第6回:プランテーション時代の夢
2010年08月19日
【written by 扇原篤子(おぎはら・あつこ)】1973年から夫の仕事の都合でハワイに転勤。現地で暮らすうちにある一家と家族のような付き合いが始まる。帰国後もその一家との交流は続いており、ハワイの文化、歴史、言葉の美しさ、踊り、空気感に至るまで、ハワイに対する考察を日々深めている。【最近のわたし】先日、作曲家久石譲氏の書いた「感動をつくれますか?」という本を読んだ。映像との関わりという意味で、字幕製作に携わっている私が何か共感することがあるかと、興味本位で読み始めたが、本の中には「プロとは何ぞや」という内容があふれていた。お暇の折にはご一読をお勧め。
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ハワイでの生活はあの電話事件以来、順調だった。ただ、わずか3万人余りのこの小さな町での娯楽と言えば、たった1軒あるボーリング場でたまに週末を楽しむ以外は、映画ぐらいしかなかった。
当時、町にあった映画館はパレスシアターとマモシアター。パレスシアターは1925年に建設され、800席ある場内のホールでは、天井のシャンデリアとパイプオルガン演奏が観客を迎え、まさに名の通り優雅な雰囲気だったらしい。内装はアールデコで、特別席には籐椅子にリネンのクッションが用意されたという。サトウキビ畑のプランテーションのオーナーが優雅にその席に座ったのだろうか、などと想像したくなる。この建物はハワイ歴史的建造物に指定され、何度か修復が繰り返され、今でも昔の面影をそのままに残す、何とも風情のある建物だ。(前回ハワイへ行った時、このパレスシアターで「おくりびと」が上映されているのを見た)。
〔左はヒロのダウンタウンにある現在のパレスシアター。
右は1933年当時の様子。劇場前にいるのはミッキーマウス・クラブ主催の映画を観にやって来た子どもたち。料金はわずか10セントだったとか(Exploring Historic Hilo から)〕
一方マモシアターはローカル色が強く、ごく質素な建物で、日本映画や英語、フィリピン語の映画も上映されていた。1921年創設でハワイで最古の映画館の1つだ。当時様々な国から大きな夢を抱えてハワイへやって来た大勢の移民がいた。彼らは自国の言葉で上映される映画を見ながら、サトウキビ畑で働いた疲れを癒し、故郷を想って涙する人もいたのではないだろうか。
私はその時代からわずか半世紀ほど後に、ここで映画を見たことになる。ダウンタウンで日系のおじいさんたちが三々五々集まっては、付近のカフェでコーヒーをすすり、ブラリとマモシアターのドアをくぐったりする姿をよく見かけた。日本を離れて生活を始めた私も故郷が恋しくなって、ここで日本映画を何度か見たことがある。
「寅さんの男はつらいよ」シリーズもそんな映画の一つだった。上映開始まで、場内に日本の古い歌謡曲が流れていた。当時ヒロで最も流行っていたのが大津美子の「ここに幸あり」。日本より約20年ほど遅れてのヒットだった。映画に出てくる日本の情景を懐かしみながら、寅さんのちょっと間の抜けた会話の滑稽さに思わず噴出したりした。しかし古くて空席の目立つ薄暗い映画館に古めかしい歌謡曲、そして昔堅気の寅さんという取り合わせは、かえって日本との距離を感じ、妙に物悲しい気持ちになった。
ヒロは1960年、チリの大地震で発生した津波が町を襲い、大打撃を受けて死者61名を出した。ダウンタウンにある建物の多くが被害を受け崩壊したのに、奇跡的にこのマモシアターは生き残った。その後1983年に映画館としては閉鎖になり、画廊、床屋、本屋、レストランなどがテナントとして入っていた。
ところが1995年4月16日、突然、映画館だった部分の屋根が、何の前触れもなく崩れ落ちたというのだ。幸いランチ時で、店員たちはみな外へ昼食を食べに出ていたために、けが人は1人も出なかったそうだ。1921年に建てられたこの映画館は、年月とともに修復の必要性が言われてきたが、これほどまでもひどく傷んでいることに誰も気付かなかったらしい。あの大津波にも耐えた建物の内部はすっかりシロアリに食いつくされ、かつての移民たちの夢を抱えたまま大音響とともに崩れ去った。今はもう幻の映画館となってしまったマモシアター、寅さんを見た時の、あの何ともわびしい感覚が無性に懐かしい・・・。