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第5回:河原の少年1
2010年07月01日

【written by 田近裕志(たぢか・ひろし)】 子供の頃から「ウルトラセブン」などの特撮もの・ヒーローものをこよなく愛す。スポーツ番組の翻訳ディレクターを務める今も、初期衝動を忘れず、制作者目線で考察を深めている。
【最近の私】 「6月6日、富士山は晴れ。大幅な記録更新に成功です。帰りに河口湖の北原ミュージアムで童心に帰りました。」
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今回は、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』に続くシリーズ第3弾、『帰ってきたウルトラマン』で放送された『怪獣使いと少年』を紹介しよう。放送から40年近い歳月を経た今日まで、ファンや評論家の間で議論が絶えない問題作だ。

前回の『ノンマルトの使者』はスケールの大きなSF的要素の強い作品だった。が、『怪獣使いと少年』の世界はもっと身近で重い。テーマの中核に据えられたのは、日本社会にはびこっていた「民族差別」への強烈な批判である。

ある河原に1人の"老人"が住んでいる。正体は怪獣を操ることができる宇宙人なのだが、人類に危害を加えるつもりはない。彼は病気で、河原に怪獣と共に埋めた宇宙船を呼び出せず帰れなくなっていたのだ。

家族のいない男の子(リョウ)は、埋まった宇宙船を掘り出す手助けを買って出る。毎日スコップを持って河原に現われ、ひたすら地面を掘り続けるリョウ。

町ではその老人が宇宙人だという噂が流れる。リョウもその仲間だとして、悪ガキたちのイジメに遭う。イジメの場面はかなり強烈だ。リョウの首から下を地中に埋めて頭から泥水を浴びせかけるのだ。さらに、リョウが飯ごうで炊いた大切な飯を引っくり返して踏みにじるなど、目を背けたくなるシーンが続く。それまで気丈だったリョウが涙を浮かべる場面では、胸が詰まる思いがした。

それにしても、それだけでは単に「弱者に対するイジメ」を描いたにすぎない。この作品に込められた本当の意味を理解するヒント、それは番組制作者がリョウ役に抜擢した子役の顔にある。冒頭、リョウはいきなり顔のアップから登場する。顔を見る限り、彼はいわゆる大和民族の子どもではないようだ。歴史を振り返れば、時代をまたがって近隣の国から日本に渡ってきた、または強制的に連れてこられた人々がいる。リョウはそうした民族の子孫であるように見える。

高度経済成長期にうかれる日本社会の裏側に存在していたいわれ無き民族差別。「リョウと彼をいじめ抜く悪ガキ連」という構図は、当時の日本社会の病巣そのものであった。

老人も無事ではいられない。町の人々は結託し、彼を追い出そうと河原に押し寄せる。そこにはあろうことか警察官の姿さえあった。本シリーズのヒーロー、郷秀樹(怪獣退治専門チーム"MAT"の隊員)は混乱を鎮めようと必死に努めるが、老人は警察官の銃で撃たれてしまう...。

それをきっかけに、地中に隠されていた怪獣が出現した。人々は郷に「なんとかしろ!」と迫る。しかし、郷はそれを拒否した。

自分の制止も聞かず老人を死に追いやった日本人に対し、「お前達が怪獣を呼び出したのも同然だ」と、猛烈な怒りを抱いたからだ。

もちろん、ここで終わってはヒーロー番組として成り立たない。郷は結局のところウルトラマンに変身して怪獣を倒すことになる。

子供たちのあこがれ、絶対正義のシンボルであるウルトラマンの戦闘シーンは最大の見せ場のはずなのに、いつものような高揚感がない。雨の中繰り広げられた戦いは、どこか物悲しいのだ...注。

次回に続く。

注釈)『怪獣使いと少年』でも、前回紹介した『ノンマルトの使者』同様、オカリナのBGMによって悲しい雰囲気が効果的に作り出されている。