じように1日が始まり、同じように1日が終わってゆく。

あるとき、死んだ母親の墓を建てようと思い立ったハコボは、ブラジルで同じく靴下工場を営む弟のエルナンを呼び寄せる。事業も好調で妻子持ちの弟に少しでも良い格好をしたくて、ハコボはマルタに妻のふりをしてくれと頼む。マルタはこの依頼に承諾し、まんざらでもない様子でハコボの家の掃除をはじめるのだった。

さらなる演出をしようと考えた2人は、おしゃれをしてダミーの夫婦写真を撮りに行く。この時出てくる言葉が、"ウィスキー"だ。日本で言う"はい、チーズ"に当たる。"イー"の口は笑顔になるから。ぎこちない2人の笑顔はたまらなくいとおしい。

一方で、この夫婦ごっこのきっかけとなったハコボと弟エルナンとの関係性も1つの軸になっている。エルナンには、親の介護を任せきりにしたというハコボへの負い目がある。ハコボには、自由奔放で成功者である弟に対し、どうしても卑屈になってしまうところがある。マルタを妻役に立てたのは精一杯の見栄だ。でも、兄弟はちゃんと愛し合ってる。ハコボが少し、素直になりきれないだけ。

そこかしこに登場するラテンアメリカらしい慎ましさも見所の1つ。
ハコボの取る朝食。カフェ・コン・レチェ(カフェラテ)やマテ茶。電気を律儀に消す様。
ブラインドが壊れても修理は来ず、車のエンジンは一度でかからず。トイレにはペーパーを持参し、チップを払わぬマルタ。たばこはつぶさず、繰り返し吸う。
小さなことを大切に、毎日同じことを律儀に繰り返す暮らしぶりは私たちの祖父母を思わせる。とても美しいと思う。

全体的にセリフは少なく、明示しない部分が多いけれど、シンプルで分かりやすく描かれている。とても穏やかで優しい気持ちになれる、思い当たる節がある、そんな映画。

質素であることの美しさ、ウルグアイという国の長短を理解しているからこそ、人間の芯を鋭く描き出せるのだろう。自国を客観的に捕らえた、当時30歳という若き監督コンビに乾杯。

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『ウィスキー』
出演:アンドレス・パソス、ミレージャ・パスクアル
監督:フアン・パブロ・レベージャ&パブロ・ストール
製作年:2004年
製作国:ウルグアイ=アルゼンチン=独=スペイン
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vol.60 『ライブテープ』&『不確かなメロディー』 by 石井清猛


6月のテーマ:憂鬱

憂鬱がbluesと言い換えられることはよく知られていて、もちろんそのこと自体は特別な秘密でも何でもありません。
でも試しに"I got blues"とつぶやいてみてください。呪文のように響くそのフレーズをひとたび口にすれば、誰もがたちまち胸に息苦しさを覚え、耳慣れないのにどこか懐かしい旋律が遠くでこだまするのを聴くことでしょう。
その時不意に訪れる、心が波立つような感覚を説明するのはそう簡単ではありません。
探している言葉はいつも、つかまえたと思った途端に指の隙間からすり抜けてしまうかのようです。

bluesという単語は一般に、悲しみや失望を引き起こす魔物の呼び名である"blue devils"が短く変化してできたと言われています。暗く沈んだ心の状態を表すその言葉は、濃い青色のイメージを帯びたまま、やがてアメリカ合衆国の南部で生まれた音楽の名称となりました。そしてその後bluesは、世界中の様々な音楽に影響を与えることになります。

今や好むと好まざるとに関わらず、bluesが聴こえない世界を想像することは、私たちにとって憂鬱と無縁な人生を送るのと同じくらい難しいことです。

それにしても"憂鬱という名の音楽"と"bluesという名の心理"が同時に存在する世界の、この不可解さは一体何なのでしょうか。
それら2つがメビウスの輪のように互いに結びついている姿は、ある意味、鶏と卵のパラドックスにも似て、私たちに軽くめまいを起こさせます。
ただ、一つだけ確かに言えるのは、この世界には憂鬱=bluesがあり、私たちはそこで生きるしかないということです。

とはいえ、それほど心配することはありません。
私たちは憂鬱な世界から美しいものが生まれることを知っていますし、幸いなことにそれを作品として残した人たちが実際にいるのですから。
例えば、忌野清志郎。そしてもう一人、松江哲明がそうです。

かつて"bluesは終わらない"と言った忌野清志郎が、ラフィータフィー名義で発表した「水の泡」という曲があるのですが、『不確かなメロディー』のエンディングで流れるこの曲を聴く時、私たちは憂鬱(清志郎ならユーウツと呼んだでしょう)がbluesに変わる瞬間に立ち会うことができます。

後期ビートルズにおけるジョン・レノンを思わせる、浮遊感をたたえたメロディーに乗せて歌われるその歌詞には、憂鬱=bluesの秘密が閉じ込められているのかもしれません。

この目に映る風景が
昨日と違う blue blue blue
同じ街を歩くのに
涙が落ちる so blue
あの娘は行ってしまった
あんなに愛してたのに
すべての努力もあっさり水の泡

忌野清志郎の詞が持つ力は、よく言われるように彼自身による歌唱と不可分です。
無防備なほど平易であっけらかんとした歌詞が彼の声によって歌われる時、言葉は思いもよらない相貌を見せることになります。
そこで私たちが出会うのは、もはや"悲しい言葉"や"面白い言葉"や"憂鬱な言葉"などではありません。
言葉そのものの、あるいは言葉を使う行為自体の悲しさであり、面白さであり、憂鬱です。

"なぜ言葉を話すのか?それは世界にbluesがあるからではないのか"

これからも私たちは忌野清志郎の歌を聴くたびに、そんな自問自答を繰り返すことになるのでしょう。

そう考えると、今年の3月にマスコミ試写で『ライブテープ』を見た際に、私が忌野清志郎のことを思い出したのは、単に前野健太の楽曲の感触から連想しただけではなかったのではないかという気がしてきます。

松江哲明監督の最新作『ライブテープ』は、今年の元旦に吉祥寺で行われた前野健太のライブを撮影したドキュメンタリー映画ですが、一般に"音楽ライブ映画"と言われているものとは、似て非なる作品です。

映画の撮影のためだけに行われた観客のいないライブだったこと。吉祥寺の街を練り歩きながらギターの弾き語りをする前野健太をゲリラ的に撮影したこと。そして、作品の全編をノーカットで一発撮りしたこと。などなど、『ライブテープ』を他と隔てる特徴を挙げていくことはできますが、この作品が凡百のライブ映画と決定的に異なるのは、作品自体がまるごと1曲のbluesとして成立している点でしょう。

制作背景にある松江哲明個人の憂鬱がどんなものであったにせよ、作品として完成した『ライブテープ』という映画において、吉祥寺の街で孤独にかき鳴らされる前野健太の歌は、実際に彼の音楽をよく知る人たちにとってさえ、新しい何かとして響いているはずです。
そして、全編を通じての歌の舞台となる吉祥寺がまるで見知らぬ街のように画面に映し出される時、私たちは『ライブテープ』という作品そのものが、これまで誰一人として聴いたことがない、新しいbluesであったことに気づくのです。

『ライブテープ』は、吉祥寺八幡の境内を歩く長澤つぐみをゆっくりと追っていく映像で幕を開けます。
画面は彼女が参拝を終えて境内から出るところまでを映し終えたあと、そのまま前野健太が歌う「18の夏」に移るのですが、今思うと、この冒頭の数分間の奇跡的な美しさは、これから誕生しようとする新しいbluesの、みずみずしいイントロだったのでしょう。

東京で梅雨空が続く中、LAではJune gloom(6月の憂鬱な空)が終わろうとしています。
私たちのbluesが終わらないとしても、実はそんなに悪いことではないのかもしれない。とそんな気がしています。

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『不確かなメロディー』
作詞・作曲・唄・演奏:忌野清志郎&ラフィータフィー
ナレーション:三浦友和
監督:杉山太郎
製作年:2000年

『ライブテープ』
作詞・作曲・唄・演奏:前野健太
撮影:近藤龍人
録音:山本タカアキ
演出・構成:松江哲明
製作年:2009年
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vol.59 『ロングバケーション~Long Vacation~』 by 浅川奈美


6月のテーマ:憂鬱

今月のお題は、何と「憂鬱」。
これとオススメ作品をはて...どうむすびつければいいものか。

「気がはればれしないこと。気がふさぐこと」を広辞苑では憂鬱という。
さして特別な感情ではない。

「私は●●だから憂鬱です」と理由が明確であるときもあれば、
「なんだか憂鬱」と漠然としたモヤモヤ感が体中充満してたり。
今この瞬間にも、地球上、何千何億の憂鬱が沸いては消えているのだろう。

北川悦吏子脚本の『ロングバケーション~Long Vacation~』。
男女の憂鬱がこれほどまで巧みに描写された作品はあっただろうか。
放映から13年経った今でも私にとって最高傑作のひとつである。


街からOLの姿が消えると言われていた月9(月曜午後9時)全盛期、1996年。
フジテレビ系列月曜9時枠で4月~6月に放映された大ヒット恋愛ドラマだ。
主演は山口智子と木村拓哉。
その他、竹之内豊、稲森いずみ、松たか子、りょうと今じゃ主役級の俳優陣が名を連ねる。
平均視聴率は29.6%、最高視聴率36.7%を記録した。


白無垢姿で街中を疾走してきた花嫁・南が、瀬名のマンションに怒鳴り込んでくる。
まずあり得ない強烈なオープニングに度肝を抜く。
しかしその後は、初夏の優しい時間の中、登場人物が織り成す何気ない日常の会話を中心に、緩やかに展開する物語。
それぞれの憂鬱を抱えながらも、ひとつまたひとつ言葉を重ねる。
笑い、泣き、時にはぶつかり、互いの心の痛みを少しずつ理解していき、
やがて惹かれ合うようになる南と瀬名...。

ただその恋の展開はじれったくなるほどゆっくり。直面している状況、先の見えない人生、抱える不安をむしろ丁寧に描いていくのだ。そしてひとつの奇跡へと物語は進んでいく...。

素晴らしいのは、その人ととなりを的確にとらえたセリフが絶妙のタイミング発せられる。
セリフ、画、音楽が溶け合い、生み出される登場人物の魅力は、画面上だけで留まらず、観る者の心にもしみこむ。

この弱者への優しさを言葉にさせたら、右に出る者はいない。
北川悦吏子の紡ぐ言葉たちは、間違いなく第一級だ。

婚約者に逃げられ、何をやってもうまく行かない。
そんな自分を痛いほどさらけ出す、無防備な南に、瀬名は語る。


瀬名:  「何をやってもダメな時ってあるじゃん。
      うまく行かない時、
      そんな時はさ、
      神様のくれた休暇だと思って、
      無理して走らない、自然に身を任せる」

南:  「そしたら?」

瀬名: 「そのうちよくなる」

いい。実にいい。傷ついた年上女子は一撃必殺。

名言、あげだしたらきりが無い。
最近、あのセリフがしみた。。。そんなことが言えるドラマが限りなく少ない気がする。


「おや?」
「ちょっとよろしいですか?」(by杉下右京)

記憶に残ってるセリフはこんなところか。


『ロンバケ』はAmazonで購入してからずっと大事にしているDVD。
なんだか憂鬱な時、優しい言葉を掛けてもらいたくなった時、デッキに入れる。

何年経っても優しさの温度が変わらない。
珠玉の言葉が持つ力って、こういうことなのか。
北川悦吏子の才能に嫉妬すらしてしまう。


最後。愛すべきキャラ、稲森いずみ扮する桃子の名言集。


------男女の友情って言うのは、
すれ違い続けるタイミング
もしくは、永遠の片思いのことを言うんです

------中身は女の子のまんまなんですよね。
時々、ブカブカの靴はいてる気がするよぉ。
ズック靴履いて、砂ぼこり上げて、運動場走ってたの、
昨日のような気がするよ。
中身は、なーんにも変わってないのにね


-------好きって気持ちは世界で一番えらいんですっ

はい。賛成!ヽ(゚∀゚)メ(゚∀゚)メ(゚∀゚)ノ

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『ロングバケーション~Long Vacation~』
製作年:1996年(全11回テレビドラマ)
脚 本:北川 悦吏子
演 出:永山 耕三 鈴木 雅之 臼井 裕詞
出 演:山口 智子 木村 拓哉 
音 楽:CAGNET(東芝EMI)
主題歌:「LA・LA・LA LOVE SONG」久保田 利伸 with NAOMI CAMPBELL
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vol.58 『ライオンキング』 by 藤田彩乃


5月のテーマ:旅

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」と芭蕉の言葉にもありますが、「旅」ときいて最初に思い浮かんだ言葉は「人生」。この世で生きるということは、ひとつの旅を続けているということ。後戻りできない恐怖と何が起こるか分からない不安の中で、寄り道したり休憩したりしながら、自分の選んだ道を歩んでいるのだと思います。そこで今回は私がこよなく愛するディズニー作品の中から『ライオンキング』をご紹介。主人公シンバの自分探しの物語です。

物語の舞台は動物の王国プライドランド。ライオンの王・ムファサは、王位を狙う弟スカーの罠にかかり殺されてしまいます。ムファサの息子シンバはスカーに脅され、自分のせいで父が死んでしまったものと思い込み、王国を旅立っていきます。失意のどん底のシンバは、ミーアキャットのティモンとイボイノシシのプンバァ出会い、「ハクナ・マタタ(くよくよするな)」をモットーに、過去から目を背け新天地で楽しく暮らします。しかし、ひょんなことから幼馴染のナラと再会し、故郷の惨状を聞くことに。湖に映る自分の姿に亡き父を見たシンバはスカーと対決するため、王国に戻っていきます。

作詞家ハワード・アシュマンと作曲家アラン・メンケンの黄金コンビが去り、エルトン・ジョンが音楽を担当した本作。手塚治虫の「ジャングル大帝」に酷似していると、日本のアーティストがディズニーに抗議したり公開前から話題になり、「ひょっとして駄作に終わるのでは」と幼心に勝手に心配していたのを今でも鮮明に覚えています。(私はブラックジャックに本気で恋をするほどの手塚治虫ファンですが、盗作だとは思いません。)

映画の冒頭のサバンナのシーンは圧巻。名曲「Circle of Life」が流れる中、いきいきと壮大な大自然を駆け回る動物たちの姿に釘付けになります。ディズニー映画はセル画の数が多くて有名。1秒間に24枚のセル画を使うフルアニメなので、キャラクターがまるで生きているかのように美しく動きます。日本のアニメでは経費節減のためなのか、キャラクターがあまり動かず口だけ動いてることも多いですが、ディズニーでは6フレーム以上、キャラクターが動かないことは絶対にありません。実際の人間の動きに少しでも近く見せようとこだわっている結果なのですが、その影響もあってアメリカの吹替作品のリップシンクの正確さは、目を見張るものがあります。

ディズニーソングが大好きな私としては、挿入歌もオススメしたい!主題歌の「Can You Feel the Love Tonight 」はアカデミー賞 作曲賞、主題歌賞を受賞しています。あまり有名ではありませんが、私のお気に入りは「He Lives in You」。聞くだけで鳥肌が立ちます。「Hakuna Matata」は底抜けに陽気で元気が出ること間違いなし。バカがつくほど楽天家な私のテーマソングでもあります(笑)

また、ジュリー・ティモアの斬新な演出でトニー賞を総ナメにした舞台ミュージカル版も必見。影絵や文楽などアジア伝統芸能を取り入れた演出は衝撃的でした。英語のオリジナル版でティモンとプンバァはニューヨークのブロンクス訛りで話すのですが、日本で上演されるにあたっては各上演地の方言に翻訳されました。いくつか観ましたが、プンバァは大阪弁が似合っていましたね。日本では劇団四季が上演していますので、機会があればぜひご覧ください。

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『ライオンキング』
監督:ロジャー・アレーズ、ロブ・ミンコフ
脚本:ジョナサン・ロバーツ、アイリーン・メッキ
音楽:ハンス・ジマー
主題曲:『愛を感じて』
作曲:エルトン・ジョン
作詞:ティム・ライス
製作年:1994年
製作国:アメリカ
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vol.57 『ストレンジャー・ザン・パラダイス』 by 藤田庸司


5月のテーマ:旅

翻訳者は言葉が持つニュアンスに敏感であるべきだ。例えば"旅"と"旅行"という単語の意味、定義について考えてみる。辞書においては、旅は「住む土地を離れて、一時他の土地に行くこと。旅行」とあり、旅行は「徒歩または交通機関によって、おもに観光・慰安などの目的で、他の地方に行くこと。旅」となっていて、ほとんど違いはない。では、なぜ修学旅行を"修学旅"、放浪の旅を"放浪の旅行"とは言えないのか?それは言葉の持つニュアンスが存在するからだ。旅にはどことなく"自由"というニュアンスがあり、旅行には"計画性"のようなものが含まれている気がする。同じ「他の地方に行くこと」にしても"気まま"とか"行き当たりばったり"がなければ、それは旅ではなく旅行だし、すべてにおいてきちんと仕切られた旅は旅行と呼ぶべきではないだろうか。今回は旅映画と呼ぶにふさわしい"気まま"や"行き当たりばったり"満載の作品を紹介しようと思う。

『ストレンジャー・ザン・パラダイス』
ニューヨークに住むウィリーのアパートに、ある日、故郷ハンガリーからいとこのエヴァが訪ねて来る。アメリカでの生活を送るため、クリーブランドに住むおばの家へ行く予定だったエヴァを、おばが急きょ入院することになったため、しばらくの間預かることになったのだ。最初はギクシャクするウィリーとエヴァだが、やがてウィリーの友人エディーを交えた奇妙な友情が芽生えていく。やがて、おばの回復に伴いクリーブランドに旅立ったエヴァ。一年後、急に思い立ったウィリーとエディーは、エヴァと再会を果たすべくクリーブランドへと車で出発する。

派手なセットもなく、セリフも少ないうえ、淡々と進む物語だが、どことなくコミカルで、ほのぼのとした雰囲気が漂う本作。ストーリーはすべて思いつきと行き当たりばったりで展開されていく。旅に出るウィリーとエディーには計画性のかけらもなく、イカサマポーカーで巻き上げた金で、思いつくや否やクリーブランドへ出発。突然の訪問に驚くエヴァを誘い、今度は思いつきでフロリダへ。もちろん理由などない。そしてフロリダでは負けた時のことも考えず、有り金すべてをギャンブルにつぎ込む。いい加減でだらしないとも言えるが、彼らには気持ちいいほどの自由と不思議な生命力が溢れている。観るたびに、ふらりとどこか遠くへ旅したくなる作品だ。
最近待望のDVD化を果たしたジム・ジャームッシュの初期作品たち。不朽の名作『ダウン・バイ・ロー』と共に、是非チェックしたい一本だ。

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『ストレンジャー・ザン・パラダイス』
出演:ジョン・ルーリー、エスター・バリント
監督:ジム・ジャームッシュ
製作年:1984年
製作国:アメリカ/西ドイツ
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vol.56 『マルタのやさしい刺繍』 by 藤田奈緒


4月のテーマ:花

昔、ある男の子がこんなことを言っていた。
ある女友達の家に行ったら、花瓶に花が活けてあった。それまでその子の
ことを異性として意識したことなんかなかったのに、その花瓶の花を目撃
してからというもの、彼女のことが気になってしょうがない。

このあと2人の間に恋が芽生えたのかどうか... は置いておくとして、
「花」には人の心を動かす、ちょっぴり特別な力があるに違いないと思う。

子どもの頃、ピアノの発表会で花束をもらえば、ウキウキして気分よく
ピアノが弾けたものだし、一人暮らしの家で気分が浮かない夜を過ごした
翌朝、テーブルに何気なく飾っていた一輪の花を見て、ちょっと前向きな
気分になれたなんてことも。ケンカしたガールフレンドのもとに、
ボーイフレンドが大きな花束を抱えていくシーンなんて、よく映画にも
出てくるけど、彼女は彼の両手いっぱいの花を見た瞬間、一気にすべてを
許せてしまうんじゃないだろうか。

『マルタのやさしい刺繍』のマルタは、小さな花の刺繍で人生を変えた。

スイスの小さな村に住む80歳のマルタは、最愛の夫に先立たれたあと
生きる気力を失っていた。毎夜、夫の遺影を胸に抱いてベッドに横たわり
朝が来なきゃいいのにと思いながら朝を迎えてため息をつく日々。

ところがある日、長年忘れていた若かりし頃の夢を思い出した時から
マルタの日常は輝きを取り戻し始める。その夢とは、自分でデザインして
刺繍をした、ランジェリー・ショップをオープンさせること。
保守的な村では、マルタの夢は冷笑され軽蔑されるばかりだったが
一度覚悟を決めたらマルタは強かった! 3人のおばあちゃん友達に支え
られながら、マルタは自分の夢実現のためにコツコツ努力を重ね、物語の
最後には村中の人々に受け入れられる。
これでもかというほど保守的な村で、80歳のおばあちゃんが一番進歩的な
夢を語りそれを叶えるなんて、笑っちゃうぐらいさわやかで鮮やかだ。

ちなみにこのスイス映画、英語タイトルは『Late Bloomers』。
人生の「花」を咲かせるのは、その気にさえなればいつだってできるのさ!
なんてちょっと照れるけど、マルタを見てると、ついつい熱い気持ちに
なってしまう。

今日はいつもより遠回りしてお花屋さんに寄ってしまおう、かな。

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『マルタのやさしい刺繍』
出演:シュテファニー・グラーザー、ハイジ・マリア・グレスナーほか
監督:ベティナ・オベルリ
製作年:2006年
製作国:スイス
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vol.55 『ミツバチのささやき』 by 桜井徹二


4月のテーマ:花

「無人島に1本だけ映画を持っていくなら?」ともし聞かれたら、『ミツバチのささやき』と答えようと思っている。ほかにも好きな作品はあるけれど、無人島で繰り返し繰り返し見る作品となると選択肢はそれほど多くはない。

『ミツバチのささやき』の舞台はスペイン内戦時代の田舎町。アナという幼い少女は姉のイザベルと一緒に、町にやって来た新作映画を見にいく。真っ暗な映画館で子供たちと肩を並べるアナ。スクリーンには、科学者フランシュタインの手で造り出された怪物の姿が映し出される。

やがて怪物は偶然、1人の少女に出会う。少女は恐ろしい形相をした怪物に近づき、「一緒に遊ぼう」と言って花を渡す。怪物は初めて自分に示された愛情に顔をほころばせる。だが少女と一緒に花を湖に投げて遊ぶうち、怪物は思わず少女を湖に放り込んでしまう。少女の死によって民衆の怒りをかった怪物は、風車小屋に追い込まれ火を放たれる。

アナが見るこの映画『フランシュタイン』(1931年)は、怪奇映画の傑作として名高い作品だ。なかでもこの少女と花で遊ぶシーンは、名シーンの1つに数えられる。

だがその結果訪れる怪物の悲しい運命を目にしたアナは、姉のイザベルに問いかける。「どうしてあの怪物は少女を殺したの? どうしてみんなはあの怪物を殺したの?」。

まだ幼いアナの世界には「内側」と「外側」の境界は存在しない。生と死、空想と現実、恐れと喜びはすべてひとつのものにすぎない。そんなアナはこの2つの死が理解できず、問いを繰り返す。そしてやがてアナは、この映画との出会いから現実と空想の世界に迷い込み、『ミツバチのささやき』は水辺での怪物と少女の邂逅を想起させるシーンで幕を閉じる。

『フランシュタイン』を見た人は、アナの問いかけに対して「所詮は怪物だから」と答えるかもしれない。「怪物は人間には理解しがたい感情で少女を殺し、民衆は自分たちと相容れない存在を排除しようとしただけなのだ」。

だが、その答えでアナは納得するだろうか? もし自分たちとは異なる存在が「怪物」なのだとしたら、偏見のないまなざしで世界を見つめるアナにとって、何が怪物で、何が怪物ではないのだろうか? 怪物に花を手渡し、そして殺された少女の生まれ変わりとも言えるアナは、見る者にこう問いかけてもいるのかもしれない――「誰が怪物なの?」と。

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『ミツバチのささやき』
出演:アナ・トレント、イサベル・テリェリア
監督:ヴィクトル・エリセ
製作年:1973年
製作国:スペイン
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vol.54 『地獄の黙示録』 by 浅野一郎


3月のテーマ:出会い

"朝に嗅ぐナパームの匂いは格別だ"
『地獄の黙示録』で、ロバート・デュヴァル扮するキルゴア中佐が、敵兵の潜むジャングルを焼き払った際に言った名セリフだ。僕が、この映画を観たのは小学生の頃だったと思うが、幼い僕の心には鮮烈な印象が残された。とはいっても、映画の内容などよく分かっていなかったし(ちなみに、いま観てもよく分からない...。)、映画そのものに感銘を受けたわけではない(ちなみに、それは今でも同じ...。)

僕の心を捉えたのは、ズバリ音楽だ。

キルゴア中佐率いる武装ヘリ師団が敵の村へ向かい、攻撃を仕掛けるシーンで、僕はワグナーの「ワルキューレの騎行」に出会った。この曲が流れてきた瞬間、僕は急いでラジカセを持ってきて、テレビから流れてくる音を必死に録音し、その後、文字通りテープが切れるまで聞き込んだ。クラシックの荘厳な曲調に乗せて、眼下に広がる海岸線を抜けて敵に向かって突進する無数の武装ヘリ...。そのシーンの意味することなど何も分からなかったが、聴くたびに情景を思い出し、胸を躍らせていたものだ。

つくづく、映画と音楽の相乗効果には驚かされる。
たとえば、カヴァレリア・ルスティカーナを聞けば、『ゴッドファーザーPART III』のラスト、陽の当たる道を歩きたいと願い、必死に這い上がろうとしたものの、ついに果たせなかった男が迎える哀しい人生の終末がまざまざと頭に浮かぶし、『ジョーズ』のテーマを聞けば、何か禍々しい事態が近づいていることを連想する。

最近、映画を観て、こんな経験をすることが、あまりにも少ない気がする。それは、サントラ音楽の選定に主な原因があるのではないかと思う。ロックやポップスをサントラに使うのが、最近ではすっかり定番になっているが、たいていの場合、映像との相乗効果が得られないのだ。ほんの一例だが、『ブラックホーク・ダウン』でも武装ヘリが敵地に向けて飛ぶシーンがあり、間違いなく『地獄の黙示録』へのオマージュなのだが、このシーンは全然心に残らない。なぜなら、フェイス・ノー・モアというバンドの曲が使われているからだ。フェイス・ノー・モア自体はいいバンドだと思うが、やはり、映画にはオーケストラで奏でられるクラシックやオペラのアリアこそふさわしいと思う。

ところで、幼少のころに「ワルキューレの騎行」に深く感銘を受けた僕は、そのままクラシック音楽に傾倒するのかと思いきや、幸か不幸かヘビーメタルという音楽に出会い、そちらの世界に行ってしまった。本来ならば、AC/DCやメタリカの代わりに、バッハやモーツァルトのCDが山積になっていたかもしれないのに...。

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『地獄の黙示録』
出演:マーロン・ブランド、マーティン・シーン
監督:フランシス・フォード・コッポラ
製作:フランシス・フォード・コッポラ
製作年:1979年
製作国:アメリカ
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vol.53 『恋におちて』 by 潮地愛子


3月のテーマ:出会い

ダブリンの街中で友達とコーヒーショップで暇つぶしをしていた時、What is life ? と聞かれたことがある。その時20代前半だった私は、その問いに即答することができなかった。たいして旨くもないコーヒーをすすりながらしばらく考えてみたけれど、気のきいた答えなどちっとも思い浮かばなかった。「人生なんて、ひとことで言い表せるもんじゃないよ」と私が言い訳をすると、彼女は言った。「そんなことないって、もっとシンプルだよ。私にとっては、Life is a choice.なの」
私よりいくつか年上の彼女がとてもオトナに思えたことを今でも覚えている。
そして、人生経験を重ねるにつれて、彼女の言ったLife is a choice. を実感することが多くなった。
人生には選択がつきまとう。私が今ここにいること。それは数々の選択の結果に他ならない。流されているつもりでも、思うようにいかなように見えても、結局は何気ない小さな選択の積み重ねの結果だったりするんじゃないか。そして、人生の選択につながる重要なファクターが「出会い」なのじゃないかと、この頃考えている。
誰と出会うか、何と出会うか。望んでいても、望んでいなくても。行き着く先が分からなくても。出会いは人生を左右する。ただ、右にいくか、左にいくかは、結局your choice なのだ。

何年か経って、彼女と再会した。当時、彼女は夫と離婚の話し合いを進めていた。彼は家を出て、新しい恋人と暮らしているということだった。結婚当初、彼はまだ学生だったので、生活を支えていたのは彼女だった。だが、彼が就職して生活が安定してから、彼女はずっと専業主婦だった。離婚となっては仕事を探さねばならない。彼女は言わなかったけれど、職探しは順調ではないようだった。シングルマザーで生活を支えていかなければならないことに苦労している様子がうかがえた。
もちろん夫婦の間にはいろんなことがあるのだろうし、私がとやかく言えることではないけれど、私は彼女の夫に対して腹立たしい気持ちでいっぱいだった。そんな私の心のうちを察したのか分からないが、彼女は言った。
「後悔してない。出会った頃、彼のことが本当に好きで、まるで『恋におちて』みたいだった。人生であんな思いを味わわせてくれた彼には、本当に感謝しているの」
そして、夫が新しい恋人に対してあの頃の私のような思いを抱いているんだろうなって、客観的には理解できるのよね、と言って彼女は笑った。
私は何も言えず、旨くもないコーヒーをすすりながら彼女の話を聞いていた。感覚を失ったかのように、何も感じることができなかった。そんなことを言えてしまう彼女に、ただただ圧倒された。

「恋におちて」をDVDレンタルショップで見かけて手にしたのは、彼女との再会を果たしてしばらくしてからだったと思う。
「恋におちて」はロバート・デ・ニーロ演じる妻子ある男フランクと、メリル・ストリープ演じる人妻モリーの恋物語だ。2人は偶然の出会いから恋に落ち、プラトニックな関係を続けていく。だが、結局はほころびが見えていたそれぞれの結婚生活には終止符が打たれる。
そして映画は、お互いを忘れられない2人の再会によりハッピー・エンドで終わる。

確かに、相手を思い続ける2人の愛は純粋で美しいのかもしれない。でも、私はこの映画を好きにはなれなかった。多分それは、愛している相手が他の人に心を奪われていくモリーの夫やフランクの妻の哀しさに、胸を打たれてしまうからなのだと思う。もちろん人の気持ちは無理に変えることはできないけれど、この映画で描かれる純粋で美しいとされる愛が、去られた者に残すのは、時に残酷で醜いものだったりするのではないか。
それでもすべては結局、それぞれの選択の結果に過ぎないのかもしれない。残酷で醜いものを残されてしまうことも含めて。いや、だけど・・・。
まだまだ、私が未熟なのだろうと思う。もっといくつもの選択を重ねて、いつかこの映画を観たら、異なる想いを抱くことができるのかもしれない。

彼女とは、あれ以来会っていない。でも、たいして旨くもないコーヒーをすする羽目になるたび、彼女の言葉を思い出す。そして、彼女がどこかで幸せにやっていることを願うのだ。

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『恋におちて』
出演:ロバート・デ・ニーロ、メリル・ストリープ
監督:ウール・グロスバード
製作:マーヴィン・ワース
製作年:1984年
製作国:アメリカ
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vol.52 『ノーカントリー』 by 藤田庸司


2月のテーマ:ビター&スイート

少し前の"発見!今週のキラリ☆"で、桜井くんが"味"をテーマにステキなコラムを書いていたが、味覚というものは年齢を重ねるに従い変化する。僕の場合、特に実感するのは、子供の頃、食べるくらいなら飢え死にしたほうがマシだった苦い食べ物、ピーマンや魚のワタ(内臓)などが、今となっては大好物であることだ。そういった変化は映画の好みにも見られる。子供の頃はいわゆる"ハッピー・エンド"で分かりやすい、ハンバーグやオムライスのような映画が好きだった。弱者をいたぶる悪党をカッコイイ正義の味方がやっつけるヒーローものや、美しい女性に恋をし、振られながらも追いかけ、最後は振り向いてもらえる恋愛ドラマなど、不安があったとしても、どこかしら希望が持て、「きっと最後は大丈夫だよね」的な、エンディングが予測できる"甘い映画"が好きだった。また、年齢を重ね二十歳くらいになると、歴史モノ、特に戦争をテーマにした作品や、人種問題を扱った社会派ドラマなどの"辛い映画"をよく見た。そして、ここ数年は今日紹介するような"苦い映画"にハマっている。

『ノーカントリー』
舞台はアメリカのテキサス州。溶接工のモス(ジョシュ・ブローリン)は偶然、ギャング同士の麻薬売買がこじれたであろう、抗争現場に遭遇する。死体が転がる中、札束の入ったカバンを奪い、逃走を図るモスだが、ギャング組織の追っ手、シガー(ハビエル・バルデム)に命を狙われる羽目に。シガーは冷酷で無慈悲な殺人マシーン。執念深いことこの上なく、逃げるモスをコンピューターのような正確さで追い詰めていく...。

コーエン兄弟の作品は苦い。「ファーゴ」や「バーバー」、「バートン・フィンク」などもそうだが、絶えずブラックなユーモアや皮肉、不条理が作中にお香のように立ち込める。見終わった後に清々しさや安堵の気持ちなどは微塵も残らない。登場するヒーローは必ずしも強くないし、善人が必ずしも幸福ではない。悪党が生き残り、正直者が馬鹿を見る。歯がゆいし、悔しい。でも世の中を正視すれば、それは事実であり、決してウソではないことに気づく。身近な所で起こっていることを見ても分かる。昨日まで働いていた職場を一瞬で解雇され、公園で寝起きするサラリーマン。泥酔状態で国際会議に出席する大臣...。矛盾や不条理が溢れている。ただし、コーエン兄弟はそこで卑屈にはならない。みんなが目を背けたくなるものをギリギリと噛み締め、搾り出した苦汁を堆肥のように撒き散らし、世間をあざ笑うのだ。

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『ノーカントリー』
出演:ハビエル・バルデム 、ジョシュ・ブローリン他
監督・脚本:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン
製作:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン
製作年:2007年
製作国:アメリカ
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vol.51 『苺とチョコレート』 by 杉田洋子


2月のテーマ:ビター&スイート

先週、札幌で行われたキューバ映画祭に行ってきました。
還暦を迎えた雪祭りに沸く北の町札幌で、カリブ海の真珠キューバの映画。
こたつでアイスを食べるような幸福感につつまれて、5本の映画を鑑賞しました。
今回取り上げる作品『苺とチョコレート』は、恐らく日本でもっとも有名なキューバ作品。
映画祭でももちろん上映しました。


舞台は1980年代のキューバの首都ハバナ。1959年以来現在も続く革命政権を支持する大学生ダビドは、恋人に裏切られたばかり。ある日、人気のアイスクリーム店「コッペリア」でチョコレートアイスを食べていると、向かいに苺のアイスを持ったディエゴが座る。

男のくせに苺アイスを食べるなんてゲイに違いない...。

警戒する一方で、ディエゴの文学話に好奇心をそそられるダビド。結局、自分の写真を持ってるという話につられて彼のアパートまで行くことに。部屋の中は芸術的な調度品や貴重な書籍、洗練された音楽で溢れていた。展示会に出すという友人の過激な彫刻作品。おまけに正規では入手できないはずの舶来もののウィスキー...。
ディエゴが反体制派であることを改めて確信したダビドは、同志のミゲルに事情を話す。性的指向といい、過激な趣味に展示会といい、危険因子とにらんだミゲルは、ディエゴをスパイするようダビドを促す。親しいふりをしてディエゴに接近するダビドだが、次第に2人の距離は縮まってゆき...


ダビドが男性に目覚める。


...という話ではありません。かといって政治思想に終始した話でもありません。

※ここから先、まるでレポートのように長くなってしまったので、偏見を持たずに作品を見たい方は先にまっさらな目で鑑賞されることをお勧めします...。


レイナルド・アレナス原作、ハビエル・バルデム主演の『夜になるまえに』をご覧になった方もいるでしょう。アレナスはキューバ出身の有名な作家で、同性愛者であることや過激な主張から迫害を受け、アメリカへの亡命を余儀なくされます。この作品でも描かれているように、キューバ政府が同性愛者に対し弾圧的な態度をとったということはしばしば取り上げられる話題です。
"ゲイ=反体制派" という式図は私たちにはあまりピンと来ない。自転車ライトをつけていない=窃盗車とみなされる時のような単純さと理不尽さを覚えます。ある種の傾向をもとに、政府は若いうちに芽をつんでいるつもりでしょうが、そのこと自体が相手をかたくなにしている。そのこと自体が反対派を作り出しているという矛盾があります。
それでも政府に権威となんらかの正当性を感じる限り、大抵の国民は盲目的に巻かれてゆく。
そんな中、文化面での抑圧を敏感に察知したディエゴは疑問を持つ。その鋭さ自体が、政府にとって脅威となるのです。

ディエゴは個人として、国に自由を求めました。国を愛するからこそ声を上げ、それを貫いたからこそ、不本意な結果にいたります。
この作品が他でもないキューバ政府の検閲を通ったなんて不思議に感じますが、少なくともディエゴは報われていない。中から描く限り、ある意味でこれは見せしめ的な効果を持っているようにもとらえられます。(監督の本意ではなく、検閲を通るための巧みなトリックとして)
アレナスの作品のような、自伝による外からの批判とは別の性格を帯びている。また、この作品を許すこと自体が政府の文化的寛容性を示すことになるようにも思えます。

ディエゴは、ダビドを愛するがゆえに彼からも身を引きます。社会でも否定され、恋心もかなわない。ディエゴの話しぶりはとってもスウィートでコミカルでユーモラスですが、その裏でどれほどの苦悩を抱えていたかと思うと本当に痛々しくなります。

一方ダビドは、革命のおかげで貧しくても大学に通えるという恩恵を受け、盲目的に政府を信じていました。しかしディエゴとの出会いによって個人の意思を取り戻します。政府を支持してはいても、疑問の余地があることを認めるようになる。恋人への失望も含め、若いダビドが成長してゆく過程も注目ポイントの1つです。ダビドは次第にディエゴに対しても心を開き、2人の関係は固い友情という形に昇華してゆきます。

2人の関係性は、もちろんキューバという国で、この特殊な状況があったからこそ生まれたものでしょう。2人を取り巻くすべての要素が2人の関係を築いた。でも何よりも2人が個人だったから、この絆が生まれたのだと思います。
取り巻く条件は違っていても、私たちだって社会との関係性や個人的な恋愛・友情の狭間で、一喜一憂して生きている。そういう意味ではすごく共感できる作品です。どんな映画にもどんな人生にもビター&スイートはあふれている。この作品はちょっぴり苦味が強いかもしれない。でもその中には、己の信念を貫いたからこそ味わえる格別のスイートが眠っているのです。

固いことばかり書きましたが、コミカルな要素やステキなセリフがあふれた素晴らしいドラマ作品です。見方も千差万別。私自身も次に観るとき(たぶん4回目)はまた別の発見があるはず。
字幕もとってもステキなので、ぜひ観てみてくださいね。


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●『苺とチョコレート』
出演:ホルヘ・ペルゴリア、ウラジミール・クルス、ミルタ・イバラ 他
監督:トマス・グティエレス・アレア、フアン・カルロス・タビオ
脚本:セネル・パス
製作:ミゲル・メンドーサ
製作年:1993年
製作国:キューバ/メキシコ/スペイン
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vol.50 『プロジェクトA』 by 石井清猛


1月のテーマ:はじめての○○

恐らく皆さんも経験があるのではないかと思うのですが、アメリカのアクション映画を見ていると、たまにふと"香港映画的瞬間"に出会うことがあります。
余りにもスタンダード化が進んだため、最近はそれが"香港映画的"であることさえ思い出すのが難しくなってしまっているかもしれない、そんな"瞬間"です。

それらは時に格闘シーンに導入されるカンフーの要素であったり、銃撃戦のカット処理であったり、ワイヤーアクションの活用であったりするのですが、どの瞬間にも共通しているのは、運良く「これって香港映画っぽいかも」と気づいた時に体中に広がるあの不思議な高揚感でしょう。

そして私たちの"香港映画的瞬間"の記憶において、ひときわ輝いている存在が、今回紹介する『プロジェクトA』の監督・脚本・主演であるジャッキー・チェンです。

ある世代の映画ファンに特別な感慨を抱かせつつ昨年11月に休刊となった「ロードショー」誌の「好きな俳優ランキング」男優部門で1980年代に6年連続で第1位に選ばれ、読者に圧倒的な支持を得ていたこの香港出身の俳優/監督は、言葉の真の意味で、映画が生んだ偉大なアクションスターと言えます。

1984年に公開された『プロジェクトA』はジャッキー・チェンの監督・主演第4作として製作されました。
ジャッキー・チェン、ユン・ピョウ、サモ・ハン・キンポーの3人が主演スターとして初めて共演した作品であり、何を隠そう、当時中学生だった私が、学区内で初めて開店したビデオレンタル店で、初めて借りた作品です(確か1泊2日で700円。1週間レンタルというシステムは存在していなかった)。

多くのファンが躊躇なく彼のベスト1に推すこの作品が、そのオリジナリティとクオリティにおいて"ジャッキー・アクション"の集大成的な傑作であることは間違いないのですが、『プロジェクトA』は同時に、ジャッキー・チェンのフィルモグラフィの中でも突出したある特徴を持っています。つまり全編にちりばめられた直接、間接の映画的引用です。

有名な時計塔からの落下シーンには『ロイドの要心無用』でハロルド・ロイドがぶら下がったデパートの大時計が、海上警察と陸上警察が酒場で繰り広げる大喧嘩には『東京流れ者』で渡哲也が巻き込まれるストリップクラブでの乱闘シーンが、それぞれ直接的に引用されています。
また警察と海賊の両方から追われる身のジャッキー・チェンが、『北北西に進路を取れ』のケーリー・グラントばりに三すくみの状況を切り抜けたと思うと、上司の娘の手を引きつつキートンのように斜面をすべり降り、自転車と一緒にテラスから落下しそうになりながらもチャップリンのようにギリギリのところで持ちこたえる...。

アジア諸国やカンフー映画マニアの間ですでに絶大な人気を誇っていたジャッキー・チェンは、1987年にニューヨーク映画祭で『ポリス・ストーリー/香港国際警察』が特別上映されて以降、アメリカの映画関係者のあいだで評価を高めていきます。
この特別上映のきっかけを作ったのが他ならぬバート・レイノルズとクリント・イーストウッドだったのですが、彼らが初めて見て衝撃を受けたというジャッキー・チェンの作品は、映画祭で上映された『ポリス・ストーリー』と、『プロジェクトA』だったのです。

ブルース・ウィリスが命綱の消防用ホースを腰に巻き、ロサンゼルスの超高層ビルの屋上から飛び降りた『ダイハード』。
またマット・デイモンが白壁の建物がひしめき合うタンジールの街で屋根から屋根へ、そしてベランダへと飛び移った『ボーン・アルティメイタム』。
あるいはダニエル・クレイグがシエナの改装中の礼拝堂で敵ともみ合い、作業用の足場からロープで宙吊りになった『007/慰めの報酬』。

こうした作品の中で、私は幾度も"ジャッキー・チェン的瞬間"と出会い、高揚感に包まれます。
そしてその瞬間の記憶をたどる時、そこにはいつも『プロジェクトA』という作品があるのです。

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●『プロジェクトA』
出演:ジャッキー・チェン、ユン・ピョウ、サモ・ハン・キンポー 他
監督・脚本:ジャッキー・チェン
製作:レナード・ホー
製作年:1984年
製作国:香港
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vol.49 『太陽を盗んだ男』~はじめてのジュリー~ by 浅川奈美


1月のテーマ:はじめての○○

「ママは、お化粧した男なんて大キライ」
私がまた幼かった頃。
母親の好みにより、彼が我が家のTVに映ることはほとんどなかった。

濃すぎる化粧、長い髪、奇想天外な衣装、あごを突き出して歌う妖艶な姿。
その独自のスタイルと歌唱力で人気を博していたジュリーこと沢田研二。
ビジュアル系の元祖。
女の衣装を美しく着こなし、日本人の憧れである青い瞳をカラーコンタクトで簡単にやってのけ、まぶたに真っ青なアイシャドウを乗せた歌手。当時、目の周りを青くしている男といえば、幼い私の知る限りでは、歌舞伎役者と、進研ゼミのキャラクター・ブッチ(確か左目だけ)ぐらいなものだったな。


たまの土曜夜、『8時だョ!全員集合』が、私とジュリーとの唯一の接点であった
(我が家は「全員集合」OKの家庭だったのだ)。

渋谷公会堂の舞台の上で、持ち前の"アンニュイフェロモン"と正反対な、体を張ったおばかコントを志村けんと絶妙な間合いで繰り広げていた。躊躇するどころか、それを満喫しているかのように生き生きと演ずるジュリー。番組後半、ステージ転換で現れた彼は体中に電飾をちりばめ、なんとパラシュート背負って「TOKIO」を熱唱...。

それは衣装なのか、セットなのか。

顔の作りなんか当時の私の好みには全然合わなかったし、やることとか佇まいも現実離れしていて、ちょっとつかみどころがない。でも、この人、気になる。母の手前、無関心を装いながら、こそっとみていた。

GSからピンになり、脱アイドル路線を突き進むジュリーは、歌手としてだけでなく、役者としても多くの作品に登場していた。が、彼の出演作には、男女のきわどいからみのシーンが多かったため、うちのブラウン管からジュリーは、さらに遠ざかっていったのだ。

俳優・沢田研二を始めてちゃんと見たのは私がすっかり大人になってから。


伝説のTVドラマ『悪魔のようなあいつ』(1975)
1968年12月に発生した3億円強奪事件をモチーフとした青春劇。犯人の可門良(沢田研二)は、高級クラブ「日蝕」で歌手として働いているが実は脳腫瘍に冒されており、余命いくばくもない身体であった...。
暴力シーン、挑戦的な演出、性描写。熱狂的な人気を博したようだが、いかんせんこのジュリーはやばい、やばすぎる。周囲の人物や風景の見え方は、まあその時代相応なのだが、ジュリーは不思議と全く時代を感じさせない姿。流行廃りもない、永久保存版の魅力ってこういうことなんだなと実感する。
美しいものは、なにやっても美しく切り撮られる(樹木希林?)。鼻血をだらだらと出すシーンを見た後、彼の魅力が完全なものなんだなー、なんて確信した人は少なくないのではないか。この作品はいまだにファンが多い。


さて。ようやく今週の1本はコレ。
70年代邦画の傑作、『太陽を盗んだ男』。

しがない中学教師(沢田研二)がアパートの一室で作った原爆をエサに、国家相手に喧嘩を売る荒唐無稽な話。
退廃的なジュリーの魅力、CGナシのアクション、社会問題の投影、そしてストーリーに散りばめられた完全な「ヒーロー」たち(「ウルトラマンレオ」「鉄腕アトム」「王、長嶋」「ストーン」などなど)。
これらのエッセンスの中を、「生きる証」に向かって、それぞれがまっしぐらに突き進む姿。画面から炸裂させる作品のパワーが本当にすばらしい。
公開当時、沢田研二31歳。46歳の菅原文太。
文太も負けてない。若すぎる。かっこよすぎる。銭形警部さながらの文太の不死身っぷり。CGナシの映像なのにそれってすごくないか?

デジタル技術を駆使した昨今の映像と比較したり、時代の流れ、技術の進歩、そんな細かいところをあげていけば突っ込みどころも満載だが、それを差し引いたとしても、見応え充分の秀作!

サッカーの日本代表戦すらスポンサーがつかなくて、LIVE放映が危ぶまれる、2009年不況時代。
だからこそ、この1本を観てもらいたいなと思う。このパワーは、もはやファンタジーなのか...。


是非、「はじめてのジュリー」はまずはこの作品から。
正統な選択。今週の1本はこれで。

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『太陽を盗んだ男』(1979)
147分/日本
監督:長谷川和彦
出演:沢田研二 菅原文太 池上希実子
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vol.48 『赤い風船』 by 柳原須美子


12月のテーマ:節目

私の頭の中には、たくさんの扉がある。それぞれの扉の向こうには、色んな年齢の私が潜んでいて、ことあるごとにピョンピョン飛び出してくる。風がピューっと吹けば"風の又三郎が来たかもしれないよ"と、小学生の頃の私が扉から顔を出してくるし、肉じゃがを食べようとすると"早くしないと、お肉がなくなっちゃうよ!"と、ここでもまた、小学生の頃の私が登場してくる。つまり、私はいつだって1歳であり2歳であり、10歳であり15歳である。どの年齢の私も、私の中でずっと生き続けている...ような気がしている。

『赤い風船』を見た。ジャン・コクトーが"妖精の出てこない妖精の話"と評した短編フランス映画だ。物語は、少年パスカルが街灯に結ばれた風船と出会うところから始まる。パスカルは風船のヒモを握り、いつもと同じように学校に向かう。しかし、風船と一緒にバスに乗ろうとしたら、車掌さんに乗車を断られてしまう。パスカルはバスには乗らず、学校まで走っていくことに。なぜって、それはもちろん、パスカルは風船を手放したくなかったから。風船を大切に想う気持ちとともに、パスカルの日常は少しずつ変化していく。遂には、ヒモを握らなくても、パスカルの後ろには必ず風船が付いてくるようになる。

この作品には、ほとんどセリフがない。そこにパリがあってパスカルがいて、パスカルの後ろには赤い風船が漂っている。それだけだ。ストーリーは具体的な言葉で語られることなく、ただ、スクリーンに映し出される。そのせいか、作品をあえて言葉で説明をすることに、妙な違和感を覚えてしまう。でも、こういう説明だったら何とかしっくりくる。これは"切なくて嬉しくて悲しくて楽しい"映画だ。頭の中にいる5歳児の私が、扉をバーンと開けてダンスをし始めるような、そんな映画だ。

今年も慌しく過ぎていった。でも、私はとってもラッキーだ。ピンチに陥った時はいつも、誰かが、何かが、映画が、音楽がそこにいてくれて、感謝すべきことに気づかせてくれた。そしてこの年末、私は『赤い風船』と出会えた。私は、頭の中にいる5歳児の私との再会を楽しみながら、何回も何回も"ありがとう"と言った。

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『赤い風船』
監督:アルベール・ラモリス
出演:パスカル・ラモリス
製作年:1956年
製作国:フランス
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