第16回:ヨコヤマさんを囲む人びと
2011年06月17日
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその 一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。【最近の私】東京も梅雨に入ったというが、今日は青空が広がり、爽やかな風が気持ちいい。今朝はハワイのシマダさんに電話をした。「アツコさん、私がボケる前に必ずもう一度ハワイに来なさいね」と言われた。彼女は今年米寿を迎える。
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ハワイ在住の日系二世、リチャード・ヨコヤマさんとは、とても親しいお付き合いが続き、繋がりはますます深まっていった。毎週土曜日の夜は必ずヨコヤマ家で集まりがある。私たちがそこに参加することは当然のようになっていたが、疲れていたりすると、たまには億劫なこともあった。まれに欠席したりすると翌日必ず「You, 昨日は一体どうした?」と電話で連絡があった。リチャードさんにはそんな少々強引なところがあったが、それゆえお付き合いが継続したことも事実だった。
週末ヨコヤマさん家に集まるのは、ほとんどがリチャードさんの一族か友人たちだ。奥さんのツルさんは、毎週やって来るいわば義理の妹たちに対し、「よう来なさった。さあ、お入りなさい」と、いつも変わらぬ笑顔で迎え入れる。結婚してまだ1年ちょっとしか経っていなかった当時の私など、日本にいた時は隠れてでも実家を訪れたいと思っていた時期だ。夫の妹たちといえばいわば小姑、それをあんな笑顔で受容れられるツルさんに、私は畏敬の念を抱いたものだった。
個性の強いリチャードさんは、気の合う人以外は受容れることはなかった。7人いる妹の中でも親しくしているのは数人で、友人に対しても好き嫌いがはっきりしていた。
土曜日の夜に必ずやって来たのは、腕利き大工さんのヨシオカ夫婦とその息子さん。1年に数回ラスベガスへ行き、帰りには必ず大量のピスタチオナッツをお土産に持ってきてくれた。(ハワイの熟年日系夫婦の一番の楽しみは、それまで一生懸命働いて得た小遣いを持って、ラスベガスへ行ってスロットマシンで遊ぶことだ。町のコーヒーハウスでは、「This time, ちょっと勝ったよ」「いやー、私はゼンゼンだめだった」なんていう会話がよく聞かれた)。
ヒロから車で20分ほどのパホアという町でアンセリウムの栽培で大成功したハシモトさんもメンバーの一人。夫婦で協力して輸出用のアンセリウムを大量に栽培し、それまで質素だった家を壊して大邸宅を建てた。また、ホノルルからはるばるやって来るのが教師のナガタさん。ヒロでレンタカーをするのがいやだと、来るたびに自分の豪華なキャでラックをフェリーに乗せて運んできた。白髪交じりの独身でお酒好き。夕方4時になると「さあ、時間だ」と言ってビールにウィスキーを混ぜて飲み始めるのが常だった。
また、仕事関係で親しくしていたのがイナバ3兄弟。長男のヨシオさんは、1960年のチリ地震の際にヒロが大津波に襲われた時、ダウンタウンがすべて波にのまれながら、高いヤシの木に登り必死にしがみついて九死に一生を得た。この話はまるで伝説のように語り伝えられ、ダウンタウンにあるツナミ・ミュージアムにも記されている。
ハワイ日系人社会の基盤を築いた2世の人たちも高齢化を迎え、その数がどんどん少なくなっている。ここに挙げたリチャードさんの友人たちも、もうほとんどが亡くなられた。それを思うと、私たちがヒロで出会ったこの人たちとの交流は、まるで宝物のように思える。現在は日系4世、5世が中心となって活動しているハワイの日系人社会。私たちが生活していた1970年代は、私の最も好きな"ヒロの古き良き時代"なのかもしれない。