明けの明星が輝く空に

Chewing over TOP » 明けの明星が輝く空に » 「2010年7月」一覧

第6回:河原の少年2
2010年07月30日

【written by 田近裕志(たぢか・ひろし)】 子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】 「今年も実物大のガンダムが話題だ。でも僕が見たいのは、実物大"ゴジラ対キングギドラ"。そこで"逃げ惑う人々"になって走り回る。楽しくないはずがない。」
-----------------------------------------------------------------------------------------

前回の続きなんである。

リョウ少年に対するイジメの裏に、"民族差別"というテーマが隠されていた『怪獣使いと少年』。うむむ、子供番組にしては重すぎる。でも、番組が暗くなりすぎるのを避けるための演出も、ちゃんと用意されていたのだ。

まずリョウが商店街にパンを買いに行き、追い返される場面。宇宙人と関わりがあると噂されるリョウは、パンを売ってもらえない。雨の中、ボロボロの傘をさして帰っていくリョウ。すると店の娘がパンを持って追いかけて来た。「同情ならいらない」と強気なところを見せたリョウだが、「売ってあげるのよ。だってうち、パン屋だもん」と言われ、喜んでパンを買う。そして帰り際に振り向き、満面の笑顔で「ありがとう!」と手を振った。彼が番組内で唯一見せる子供らしい笑顔に、見ているこっちもホッとできる。

絵としてマンガ的(=非現実的)な要素も盛り込まれていた。リョウをいじめる悪ガキ3人組の格好だ。3人とも学生服姿だが、その足元には下駄。さすがに当時でも、そんな格好の子供がいたとは考えられない。でも、マンガやアニメなら"学生服に下駄"という登場人物はよくいた。すぐ思いつくのは、水島新司の野球マンガ『ドカベン』の岩鬼だ。彼はそのスタイルで、バンカラなキャラを表現していた。『怪獣使いと少年』の3人組は"学生服に下駄"を与えられた時点で、マンガ的キャラクターになったのだ。

そもそも悪の3人組ということ自体、マンガ的ではないか。悪玉トリオ代表格と言えば『ヤッターマン』のドロンジョ、ボヤッキー、トンズラーだろう。僕などは『ジャングル大帝』が頭に浮かぶ。我らがレオの適役は、隻眼ライオンのブブと2頭のハイエナ、ディックとボーだった。どちらのトリオもリーダーがいて、トンマなキャラクターがその脇を固めていたが、『怪獣使いと少年』の3人組も基本的にその点は同じだった。

『怪獣使いと少年』は、宇宙人と親しくしている人間の子供に対する偏見と差別を描くことによって、日本人の民族差別を糾弾する作品だった。そしてその前に取り上げた2作品と並び、ウルトラシリーズにおいて特にメッセージ性の強い作品だということができる。これら3作品に共通するのは、敵として排除される側に寄り添った視点だ。それぞれ異なる脚本家によるものだが、3人の脚本家のうち2人までが沖縄出身であることを知るとき、改めて沖縄の人々が置かれてきた立場というものを考えずにはいられない。

第5回:河原の少年1
2010年07月01日

【written by 田近裕志(たぢか・ひろし)】 子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】 「6月6日、富士山は晴れ。大幅な記録更新に成功です。帰りに河口湖の北原ミュージアムで童心に帰りました。」
-----------------------------------------------------------------------------------------

今回は、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』に続くシリーズ第3弾、『帰ってきたウルトラマン』で放送された『怪獣使いと少年』を紹介しよう。放送から40年近い歳月を経た今日まで、ファンや評論家の間で議論が絶えない問題作だ。

前回の『ノンマルトの使者』はスケールの大きなSF的要素の強い作品だった。が、『怪獣使いと少年』の世界はもっと身近で重い。テーマの中核に据えられたのは、日本社会にはびこっていた「民族差別」への強烈な批判である。

ある河原に1人の"老人"が住んでいる。正体は怪獣を操ることができる宇宙人なのだが、人類に危害を加えるつもりはない。彼は病気で、河原に怪獣と共に埋めた宇宙船を呼び出せず帰れなくなっていたのだ。

家族のいない男の子(リョウ)は、埋まった宇宙船を掘り出す手助けを買って出る。毎日スコップを持って河原に現われ、ひたすら地面を掘り続けるリョウ。

町ではその老人が宇宙人だという噂が流れる。リョウもその仲間だとして、悪ガキたちのイジメに遭う。イジメの場面はかなり強烈だ。リョウの首から下を地中に埋めて頭から泥水を浴びせかけるのだ。さらに、リョウが飯ごうで炊いた大切な飯を引っくり返して踏みにじるなど、目を背けたくなるシーンが続く。それまで気丈だったリョウが涙を浮かべる場面では、胸が詰まる思いがした。

それにしても、それだけでは単に「弱者に対するイジメ」を描いたにすぎない。この作品に込められた本当の意味を理解するヒント、それは番組制作者がリョウ役に抜擢した子役の顔にある。冒頭、リョウはいきなり顔のアップから登場する。顔を見る限り、彼はいわゆる大和民族の子どもではないようだ。歴史を振り返れば、時代をまたがって近隣の国から日本に渡ってきた、または強制的に連れてこられた人々がいる。リョウはそうした民族の子孫であるように見える。

高度経済成長期にうかれる日本社会の裏側に存在していたいわれ無き民族差別。「リョウと彼をいじめ抜く悪ガキ連」という構図は、当時の日本社会の病巣そのものであった。

老人も無事ではいられない。町の人々は結託し、彼を追い出そうと河原に押し寄せる。そこにはあろうことか警察官の姿さえあった。本シリーズのヒーロー、郷秀樹(怪獣退治専門チーム"MAT"の隊員)は混乱を鎮めようと必死に努めるが、老人は警察官の銃で撃たれてしまう...。

それをきっかけに、地中に隠されていた怪獣が出現した。人々は郷に「なんとかしろ!」と迫る。しかし、郷はそれを拒否した。

自分の制止も聞かず老人を死に追いやった日本人に対し、「お前達が怪獣を呼び出したのも同然だ」と、猛烈な怒りを抱いたからだ。

もちろん、ここで終わってはヒーロー番組として成り立たない。郷は結局のところウルトラマンに変身して怪獣を倒すことになる。

子供たちのあこがれ、絶対正義のシンボルであるウルトラマンの戦闘シーンは最大の見せ場のはずなのに、いつものような高揚感がない。雨の中繰り広げられた戦いは、どこか物悲しいのだ...注。

次回に続く。

注釈)『怪獣使いと少年』でも、前回紹介した『ノンマルトの使者』同様、オカリナのBGMによって悲しい雰囲気が効果的に作り出されている。